縫製されたばかりの匂いがする。
首周りが寄れた薄手の襯衣から頭を出し、その上から上質な重みのある上着に袖を通す。首元の締まり具合には何度指を挟んで広げても納得いかないものの、高価な衣服に身を包むと自然と気持ちが高揚し背筋が伸びた。
お気に入りの花柄の肉襦袢の上からいつもよりも少し丈が長い袴を履き、帯を締め靴の金具を留める。肌触りのいい黒地にあしらわれた金の刺繍が心臓を高鳴らせ、姿鏡の前に立つ気恥しそうに前髪を整える少女の頬は赤く、自信がなさそうに飾緒を弄ってはため息をついている。服を着ているというよりも服に着られていると言った方が正しい。やっぱり前の服に…いやでも、せっかく皇女様が青色に仕立て直してくれた親切を無下にはできない。薄目で見たら紅茶を嗜むお淑やかな娘に見えるだろうか。見えて欲しいなぁ。貴族自体はあまり好きじゃないけど華美な服を着るのも堅苦しい儀式も実は嫌いじゃないから。
大聖堂から聞こえてくる鐘の音にああもうこんな時間かと鏡の中から飛び出す。授業に行く支度をしないと。午前中に使用する教科書と勉強道具一式を抱え寄宿舎1階の角部屋へ走る。軽快な音で2度扉を叩けば隙間からひょっこりとベレトさんが顔を出す。寝起きだったのだろうか、髪がところどころ跳ねている。
「どうでしょうか?」
寝ぼけ眼の前でくるりと回転し上着を正す。するとベレトさんは「似合っているよ」と扉にもたれ掛かりながらお世辞を言った。多分これが他の人なら喜びを繕っているところだろうが、ベレトさんのポっとっと顔が赤くなるような笑みに私はありがとうございますと顔を綻ばせた。
制服を1着、皇女様から譲ってもらった。士官学校へ通うことになってから私が1人平服で授業を受けている姿が気にかかったらしく、ベレトさんに提案し彼女が予備で持っていた制服を譲ってもらったのだ。『青獅子には気が利く生徒が1人もいないようね』とエーデルガルト様の棘のある一言に制服を抱える腕が震えたが、『制服は贅沢品ですから』と誰も顰めっ面を浮かべぬよう言葉を和らげ私は深く頭を下げた。
ちょうど背丈も同じだからか、多少の色や装飾品は違うものの特段手を加えられた後はなく、跳んでも走っても肩や袖に違和感はない。むしろ私用に作られたのではと能天気な錯覚を起こすほど体にピッタリだった。
ベレトさんに別れを告げ青獅子の自席に腰を下ろし教科書を開く。朝の挨拶を返しながら本鈴に向かって、さぁ、今日も学ぶぞ!とやる気満々に羽根筆を握る。背をのばし目を輝かせ誰よりも学問へと向き合う姿勢を整えたなまえ。だがそんなやる気に満ち溢れた新入生に待ち受けていたのは右耳から左耳へ天馬のごとく駆け抜けていく異国語のような単語の羅列だった。
授業というものは皆の理解度を測りながら進んでいくものではないのでしょうか。お願いしますと頭を下げ、体感5分後にはありがとうございましたとまた頭を下げている。あっという間に始まって終わっていく授業に目の輝きがくすんでいく。朝のやる気は何処へいったのだろう。お腹は空いている、が食べに行ってる場合ではない。食堂へ向かった友人たちに手を振って、なまえは一人机に齧りつき、何万歩も先を走る先頭集団に追いつくべく黙々と手を動かしている。泣きたくなるほど何一つ理解できないまま、ただただ頁をめくる手は忙しく。見返した羊皮紙は一体何を書きたかったのか書いた本人でさえ解読不能である。いっそ投げ出してしまいたい。だが必死になって解読し理解しなければこのまま知識の激流に流され最後は『留年』…そもそも貴族でもない人間を教団がおいておく理由などないだろうし問答無用で『退学処分』が現実的且つ妥当な措置だろう。
この状況を打破せねばと焦ってはいる。勿論危機感だって人一倍働いているつもりだ。
追い込まれたらちっぽけな頭も少しは冴えた考えの一つや二つ絞り出るだろうと、自分の潜在能力を奮い立たせる。しかし現はどこまでも非情で、枯れた井戸のごとく一滴も与えられた問題の打開策は浮かばなかった。
わからない。ちっともわからない。0に1を掛けたら当然答えは0になる。だが答えは0どころか5に増えている始末。そんな摩訶不思議な数式が私を嘲笑うように数十頁に渡って記述されているのである。こんな意味不明な内容どうやって理解しろと言うのだ。何度問題前後の頁を捲っても答えも例題すら見つからないし、次の授業時までにやってこいと山のような演習問題を与えられた上次の時間に当てると死刑宣告までされてしまっている。元傭兵ならこれぐらい実践で学んでいるはずだ?勝手なことを。実践では武術と戦場の立ち回りを多く学んだ覚えはあったが、戦闘中に計算したことなんて一度だってなかったし、大砲の最適な角度など万年ジリ貧傭兵団に高価な武器取り扱う機会さえないし、あったとしても全て『感覚』でやり過ごしていただろう。
先の乾いた羽ペンを髪に差し腕を組み深く唸ってみるがいつまで経っても答えは出ず刻々と時間が過ぎていくだけ。昼休みが始まり20分が経過しようとしている。未だ授業中に捲った35頁分の内容に対し2頁ほどしか進んでおらず、腹と背中がくっつきそうで、貪欲な空腹に集中力は低下する一方だ。
お昼休み返上で勉強すれば少しは理解できるだろうと泣く泣く食事を諦めたはずが何一つ捗っていない。あーあ、空腹に集中力と気力を削がれるくらいなら開き直ってアネット達と食堂に行けばよかった。そしたら今頃楽しく昼食を食べながら勉強を教えてほしいの一言も言えただろうに。仕方ない、今からでも一人でごはんを食べに!…と席を立ちたいところだが、悲しいことに食堂までの道が分からないため身動きがとれない。
ここは恥を忍んでベレトさんに!…と隣の学級を覗いてみたが見知った人は誰もおらず、それならばクロードに!とまた隣の学級を覗いてみたがこれまた知り合いが誰もいない。マリアンヌさんは不在。他に数人生徒はいたものの談笑したり課題をしていたりと話しかけられる状態ではない。
なぜ他学級と違い青獅子は私以外誰もいないのだろう。昼休みだからとはいえ孤独な教室の静けさに段々と気持ちが滅入っていく一方だ。
自分の理解力のなさに呆れ、空腹を強いられた状況に腹を立て、このポンコツ頭!と罵倒しながら机に突っ伏す。
もうなにもしたくない。1単語も学びたくない。
机から段幕のように腕を垂れ下げ教室の隅を意味もなくぼんやりと見つめる。早いことに入学してから1節が過ぎた。ジェラルトさんに頼んで今からでもまだ傭兵に戻れないかなぁ。能力の限界にうちひしがれ、長机の板目に爪を立てていたその時。
「あの、」
とんとんっと肩から伝わる小さな衝撃にゆっくりと上体を起こす。あまり聞き覚えのない声だなぁと適当に返事を返すと、眉を八の字に曲げだそばかすの少年が申し訳なさそうに立っていた。
…メルセデスでもアネットでもイングリットでもない。うわぁっ!?みっともない姿見られた!!
咄嗟に名前が出てこない相手だと分かるやいなやなまえは慌てて自身の頬を強く叩き緩んだ顔を引き締める。最悪だ、間抜け面を晒した。できることなら1からやり直したい。
「これ、君のだよね?床に転がってたから誰かに踏まれる前に渡しておきたくて。起こしてごめんね」
「え、あ、ありがとうございます」
肩を叩いた少年には見覚えがあった。対抗戦で弓を引いていた子で、いつもドゥドゥーと話している男の子。前に一度自己紹介をして貰ったはずなんだけど…喉で引っかかった名前が果たして合っているのか、失礼が無いよう慎重に言葉を選んでいると彼は「どういたしまして」とはにかむや否やあっという間に教室の入り口へと爪先を向けていた。
まずい、引き留めなくちゃ。彼を逃したら最悪白紙のまま授業に参加することになる。
だがこの翻す踵の速さ。もしかしたらこれから彼にとって大切な用事が入ってるのかもしれない。誰かと待ち合わせしている可能性は大いにあるだろう。
やはりこの問題は自分の力で…つまらない理由で引き留めるのも彼にとって迷惑だろうし、人の昼休みの時間を奪うのは抵抗が…
「あ、アッシュ…さん!!」
頭では手を膝の上に丸めていたはずだった。けれど実際は机から身を乗り出ししっかりと彼の服を握りしめていた。
なまえの唐突な行動にアッシュは肩をはね上げ驚いていた。けれど彼は衣服を掴む手を払うこともなければ嫌な顔一つ見せず「どうかしたの?」と快く足を止めてくれた。正直引き留めた直後の頭の中は吃驚すらほど真っ白でこの後に続ける言葉など用意していなかった。しかし勘が鋭いアッシュさんが空白だらけの羊皮紙から私の言いたいことを推測し、見事的中させた。改めて自らの言葉で教えを乞い深々と頭を下げた。
アッシュさんは優しい。「僕がわかる範囲でよければ教えるからとりあえず顔をあげて!」と泣きそうな目に手巾を差し出し、錆びたポンコツ頭でも理解できるよう丁寧に、そして根気強く教えてくれる。
アッシュさんは謙虚だ。私が教え上手だと褒める度に彼はアネットの方がと自らを卑下し、決して自身の能力を自慢するような発言はしない。アッシュさんが自分を卑下するような発言ばかりするので、彼に代わって私がアッシュさんを褒めようと思う。彼の懇切丁寧な指導は無知な子供でも理解できるほど細かく刻まれつまることなく喉を通り、あんなに脳を回転させても解けなかった問題が嘘みたいにスルスルと解けていく感覚はまるで霧が晴れていくような気分だった。山積みだった演習問題も気づけば残り3問。この調子だと昼休みが終わる前に片付くだろう。
「本当にありがとうございます。アッシュさんのおかげで青獅子の学級の名に泥を塗ることも皆の前で恥をかくことも回避できました」
「泥って…少し重く考えすぎじゃないかな?それに僕は大したことはしてないよ。君が躓いてる部分を教えただけで、内容を理解したのは全部君の力だ」
「でも貴方が教えてくれなかったら私は明日の授業で赤っ恥をかいているところでした。本当にありがとうございます。この恩を返せればよいのですが…大金は持っていませんし、所持品も武器と傷薬しか」
首にかけた装飾品は大部分が銀で作られており売れば幾らか金は作れそうだが…以前女商人アンナさんから大切にしろと言われたため手放すことは出来ない。それにこの首飾りは元の世界と今の自分を繋ぐ唯一の繋がりだ。あまり首から外すことはしたくない。となると残る恩返しは力仕事のみとなるが、力仕事関連で困っていそうな様子でも無さそうだし……う〜ん。
「恩返しなんて大袈裟だよ。僕は君の友人として力を貸しただけで」
「しかしジェ…お父さんから絶対に借りを作るなと言われていて」
『俺はいいがお前達は駄目だ。一生酒場で文句を言われながら不味い酒を飲むことになるぞ』と真っ青な顔でベレトさんと私に約束させたジェラルトさんの目は深堀してはいけない経験者の目をしていた。ジェラルトさんの身に何が怒ったかは知らないが、とにかく、貸しを作るなと教えこまれた私はできる限り何でもするから恩を返させて欲しいとアッシュさんに迫った。アッシュは顎に手を添え深く唸った。しかし一歩も引く様子がないなまえ相手にアッシュは熟考した後「閃いた!」と手を打った。
「敬語!」
「敬語?」
「そう!僕たち青獅子の学級に所属する仲間なんだし、変に畏まっていたら君も疲れるでしょう?だからこれからは敬称も敬語もなし、砕けた話し方で接してほしい。それで貸し借りはなし、っていうのはどうかな?」
アッシュの冴えた提案になまえは目を丸くした。敬称と敬語を外す…そんな簡単なことで恩返しになるなんて、良い人過ぎやしないだろうか。ちょっと心配だ。
「そういえば、なまえは傭兵団の一人だったんだよね?傭兵のお仕事ってどんなことをするの?」
「んー、戦って、食べて、移動して…」
あまり自分のことは語るなとジェラルトさんに咎められていたが仕事の内容なら少しぐらいいいだろうと慎重に言葉を選びながら一節前の日常を振り返る。仕事内容と言っても今の生活とあまり変わらない気がする。鍛錬、鍛錬、また鍛錬。座学の代わりに移動があって、演習課題は護衛とか賊退治などの仕事に当たるだろう。どんな鍛錬をしたとか、誰に魔法を習ったとか、そういう取り留めもない日々を語って果たしてアッシュは面白いと思うのだろうか。盛り上がりに欠けた傭兵生活の話題を話せる範囲で語る。例えばジェラルトさんとの鍛練話。剣術や体術を教わりながら毎日派手に投げ飛ばされ受身を学んだこと。それからベレトさんと森の中を駆け回った話。盗賊に追われたこともあったなぁと昔の記憶を引っ張りだし一人懐かしんでいるとにアッシュは興味深そうに目を輝かせ、時に目を丸くし、そうなんだぁ〜と相槌を打った。私にとってはなんてことない思い出話もアッシュにとっては実際に他国を歩き回った傭兵の日常が刺激的で新鮮に聞こえるのだろう。
羊皮紙の端に珍しい動物の絵を描く。帝国領でベレトさんと仕留めた熊みたいな何か。煮ても焼いても美味しかったなぁと食の思い出を語っていると羊皮紙を見つめていたアッシュが急に描いたばかりの動物ではなく書き綴った文字を指さし、言った。
「ちょっと気になったんだけど、こういう文字も立ち寄った村の人に教えてもらったりしたの?」
「へっ?」
アッシュの口から飛び出した衝撃的な一言に過去の記憶が一瞬で飛ぶ。心臓が早鐘のように打って、驚きのあまり言葉がでないでいるとアッシュは「あれっ、違った?」と読みが外れたように苦笑いしている。
「フォドラ文字を原型にしていたとしても癖字にしては独特な形というか。ほら、これとか。ブリギットでもダスカーでもパルミラ文字でもないよね。特にこの文字なんてすごく面白い形してる」
何気なく読みづらい文字の上にふってきた小さな平仮名に興味を示すアッシュへなまえは人知れず表情を強ばらせる。まずい、これは非常にまずい。下手をすれば秘密の根幹に触れられる恐れがでてきた。
汚い文字を真似て指で真似始めるアッシュになまえはこの緊迫した場を凌ぐ言葉を必死に探していた。フォドラの大地に足をつけ早数年。会話に不自由することは一度もなく、読みに関しても基本流れるように読んでいた。流石に文字書きは苦労したが魔法を教えてくれた修道士から『こんな文字フォドラにはありませんよ』と注意を受ける回数も減り、ほぼ完璧なフォドラ人に成長していた、はずだったのだが。
脳を貫いた強烈な一言に緩んでいたネジがきつく厳しく絞められる。思い返せば最近は戦闘技術を磨くことばかりに没頭し、戦術書を読みふける毎日で、最後に修道士から文字を添削されてから軽く数節日が空きている。予定外の衝突事故をどう回収すれば怪しまれずに済むか、うすら笑いで焦りを隠すも見破られるのは時間の問題だ。嗚呼、こういう時に限って話を逸らすに事足りる出来事も乱入者もいない。誰か騒いでくれないだろうか。爆発音なんて最高なんだが。
なまえは考えた。考えて、考えて。どこの部族の文字なのか興味津々なアッシュを前に、なまえの口からでた嘘は
「えーっと…この文字は…そ、そう!私今象形文字にはまってて、この文字は立ち寄った象形文字文化の村の人たちに教えてもらったの!!」
どうかもう一度やり直させてください。
なんて酷い嘘だろう。こんなお粗末すぎる嘘、一体誰が信じるのというのだろう。フォドラ文字に多部族の文字を趣味で混ぜる奇特な人間など世界中血眼に探し回っても恐らく私一人だけだろう。
やってしまった。冷や汗を拭い崩れ落ちそうな体を必死で保ちながらなまえは目を見開いてアッシュの反応を窺う。見るからに誠実で口が固そうなアッシュなら秘密を知られても黙ってくれそうな気はする。が、種火は撒かないに越したことはない。自然と震える指を背中に隠したなまえにアッシュは口を開いた。しかし彼が発した言葉は、恐れていたものとはかけ離れた、なんとも呑気なものだった。
「へぇ〜文化や歴史は本で一通り学んだけれど、やっぱりその場に足を運んでみないと学べないこともあるんだね。ねぇ、これって何て読むの?」
『“水上”すいじょう』の読み方を嬉々として尋ねてくるアッシュに開いた口が塞がらない。もしかして試されているのだろうか。表情が乏しく口数も少ないベレトさん相手だと言葉を交わさずとも些細な表情の変化で何を考えているか大方察しがつく。だが表情豊かなアッシュ相手では言葉の裏の裏の裏まで勘ぐらなければ少しも安心できない。怪しまれるどころか逆に怪しんでいるなんておかしな話だ。
見たところアッシュの反応は作り物でも含みがあるわけでもなく、ただ純粋な知りたがっている反応に近い。俄に信じ固いが、今は回ってきた好機を信じるしかない。ずさんな嘘を取り繕うために私はアッシュの問いかけに丁寧に説明し答えた。象形文字と形容した母語の書き順を指でなぞり、こうやって書くんだよと他者からの受け売りを匂わせるためわざと辿々しく書いて見せる。すると彼は「成る程、興味深いね!」と証拠を集める探偵のように覇気のない文字に向かって顎に手を添え顔を近づける。今更だが自分の字をこうもまじまじと見つめられると変に緊張してしまう。秘密を暴かれるかもしれない緊張感というよりも、これは綺麗とも汚いともいえない平凡な字を興味津々に見つめられているからだろうか。さらに嘘を固めるためになまえは『アッシュ』と書き、書き順を教えてやった。アッシュは驚くほど物覚えが早かった。それだけでなく、自分自身よりも綺麗な文字が羊皮紙の端に綴られ、「やっぱり他言語は難しいね!」と筆を置いたアッシュになまえは安心感を覚えると同時に必要のない謎の危機感に筆を震わせた。
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