この節のゴーティエ領に比べたらまだ暖かいほうだ。真っ白な息を吐きながら冷気に構わず武器を振るうファーガス生まれの常識になまえは耳を疑った。凍傷の危険も顧みず鎧を纏うなんて信じられない。まつ毛も凍る寒さというの に。借りた厚手の外套に包まり吐いても吐いても寒さでかじかむ指を擦り合わせ声を張る。この季節で吹雪いていないだけフラルダリウス領はまだ雪国初心者でも暮らしやすい土地なんだとファーガス出身に説明されても私は絶対に頷きたくない。暦の上ではまだ秋だというのに水溜まりも凍る気温に心臓も凍りつきそうだ。天気もどんよりしているし、着膨れして動きづらいし、欠伸ひとつで目の周りが白く凍りつくなんて信じられない。もう2度とファーガス南部以外の仕事は引き受けない。終始寒さに奥歯を鳴らしなまえは血色の悪い唇を必死に動かして移動に特化したイングリット、シルヴァンに村人の退路を確保するよう言い渡した。そして無事山賊から救出した村人達の治療を終えるとほぼ飾りに成り下がっていた剣を鞘に収め、今回も無事誰も失わずに済んだとホッと肩の力を抜いた。
「行くぞ」
「え、どこに?」
これが事の発端となった会話の始まりである。山賊退治の為にフラルダリウス領へ行くぞとフェリクスから半ば強制的に動向を求められ話をもちかけられた次の日にはフラルダリウス領へ出立していた。フェリクスからはちょっとした山賊退治だと聞かされており、私同様集められた青獅子の皆もそう説明を受けたそうだ。しかし現地につき事の全貌を彼の父親によってこと細く説明を受けた事により私達は額を押えそれぞれが思い思いに呆れたと脱力した。どこがちょっとした山賊退治だ。内容を聞いただけでも節終わりの課題出撃に匹敵する難易度ではないか。今度からフェリクスに頼まれ事を持ちかけられた時は具体的な数字を聞いてから冬物の外套に袖を通そう。そう私は深く胸に刻んだ。
フラルダリウス領のとある村落にて。詳しい事情は伏せられたまま山賊退治へと駆り出された青獅子の学級は武器を取り襲いかかる山賊へと勇敢に立ち回った。親父殿と合流するまでお前が隊の指揮を取れ。そうフェリクスから名指しを受けたなまえは閑静な村を俯瞰し、跋扈する山賊の位置と人数を把握しながら板に着いた腕捌きで隊の舵を取り進軍を促す。増援に細心の注意を払ながらも合図ひとつで最低一人が仲間の救援に駆けつけられる距離感を意識する。戦い慣れない場所ではいつ死角から不意を突かれるか分からない。用心しておくに越したことはないだろう。
仲間が1人ずつ闇討ちされている状況下でありながら相手には目立った動きもなく周囲からは武器が打ち合う音も救援の狼煙も確認できていない。まだこちらの存在を認識していないのだろうか。見張り役は居眠りでもしているのだろうか?この調子なら日が暮れる前に山賊退治を終え少し村を回るくらいの余裕はありそうだが…この荒れた村では呑気に観光気分に浸ることはできそうにないだろう。
フェリクスからの情報によるとこの村を山賊が占拠してから既に1日半は経過しているそうだ。玄関扉が破壊された家屋が数件、収穫直後に潰された農作物や荷馬車の部品が道のあちこちに転がっている。幸いにも現時点では遺体や流血などは確認できていない。が、人の生活が止まった村特有の腐った香りになまえは堪らず鼻を摘んだ。これは…酷いな。
誰かが落とした獅子の人形を道端に横たわらせ、近くに待機させていたアッシュを呼ぶ。まだこちらとの距離はかなり離れてはいるが撃てるものは撃っておいた方がいいだろう。なまえはアッシュに狙撃を頼むと狙った山賊の駒の位置をアッシュに伝えようとするが、おかしな事に狙ったはずの山賊の駒が少し目を離した隙に盤上から消えていた。見間違い?いや、そんなはずは。消えた駒の謎を追ってなまえは戦場の隅々を目をさらにして見つめた。そして消えた駒の謎に直結しているであろう盤面の中央で猛獣のごとく暴れている騎馬兵に唖然とした。言葉を交わした際の雰囲気的には顎を撫でながら愉しげに卓上を眺める軍師のような方かと思っていたから…まさか馬を乗り回し単騎で山賊の巣窟へ突撃しそうな好戦的な方だったなんて。流石はフラルダリウス。この親にしてこの子ありってところか。
「おお、来てくれましたか!助力感謝致します」
颯爽と馬から降り、来てくれると思っていたと安心した表情を浮かべ胸に手を添えたロドリグさんは騎士の儀礼に則って殿下とその一同に向かい恭しく頭を下げた。丁寧な話し言葉、貴族を鼻にかけず誰に対しても誠実で紳士的な態度。相変わらず渋くて憧れるかっこいい大人だなぁとメルセデスとドゥドゥーの間からつま先立ちでひょっこりと顔を出していると不意にロドリグさんと視線が交わり「貴殿も元気そうでなによりです」と小さく手を振られた。ロドリグさんに声をかけられ私は直ぐに手を振り返した、が一人だけ手を振られたことに内心恥ずかしさでこの場から走って逃げてしまいたかった。ロドリグさんのこの反応。貴殿と呼ばれはしたが恐らく顔だけでなく名前も覚えられているに違いない。誰しも憧れを抱いた大人にはいい子として映りたいと願うもの。大修道院を爆走し豪快に転んだ上、息子との鍛錬の約束を派手にすっぽかして世間話に興じた不遜な子として覚えられていないか不安だ。
ロドリグさんの指示を仰ぎにやってきた兵士を眺めながら今はどういう状況なのかと殿下が尋ねる。するとロドリグさんは人が変わったように緩んだ頬を引き締め背筋を伸ばすと村人の避難を優先とした山賊退治の途中だと作戦内容及び経過状況とフラルダリウス兵の戦力まで事細かに説明してくれた。村人の救出もほとんど済んでいるようで、あとは山賊に捕まっている数名の村人さえ救出できれば速やかに山賊の頭を叩き村の被害を建物被害だけで収めることができるらしい。流石は領主様。手が早い。
「では早速のところ申し訳ありませんが山賊に捕まった村人たちを救出し退路まで誘導して頂きたい」
「ああ、任せてくれ。ロドリグ、お前はどう動くつもりだ?」
「殿下達が村人の救出に向かっている合間に私は近くの砦を落としてきます。増援を呼ばれでもしたら厄介ですからね。可能であれば2人ほど私と同行して頂きたいのですが」
「わかった。なまえ、誰を選出するんだ」
「えっ」
な、なんでいきなり私に意見を求めるのだろうか。話の流れ的には殿下が選出者を決めるとばかり思っていたものだから唐突に選択を委ねられつい素っ頓狂な声が喉から飛び出してしまった。
「あの、私が決めてもいいのですか?」
「当然だろう。今この隊の指揮官はお前だ」
それはロドリグさんと合流するまでの話であって、合流してからはロドリグさんの指揮のもと動こうと思っていたものだから全然選出者候補を考えてもいなかった。戦い慣れない雪国の土地では私よりもロドリグさんの指揮の方が的確だろうし、正直指揮官としての経験が豊富そうなロドリグさんのやり方を学ぶ姿勢でいたから一斉に向けられた複数人の視線に心臓が跳ねた。
ロドリグさんに誰を同行させるべきか。騎馬兵で白魔法が得意なら…
「殿下とアネットを選出します」
「どうしてその御二方を選んだのか理由を聞いてもよろしいですかな?」
「はい。砦の将は重装兵、その周りには盗賊が彷徨いています。皆切れ味の良い武器を所持していますが動きは皆素人そのもの。作戦としてはまず南の砦に向かいロドリグさんと殿下が盗賊を一掃、その隙にアネットが砦を落とします。殿下達が南の砦を攻めている間に私達は逃げ遅れた村人の救助及び退路までの移送を行います」
白魔法を得意とする騎馬兵のロドリグさん、メイジのアネット、ロードの殿下。武器の手数も多く敵との相性も悪くない。移動速度に差は出るだろうがロドリグさんの強さがあれば問題ないだろうし、殿下の投擲技術やアネットの黒魔法で遠距離攻撃も可能だ。この場にいるものは皆戦闘慣れしている。2部隊に分けて進軍してもなんの問題もないだろう。
「村人の救助についてだがこの村の殆どは平地だ。騎馬兵で敵を炙りだし大方の数を叩いた方が救助しやすいだろう。シルヴァンを囮役にしたらどうだ?」
「いや、シルヴァンにはイングリットと共に村人の移送を手伝って欲しいから囮役としては使わない。村の中心部に投石器があるみたいだからそれを使って炙り出すよ」
力仕事ならドゥドゥーに任せるのが適任だろう。人質がいなければフェリクスの案でも良かったが今回はあまり大胆な策はとりなくない。ドゥドゥーを掴まえ投石役に回るよう伝えるとフェリクスは特徴的な舌打ちひとつと「しくじるなよ」と恒例の喝を入れまだ戦闘の準備も整ってないうちから剣を鞘から抜いていた。さすが雪国出身者。手袋をはめているとはいえちっとも寒さで剣を落とす気配のない力強い握りだ。私も見習わないと。気合いで寒さがどうにかなる訳もないため、とりあえず格好だけでもと背を伸ばす。よし、やるぞ。入念に手首を回し軽く上げた肩をストンっと落として体温を上げていると、背後から聞こえたくっくっと控えめな笑い声に私は恐る恐る体の向きを変えた。
「あの、ロドリグさん?どうしましたか?もしかして私何か可笑しなことでもしましたか??」
「いえ、そうではありませんよ。今回の山賊討伐、何故フェリクスが貴女を指揮官に起用しろと喧しく訴えていたか意味がわかりましてね。私も倅と共に期待していますよ」
「は、はい。任せてください」
たった数秒の会話の間で緊張感が一気に増す。王国有数の貴族の一人であり現役の武人に期待されるというのはかなり荷が重い。だった彼の目から見れば私の指揮なんて素人同然に違いない。でも期待されてると言われた手前期待外れな結果は残せないし、山賊に捕まった村人のためにも尽力を尽くして事を成さなければ。
「みんな行くよ!」
ロドリグ達が砦制圧に向け動き始める頃、時を同じくしてなまえはイングリット、シルヴァンへ村人の退路確保のために遠方へ向かうよう声を張り上げ、残った仲間と共に投石器を守る山賊を一掃し空に幾つもの瓦礫の山を飛ばした。
「フェリクス、山賊を足止めして。アッシュはフェリクスの援護。ドゥドゥーは今の方角に向かって投石を続けて。メルセデスは私についてきて」
戦況はなまえが思い描いた展開以上に上手く事が運び、村に蔓延る山賊はみるみるうちに一掃された。やはり慣れた環境での戦闘だからか、手がかじかみ剣の切れ味を落とす役立たずの私とは違いフェリクスやドゥドゥーは生き生きと前線を走り回り勝鬨をあげていた。おかげで逃げ遅れた村人も全員無事に保護でき、負傷者も転んで膝を擦りむいた程度だ。
「…捕まった村人はこれで全員か」
「逃げ遅れた人もいないみたいだよ」
「村人の治療は全員終わったわ〜」
「わかった。ロドリグさん達は南の砦を落とした後そのまま北の砦に向かっているみたいだから私達はこのままイングリット達と合流して村人の撤退を援助しよう。ドゥドゥー狼煙をお願い。イングリット達にこちらの仕事は終わったと伝えて」
山賊を倒し村人も救出した。後は確保した退路へ村人を誘導しながらロドリグさん達が敵将を討つのを待つだけだ。終始穏やかな雰囲気であり危うげな雰囲気は感じ取れない。気味が悪いほどにトントン拍子で事が収束していく現状に違和感を感じる私は少々警戒心が強すぎるだけだろうか。たった一撃の剣技で膝を折る相手だ。この程度ならフラルダリウスの私兵だけでも十分騒ぎを収められたはず。フェリクスを呼び付ける必要などなかったのではないか。
以前ゴーティエ領の一件でも同じことを思った。だがあちらは身内が起こしたコナン塔の尻拭い及びシルヴァンに次期当主としての箔をつける、言ってみれば『八百長』みたいな戦闘だった。だが今回の案件はそういう“お家”のいざこざでは無いとフェリクスから聞いていた。一体ロドリグさんは何を警戒して息子とその友人を呼びつけたのだろう。敵の数もそれほど多く無いし、手応えもまったく感じられない。
空から落ちてきた白い羽に視線を上へ向けるとイングリットが村人を天馬に乗せ戻ってきた。そのすぐ後には馬の蹄の音が耳に届き、次はどうするつもりかと指示を仰いだフェリクスに私はどうしようかと考えをまとめていたその時だ。穏やかな蹄の音をかき消す北からの騒々しい馬の嘶きに何故かゾッとするような寒気と焦燥感が怯える背筋をツーっと撫でた。嗚呼、嫌な予感がする。馬から体の半分を垂らし息も絶え絶え現れた騎馬兵の肩には矢が3本刺さりそのうち1本は羽が折れていた。
「伝令、伝令です…北の砦に向かった小隊が、山賊の増援に囲まれています…し、至急救援を」
「メルセデス、この人の手当を。急いで。イングリット、シルヴァン。ロドリグさん達の救援に向かって」
「分かりました。ですがここから砦までは少し距離がありますよ。急ぎ駆けつけますが間に合うかどうかは…」
「ここで不安がっていても仕方ないだろ。殿下達の危機に駆けつけるのが騎士ってもんだ。ほら、行くぞ」
乗せたばかりの村人を降ろし灰色の空を白馬が駆け栗毛の馬は風のように大地を跳ねる。一体何が起こったのか。瞼を下ろし頭の奥を覗くと北の砦に3つの駒が窮屈げに動き、それを取り囲むように7つの駒が各々自由に武器を振り回し逃げ場を奪っていた。なまえは額を押え小さく息を吐いた。最悪だ。増援なんてすっかり頭から抜けていた。増援が来てどれほど時間が経っているのだろう。殿下やアネットはまだ動けそうに見えるが馬を失ったロドリグさんの動きは鈍く利き腕を庇うように壊れた槍を握っている。誰でもいい早く救援に向かわなければ。このままでは最悪3人のうち誰かが…どうすれば、どうすればこの状況を打開できるのか。
「…殿下の身が心配だ。なまえ、俺たちはどう動く」
ここから北の砦までイングリット達が駆けつけても10分弱はかかるだろう。徒歩で向かうなら最低でもその倍だ。ロドリグさんは既に魔力切れを起こし辛うじて槍を握ってはいるものの握った武器は壊れており体力的にもこれ以上の無理は命に関わるに違いない。殿下も殿下で壊れた鋼の槍を握り一方的な相手の攻撃を苦しげに退け、頼りのアネットは二人に代わって果敢に黒魔法を放っているものの焦っているのか怯えているのか命中率が高い風魔法が全く相手に当たっていない。3人での現状打開はやはり望めないだろう。
「おい」
…あの時、戦況に違和感を感じた時に万が一に備え戦力を分散していたら…いや違う!今は反省する場合じゃないだろ!!この最悪な状況を打開するために私がとるべき行動はあれよこれよと考えるのではなくまずは足を動かしてロドリグさん達の元へ駆けつけることじゃないのか。
「おい!」
…でも今更ロドリグさん達の元へ走ったところで間に合うはずが、
「おい、なまえ聞いているのか!!」
「聞いてる!…っ、ごめん、やっぱり聞いてなかった」
すぐ耳元で怒鳴られハッと目を見開くと眉間に皺を寄せたフェリクスが腕を組みすぐ手が届く距離に立っていた。いつからそこに。猫も逃げ出す鋭い眼力で睨みつけてくるフェリクスに私は反射的に荒らげた声を口で押え、眉間の皺を伸ばしながら今打開策を考えているところだと伝えた。とりあえずイングリット達がロドリグさん達の元へ向かっている間に私達も走って追いかけて、それが駄目そうなら爆発音等気を引くような騒動を起こして事の事態を遅らせて…しかし私が説明を始めた途端、フェリクスは何故か睨みを尖らせ「そんな事は聞いていない!!」と怒鳴った。威圧的な迫力に萎縮したのは私だけでなく、ちょうど真後ろに立っていたアッシュもビクンっと肩を揺らし弓を落としたいた。しかしフェリクスは誰が肩を揺らそうがそんなことは俺の知ったことでは無いと言わんばかりに苛立った声音で「何故お前はそう1人で抱え込む!指揮官に選任したのは俺だが全てを一人で解決しろとは言ってないだろ!!?」と捲し立てた。
「フェリクス…私は」
「言い訳は聞かん。1人でできないことを抱えたところでお前のできる範囲は限られているだろ。全ての責任は親父殿がとる。お前は好きに動け。考えが纏まらないなら相談しろ。そういう話だ」
単純に考えろ。面倒事は後で考えればいい。頭の中で散乱した考えを全て吹きとばすあっさりとした言葉になまえは肩の力を抜いた。深く息を吐きながら背を伸ばす。一点に狭まった視野が彼方まで広がっていくのを感じる。好きに動け、か。そうだね、考え無しに走るなんて私らしくなかった。
早く決断しろとフェリクスに急かされなまえは真似るように腕を組み遠くを見つめる。そして3度の瞬きの後険しい顔付きを浮かべ腕を解いた。
「一か八か。賭けてみたいことがあるんだけど」
上手くいけばイングリット達よりも先にロドリグさん達と合流できるかもしれない。でも上手くいく確率は恐らく2割程度だと思う。
かなり不安げな声音で、けれど指揮官としての必要最低限の心強さと覚悟を胸にグッと顎を引いたなまえをフェリクスは小さく口角を上げた。さっさとしろ。その一言を合図になまえはフェリクスへと手を貸すよう頼むと開いた掌を突き出すようにピンッと右腕を伸ばし、固定するように空いた左手で手首を握った。これから行う事は成功経験のない事であり、奇跡を呼ぶ儀式である。転移魔法、リシテアすらまだ使いこなせていない高難易度の白魔法をやる。勿論練習で成功していないことがぶっつけ本番で成功するかもしれないなんて甘い考えは持ち合わせていない。だが今は何が無くてもやらなくてはならない。成功させなくてはならない。大切な人の命を守るために、今、私ができる精一杯をやらなくては。
転移地点に座標を合わせ対象との最短距離を頭で描きながら魔力の流れをつくる。それは乾いた砂地に溝を掘り水を流す工程によく似ている。流す対象が軽い程少ない魔力で遠くへ、対象が重く体積が大きい程に魔力消費量が激しく転移の難易度は上がる。前にリシテアから転移魔法を教わった際彼女は本を数冊軽々と訓練場から金鹿の学級の教壇へと転移させていた。それに比べ私は羽筆1本動かすことも…いや、追い詰められた時こそ飛躍的に成長するのが私だ。できる。私ならできる。絶対にできる。絶対に、私なら。
飛ばす座標へ魔法陣を展開する。そして始点と終点を繋ぐように同じ大きさの魔法陣を展開する。怪しげな光に包まれたフェリクスは若干訝しげな顔で剣を握りしめていた。だが目の前で悪魔に命でも差し出すような鬼気迫る表情で魔法陣を構築するなまえの集中力を欠かぬようフェリクスは居心地悪そうにしながらも上下の唇を縫い付けた。
「なまえ、僕達になにか手伝えることはある?」
「えーっと、上手く転移魔法が発動するよう祈ってて欲しい?」
「分かったわ〜心を込めて女神様にお祈りするわね」
「…ちっ」
なまえの背後からハラハラして様子を見守っていたアッシュ、メルセデス、ドゥドゥーはなまえの頼み通り天上の女神へと奇跡を願うよう固く手を組み祈りを捧げる。しかし祈って欲しいとは言ったけれどなまえという人間は神頼みで奇跡を呼びこめるかもしれないなど微塵も信じてはいなかった。世界から元の居場所を奪われ、女神から見捨てられ何度危険な目にあったことか。女神に頼んだところで奇跡なんて降ってくるわけが無い。努力と場の流れ、あとはいつもとは違うちょっとした違和感で確実に奇跡を呼び寄せ成功を掴む。必然こそが彼女にとっての奇跡である。
人一人分の重みで一方的に傾いた天秤へ釣り合うように魔力を軽い魔法陣へと注ぎ込んでいく。羽筆を転移させる時とは違う確かな重みが指先から右腕にかけてのしかかり、まるで右腕だけで青年一人を持ち上げているに等しい重みで皮膚の内側からは絶えず骨が軋む音が聞こえる。あと少し。あと人匙分の魔力を魔法陣に注いで…っ、今だ。描いた軌道に傾斜をつけ一気に魔力を流せ!!
「はぁあっ!!」
威勢のいい声を上げ、右腕にのしかかった重みを一気に投げ捨てるかの如く伸ばした腕を天高く掲げ魔法陣を破裂させた。小さな破裂音が辺りに鳴り響き魔法陣を構成する光の粒子が火花のように弾けた。リシテアが転移魔法を見せてくれた時はこんな爆発音あったっけ。目が眩むような眩い光に目を腕で覆い隠し、見覚えのない反応に“失敗”の2文字が頭によぎる。光の粒子がフェリクスの体を包み空を裂く光の柱へと消えた後、眩しかった光は穏やかな波のように引き、焦げた形跡だけを残してフェリクスの姿は跡形もなく消えた。やった、のだろうか。これまで感じたことの無い重みと疲労感に右腕を痙攣させながらなまえは恐る恐る3人へと振り返 る。転移魔法の成功経験が無いためにこの右腕の震えが何なのか分からない上に地面の焦げた形跡と立ち上る謎の白煙に不安を覚えて仕方がない。せめてフェリクスが何処かで大きな舌打ちを打ってくれたら安心するのだが、それすら聞こえてこないということは…待て待て、フェリクス程の人間が魔法1つで消し飛ぶような脆い人じゃないだろ。考えられる可能性とすれば転移先が予定の座標から外れたか、もしくは転移したはいいものの身体的に何か問題が…
「…成功したと思う?」
「…分からない」
「成功したって思いたいよね。あははっ...はぁ」
「んー…あっ。みんな、あれを見て!」
一体何を見つけたのだろうか。メルセデスが指を指した方向へ皆が一斉に視線を向けた直後、一同はポカーンっと口を開け息を呑んだ。メルセデスが指を指した先には曇天を突き抜ける眩い光の柱が北の砦を照らすように強く輝いていた。あれは私の転移魔法の光。徐々に光の柱が収束し空に光が弾けるや否や幻聴の如く聞こえてきた低音の舌打ちになまえはホッと息を吐き抑えていた嫌な汗をダラダラと長した。良かった成功だ。私、できた。できたんだ。…よし、喜ぶのはここまでだ。気持ちを切り替えなければ。
「よし、ドゥドゥー。脇締めて口閉じて。準備はいい?」
「…ああ」
胸が風船のように膨らんでいる。はやく大修道院に帰ってリシテアに報告しないと。私ようやく転移魔法を修得できたって。1度目で掴んだ感覚を再現するようになまえは右腕を伸ばし魔力を注ぐ。そして続けざまに空へ光の柱を出現させドゥドゥーを砦へと飛ばした。流石に二人連続は疲れるな。ドゥドゥーをし終えて両膝をつき汗を拭っていたなまえはメルセデスとアッシュの肩を借りて砦へと向かう。そして砦に近づいた頃2度見するほどに恐ろしい速度で駆け寄ったフェリクスへなまえはお疲れ様と片手を上げ脳内で眺めていたその有能な仕事ぶりを労う。誰一人として今日も欠けることなく戦闘が収束した。土壇場で完成させた魔法になまえはてっきりよくやったとフェリクスから褒められると思っていた。しかしへの字に口を曲げたフェリクスの眉間には何重にも皺が刻まれていることに気づくや否やキュッと口端を引き攣らせそっぽを向いた。まずい、これは怒られるやつだ。そしてなまえの予想通りなまえは数秒後こってりフェリクスに怒られた。転移先が親父殿の膝とはいい度胸をしているなと襟元を掴まれ揺すられるような威圧感になまえは背を丸め眼力から逃げるようにイングリットの背後に隠れる。親の膝に座っただけで何でこんなに私は責められなくちゃならないのか。いいじゃないか、全裸で転移されなかっただけ。けれどフェリクスのこの反応を見ると全裸の方がまだよかったのかもしれない。フェリクスの怒りも冷めやらないうちに気まづそうな顔で現れたドゥドゥーも何か言いたげに目を瞑っているがその隣でニコニコと笑みを浮かべるディミトリの満足そうな顔になまえは何かを察し良かったですねと親指を立てた。
うんうん、我ながらいい仕事したな〜うん。だが実践用に運用するためには改良が必要だ。転移時間をもっと早めて狙った座標に飛ばせるようもっと鍛錬を積む必要があるだろう。この魔法を磨けば戦略の幅が広がる。それに…元の世界に帰る手立てに繋がるかも。今日の成功を糧にしよう。希望に満ち溢れた目でなまえは拳を握りしめ軽く引いた。が、その間もフェリクスの耳が痛い愚痴は矢継ぎ早になまえへと浴びせ続け、ロドリグがフェリクスを諌めるまでの間なまえは満足気な顔のまま理不尽に叱られ続けた。
→