「ハンネマン先生!!」
悲鳴を駆けつけた4人の前には頭から血を流し床に伏せたハンネマンと血を吸い赤黒く変色した棍棒を手に薄笑いした男が立っていた。男の顔には見覚えがあった。小屋に呼び出し水と蒸し菓子を渡したあの男だ。男は棍棒を肩に担ぎなおし駆けつけた4人へと振り返る。ネタネタと歯の間を繋ぐ粘ついた唾液の糸にアネットは悲鳴を上げてメルセデスに引っ付き、メルセデスはアネットを守るように背中に腕を回す。身の毛がよだつ緊迫した状況にたどたどしく剣を構えるなまえとは違い、イングリットは勇ましく槍を構え磨きあげられた銀の矛先を男の心臓に向けた。
「死にたくなければ今すぐハンネマン先生から離れなさい」
凛とした声でイングリットは男に警告する。しかし男はイングリットの警告をかき消すように奇声を発し、棍棒を振り回して襲いかかった。
助けなきゃ。すぐに掌をかざし魔力を溜めた。しかしイングリットは真っ直ぐに男を睨みつけ腰を深く落とすと、
「…イングリット?」
後方支援を待たずして目にも止まらぬ速さで男の心臓を貫いた槍に私は目の前で編み込まれた金髪を揺らす少女が本当にイングリットなのか分からなくなった。突如として牙を剥いた恐怖は数分も経たずして静かに灯火を燃やし尽くした。逆上し金切り声を上げて襲いかかってきた男の最後は気味が悪いほど黙然とし、羽虫を撃ち落としたかのような記憶にも残らない最後だった。ゆっくりと男の体から槍を引き抜く少女は白銀の刃に薄汚く絡みつく赤を泥のように振り払った。気を抜くわけにはいきませんね。小さく呟かれた覚悟が決まった言葉になまえは言葉を詰まらせる。殺す気で戦ったイングリットと戦闘不能を狙って魔法を詠唱した私。人を殺してもなお発狂せず、淡々と生温かい死体を見つめる少女になんて声をかけたらいいか分からなくて、そういえばベレトさんも昔はよくこんな顔をしていたと誰に対して震えているのか分からない手をなまえはそっと背中に隠した。
「ハンネマン先生!イングリット!」
遅れて駆けつけた男子生徒5人と無事合流し青獅子が揃った。頬に張り付いた返り血を拭う5人に一体何があったのかとイングリットが情報を纏める中、なまえとメルセデスは見た目以上に深い傷口に繰り返し回復魔法を唱えている。刺傷2箇所、激しく殴打され出血も酷い。なまえは汗ばむ額を拭いながら休む間もなく詠唱を続ける。まるで湯水のように魔力が消費されていく。発見が早かったためか、殴打による出血は何とか塞ぐことができ刺傷も大方治った。しかしこの負傷具合では自力で動けるようになるまでは次官がかかるだろう。
気を失っていたハンネマが呻きながらも薄く目を開くと混濁した意識の中、掠れた声で逃げるよう指示を出す。
「…村人は皆、共犯者だ…君たちは、はやくにげなさい。このことを、きょうだんに…」
青白い指先がなまえとメルセデスの手を掴み早く逃げなさいと退ける。幼子でも振り払える腕力にハンネマンの命の危機を察したなまえは「ハンネマン先生を残して逃げることなどできません」としつこく回復魔法を唱える。しかしハンネマンは淡白い光を放つ掌を払い「無駄な魔力を使うな!」と彼女を叱責した。
「…行きましょう」
メルセデスに肩を抱かれなまえは何度も何度頭を振ったがメルセデスに優しく促され渋々と立ち上がりハンネマンの傍から離れた。右目に着けていた片眼鏡が無残にも踏み割られ蛇のように変形した残骸がぐったりと横たわる右肩のすぐ脇に転がっている。
「…皆、行くぞ」
悔しさと悲しみが入り交じった悲痛な声がハンネマンを置いていくことを決断した。ディミトリの判断に狂いはなかった。今ここでハンネマンを連れて逃げたとしても全員が無事大修道院に帰れる保証はどこにもない。重傷者一人を抱え不利な状況を引きずりながら村を相手に戦い勝利を収めることなど机上の空論だ。ディミトリ、ドゥドゥーに続きぞろぞろとやりきれない思いで血なまぐさい部屋から離れていく。下り坂のように悪い方向へと転がっていく状況になかなか足を動かせないでいたアネットをイングリットが声を掛けた。行きましょう。イングリットがアネットの手を引いた直後、アネットは膨れ上がった感情を爆発させボロボロと涙を流しながらハンネマンの胸へ飛び込むように駆け寄った。「やっぱり先生を置いて逃げることなんてできないよ!!」と叫ぶアネットに皆悔しげに唇を震わせる。アネットの気持ちは痛いほどよく分かる。この場にいた誰もが全く同じ思いを抱えていたのだから。けれど実戦経験のない者が多くいる中でどうやってハンネマンを連れて襲いかかる村人達を撒きながら逃げようというのか。誰もがディミトリやイングリットのように動ける訳では無いし、真っ白な手で武器を握り鍛錬に励んできた者が並大抵の覚悟もなしに他人を殺めるなど耐えられないであろう。最悪精神を崩壊させてしまう場合だって考えられる。誰も迂闊に戦いを推奨することなどできやしなかった。
ハンネマンがディミトリを呼び、ディミトリがドゥドゥーを呼んだ。任せたぞ。颯爽と先陣を切ったディミトリにドゥドゥーは皆を先に行かせるとハンネマンに張り付くアネットを剥ぎ取り抱き抱えた。ドゥドゥーの腕の中でアネットは必死に抵抗しハンネマンを連れていくよう頼んだ。しかし仲間が討たれた事を嗅ぎつけると、増援二体を前にアネットは口を閉じドゥドゥーは斧を構えた。
「皆気を抜くな!」
道を塞ぐ敵の首をディミトリが勇猛果敢に槍で切り落とし、道を作る。次第に汚れていく赤い道を歩く者達は皆恐怖と悲しみに表情を殺していた。
「行けっ!!」
切羽詰まった声が背中を押す。死体を前に迫り上がる吐き気に口を押さえる者、天に祈りを捧げる者、幾度となく後ろを振り返る者、深い悲しみに浸り嗚咽する者、そして覚悟を決め前を見据える者。皆それぞれが整理のつかない複雑な思いを抱えたまま足早に村から脱出する。地を蹴り武器を振るい棒同然の足を前に突き動かす。どこに向かって走っているのかなど誰1人として分からなかった。
「ここまで来れば少しは休めるだろう」
村を出てから追っ手を何体か斬り殺し休む間もなくなまえ達は走り続けた。周囲はすっかり暗闇に包まれ梟の声が乾いた空気によく響く。月明かりの淡い光では大修道院の位置すら把握できず、倒しても倒しても湧いてくる追っ手を撒くために鬱蒼とした森の中に身を隠した。森の中をさ迷い歩き遠くなっていく足音に耳を澄ませディミトリが手を挙げた。ここならいいだろう。槍を置き大木に背を預けるように地面に座り込むディミトリに続き皆武器を捨て喘ぐように酸素を体に取り込んだ。
お腹がすいた。喉が渇いた。真っ白な頭の中を埋め尽くすのは生きる上で必要な欲求ばかり。携帯食糧は昼の時点で既に底を尽きており腹を満たす術はもう無い。体力の消耗が激しい。それもそうだ、休みなく走り続け疲れない方がおかしいのだ。回復薬を水の代わりとして次から次へと封を切り、張り付いた喉を潤すために最後の一滴まで飲み干す。だがそれでも喉の渇きは収まらない。言葉を交わすことすら億劫で、肩で息をする仲間の様子にディミトリは命運を分かつ判断を迫られていた。
賊に捕縛されたであろうハンネマンの生死も気になるところだが今頭を働かせる問題はそれじゃない。大木にもたれかかりぐったりと座り込んだ8人を引き連れ大修道院に無事戻れるのか、ディミトリを悩ませる大きな問題はそれだけだ。道を塞ぐ敵は皆刺し殺した。それでも追いかけてくる奴らは上手く撒いたと思うが、いつこの森に潜伏していることを知られ奇襲されてもおかしくは無い状況だ。同じ場所に留まり続けることはあまりにも愚策、逃げ道が塞がれる前に早く動かなければ全滅するかもしれない。
「…一刻も早く大修道院に」
担任を奪われ一人の肩に乗るにはあまりにも重すぎる責任がディミトリにのしかかる。ボソボソと呟き蹲るディミトリの傍で腰を下ろしていたなまえはその消え入りそうな独り言に血を絞るように腕を握りしめる。もっと早くに村の違和感を察し皆に伝えていればハンネマン先生を置いて逃げることは無かったのかもしれない。もし私が専門的に回復魔法を学んでいたら最小限の魔力で効率よく傷を塞ぎハンネマン先生を回復させられたのかもしれない。取り返しのつかない後悔ばかりが頭の中で渦を巻いている。どうしてあの時、アネットのようにドゥドゥーに抱き上げられるまで傍に座り治療をしなかったのだろう。死人のような擦り切れた仲間の表情が全部己の無力さが招いた結果だとなまえは自分自身を責め立てる。
ジェラルトさん。ベレトさん。
もしこんな時、ジェラルトさんやベレトさんならどうしてただろう。冷たい空気に晒されハンネマンの血で塗れた赤黒い掌に答えを探していた時どさっと重石が落下するような音になまえは飛び上がり震える手で剣を握った。敵襲か。周囲を見回しても敵の姿が確認できなかったことにホッと肩の力を抜くのも束の間、新たな問題がなまえ達に襲いかかる。
「…アン?…っ!!アン!!ねぇ、どうしたの!?」
珍しく焦りを含んだ声でメルセデスがアネットの体を揺らしている。近くに座り込んでいたシルヴァンがどうしたのかと尋ねるとメルセデスは気が動転しているのか彼女らしくもなく早口で「分からないの。でも突然倒れて、息はあるんだけど目を覚ましてくれなくて」と絶えずアネットを呼び続けている。急に倒れたアネットを心配しなまえもアネットに駆け寄り軽く頬を叩いてみたり擽ってみたりしたが反応はなく、そうこうしている内に今度はイングリットが静かに倒れていることに気づき駆け寄った。アネット同様意識はないが呼吸音は安定している。まるで眠っているような状態だ。彼女たちの身に何が起こっているのだろうか。疲労困憊による寝落ちだとしてもこれ程ぐっすり眠るなんて。
「あれ、どうしたんだろう。急に目眩が…」
「アッシュ?どうしたの?大丈夫??」
アネット、イングリットに続き今度はアッシュが地面に蹲った。唯一の救いはアッシュが2人のように意識を飛ばし眠りについていないことだけ。ディミトリの指示に従い皆でイングリット、アネットを近くに寄せ、そのすぐ近くの大木にアッシュを運ぶが、その際にもまたメルセデスも軽い目眩と頭痛を訴えた。アネット、イングリット、アッシュそしてメルセデス。体調不良を訴える4人の症状の重さにはそれぞれ差が見られ、4人の中でもメルセデスはアッシュよりも比較的症状が軽く、座っていれば大丈夫だと笑った。彼女もまた眠いのか、アッシュと同様に睡魔と闘いながらメルセデスは絶えず瞼を擦っている。突然4人も動けない最悪な展開に嫌な空気が生存者を包む。ぐったりと力なく横たわる4人にシルヴァンは探偵のように顎に手を当てあっ!となにか思い当たる節を見つけたように顔を上げた。
「なぁなまえ、お前村人から出されたものを口にしたか?」
「いえ。水は少し口にしましたがとても飲めるものじゃなくてすぐに吐き出し…まさか!」
やっぱりかと手で顔を覆ったなまえにシルヴァンはそれで間違いないと首を縦に振った。イングリットとアネットは水と菓子を食べ、メルセデスは水を、アッシュは菓子を口にしていたとシルヴァンは苦々しく語る。そして今ここで健康状態を訴えていない者たちは他人から差し出されたものを警戒しあえて口にしなかった者たちのみ。シルヴァンはチッと舌を打ち小石を蹴り髪をかいた。
やっぱりあの舌が痺れるような苦味は私の勘違いではなかった。恐らく4人の症状とその発症時間から推測する限り盛られた薬は睡眠薬。水と菓子を摂取することで効果を増長させ、片方だけでも効果は絶大。多方皆に睡眠薬を盛り深い眠りに落ちた頃を見計らって悪巧みを始める気だったのだろう。夕食に誘ったのも水や菓子に手をつけなかった者にもう一度薬を盛る機会を作るための口実でハンネマン先生を襲ったのは犯行現場を見られ口封じのための犯行だったと考えれば全ての行動に説明がつく。なんて汚い奴らだ。とはいえ混ぜられていたものが睡眠薬だったことに命拾いをした。これがもし毒物を盛られていたならば手のつくし用がなかったところだった。
4人の脈拍も正常で呼吸も安定しておりこのまま寝かせていればいずれ目を覚ますだろう。ならばここで皆が動けるようになるまで待っていたいところだが、事態は森に逃げ込んでくる前よりも深刻化している。4人も動けなくなった中これからどう動く気なのか。ディミトリの周りに集い判断を仰ぐドゥドゥー達。それをなまえは離れたところから一人その場に棒立ちしジェラルトさんならベレトさんならどうするか、的確な判断を下し幾度も隊を勝利へと導いてきた師の行動から突破の糸口を探していた。
「状況は最悪だな…疲弊した中4人を抱えて走ることは今の俺たちじゃ無理がある。…仕方ない。残った5人のうち体力のある者を選出し大修道院まで走り至急応援を呼ぶよう要請するしか…」
動けない者を待機させ動ける者を選出し教団に応援を要請する。この策が皆が助かる唯一の策だとディミトリが提案した。そうする他あるまいと3人が頷く中、こゆるぎもしないなまえにディミトリは「お前も具合が悪いのか?」と声を掛ける。なまえはディミトリの声も届かないほど深く考えていた。記憶に残る苦戦を強いられ活気をなくした兵達。それを発奮させる猛々しい声がディミトリの声をかき消している。
『負傷者は速やかに後方へ運べ。動ける者は前に出ろ。絶対に怯むんじゃねぇぞ!!どこに敵が潜んでいるかわからん!死にたくなければ気を抜くな!!!』
ジェラルトさんなら…きっと。
考えている時間も惜しい状況まで追い詰められている。けれど今ここで何も意見せずに従うばかりでは生きることを放棄したようなものでは無いだろうか。ジェラルトの声に背中を押され勇気を奮い起こしたなまえは場の空気に萎縮しながらも震えた右手を上げた。
「…この暗闇の中どこに敵が潜んでいるかもわからないというのに迂闊に森を抜けるのは危険だと思います。大修道院の位置も掴めていませんし少人数で隊を編成し大人数で襲いかかられでもしたら本末転倒です…運良く大修道院に帰れても時間がかかりすぎます。その間にどんどん状況が悪化し最悪ハンネマン先生が…」
「そうか、じゃあお前ならこの状況をどう打開する。重症者2名、軽症者2名、皆疲弊し満足に動けない中お前はこの森に身を潜め皆の体力が戻るまで一夜過ごすつもりか?水も食料もなく何処に敵が潜んでいるかも分からない。既に敵に囲まれている可能性だってある。勝算の薄い戦いに挑み仲間を無駄死にさせたいのか?」
厳しい意見に言葉が詰まった。殿下の言うことは正論だ。場を踏み戦場を指揮してきた者の決断は正しく非の打ち所がない。私がうじうじと迷い反論を考えている間にも事態は刻々と悪化している。迅速に動ける人を選出し動かした方が生存率も上がり朝日を拝む前にハンネマン先生を救出できる可能性だって見えてくる。分かってる。でも、動ける人が森から抜ける途中に敵と遭遇したら?殿下の提案は安全策ではあるが想定外への対応が取れないことが大きな欠点でもある。敵が何人いるかも分からない今別れて動く事ほど恐ろしいことはない。提案された策に対し腑に落ちない顔が拳を強く握る。
少々の危険に目をつぶってでも遂行すべき作戦はあるだろう。ディミトリが今実行に移そうとしている作戦がまさにそれに当たる。しかしなまえはしつこく考え直してくれとディミトリ達を引き留めた。なぜ引き留めるのか、生存率の高い策を実行するなと引き留める理由の根拠は信憑性の薄いただの『女の勘』だ。しかし説明のしようがない女の勘がこれほど鬼気迫る状況で煩く心臓の奥で騒ぐのだ。まるで女神様からの啓司のような、絶対にこれは無視してはいけないと得体の知れない行動力がなまえを突き動かす。
「…そう、ですね。でも…だからといって安全な逃げ道なんてどこにもないんですよ。今体力が残っている者がこの場を離れたら残された者は為す術なく敵に殺されてしまいます。…ですから、残った者でも十二分に戦える策を考えたらどうでしょうか?皆で知恵を出せばきっと打開策が…」
「戦う?…簡単に言ってくれるな!ではお前はこの状態でどう戦う気だ?たった5人で何が出来るというんだ?」
前髪を掻きむしりながらフェリクスが甘ったれた考え一蹴する。仲間を置いていくことにはなるがそれは決して切り捨てるわけではないだろと苛立ち混じりの声で説得されるもなまえは火がついたようにそれでも残された時間で違う方法を考えるべきだと噛み付く。普段呑気に鼻歌を歌うなまえが見せた剥き出しの感情に気圧されたフェリクスは堪らず目を逸らし舌を打つ。誰であれ作戦が現実的で勝算のあるものなら手を貸してやらないことも無い。仲間の安全を選び逃げることを選んだ慎重なディミトリの作戦にフェリクスは本心を言うとあまり乗り気ではなかった。けれどなまえの提案する勝算が低い作戦に手を貸し無様に死んでいくほど無鉄砲でも無い。フェリクスはディミトリとなまえを天秤にかけた。信頼と実績。より現実的で安全な策はどちらなのかを。結果を待つまでもなかった。フェリクスはディミトリを選んだ。フェリクスの説得を試みるも聞き入れてはもらえずなまえは縋るようにシルヴァンやドゥドゥーに賛同を求めた。しかしドゥドゥーはディミトリの指示に従うと首を横に振り、次にシルヴァンへ視線を遣るもシルヴァンは高い身長を活かしそーっと視線を斜め上へと動かしなまえを視界から外した。
「…ごめんな。なまえちゃんの気持ちもよーくわかる。けど、俺やフェリクス、殿下はともかく、後の奴らは実戦経験がほとんどない奴ばかりだろ?負傷者を庇いながら戦うなんて器用なことそう簡単に出来ないぜ」
それにアンタ、人殺したこと無いんだろ?
針のような鋭い言葉が胸を貫いた。臆病な心臓を握りつぶすかのようになまえは胸元に皺を寄せる。今以上に傭兵団の仲間に手厚く守られてきた自分を殴り殺してやりたいと思ったことは無かっただろう。戦いましょうと提案し同意を求めているのは自分なのに私の手は綿毛のように真っ白で人を殺す覚悟もなく、けれど平然と血塗れの道に彼らを引きずり込もうとしている。魂が抜けたような空っぽの表情が地面に落ちる。肩は外れたように力なく垂れ下がり両腕は振り子のように揺れている。潤んだ目が横たわる仲間を映す。何が自分たちにとって最良の選択なのか、もう一度分岐点へと立ち帰れと茫然自失ななまえをディミトリの影が覆った。
「ハンネマン先生は俺たちを逃がし件を教団に報告するよう指示した。自らを犠牲にしてまで俺たちを逃がしたハンネマン先生の想いを、お前は踏み躙る気か?」
何も言い返すことが出来ない悔しさに指を震わせる。聞き分けのない自分を窘める言葉に耳を塞いでしまいたいのに。
「冷静になれ、なまえ」
覚悟を決めた蒼い瞳が欠陥だらけの選択肢を切り捨てた。無情に散っていく道を塞ぎ指示に従えと1本の道を指し示す。真っ直ぐで穴が少なくとても歩きやすい道。なだらかで足を取るような障害物もなくきっと目を瞑っても歩いて行けるだろう。けれど…目に見えない亀裂が手ぐすねを引いて通り過ぎていく者を陥れてやろうと息を潜めていることを私はどうしても見過ごすことなどできなかった。この道だけはどうしても歩けない。
「…でも」
考えを変える気は無い事を殿下に伝えようとした。けれど顔を上げようとした途端、不自然に葉が擦れる音に慌てて剣を握り振り向くが
「っ!!なまえ伏せろ!!」
殿下の声が耳に届くよりも先に吐き気をもよおすような鮮烈な光が私の視界を奪った。剣が手から落ちてしまった。だが今はそんなことどうでもよかった。チカチカと眩しい光が摺り足で去っていくと今度は深い闇が視界を一色に塗り潰す。操り人形に括りつけた糸を足元から一本ずつ断ち切るかのように膝、腹、胸、顔と力が抜け、気づけば名も知らぬ草に頬を埋めていた。氷菓子を一気に飲み込んだような、頭痛に手を伸ばし痛みを鎮めようとするが不思議なことに体が動かない。自由を失った体でゆっくりと瞬きを繰り返し少しずつ晴れていく黒い靄を払う。徐々に取り戻す鮮やかな世界は深緑色ばかりで、自分が地面に倒れていることに気づいた途端煮え湯を浴びせられたように燃える頭部を腕で押さえ奥歯を噛んだ。どうしてこんなに熱いのだろう。恐る恐る深緑色の世界に腕を入り込ませるとハンネマン先生とはまた違うべっとりとこびりついた鮮やかな紅色に頭が真っ白になった。音量が階段のように1段ずつ上がり、誰かのなく声が鼓膜を震わせて初めてなぜ私が地面に転がっているのかを知った。皆は?抉るような頭部の痛みを抑えながらぎこちなく体を起こした彼女を待っていたのは凄惨な現実だった。
剣を収め頬についた返り血を袖で拭くフェリクスの足元には死体が二体転がりドゥドゥーの足元にも同様に死体一体と見覚えのある体が地面に伏していた。輝くような金髪に肩から下がる濃青色の外套。
「でん、か…」
首の折れた死体を蹴り飛ばしディミトリの体を持ち上げたドゥドゥーになまえはぐらぐらと揺れる頭部を支えおぼつかない足取りで倒れ込むように駆け寄った。
突然の奇襲に誰も対処などできなかった。現れた一体の賊は一撃でなまえの頭部を叩き地面に伏した体にトドメの二打目を振り下ろした。ディミトリの咄嗟の判断によってなまえは運良く死を免れ一体の死体が転がったが、追って現れた2人の山賊に不意打ちをくらったディミトリは気絶。山賊の始末はフェリクスとドゥドゥーによって行われた。ディミトリを担ぐ涙ぐんだ声が失われた五感を呼び戻す間の曖昧な記憶を補完する。
泣くな。まだ殿下が死んだわけじゃない。身体には熱が宿り浅くはあるがちゃんと息もしている。これ以上傷口が開かないようにドゥドゥーと協力しそっとディミトリを地面に下ろし2人がかりで厚い制服の上着を脱がし仰向けにひっくり返す。大きく破れた真っ白な襯衣を染め上げる赤になまえは指先を震わせ、葡萄酒の襯衣を摘みそろりそろりと捲りあげ背中に負った凄惨な傷口になまえは堪らず口を押えた。
全部私のせいだ。私が仲間の足を引っ張るよつな発言ばかりしたから。人を殺したことも無いくせに戦いましょうなんて馬鹿なことばかり言って皆の足を止めたばっかりに…こんな、殿下が、殿下が…
「うっ、あっ…あ、ああ、あああああ!!!」
私なんて早々と死んでいればよかったんだ。この世界に飛ばされた初日にベレトさんに殺されていれば。また誰かを盾のように犠牲にして平然と息をする自分など死んでしまえばいい。剣を学び、魔法を学び、自分の身を守る術を手に入れ、仲間を守る力をつけてもなお、私はあの日から何も変わっていない事に気付かされる。大馬鹿者で、ぼーっとしてて、救いようのない人間。はやく殿下の傷を治さなきゃいけないのに…涙でぼやけた視界じゃ傷口が何処にあるのか分からない。
腕に力が上手く入らず絶えず揺れる淡い光になまえは集中しろ、集中しろ!と乱暴に流れる涙を裾で拭い地面に手を打ちつけた。落ち着けとドゥドゥーが声をかける。しかしなまえの耳には届いていないのか、一向に塞がらない傷口に苛立ちを募らせプツンっと唇を噛み切ってしまった傷だらけのなまえに傷薬のような優しい声がなまえを呼んだ。
「なまえ落ち着いて。ほら、深く息を吸って。大丈夫、大丈夫。ディミトリは私に任せて」
嗚咽を喉の奥に押し込み顔を上げると四角に折り畳まれた真っ白な手巾がポロポロと落下する大粒の涙を拭った。もう動いて大丈夫なのか?とシルヴァンに尋ねられメルセデスは震えるなまえの背中を擦りながらだいぶ良くなったみたいなの〜となまえの代わりにパックリと開いた傷口を淡い光で照らした。治りそうか?と心配そうな表情でディミトリの顔を見つめるドゥドゥーにメルセデスは分からないわぁ〜と困った顔で答える。回復魔法に長けたメルセデスでもここまで酷い傷を相手に格闘したことは一度もない。転んで裂けた皮膚をくっつけるぐらいならお手の物だが、肩から腰に至るまで肉が見えるほどの深い傷を病み上がりの体で傷一つなく治せるかと言われたら回復魔法の難しいところである。
「そうか…わかった。…大修道院に戻る。なまえとメルセデスは殿下の治療を。…シルヴァン、フェリクス…手を貸してくれ」
先導者を失った今ドゥドゥーに出来ることはディミトリに代わって皆を動かすことだけだった。メルセデスが動けるようになった代わりにディミトリが動けなくなってしまったのは痛手だが回復役が増えたことは喜ぶべきことだ。ディミトリが最後に指示したようにドゥドゥーはフェリクスとシルヴァンのどちらかを連れて大修道院に戻ることを決めた。残った者は身を隠す場所の確保と移動。応援が来るまでの間賊から気づかれぬよう息を潜めて待つのみ。ドゥドゥーは死体から使えそうなものを剥ぎ取り空っぽの小袋に詰め込んだ。だいぶ追っ手が森の中まで入ってきている。迷っている暇などない。速やかに動かなければ全滅だ。
「さぁ、なまえ。涙を拭いて。ほら、ディミトリの傷を癒さなくちゃ」
息を殺して待っているなど性に合わんと、シルヴァンの意見を聞く前にフェリクスは自分が大修道院まで戻ると名乗りを上げた。フェリクスの志願にシルヴァンはお好きにどうぞと役を譲る。フェリクスがその気なら俺はここで待っているさとあっさり決まった意見にドゥドゥーは感謝を述べ、すぐに出立しようと武器を肩に担いだ時、不安げな声を出したメルセデスはディミトリの傷を癒していた柔らかな手でなまえの背を擦った。
「…なまえ?」
大丈夫??お腹が痛いの??とディミトリのすぐ側で腹を抱えるように蹲ったなまえへ心配そうに声をかける。またなまえか…。ドゥドゥーは目頭を押さえ協調性をかき乱す少女を放って歩きだそうとした。しかしぼそぼそと死にそうな声で呟くなまえに耳を傾けるメルセデスが驚いた声を上げるものだから、進もうにも進めず、どうした?と仕方なく声を掛けてしまった。
「急に目の奥が締め付けられるように痛くて」
「…回復魔法は?」
「かけてはみたんだけど、全く効果がなくて。おかしいわねぇ〜」
頭の痛みならともかく突発的な目の痛みぐらい放っておいても治るだろう。頭部の損傷も既にメルセデスの回復魔法で治っている。食事に手をつけなかったなまえなら特に問題は無いはずだが、眼球を抉るように顔を覆った2本の白い手は血管が破裂寸前まで浮き奇妙な恐ろしさを匂わせていた。なまえはあんな悍ましい手をしていただろうか。不気味な雰囲気を纏うなまえにドゥドゥーは仲間とはいえ息を呑みいつ襲いかかられても反撃できるよう武器を握りしめ後ずさる。
「背後から棍棒で頭を殴られたんだ。そりゃあ目の一つや二つ痛くなるもんさ。とりあえず横に寝かして様子を見るしかないな」
蹲るなまえへ軽はずみに近づいたシルヴァンにメルセデスが待ったをかけた。しかし「この状態でいても良くなるものも良くならないだろ?」とシルヴァンはなまえの背面に回り膝を曲げ失礼しますよぉ〜となまえの身体を転がす為に肩へと触れる。けれどまるで煮えたぎる熱湯に手を突っ込んだかのような常軌を逸した体温にシルヴァンは目を見開き跳ぶように退いた。相手は人間だ。火傷するなんてありえないのだ。けれど…
「…いたい…すごく、いたい…めのおくが、もえてるのっ…」
苦痛から逃れようとなまえは気が狂ったように地面に額をぶつけている。その行動は痛々しく涙交じりの悲痛な唸り声が彼女の身に起こった異常を示していた。心臓は今にも破裂しそうな程に荒々しく脈をを打ち、肩で息をしていなければ意識なんてとっくに飛んでいた。ベッタリと体に張り付い襯衣の不快感。熱に浮かされた様な目眩。そして船酔いのような吐き気。繁殖期の獣と等しく、耐えるような息遣いが喉を火傷させる。ぐらぐらと揺れる視界になまえは瞼を伏せ悶え苦しんだ。顔は塗料を塗ったかのように青白く、命を削る思いで振り絞った声は痛みを訴え、助けてくださいと救いの手を求めたが彼女を見つめる者達はもがき苦しむ彼女を周りはどうしたらいいか分からず手が出せない状態である。
メルセデスもドゥドゥーもシルヴァンも悶え苦しむなまえを放ってはおけないと満足な薬もない中つい先程死体からはぎ取った傷薬を持ち寄り封を開けた。蹲るなまえへシルヴァンは傷薬を差し出すが返ってくるのは喉笛のような嗚咽ばかり。早く飲んでくれよと急かすも地面に額を擦り付けたままだ。こんな非常事態にどうしたものかとシルヴァンは赤い髪をかきあげ、ここは俺たちに任せて二人は行ってくれとドゥドゥーとフェリクスに伝えた。しかし
「ええい、泣くな!泣いても状況は変わらん。蹲る時間があるならさっさと立て!!!」
仲間が倒れて以降うじうじと仲間の足を引っ張るなまえにフェリクスの積もり積もった不満が今爆発した。額に筋を浮かべたフェリクスがうずくまるなまえへとずかずかと歩み寄るや否や唾が飛ぶほどに声を荒らげ叱責する。腕を組み冷たい視線が弱ったなまえへと突き刺さる。ぐずぐずと鼻をすする塊へ頭ごなしに叱責するフェリクスをシルヴァンはまぁまぁとなまえを庇うように宥めるのだが、あつい、いたいと呻く声がフェリクスの怒りに油を注ぎ激情は勢いを増していく。
「いい加減にしろ!」
静かな夜に響き渡った地を震わせるような怒声になまえはピクっと大きく体を震わせた。地を這うような涙声が止むと「もういい、勝手にしろ!」フェリクスは鋭い言葉を吐き捨て踵を翻した。
遠ざかっていく足音になまえは泥まみれの小犬のように頭を持ち上げる。そして宝石のような涙がまぁるい瞳から生まれ頬を伝って手の甲で弾けた瞬間、深く沈んだ意識の奥でカチリと時が止まる音を心で聴いた。
『私は』
私はこの世界の者じゃない。歩んできた人生は平坦で凡庸で平和ボケしていて、空飛ぶ馬も魔法も剣もすべてお伽噺の中の出来事で現実的ではない。学校行って、友達と遊んで両親とご飯を食べて、暖かいお風呂に入って眠りにつく小さい頃の私。暗闇の中、擦り切れそうな意識を必死に手繰り寄せ軽い命が絶望の淵から這い上がろうともがく度に、脳内で再生される走馬灯はやはり生優しく温かい記憶ばかりだ。今は懐かしいとさえ感じる記憶。両親と友だちの顔。自室から見た穏やかな風景に浸りながら再び枯れていく感覚にもうダメかもしれないと目を閉じ底知れぬ闇に身を委ねた時、遠くで私を呼ぶ声を確かに聞いた。
少々舌っ足らずな幼子の声が寝ぼけ眼を叩き起し私のものでは無い名前を呼んでいる。けれど、なんとなく、その声は私を呼んでいるのだと悟った。初めて聞く声が頭、胸、そして指先を満たし、真っ逆さまに奈落へと落ちていく体が綿毛のように宙を舞う。まるで抱き抱えられているかのように背中からゆっくりと古びた大理石の上へと落ちていく。つま先から踵へ、徐々に戻っていく体重に上手く重心を揺らして地に降り立つと怪しげに発光する遺跡のような空間に私はゴクリと息を呑んだ。記憶から作り出された走馬灯にしてはやけに作り込まれた場所だった。全く身に覚えのない空間に放り出されたというのに割れた石畳に足が着いた瞬間、心の奥底で眠る何かが蠢き出す。
薄茶色の空、体を覆う黒い紗
肌に張り付く砂塵そして…違うこれは私の記憶じゃない。
こんな記憶、私は知らない。
だって私のものじゃないもの。
私はこの世界の人間ではないし、声が呼んだ名前は私のものでもない。
私は誰にも呼ばれていない。
なのに私はここに辿り着いた。
時のよすがに導かれ
私はこの地に再び戻ってきた。
自分じゃない誰かの代わりとして。
私は、自分の意思でここに…
『おぬし、そこで何をしておる…』
カチリとまた音が聞こえた。
私じゃない私の心音が起動する音だと悟った。
頭の奥から声が聞こえた途端なまえは悪夢から目覚めたかのように顔を上げた。簾のような前髪越しで1番に目に飛び込んできたのは心配そうな顔で覗き込むシルヴァンとメルセデスで、2人の肩越しに見えた二人分の背中に今の今まで見ていた景色が消えかけた意識の中で見た一瞬の幻想であることを知る。メルセデスとシルヴァンの肩を借りなまえはよろよろと立ち上がる。一度横になった方がいいんじゃないかとシルヴァンに肩を押されるがなまえはその必要は無いとシルヴァンの手を退けた。
「…何人、動けますか」
自分の脚で体を支えた彼女は乱れた髪のまま武器を手に出立間近の背中へと問いかける。涙の消えた力強い声にドゥドゥーは振り返るがフェリクスは頑なに振り返ろうとはしない。付き合ってられん。呆れたように溜息をつきフェリクスだけは一人歩みを止めなかった。しかしいつまでたってもドゥドゥーが動かないことにフェリクスは苛立ち、煩わしそうに髪を掻きながら「死にたいのか!?」と再び声を荒げようと振り向いた直後、前髪をかきあげ露となったなまえの瞳に喉まででかかった言葉が急に勢いを失くし腹の奥へと沈んだ。
「この場を打開します。今、何人動けますか」
好戦的な発言を放つ薄暗く濁った瞳の奥に心を奪うような翡翠色が様子を伺うようにじっとこちらを見つめている。
剣を握ることさえ躊躇っていた泣き虫な少女は涙とともに死んでしまった。
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