頭の奥で響く幼女の声が遠くなるにつれて悶え苦しんだ激痛は嘘みたいに消え去り抉るような目の奥の痛みもスっと引いた。体の熱は徐々に冷めぼんやりと歪んだ世界が急に美しい輪郭と鮮やかな色で満たされる感覚はまるで世界が一変したように見るもの全てが輝いて見える。

自分の体に何が起こったか検討もつかない。だがあの鈴のような美しい声を聞いた直後、私は言葉通り生まれ変わった。体は羽のように軽く立ち上がることさえ苦を感じない。泣き腫らし緩んだ眼へ気合を入れるように眦へ力を入れると脳裏の奥で構築される無造作に枝を伸ばした巨木の大群とその中を這い回る幾つもの影が森の中央で固まる9つの影に忍び寄っていた。9の数字になまえはすぐに影の正体を見破り、それと同時に彼女は気づいてしまった。今この時を持ってこの場を支配したのは他でもない“私”だと。
不思議な感覚だ。誰がどう動き次にどんなに行動に出るのか手に取るようにわかる。盤上を眺めるかのように私はこの戦場全てを頭の中で見下ろしている。信じられるだろうか?所持した武器の種類から消耗具合まで手に取るように分かるのだ。
意識を頭の奥へと集中させる。奇襲を受けた時から分かってはいたが、やはりこの森には既に大勢の賊が入り込んでしまっている。どうやら彼らもこの森のことはあまり詳しくないらしい。数人同じ場所を何度も何度も歩き回っている。森の周囲には少人数で構成された組達がぐるぐると周囲を回っており、入り込んだ方角の真逆に物騒な武器を携えた敵が3人も待機している。道の先には強敵が、道から外れた出口でも賊が数人。どの道を選んでも森を出ても鉢合わせは免れなかったというわけか。森から出ない方がいいと訴えた裏づけのない私の勘が今報われたという訳だ。戯言など付き合ってられんと歩き出すフェリクスの腕をなまえは掴み引き止める。

「森から出ないでください。20、いや24人、森の出口で待ち構えています。それに加えて数十人の追っ手が既に森に入り込んでいます。遭遇せずに森を抜ける手はありませんし多勢に無勢、勝てるわけがありません。皆で力を合わせ戦うしか生き残る方法はないです」

初めて言いきった自身の主張にフェリクスはやはり「馬鹿馬鹿しい」と一蹴した。時は真夜中、明かりもなければ人を殺したことも無い少女の提案など勇敢に戦って悔いを残して散りましょうと自殺を促しているようなものだ。誰も賛同するわけが無い。いい加減にしろ、フェリクスはなまえの手を振り払った。だがなまえはしつこくフェリクスを引き止め腕を掴む。理由こそはよく分からないが突然手にいれたこの不思議な力を使えば私たちは十分に勝てる。私たちは誰一人として死なないし上手く行けばハンネマン先生も助けられる、皆が望む勝算ありきの戦いなんだ。
なまえは冴え渡る頭を回転させなんとしてでも彼らが首を縦に振るような策を練った。そして、静かに頭の隅で動いていた賊の怪しげな行動になまえはこれしかないとフェリクスの前に堂々と立ち塞がると「じゃあこれならどうですか」と自信満々に人差し指を立てた。

「もし私がこの戦場を全て把握し、敵が次にどこから現れどんな攻撃を仕掛けてくるか把握出来るなら…協力してくれますか」

そう言い終わるや否やなまえはフェリクスの賛同も待たずやり取りを険しい顔つきで眺めていたシルヴァンへと踵を返した。

「シルヴァン、伏せて!!」

焦りと自信が混ざったような声でシルヴァンに伏せるよう命じる。突然伏せろと言われシルヴァンは戸惑いつつも鬼気迫る表情に圧倒され恐る恐る身をかがめたが、そんなにモタモタしていたら間に合わないとなまえは地面を蹴った。命を守る行動に身分など構っていられない。ビュンッと地面を蹴りあげなまえはシルヴァンへ飛びかかる。そして赤い髪を遠慮を捨て鷲掴むと勢いを保ったまま地面へ押し付けた。ゴンッと鈍い音が夜の森に響く。額が地面と衝突し若干の怒りを含ませた呻き声にも構わずなまえは頭を押え続けた。そして間もなく二人の頭上を通過し大木へと突き刺さった一矢にメルセデスがハッと息を飲んだ。ベレトを彷彿させる命を優先した手酷い扱いにシルヴァンはろくでもない兄妹だと文句をたれゆるゆると立ち上がる。薄ら血が垂れる額を抑えながらシルヴァンはなまえを睨みつけるが、落ち着いた顔がほら、あれを見てと指を指す方向へと視線を向けた時、「っ!!!」シルヴァンは顔を真っ青に大木に刺さった矢に左胸をぎゅっと握りしめた。もしもなまえがシルヴァンの髪を掴み地面に押し付けなければあの矢が体を貫いていた。刺さった位置からして心臓かそれとも首か頭か。暗闇に紛れ静かに放たれた一矢を見事正確な場所まで的中させた。驚愕し息を飲む一同と相反しなまえは元から決まっていた事実を伝え行動したまでだと安堵も自賛もせず再度淡々と提案を繰り返す。

「力を貸してください。今の私ならこの状況を覆せます」

真っ直ぐな瞳が臆することなく目を開く4人を見つめる。希望に満ちた瞳だった。彼女についていけば絵空事も全て現実になる、不思議な魔力と魅力を秘めた翡翠色の瞳を前にドゥドゥーは迷っていた。なまえの不思議な力についてある程度信頼できる事は実際に仲間の命を持って証明された。今のような予知を何度も何度も繰り返せば零に等しい勝算も十分覆るかもしれない。主君を置いて森から離れる必要もなくなる。だが、元を正せばこの最悪な状況に導いたのは他でもないなまえだ。なまえがディミトリの提案にしつこく抗議したことで事態は最悪な方向へと大きく傾いた。思うことがない訳では無い。勝算は十分あるとなまえがいかに聞こえのいい言葉で良策を提案しようともディミトリは森から逃げろと言い残し気を失った。ならば従者のドゥドゥーが選ぶ道は主君の敷いた道のみだけ。

「…俺は殿下の指示に従う。森を抜け大修道院へ走る」
「ドゥドゥー!」

これ以上お前と話すことは無い。武器を構え森の出口へと歩き出すドゥドゥーになまえは必死になって引き止めるがドゥドゥーはなまえの行動を全てあしらい、耳を塞ぎ、その歩みが止まる気配はない。それでもなまえはしつこくドゥドゥーの道を塞ぎ両手を広げた。考え直して欲しい。私ならこの状況を好転させることが出来る。説得と自身への暗示にも取れる言葉を涙混じりに繰り返し、それでも聞く耳を持たないドゥドゥーになまえはもうこれしかないと剣を鞘から引き抜いた時「おいっ!」と苛立った声がなまえを呼びつけた。
声が聞こえた方へ振り返るとフェリクスが腕を組みなまえをじーっと値踏みするような目で見つめていた。琥珀色の切れ長の瞳は怒り散らしていた頃と比べ恐ろしく冷静で落ち着いている。

「勝算はあるんだな」

未来が変わる。その分岐点に今私は漸く立つことを許され、揺れ動く運命を決める重要な選択を迫られている。ここで選択を間違えれば悲惨な結果で幕引き。でも私の言葉と想いを真摯に伝えれば…きっとこれが皆の心を動かす最後の機会だ。
早くしろ、時間はないぞと言葉を急かすフェリクスになまえはフーっと長く息を吐いた。そして静かに顔を上げガっと力強く目を見開いた。

「私が皆を導きます」

これが、私の覚悟だ。

「絶対に、誰も死なせない」

なまえの覚悟を決めた叫びにフェリクスは小さく首を傾け信用に足る言葉であるか見定めるように翡翠色の奥で揺らめく炎を一心に見つめた。フェリクスは何も言わなかった。何も言わずにこめかみを押え怒っているように深く息を吐いた。あまり期待できそうにない反応になまえは静かに瞼を下ろす。私に出来ることはもう何も無い。やりきれない思いを抱えたまま握った剣を鞘に収め用としたその時、

「…一人でも死んだら大修道院に向かう。いいな」

その一言になまえは大きく目を開いた。あのフェリクスが荷物を置き剣を抜いている。まるで夢のような光景になまえは嬉しさのあまり力いっぱい彼を抱きしめたい衝動に駆られた。だが1秒も惜しい程ひっ迫した状況下で馬鹿なことしてる暇じゃないなとなまえ両頬を叩き正気に戻る。力を貸してくれることはありがたいのだが…本当に、あのフェリクスさんが手を貸してくれるのか。再度確認のためなまえは顔色を伺いながら尋ねると『手を貸せと言ったのはお前だろ。それとも手を貸してほしくないのか?』とフェリクスから苛立ち混じりに言い返されてしまったのでなまえは大人しく口を閉じた。これ以上野暮なことは聞かない方が身のためだ。
フェリクスが『協力する』と決めた直後、三人は信じられない!と目を見開いていた。『好戦的な姿勢は評価に値する。勝算があるなら戦う他ないだろ』とすっかり手のひらをひっくり返し戦闘準備を整えるフェリクスにシルヴァンは大木に刺さった矢を一瞥し、じゃあ俺もと槍を握った。回復役は必要でしょう?と流れるようにメルセデスも作戦に参加し、これで4人。ドゥドゥーは相変わらずディミトリの指示に従うの一点張りで、一人でも成し遂げてみせるとなまえの制止を振り払った。けれども仲間の賢明な説得と「従者として殿下を守りたいなら傍で戦う方が賢い選択とは思わないか?」とシルヴァンの巧みな人心掌握術によってドゥドゥーを上手くなまえ側へ引き込む事に成功した。これで5人。できることならもう1人欲しいところだが贅沢は言っていられないか。
集まった5人の精鋭になまえは地面に簡易的な地図を描き今置かれた状況を伝えた。そして戦況をひっくり返す策について説明を始めたその時「待ってください!」と背後から聞こえた声になまえは説明を中断し勢いよく声がする方へと頭を上げた。

「アッシュ!」
「話は全部聞いてた。僕も戦うよ」

もう弓も握れるよとアッシュは両手を解しながら地面に描いた地図を覗き込む。これで6人。これならハンネマン先生の救出も夢じゃない。予想外の増員になまえは緩む口を引き締め、説明を続けた。

「ってことは、つまり俺たちは相手に居場所を突き止められてはいないがしっかり包囲されている。それで、俺の心臓を狙った矢も俺たちの居場所を探る手段のひとつだったってことか?」
「そう。恐らくあの矢がどうなろうが奴らには関係ないんです。人に当たれば御の字。当たらなくても追っ手がすぐ傍までやってきていると私たちの恐怖心を煽り物音を立てるような行動を誘っただけ。私たちはその誘いに乗らなかった。だからまだはっきりとした居場所は掴まれていない。けれど既に3人も殺めているから居場所が掴まれるのも時間の問題ってことですね」
「それで。この戦況を見てお前はどう動くつもりだ?何か策があるんだろう?」

フェリクスの問いかけになまえはその問いかけを待ってましたと言わんばかりにニンマリと笑い固まった6つの小石を指先で動かしていく。

「以前ベレト先生と盤上遊戯で似たような追い込まれ方をしたことがあるんです。その時は私が敵と同じ動きで先生に攻め込み見事返り討ちをくらったわけですが」
「…先生に戦術を教えて貰っているんだったな」
「はい。あの時の私は今の敵と全く同じように多勢で囲むように小勢を追い詰めたのですが、駒の動ける範囲を上手く利用され1個ずつ倒されてしまったんです」
「あらあら〜流石先生ねぇ」

あれは見事な一手だった。まるで私が次にどの駒をどう動かすか全てを見透かすようにひっそりと罠を張り獲物がかかる瞬間まで劣勢を装い泳がせていた。そしてまんまと泳がされ罠にかかった。
森の大きさに対しなまえは2箇所わざと穴を開けた小さな円を描き、その円の内側に小石を置く。一方の円弧には等間隔で3つの石を配置する。そして残りの円弧には二つの石を動かし円の中心には残りの石をそっと置いた。

これでいいんですよね、ベレト先生。

『敵が少人数だからといって無闇に突っ込んだら駄目だ。小勢が大勢を食う場合だって十分に考えられる。この場合は焦らず小勢の動きを見ながら動くんだ。追い詰められているとはいえ小勢はこの状況でも逆転を狙っているものだ。この場合だと…』

「1度に大勢を潰す必要は無いんです。こちらが優位になるよう1人ずつ炙り出します。この3つの石はシルヴァンさん、フェリクスさん、ドゥドゥー。後衛の2つはアッシュと私。真ん中はメルセデスで全体の回復を頼みます」
「炙り出すって…そんな都合よく敵を吊るし出すことなど」
「できますよ。文字通り炙り出します」

自信満々になまえはフェリクスの意見に納得する答えを提示すべく人差し指を立てくるりと円を描いた。

作戦はこうです。

まず私が三日月状に雷魔法を森に放ち着火させます。火が起こり次第私達に1番近い大木を風魔法で繋ぎ炎の障壁を作ります。今日は空気が乾燥していますからよく燃えるでしょうし、風の力で炎を操る事によって森に潜む敵を一掃できます。それから炎で侵入口を絞り数人ずつ私達の方へと誘い込むのでフェリクスさん、シルヴァンさん、ドゥドゥーで叩いてください。勿論この作戦は諸刃の剣で私一人で炎を完全に制御できるわけもありませんし風を使って煙を外へと誘導はしますが負傷者には過酷な環境を強いることになります。だからできるだけ迅速に敵を倒し森から抜けなければいけません。
それと…当たり前のことですが森には弓兵が混ざっていて、火の回りが早いとはいえ殲滅しなければ誘導に支障が出ます。だから炎で周囲を囲み次第アッシュが弓兵を狙撃して。森に潜んだ弓兵は5人。二人組が東と西、単独兵が北に分かれているから素早く狙撃して弓兵を…

「待て待て待て。聞いてみればなんだ、確かに勝算のある作戦だが少々無謀すぎはしないか?それにお前の負担が多すぎる。作戦中に気絶されでもしたら最悪俺たちも火に巻かれる可能性だってありえる。そこはどうするつもりだ?」

痛いところを突かれたと言葉を噤む。フェリクスさんの言う通り私が倒れたらこの作戦は座礁する。魔法が得意なのは私とアネットとメルセデス。アネットが動けない今私の代わりはいない。それでもなまえは心配する必要は無いと首を横に振った。ここに至るまでに魔力量は通常の半分程しか残っておらず悪戯に魔法を放てるほど余裕はない。けれどこの作戦は無茶をしなければ成功しない。その無茶は決して不可能ではないのだ。

「…この作戦を提案したのは私です。何が起こっても私は皆を守ります。絶対に気絶はしません。」

たとえ体力が切れ地に伏せることになったとしても、私は絶対に皆をこの森から脱出させてみせる。

「もし万が一が起こった場合は私が逃げ道を作るので皆は急いでそこから逃げてください。…そんなことが起こらないよう努力はしますが」

絶対にできるという自信も確証もない。上手く魔力配分を考えながら魔法を放たなければ燃やすどころか逆に燃やされてしまうだろう。手を握り残る魔力と放つ魔法の回数を頭に叩き込む。雷の魔法で森を焼くよりも炎の魔法で焼いた方が火の周りも早く狙った場所へ確実に火種をまくことが出来るし魔力の消費も雷魔法と比べ半分以下で抑えられる。そんなことは百も承知。だが炎を放つということは魔法が飛んできた方角を辿り居場所を特定されてしまう危険も含んでいる。障壁が出来上がるまでは下手に危険を晒すわけにはいかないし、居場所が特定されない点で言えば雷魔法を使う他ない。だが、こんなことを言うのは不安を煽ることになってしまうが、これまで雷の魔法で火種を作るなんて狙って作ったことは1度もない。もし火がつかなかったら、無駄に魔力を消費してしまったら。できると信じていながらもやはり拭いきれない不安感に眉間に皺を寄せていると「しっかりしろ!」とフェリクスがなまえの曲がった背に喝を入れた。

「悩んでる暇はない。動けない者を中心に集めろ。なまえ、お前が指揮官だ」

任せたぞ。それはなまえに指揮官としての自覚を芽生えさせるには十分すぎる一言だった。腹から声を出し弱気だった両頬を叩く。私がしっかりしないと。彼にあそこまで期待されるような言葉をかけられて今更弱気になってなんかいられない。
ドゥドゥーの手によってイングリット、アネット、ディミトリが中央へと運ばれる。

「殿下」

ディミトリの傍に座り込みなまえは膝を立て力の抜けた手を握りしめる。

「私が貴方の分まで皆を守りますから」

殿下の分まで戦う。命が擦切れるまで剣を握り続ける。心に刻むように誓いをたて握った手をそっと元に戻す。無力だった頃と違い今の私には人並みの力もジェラルトさんやベレト先生から学んだ知識も勇気もある。なまえはメルセデスに3人を任せると顔に張り付いた髪を払い翡翠の瞳に力を込めた。

「皆、準備できた?」

気を抜けば命が飛ぶ。絶体絶命の渦中に立たされてもなおなまえはいつものように平和ボケした笑みを零し定位置までゆったりとした足取りで移動した。発狂したくなるような極限状態まで追い詰められた上に8人分の命が私の肩に乗っている。自分で言い出した事だけど、やっぱり平凡な私には荷が重すぎる役職だ。指揮官としてジェラルトさんのように隊を鼓舞するいい言葉も浮かばないし、ベレト先生のようにただそこにいるだけで頼もしさや安心感を与えることもできない。殿下のように仲間の事を深く知ってる訳でもないし、私にできることと言えば自分自身と、周囲に張りつめた心臓が止まりそうな緊張をいつものように笑って誤魔化すくらい。
分かってはいたが、やはり指揮官のヘラヘラした顔にフェリクスさんは分かりやすく苛立っていた。けれど他のみんなはお前らしいと笑ってくれた。お前らしい、その言葉がスっと耳に入るほどに私は今冷静で落ち着いている。冷静に、場を俯瞰しろ。
私なら絶対にできる。

後衛は敵の大半を炎で巻き、襲いかかってくる賊を前衛が叩く。火の手が森全体を燃やし尽くす前に敵を減らし、森から敵をあらかた一掃したら風魔法で炎を吹き飛ばし森から脱出する。丁寧に手順を復唱しながら作戦決行に最適な刻を頭の中を眺めながら動く駒に集中する。焦り始めているのか、森の外で待機していた賊が一斉に森の中へと入ってきている。好都合だ。皆焼いてしまおう。

「アッシュ、準備はいい?」
「うん…でも僕にこんな大役務まるのか…」

弓を握る手は震え暗闇でありながらも彼の顔色はあまり良くない。それもそうか、的ばかり狙ってきた矢がこれから何十年も鼓動を打ち続けてきた心臓を射抜くのだ。人の命に手をかけることに緊張しない人間なんているわけがない。例え誰よりも離れたところから的の真ん中を射抜く実力を持っているアッシュでも的が変われば外すことだって大いにありえる。それを考慮しながら別の方法を探りすぐさま行動に移すよう指示を出すのがこの作戦を仕切る私の役目。人を殺めたことが無いもの同士、その心情は痛いほどよくわかる。大丈夫、なまえは落ち着かせるようにアッシュの肩に手を置くと二ーっと口角を上げた。

「アッシュ、君なら出来るって私信じてるから。それにもし的を外しても私が魔法で始末すればいいだけだから、無理だと思ったらメルセデスの支援に回って欲しい」

私に任せてと言いつつも心の中では絶えず不安が塔のように積み重なっていく。仲間に指示を出しながら風魔法を操り、その上弓兵の潜伏する位置へ魔法で狙撃するなんて器用な真似私に出来るのだろうか。前線に支障をきたさないためにも可能であればアッシュに任せたいところだが、戦えないと訴える仲間をいつまでも戦いの場において置くのは鞘から引き抜いた小刀を放置しておくほど危険な行為に等しい。どうかアッシュが怯むことなく弓兵を狙撃してくれますように。今私に出来ることは祈ることぐらいだ。

「いくよっ!!」

威勢のいい掛け声に皆が声を張り上げた。
…集中。
ふーっと息を吐きながらちょうど敵が後方範囲に周り出した時を見計らって右手を前に突き出す。最低限の力で最大火力を引き出すように。微弱な電流が指先を這うように駆け巡り、指先でバチバチと小さく弾ける。炎魔法とは違い雷魔法は繊細さを求められる。大雑把な私にとっては会得した魔法の中でも一二を争うほど苦手な魔法だった。しかしこの状況で弱音を吐いている余裕などない。できるか、できないかだ。もしも狙っていた場所に落ちなかったとしても…森一体が炎上すれば成功なんだから。
青白い光が爪先に溜まり、硝子を伝う水のように細い脈を道に見立て指の腹を滑り掌で渦をかく。次の宿木を探すように魔力を消化しながら光は掌で鼠のように駆け回る。いきり立つ感覚を馴染ませるように五本の指で丹念に揉み込みながらなまえは空を見上げる。金剛石を撒き散らした夜空に灰がかった雲が流れ、輝く星を吸い込みながら豪雨を匂わせる黒が森の頭上を覆い尽くす。怪しげな風に翼を与えられた生き物は皆空へと飛び去り獣のような森の声に敵は明らかに動揺していた。あともう少し。溢れ出す光を器用に掌の上で転がしながらなまえは空を見つめ、狙いを定めた大木が射程範囲に入り込んだ瞬間、今だ!なまえは右足を踏み出すと手掌を走る光を標的物に向け押し出した。
黒雲から放たれた青白い雷撃は見事なまえの狙い通りの大木に命中し、突き出した掌の上で細切りに刻んた魔力を練り直しながらなまえは稲妻が走った方向を心臓が押しつぶされそうな思いで眺めていた。
燃えろ。燃えろ。燃えろ。
瞬きも忘れるほどに祈るなまえをアッシュは大丈夫だと肩を叩く。きっとうまくいくよ。その言葉どおり、「あっ」とアッシュが指を指した方向へとなまえは目を向ける。撃ち落とした方向、そこから薄らと空へ昇っていく灰色になまえは飛び上がるような喜びに沸き立ち拳を握りかけた。しかしまだ両手を上げて飛び上がる場面じゃないと再度魔力を練りながら立て続けに落雷の雨を降らせた。落雷を浴びた大木の細枝を火種は次々と捕食し、乾いた空気を吸い込みながら隣の木へと飛び移る。骨をしゃぶり肉を貪り、灰になれば次の肉へ。点々と移動範囲を広げながら鬱蒼とした森を飲み込んでいく炎になまえはこれ以上の火種は必要ないだろうと焦げ臭い手を振り指を解す。
轟々と燃える森を翡翠の瞳が見下ろす。ここからが正念場だ。重圧に押され額に浮かぶ汗を袖で拭うと燃え盛る森の中を忙しなく動き回る駒を読みながらなまえは前衛に向け声を張り上げた。

「皆構えて!敵3体前方から来ます!!アッシュ、君も構えて」
「…うっ、うん。分かった!」

他人の声音など気にする余裕がなかった。アッシュの返事が耳に届くと同時になまえは詠唱を始める。標的は最右端、最左端で燃える2本の大木。その間を繋ぐ円弧を頭の中で描いた線をなぞるように風の塊を飛ばし素早く腕を動かして真横に線を引く。
一般的に放った魔法を威力を維持しながら意のままに操ることは魔導師にとっては至難の業で、いくら優れた才能を持つ者でさえ匙を投げるような芸当である。勿論凡人を体現したなまえにそんな高等な技できるわけ無いが…ある一定の複雑な条件が揃っていれば不可能と言えなくもない。例えば偶然にも風の吹かない乾燥した空間で、燃え盛るAの木からBの木まで風を操ろうと考える。AからBの木の間に無数の木々が存在し炎を伝わらせるに十分な材料が揃っている場合なら、たとえ風の威力が落ちたとしても炎は木々を喰らいながら到達点の木を燃やすことなど容易い。
最右端の大木を風が巻き最左端へと流し風の通り道を引く。衰え知らずの火力猛獣へ餌をチラつかせるように腕の動きに合わせ風を流し最左端へ誘導する。飛び散った火の粉が大地で弾け緑を食い尽くす勢いでゴォゴォと燃え盛っている。思い描いた炎の障壁の完成になまえはほんの一瞬だけ全身の力を抜き、そして直ぐに頬を叩き気を引き締めなおすと森の中心を睨みつける炎の津波を前になまえは両手を大きく広げ前に突きだす。幸いなことに弓兵にはまだ居場所を特定されてはいない。今のうちに少しでも敵の行動範囲を狭め炎に閉じ込める。威力を上げることは難しいが、威力を下げることなら簡単だ。
薄く広く均等に、最低限の魔力を練り殺傷力を捨てた風魔法を放ち煙ごと森の外へと追いやっていく。少しでも力めば予想以上に魔力を持っていかれるし、左右の偏りが円を乱し最悪制御不能に陥り炎に巻かれる恐れだってある。全神経を研ぎ澄まし均等に風を送り続けることだけに専念できればそう難しくはない役目だろうが、炎とは無関係の反対側からやってくる人影があるものだから集中力は嫌でもかき乱される。

「フェリクスさんからみて十時の方向に敵が3体。フェリクスさん斧、シルヴァンさん剣、ドゥドゥーは槍をお願いします!アッシュ、弓兵が一人こっちに来てる。居場所は特定されてないみたい。勘づかれる前に狙撃するよ」

絶えず風魔法を放ちながら瞼を閉じ覚束無い足取りで炎の森を惑う弓兵の動向を観察する。襲いかかる炎の脅威に身を焼かれぬよう少し距離をとりながらこちらに向かって矢を番えてる。この距離に矢先の狂った方向、私たちが脅える相手ではない。ちょうどいい。今撃っておいた方が後が楽だ。魔法の威力を弱めながらゆっくりと足を動かし矢筈を弓の弦に引っ掛けたアッシュの隣へ移動する。射程距離を伝え、飛ばす方向と矢尻の角度を細かく言葉で調整し狙撃準備を整えていく。

「私が合図を出したら矢を射って」

視た映像がそのままの現実となった。ヒュんっと飛んできた矢が的はずれな場所に刺さり調整した角度へ無防備な心臓が飛び込んできた。狙うなら今だ。

「射て!!」

きっと当たる。アッシュの弓の腕は青獅子1だから。絶対に当たる。そう信じてなまえは鳥のように真っ直ぐ正確に飛び立つ矢を待った。しかし待っても待っても放たれるはずの矢は炎の障壁を突き抜けず、倒れるはずだった駒が矢先の焦点から外れてしまったことになまえは恐る恐るアッシュへ顔を向けた。

「…アッシュ?」

名を呼んだ彼の手には弦に番われた矢が1本強く握られており、叱られた子どものように眉尻を下げたその表情は申し訳なさに溢れている。

「ごめんなまえ。戦うって言ったのに、やっぱり僕に人を殺す覚悟なんて…」

次第にか細くなる声には彼の率直な気持ちが乗っていた。いじいじと箆を指先で撫でるアッシュをなまえは空いたままの口を結び、優しい顔で一言、大丈夫だよと笑った。無理強いなんて酷いことは考えなかった。気乗りしないことを命じアッシュを悩ませるようなことはさせたくないのだ。

「ドゥドゥーからみて2時の方向に伏兵5人!メルセデス魔法で援護して!!…わかった。私がなんとかするよ。大丈夫!だからアッシュは負傷者の救護を「おいおい、アッシュ君。なーに情けないこと言ってるんだ?女の子一人に後衛をを任せるなんて、お前の目指す騎士はそんな腰抜けだったのか?」えっ、ちょっと、シルヴァンさん!?…何故ここに!?前衛は!!!??」

たった今指示を出したばかりでしょ!?と前線で槍を振るっているはずのシルヴァンが呑気にやってくるものだからなまえは大きく狼狽し前線は大丈夫なのかと顔を青くする。しかしなまえの心配など大したことじゃないと、シルヴァンは大丈夫大丈夫とヒラヒラと手を振った。

「アイツらに任せてきたから大丈夫だろ。それに後衛がもたついてちゃ、俺達も集中して闘えないってはなし」

一瞬だけチラっとシルヴァンさんの背後を覗いた。すると確かに彼の言う通り、メルセデスを加えた3人が敵4人を相手に上手く立ち回っており一人抜けているにもか関わらずその表情に焦りはない。な?言った通りだろ??仲間の力量を知り、信じているからこそできる行動になまえは曖昧に頷く。
前線が安定していることは一旦置いといて、前衛から抜けてシルヴァンさんは一体何をしに下がってきたのだろうか。彼が指摘した通り後衛がもたついているのは事実だ。だが唯一の狙撃手アッシュが射てないと尻込みしている今、動ける仲間のうち遠距離攻撃が可能なのは私だけでシルヴァンさんの出る幕はここにはないのだが。

「ここは私が何とかするのでシルヴァンさんは戻ってください」
「おっ、頼もしいねぇ。でもなまえにはもう仕事が2つもあるだろ?これ以上増やして倒れられちゃせっかくの作戦も水の泡。って事で、アンタはとにかく自分の仕事に集中すること。こっちは俺に任せてくれ」

任せるも何も、一体シルヴァンさんは何を任されに来たのか。首を傾げながらも言われた通り自身の役目に集中していると、シルヴァンさんは「騎士を目指しているんじゃなかったのか?」と弱々しい表情を浮かべるアッシュに問いかけた。

「そっ、そんなこと言われたって…」

理想と現実が葛藤しているのだろう。煮え切らない返答にシルヴァンは小さく息を吐き「まっ、いきなり覚悟決めて命奪ってこいなんざ正気じゃねぇよな」と頭の上で手を組みながら高く燃え盛る炎の壁に口笛を吹いた。
シルヴァンさん、もしかしてアッシュに対してちょっと怒ってる?口調は非常に穏やかだ。けれど真横に経つ榛色は笑っていないのだ。あの時と一緒。何かに対して怒り憎しみを燃やしてる。

「でもな、仲間の命が掛かってるって時に腹括って動かなければ男が廃るってもんだろ?」

静かでいつ破裂するかもわからない爆弾のような怒りを上等な布で包みシルヴァンさんは何食わぬ顔でアッシュに投げ渡した。そしてその引き換えにアッシュから握りしめていた弓と矢を奪った。なんて遠回りな生き方を選ぶ人なんだろう。こんな時まで本心を隠したまま他人の成長を促す優しすぎる彼をなまえは静かに見守った。アッシュの真横を横切ったシルヴァンは姿勢を正し矢を番える。

「弓術は不得意分野だと言ってませんでしたっけ?」
「不得意だとしても出来ないとはいってないだろ?」

なるほど。なまえは一つ頷くと逃がした弓兵の足跡を辿り次に足を止める地点を割り出しシルヴァンに伝えた。やはり不得意というだけあってなかなか矢先が定まらずアッシュよりも根気強く修正をかける。すると彼はこの短時間でコツをつかんだのか、ニヤリと余裕気に唇を舐め大きく弓をしならせた。
これならいけるかもしれない。魔法を放ちながら今度こそ矢先が心臓を貫く刻を今か今かと息を潜め、狙いが動きを止めた瞬間、

「放て!!」

力強い掛け声とともに待ち望んでいた風を切る音が真横を通り過ぎた。耳にかけた薄暗い髪が視界の端でふわりと舞い上がり、肩に垂れたその数秒後に頭の駒がまたひとつ減った。見たかと自慢げに片目をつぶったシルヴァンになまえは力が入り続けていた眉から漸く力を抜いた。暗い現実がまた少しだけ明るい未来へと傾いていく。

「残る弓兵もさっさと片付けちまおうぜ!」

頼もしい顔になまえは大きく頷き次の狙撃方向へと指示を出す。しかしシルヴァンが新たに矢を掴んだ直後彼の肩を掴んだ華奢な手になまえは目を丸くした。どうしたのだろう。俯いたままアッシュはシルヴァンを引き留める。目を合わせ辛いのだろう。アッシュはじっと下を向いたままシルヴァンが握る獲物に向かって両手を突き出す。

「…代わってください。あとは僕の役目です」

頼りない顔つきにシルヴァンは片眉を上げる。勇気ある選択をしたアッシュに武器を渡す価値はあるのかその心意気を見定めるように銀鼠を見下ろしている。

「…無理してないか?」
「……実を言うと、少しだけ。でも大事な局面で動けない奴に騎士を目指す資格なんてありませんから」

顔を上げた直後真っ直ぐな視線がシルヴァンを貫いた。僕がやる。その睨みつけるような鋭い眼光にシルヴァンはやれやれと、ようやく腰を上げたアッシュの背を叩き弓と矢を押し付けた。「任せたからな」その言葉にアッシュは無言で頷く。「もう逃げません」決意を胸にはっかりといいきったアッシュにシルヴァンはそれ以上何も言わなかった。背後から飛んでくる怒声にシルヴァンはやれやれと肩を竦め、すぐ戻りますよーと気の抜けた返事を返す。シルヴァンがこの場にいてくれて助かった。人が変わったように武器を握りしめるアッシュの覚悟を決めた凛々しい横顔になまえは薄く笑った。

炎が3分1程度の面積を食い尽くす頃、森に入り込んだ賊の半数はなまえの策に嵌り地面に転がっていた。
戦況は目まぐるしく変わっていく。どこから狙い落とすべきかなまえは正確に駒の数を数え、4人の弓兵に印をつける。

「アッシュ、射るよ」
「…はいっ!」

まだ表情は緊張に支配され強ばっている。だがシルヴァンの不器用な激励を受け覚悟を決めたアッシュはどこか頼もしく見えた。潜伏する敵方向へなまえが情報を渡し、細かな修正を受けながら遠く離れた敵めがけてアッシュは片目をつぶり矢先を定めていく。迷いがあった頃と比べ素早く無駄のない構えになまえは負けていられないと口元を引き締めた。放て!掛け声と共にふっと息を吐きながら放たれた一矢、まるで彼の性格を表すように真っ直ぐ炎の壁を貫きそのまま吸い込まれるように狙いを射抜く。弓術の授業に何度か目にしたアッシュの曲射は美しい軌道を描きながら的を射抜いた。さすが青獅子一の射手、アッシュならきっとできると信じていた。なまえはほぉっと小さく息を吐き、敵の駒が消えた事を確認するとひと仕事終えたアッシュに声をかけようとした。しかし顔を合わせるとなんて声をかけたらいいかわからなくて、大丈夫?でも流石だね!も気持ちの整理がまだ十分ではないアッシュにとってはどれも的はずれで今の彼には重すぎる。
こういう時なんて声をかけたらいいんだろう。気まずそうに視線をさまよわせているなまえにアッシュはギュッと矢の感触を忘れないよう三指を擦り合わせている。

「…これが戦いなんですね」

重々しい顔でアッシュがポツリと呟く。
戦い。そう、これが戦いなんだ。躊躇ったら首を掻っ切られ後悔した者から死んでいく。初めて奪った命の重みに八の字に眉を曲げるアッシュに私はふと突き出した片手を曲げ掌を見た。炎に当たっていたからあまり気に留めなかったが、たくさんの人の血がこびり付いた掌は元の色には戻れないほど赤く汚れていた。

もう誰も後戻りはできないってことか。

次に行こう。なまえは再び両手を前に突き出しアッシュに矢を番えるよう指示を下した。非情だと批判されるかもしれないが、皆が生き残る為には優しさを切って捨てなければならない時だってあるはずだ。炎々と森を焼く業火に逃げ遅れた鳥たちが煙が立ち上る空へと飛び、煙に巻かれ逃げ遅れた鳥の悲痛な鳴き声と共にまた1つ頭の駒が消失した。
弓兵を殲滅し終えるとなまえはアッシュに休むよう勧めた。しかし彼は首を振りメルセデスと入れ替わるように前衛に向かった。まるで迷いを後ろ向きな感情に包んで捨てたかのようにドゥドゥーの横に並ぶ彼は矢を番い放ち、また番いと、どこか自暴自棄を思わせる戦いぶりになまえは自分のせいだと胸を傷めた。だが謝っている暇などない。弓兵の殲滅に何度も気を取られている間静かに炎の波はじわじ わと私達すらも飲み込もうと距離を詰めている。
それは壁を押すような感覚だった。次第に増していく負荷になまえは歯を食いしばり体を前へと傾ける。時間としては数十分程度の攻防としても術者にとっては既に何時間も経過したような錯覚に体が悲鳴をあげていた。あと何分この体勢を保てばいい。額から落ちる汗が地面を濡らし、魔法を放った際の小さな反動に足が震えて魔力を消費する度に自然と息が上がっていく。作戦が始まってからというもの休む間もなく魔力を消費し続けた体はとっくに常人の限界を超えていた。こうして自分の足で立ち続け風を送り続けていられるのはもはやなまえの意地と責任感が成した奇跡である。
休みたい、眠りたい、お腹がすいた、喉が渇いた、手元を狂わせる欲を振り払うようになまえは強く舌を噛み意識を保つ。しっかりしろ。私が皆を守るんだ。私がここで倒れる訳にはいかない。頑張れ頑張れと弱気な心を強く鼓舞し、前衛に指示を出し続ける。まだ私は限界じゃない。皆よりもまだ体力が残っている。挫けそうな体に鞭を打ち、一人でも早く死んでくれと身動きが取れない駒を炎で包んだ時、メルセデスの間延びした声がなまえに朗報を告げた。

「迷惑をかけましたね。眠っていた分の遅れは直ぐに取り戻します」

イングリットの目覚めになまえは歓喜し今すぐにでも抱きしめておかえりと言いたかった。けれどもう振り向く余裕も残っておらず、イ腹に力を入れイングリットへ前衛へ向かうよう指示を出そうとしたが、

「あっ…!」

前触れもなく突然カクンッと膝を着いた片足になまえは思考を停止させ、手のひらに込めた魔法を不発させてしまった。
何をしているんだ、しっかりしろ。しっかりしろ私。力が入らない片足を半狂乱で叩くなまえをイングリットは慌てて肩を貸しなまえが望むように立たせてやった。もう自分の力じゃ立てないと分かっていながらなまえは休むことなく魔力を消費し続ける。まるで死ぬ覚悟を決めて戦っているみたいだとイングリットはなまえの勇ましさを上回る無鉄砲さにムッと口を窄める。

「なまえ、少し休みなさい。そんな身体で戦場に立つなんて命知らずにもほどがあるわよ」
「…だいじょうぶ、…風魔法が使えるのは、私だけだから。今はまだ休めないよ」

もう大丈夫だから前衛に行ってとなまえはイングリットの体を押した。なまえの言葉にイングリットは「分かったわ」と目を伏せた。そして肩に回した腕を掴み、もう片方の手をなまえの制服を握りしめ体を支えた。

「前衛は彼らに任せても問題ないわ。だから私がやるべきことは貴女が貴方の役目を全うできるよう支える」

前だけ集中していなさい。
頼もしい二本の腕に支えられ身体のふらつきが止まる。掠れた声が告げる指示を伝達する凛とした声になまえは零れた涙を拭い両頬を叩くと目の前の壁を前に感覚を研ぎ澄ませた。

「なまえ!!」
「はぁ…はぁ…っ…やぁーっ!!」

もう少し。あともう少しなんだ。
森に潜んだ賊の大半は炎に呑まれこちらに向かってくる賊の人数も減った。炎に恐れをなし森から退却を始めた賊も数人いたが、煙に肺をやられ当分はまともに動けないであろう。魔道に精通した賊相手にはやはり炎など脅威とはならず、勇ましくもこちらに向かって何人か向かってきている。だがたとえ辿り着いたとしても手練た前衛部隊により物資を剥ぎ取られ死体の山に積み上げられるだけだ。
敵の人数が減った。そろそろ頃合かもしれない。私の意識が続くうちに逃げ道を作り森から脱出したいところだが、負傷者2人を抱え安全に森から脱出するにはやってくる敵を始末する必要がある。確実に皆が生き残って森を脱出するために、あともう少しだけ私が頑張らなくちゃいけない。それなのに…最初は突風だった風も今は微風まで威力が落ち、育てすぎてしまった炎の壁はやっとの思いで放つ風魔法を容易く吸収しもっとくれと内側へ攻め込み始めている。
どうする。このまま魔法を放ち続けても道を確保するより先に炎に巻かれるほうが早いだろう。空気の乾燥を利用した作戦がまさかこんな形で裏目に出るとは想定外だった。どうしたらいい。私はどうしたらいい。すぐ隣でイングリットは私の体を支えてくれているというのに、彼女の声が随分と遠くから聞こえる。体が上手く動かない。指の感覚が死んでる。魔力がうまく練れない。己の無能さに涙が溢れ、悲観している間にも炎は私たちと距離を詰めじわじわと迫ってきている。

やっぱり、私には無理だったのかな…

イングリットが体を強く揺らし炎を指さしながら焦った声で何かを訴えている。ごめん、ごめんなさいイングリット。もう私の体に残った魔力じゃこの炎を押し戻すほどの力はないの。ごめんなさい。すみませんでした。もう無理なんですと己の無力さに打ちひしがれどうにもならなくなった状況に自ら心を折りかけたその時、

「諦めるな!!!」

諦めに満ちた頭を強烈な殴打で立ち直らせ激を入れた過激な一撃に遠く聞こえていたイングリットの悲鳴がすぐ耳元で聞こえた。頭を押え立ち上がる私の前には怖い顔をしたフェリクスが私の胸ぐらを掴み上げた。

「何を悠長に座り込んでいる!!!お前が俺たちを導くと言ったんだろ!?なら最後まで責務を全うしろ!!!」
「…っ!!はいっ!!!」

不思議だ。フェリクスからの容赦ない一撃をくらい間違いなく私は不必要な負傷をした。けれどあれほど自由がきかなかった体は嘘のように軽くイングリットの支えなしで私は私の力で立ち上がることができる。勿論殴打した箇所は死ぬほど痛かった。しかしその痛みが煩悩を全て叩き潰し、嘘みたいに頭の中がすっきりしていた。寿命が縮んでいくのを感じる。だが、未来へ続く命を消費してでも私は意地を張ってこの場を凌がなければならない。あのフェリクスに喝を入れられたんだ。死ぬ気で責務を果たさなければならない。皆を死なせない為に力を貸してほしいとしつこく嘆願したのは他でもない私なんだから。
自らを奮い立たせ掌に心臓を絞り上げ工面した魔力を集めるなまえの顔はまるで死に際の兵士のようだった。風に吹かれた途端砂のように消えていきそうな、けれども自らの存在を知らしめるように燃え盛る灯火は歯を食いしばりその場に立ち続けることを望む。
あともう少しだけ立っていよう、もうちょっとだけ無理をしてみよう。あと少し、もう少し。延命治療のようにあと少しともう少しを繰り返し、命を削りながら放つ風の威力は1歩詰めらた距離を2歩退かせる凄まじい突風を放つ。額から流れる大量の汗に肌を濡らし、背を丸め膝に手を付き情けなく喘ぐなまえをイングリットは『もうここまでにしましょう』と今にも倒れそうな体を無理にも抱き上げて休ませてあげたかった。しかし口元を甲で拭い、眼前に迫る炎の波に命を削り魔力を捻出しようと試みる虫の息にも等しい級友の姿に止め時を見失っていた時

「なまえ。あとはあたしに任せてよ」

杏色の少女の登場により場は再び好転する。

「…あねっと?」

肩を叩かれて振り向いた先には眠っていたはずのアネットが立っている。彼女は人一倍毒を口にしていたはず。もう動いて大丈夫なのかと尋ねると彼女は元気よく拳を握り、この通り全回復だよ!と跳ねた。よかった、本当に。元気そうで、良かった…

「メーチェから全部聞いたよ。風魔法ならあたしも使えるから。ここはあたしに任せてなまえはメーチェの所に」
「でも…わたし」
「いいから休んでて!!なまえは私たちの指揮官なんだから。それに逃げる時そんな体力じゃ走ることすら出来ないよ」

そう言ってアネットはイングリットに私を中央へ運ぶよう頼むと私の魔法とは比べ物にならない安定感と威力の風で迫る炎を煙ごと外へ流した。もし私がアネットのように魔法を操ることが出来たらもっと簡単に戦況を運べていたのだろうか。ここに至ってもなお己の不甲斐なさと頼りなさに嫌悪と理想に頭を悩ませるなまえだったが、頬に添えられたヒヤッとした感触になまえは小さな悲鳴をあげ縮み上がった。

「疲れたでしょう?魔力は回復しないけど少し飲むだけでもきっと元気になるわ〜」

食料も水も全て奪ったもの。けれどこの状況で倫理観を守っていては生き残れない。メルセデスから差し出された傷薬をなまえは一気に飲み干し携帯食料を胃に詰め水で乾いた喉を潤す。後衛ではアネットが動き、前衛ではイングリットも加わった手練の5人が現れる敵を切っては使える所持品を奪い手際よく回復を済ませる。目を瞑り森を見渡せば動き回る駒は一体だけ。待ち望んでいた時が今やっと。

「皆逃げる準備をして!!!ドゥドゥーは下がって殿下を運ぶ準備を。アッシュ、フェリクス、傷薬と武器の運搬をお願い。シルヴァンは前方から来る敵一体を仕留めて。イングリットとアネットはそのまま」

持てるだけの物は持っていく。最後の戦場に挑む上で傷薬と質のいい武器は戦力の底上げに繋がる。なまえの指揮の元、脱出の準備はついに完了した。

「アネット、威力下げて!」
「はいっ!」
「イングリット右前方から敵が一体!!その人で最後」
「分かったわ!!」

背中を気遣いながらドゥドゥーはディミトリを担ぎ、イングリットの勇ましい突きが敵を仕留めた。

「逃げるよ!!」

この時を待っていた。ドゥドゥーを先頭に炎が回っていない道を8人が息を上げて駆けていく。最後尾を走るなまえは万が一のことに剣を握り備え風を送り続けるアネットの後ろを走る。制服に刺さる枝や絡んだ葉っぱなど今はもうどうでもいい。疲れきった体を拳で叩き、迫り来る炎に死に物狂いで足を動かし、森と外の境界線で躓き体を転がしたなまえは数十分ぶりの新鮮な空気と明るい夜空にじんっと目の奥を湿らせた。

生きてる、生きて森から出られたんだ…

「…夢、じゃない、よね?」
「阿呆か」

草むらの上で涙ぐみながら仰向けに転がったなまえに辛辣な言葉が降り掛かる。足を曲げ見下ろしてくるフェリクスはまだまだ元気そうというよりもなんだか血に飢えた狼のような目をしていた。起きろと手を差し伸べられなまえは素直にその手を掴み体を起こす。皆生き残った。フェリクスの後ろに立つ仲間の笑顔になまえは肩の力を抜き、生きてる喜びにホッと口元を緩めた。

「それで、これから先はどうするつもりなんだ?お前の計画通り森から出られたわけだが。このまま大修道院に帰る気なんて微塵も考えてないんだろ?」

まるで挑発するかのようなフェリクスの問いかけになまえは苦笑いを零した。納めた剣の柄に手をかけ村があった方向を睨みつける。戦場の全てを把握し2手3手ならば先読みができるこの不思議な力を使えばハンネマン先生を救う事さえ机上の空論では無い。現に不可能を可能にする力であることを森の中で証明した。今助けずして何時助けるのか。今更セイロス教団の応援を待ったところで夜が明けてしまうし、早くハンネマン先生を助けないとあの傷じゃセイロス教団が駆けつける頃には出血多量で死んでしまうかもしれない。

私は…

「私はハンネマン先生を救いに行く。森を派手に焼いたから、遅かれ早かれこのことは残りの賊にも伝わる事だし、一刻も早くハンネマン先生を助けて傷を治さないと命に関わる。手伝える人は一緒に来て欲しい。もちろんこれは強制じゃないから体力が限界な人やこれ以上の戦闘を望まない人は大修道院へ戻って欲しい」

皆疲れが顔に出ているし、これ以上不必要に戦わずとも大修道院までなら無事に歩いて帰れる。だが、

「私は同行するわ。そもそもこの中で誰よりも体力と魔力を消費してボロボロな状態の貴女を一人で賊の巣窟に向かわせるなんて私達がさせるわけないでしょう?背中を預け合う仲間なんだから、もっと遠慮せず頼りなさい」
「そうそう。イングリットの言う通りだぜ。ここまで来たら逃げるも戦うも変わらないって。それになまえの的確な指揮のおかげで俺たちはこうして無事森から出られたんだ。アンタの采配があればハンネマン先生救出だって夢じゃないんだろ?」

それはそうだけど

「アッシュも一緒に来てくれるの?どうして?私は君に人として最低なことを強要して…」

無理することは無いと伝えるもアッシュはそれは違うよと首を横に振った。

「なまえ、僕は僕の大切なものを守るために射った。ただそれだけなんだ。だからなまえが気に病むことなんて一つもないんだよ。確かに人を殺すことには大きな勇気と責任がいる。でもこの手で大切な仲間の命を守ることができるなら、僕は正義のために戦うよ」
「あたしもハンネマン先生の為にこの力を使いたい。メーチェの分まで皆を手伝いたいの!」

メーチェとアネットが名前を出した時、彼女の後ろで悲しげに眉を下げたメルセデスが「ごめんなさい、魔力がきれちゃったの」と手を組んだ。魔力切れ、あれだけ魔力を使って怪我を治してくれたんだ。魔力切れなんて当然だ。申し訳なさそうに告白したメルセデスになまえは謝る必要は無いとこれまでの協力に感謝を述べた。それからドゥドゥーも怪我を負った殿下を連れては闘えないと大修道院に戻ると言った。彼らしい答えになまえは大きく頷くと殿下をよろしくお願いしますと深々と頭を下げた。

一足先に大修道院へと戻っていく背中をなまえ達はまた後で!と手を振り、気持ちを切り替え村へ乗り込むために入念の準備を整えた。森から村までだいぶ場所が離れているため何人の賊が待ち構えているかはまったく検討もつかない。だが何人待ち受けていようとも私は常に勝利だけを描かなければならない。皆で大修道院に戻る。大きな野望を叶えるために。