鬱蒼とした森の中を一行はジェラルトを先導に出口に向かって歩いていた。蒸した空間へ入り込む涼やかな風は鳥の囀ずりを攫い髪の隙間を通り抜ける。ここらをよく知る村人によると今歩いている場所は大陸の北部に区分されているらしい。夏は涼しく冬は子供の身長を飲み込む高さまで雪が積もるんだとか。だから冬は人が森に寄り付かないと村人は笑いながら森の奥へと去っていった。冷えた風に靡く髪を押さえながらなまえはそっとため息をつく。嗚呼本当にこれは夢じゃないんだと痛む右腕を見つめながら。
いつも通りの生活を送っていた。ご飯を食べお風呂に入りベッドの上で眠りにつき、目が覚めたら知らない世界の森の中。こうなることがわかっていたら靴ぐらい履いて眠ったのに。ふらふらと揺れる土と葉で汚れた裸足に顔を顰めながら何故元の世界から弾き飛ばされた原因を探す。どこかに手がかりがあるはずだと記憶をひっくり返して漁っているとすぐ真下から「手を離さないでくれ。落としそうだ」と声がかかり私は渋々少年の肩に手を置いた。おぶられるならジェラルトさんが良かった。そんな贅沢を溜息に込められる程には浮浪生活にも慣れてきた。傷を負って3日が過ぎた。未だ汁物しか喉を通らない状態ではあるが何とか栄養は取れている。嫌々ながらベレトの背におぶさったなまえは借りるくらいなら凍え死んだ方がマシだと頑なに体格の近いベレトの上着を押し返す。嫌なんだ。匂いも体温も触れる度感じる度に右腕が痛むから。なまえはまだ幼い。弱い二桁にもくだらない。そう簡単に人を許せるほど成熟した心など持ち得ていなかった。
街に行く。支度しろ。
端的な指示に一同が固形物を飲み込む中、なまえは一人干し肉と格闘し胸を叩いた。客人同等の同行者とはいえのんびり動いていたら置いていかれる。唐突に告げられた出立の知らせに液体物を喉に無理やり流す。世話を焼いてくれる修道士の背中を追いかけながら食べかけの干し肉を銜え身なりを整える。わらわらと動く人の群れに揉まれながら、名を呼ばれ手招きするジェラルトに気づきなまえは裸足で駆け寄った。ジェラルトはなまえの身なりと爪ひとつ割れていない足元を確認し、上着を羽織るベレトを呼びつけた。
右腕を負傷しその上少女は裸足だ。馬に乗せようかと思ったが背に積んだ荷物は重く、受身の取れない陶器に等しい少女が何かの拍子に落馬でもしたら責任は取れない。自分の子ならまだしも他人の子は何かと扱いずらいのだ。
裸足で歩かせる訳にも行かないとジェラルトはベレトになまえを担ぐよう指示し、ベレトは嫌な顔ひとつ見せず一つ返事でなまえの前にしゃがみ両足を抱えた。突然の浮遊感になまえはきゃ!!と悲鳴をあげる。しかし不安げな表情を浮かべながらも手はしっかりとベレトの肩を掴んでいる。
高い、怖い、嫌い、降りたい。
のそのそと歩き出すベレトになまえは顔の引き攣りを感じながらも落とされないよう指先に力を込める。恐怖心こそ拭いきれないもののベレトさんがいきなり背から落とすような人じゃないことは頭の中では理解していた。表情は乏しく口数も少ない。自我形成を失敗したような容姿含め動く人形のような人物。だけど必ず歩幅を揃えて隣を歩いてくれる優しい人だって知ってた。素直に担いでくれてありがとうって伝えるにふさわしい人だってことも、影を選んで歩いてくれる気配り上手な人だってことも。でもまだ右腕がじくじく痛んで、腰に携えた剣が恐ろしくて、優しさを当然のように享受するふてぶてしさを持っていながら『ありがとう』の一言を伝える勇気が私にはなかった。
景色を眺めることに飽きていた。手の込んだ建造物なら一日中見ても飽きることはないだろうが周りは緑、翠、また碧と目に優しい色ばかり。くわえて最適な外気温と微睡みを誘う陽光が欠伸を促す。なまえは柔らかい萌葱色の髪を暫く見つめて寝癖や枝毛を探して遊んでいたがそれすら飽きてしまったようで、落ち着かない人物の背に乗ったまましまいにはウトウトと船を漕ぎ始めていた。緩慢な心地よい揺れに瞼が次第に落ちていく。視界が大きく揺れる度に
なまえは頭を振ってしつこい睡魔を振り払う。だが抗いようのない睡魔の魔力にとうとう敗れ、触れることを拒んだ背中へ頬を引っ付けた。
「ついた」
風船を割る針のような一声が抜けきれない優しい幻想をかき消した。懐かしい夢を見た。でもなんの夢を見ていたかなんて呑気に人の背で爆睡した事に比べたら取るに足らない話題だ。揺さぶられ、『おはよう』と凪のような瞳と目が合って直ぐに口元の涎を拭い己の失態に顔を覆った。最悪だ。文句も言わずにここまで背負ってくれた人の背中で涎を垂らして眠りこけていたなんて。間違いなく無表情の内側で舌打ちしてる。いくら彼が底なしの優しい心の持ち主でも舌打ちくらいはするであろう己の寝汚さに嫌な汗が全身から吹き出している。
目はグルグルと渦を巻き、頭の中は謝罪と言い訳で言葉が散らばっている。恥ずかしさが頂点に達し顔を隠す両手の放し時を見失っていた。しかし、鼻をくすぐる潮の香りにゆっくりと五感を広げ、楽しげな音に誘われて、そっと手の隙間から覗いた煌びやかな景色になまえは真珠のように目を見開き感嘆した。
これが、街。この世界の街。
瞬きする間も惜しいと思ったのは初めてかもしれない。煉瓦造りの荘厳な建物に足が弾むような蛇腹楽器の美しい旋律。色んな髪色の人々が御伽噺に出てくる服を着て石畳の上を歩いていく。勿論綺麗な一面と共存する街の薄暗さ、冷たさも目に留まった。しかし故郷の風土からかけ離れた異国情緒溢れる街全ての要素になまえは心を奪われた。そこに武器や鎧、馬が当たり前のように馴染み空間どころか時の流れすらも自分が暮らしていた世界とは一線を画していたとしても、まだ幼いなまえの不安材料にはならない。身を乗り出して目を輝かせる。それが年相応の素直な反応だ。
空を突き抜ける力強い馬の嘶きにキョロキョロと視線を振っていると「うえ」と萌葱色が首に角度をつけた。言われるがまま視線を空へ向ける。青空に白雲が漂い、一陣の風を纏って大きな影が頭上を横切った。鷹のような大きな羽に宙をかける逞しい四肢、また聞こえた嘶き声に通行人は足を止め、「お母さん!雪が降ってきたよ!」と空から舞い落ちてきた羽を女の子が拾っていた。透き通る真っ白な羽は白い鳩のものよりも大きく、太陽の光を受けたそれは宝石のように輝いている。
馬の嘶き声。それと空から舞い落ちた白く美しい羽からなまえは架空の生き物を連想し、すぐさま非現実的だと頭を振った。齢一桁と言っても空想と現実の境目くらい分かる。魔法を科学と呼ぶ世界で平穏に生きてきた。魔法然り、空想生物然り。そう易々と大人から学んだ世界の『規則』を変えることなどできるわけがなかった。
「…ありがとう」
絞り出したお礼の言葉に彼はうんともすんとも言わない。それどころかほんの少しの身長差を活用し威圧的な眼力でじっと上から見下ろしてくる。長時間文句も言わずに担いであげたのにたったありがとうの一言で済まそうとする私に苛立っているのだろうか。それとも涎を垂らして寝ていたことを視線で問い詰めているのか。ジトっと張り付くような視線に困惑するなまえにジェラルトはベレトの頭を強く撫で回し「彼奴らと買い出しに行ってこい」と背中を押した。何度か振り返ったあの子はジェラルトさんに見送られて背の高い大人に囲まれて港の方へと歩いていく。港にはこの街1番の大きな市場があって、そこで食料と武器の調達をするそうだ。この街は値切りにくいから無駄遣いはできないと愚痴をこぼしたジェラルトになまえはビクッと肩を揺らして寝巻きを握りしめる。ボロでもいいから靴が欲しいなんてとても口にできる雰囲気じゃない。見るからに不安げな顔で俯くなまえにジェラルトは参ったなと粗暴に髪をかき、視線を合わせにぃーっと豪快に笑いかけるが、
「はぁー...餓鬼の相手は難しいな」
さらに曇っていく表情にジェラルトは肩を落とすとまだ小さな体を胸に抱き上げベレトとは真逆の方向へと歩を進めた。ジェラルトに抱き上げられたなまえは背負われていた時とは全く違う視界の高さに掴んだジェラルトの衣服から手が離せなかった。地面が遠く太陽が近い。実の父親に抱き上げられた時もこんなに視線は高くなかった気がする。でもジェラルトさんみたいに温かい腕だったことはまだ鮮明に覚えてる。
「ここだ」
大通りを外れた猫のたまり場にジェラルトさんは足を止めた。ここは何処なんだろう。足元で猫がにゃーにゃー鳴いてジェラルトさんの足にじゃれついてる。目の前には雨よけと風呂敷の最低限度で組まれた露店よりもずいぶん簡素な店があった。人どころか猫に商品を盗まれてそう。そんな小さくてままごとのような店構えだ。ジェラルトさんはここで何を買うつもりなのだろう。猫?雨具?地面に足をつけたその時背後から現れた影にジェラルトさんはよぉ!と片腕を上げた。
「あらあら、可愛いお嬢さんね。5,6歳くらいかしら」
彼女が店の店主なんだろうか。初めましてと赤髪の若い女性に話しかけられ、私も初めましてと会釈を返す。手に持った荷物を地面に置くと女性は小さな声で「子供用はあったかしら?」と呟きながら腕を上げたり肩に手を置いたりととても自由だ。
「悪いが持ち合わせがこれしかなくてな、なんでもいい、適当に見繕ってやってくれ」
懐から出した小さな麻の布袋をジェラルトさんは女性にわたす。しかし女性は中身を見るやいなや渋い顔で突き返し子供のように腕を組みそっぽを向く。
「ダメダメ!これっぽっちで売ってあげられるものはないわ。普通の服ならまだしも私の商品を買いたいならこれの…そうねぇ〜、3か4ってところかしら」
「おい、ふざけるな。そんな金どこにあると...」
「じゃあ交渉決裂ね。他の店を当たってちょうだい」
金がないならあっちにいってと邪険に払われジェラルトさんは参ったなとため息をつく。服を買ってくれるなら何処の店でも構わないとなまえはジェラルトの服を引っ張るが、ジェラルトはこの店に振られたら困るんだと再度懐に手を突っ込み下手に交渉を試みている。なんでも衣服に限らず色んな店にツケを溜め込んで いるようで、返す金がないうちは合わせる顔がないと言う。
裸足に薄手の格好じゃ子供を長旅に連れて行けない、頼むからこれで手を打ってくれないかと詰んだ金貨に銀の剣を添えるが女性は帰ってくれの一点張り。子供ながらにどうしたら女性が服を売ってくれるのか考える。考えて、考えて、考えたところで自分には何一つ差し出せるものが無いことに頭を抱えるなまえだが、銀の剣を眺めているうちにそういえばと首に架かった装飾品の存在を思い出し、なまえは躊躇うことなくそれを外した。
「これで幾らかになりませんか」
解いた紐の端を結んで女性の掌に落とした。
なまえが渡した首飾りはお世辞にも価値のある物には見えない。小さな傷があちこちに目立ち石も金も施されていない。在り来りな形で特に凝った箇所もなく魔力も籠っていないただの銀の首飾りなど玩具同然の代物だ。買い取るほどの品でもないし、加工しがいの無いものに1G払うのも惜しい。突き返されるだろうなとジェラルトは健気な子供の優しさを前にして出し惜しんだ金塊に手をかける。しかし驚くべきことに女性は玩具と平凡そうな少女を探るような目で往復し、渋ることなく差し出された少女の首飾りを掌で遊ぶとひと呼吸おいた後商売人として二人に微笑んだ。
「いいわ、特別に売ってあげる」
「いいのか?」
「ええ。女に二言はないわ。こっちよ、ついてきて」
受け取った首飾りを懐にしまうと女性は露の奥に隠していた天幕へとなまえを手招いた。後を付いていこうと足を踏み出すなまえをジェラルトは引き止める。「すまないな」と渋い顔を浮かべたジェラルトになまえは気にしないでくださいと言葉を返し天幕をくぐった。首飾りを手放した事になんの未練も無い。誰から貰ったのか、そもそもいつからつけていたのか、何も覚えていないもの。何も覚えてないから尾を引く感情もない。後悔もない。でもほんのちょっとだけ首元が寂しいと感じたけれど、無一文の自分が今最も必要としているものは着心地が良く動きやすい服と靴、それとお金。寂しさを埋める道具よりも今日を生きるための装備が最優先事項だ。
「これはどうかしら…ダメね、少し大きいわ。それなら…これ!も、袖が余るわね…」
華美な衣服に袖を通してはこれでもないあれでもないと脱着を繰り返す。女の子なんだから!と女性は明るい衣服を手に取り背を合わせるがどれも私には大きすぎる。高すぎず低すぎずの中途半端な背丈な為に女性は頭を抱える。しかし地味ねと黒い服を体にも当てず投げた時、突然「そうだ!」と女性は大きな声を上げて服の山から外れた古びた木箱を漁り一着の衣服を掘り当てた。
「これなんてどうかしら?普段使いしやすい上に伸縮性も抜群。雨に濡れてもすぐに乾くし頑丈で破れにくい生地で作った優れものよ!!女の子用の服としてはちょーっと地味かもしれないけど、機能性重視の方が長旅するには便利かもしれないわね」
灰色の布が肩に当たった途端、まだ決まってないのにその飾り気のない灰色のワンピースを着て旅をする自分の姿が見えた。これにする。これにしたいと洋服を握りしめるなまえに女性は「そうね。じゃあ上はこれにするとして、丈が長いから下は短い下袴を履いて、足元は踵が低い靴にしましょう」とがら空きの腕に服を握らせた。触るだけで分かる質の良さにありがとうございますと頭を下げるなまえに女性は早く着替えおいでとなまえの背を押す。窓掛を引き受け取った衣服の留金を引っ掛け靴を履いた。重りを背負ってるみたい。久しぶりに感じる服の重みに違和感を感じながらも新しい装いに身を包む喜びは形容し難い。靴紐を結び気恥しそうに窓掛を引けば女性は間髪入れずよく似合っていると言った。
「着心地はどうかしら?」
「靴も服も可愛い。それに袖も肩もピッタリ...」
「そうでしょ?そうでしょ!?これでも商売歴は長い方でね、お客様がどんなものを望んでいるか分かっちゃうのよね」
きっとこの服は貴女が着る為に木箱にしまっておいたのねと女性はお茶目に片目を瞑ると留めすぎた首部分の釦を1つ外した。それから「これは私からのおまけね」と可愛い刺繍が入った外套を肩にかけ、
「あと貴女に必要なのはこれね」
髪を持ち上げ対価として払った首飾りを細い首に飾った。戻ってきた安心する重りに首元を押さえる。どうして?瞬きを繰り返す私に女性はシーっと唇に人差し指を添えた。
「大切なお守りは簡単に手放しちゃダメよ。これは貴女にしかその首飾りの価値を引き出すことが出来ないんだから」
まるで私が知らない何かを知っているような口ぶりだ。この様子だとこの首飾りを送った人物をこの人は知っているに違いない。どうして贈られた覚えのないものを身につけているのか知りたくて女性にこの首飾りについて何か知っていることがあれば教えて欲しいと頼んだ。しかし女性は少し目を見開いて、首飾りを見つめながら一言「私の口からは言えないわ」と首を横に振った。彼女は何も教えてはくれなかった。ただ私の肩を掴んで「きっといつか会えるわ」と誰かとの再会を願うだけだった。
天幕から出てすぐにジェラルトさんの姿を探した。壁に背を預け遠く広がる海を眺めている男性にジェラルトさんと声をかける。名を呼ばれ振り返ったジェラルトさんは私の新しい姿に少し驚いた顔を見せた。だがすぐによく似合っていると柔和な笑みを浮かべ「お揃いだな」と私の袖とジェラルトさんの胸元に入った刺繍がお揃いであることに胸が弾んだ。
「どう?私の見立てに狂いはないでしょ?ところで、団長さん。貴方いつの間に新しい子供つくったのよ?」
親しげにジェラルトさんの胴を突き次はどんな女性を引っ掛けたのかと根掘り葉掘り聞く気満々のアンナさんを他所にジェラルトさんは至極面倒くさそうに遠くを見つめため息をつく。
「馬鹿言うんじゃねえ。森で行き倒れていた所をうちで保護している子だ」
「ふーん。でも保護しているだけなら傭兵団として連れ歩くよりもこの街の孤児院に預けた方がいいんじゃない?子供とはいえ出費はそれなりにかかるだろうし、預けた方がこの子にとっても安全だと思うけど」
この街は他の街よりも比較的豊かだから食べ物に困ることは無い。危険な場所に女の子を連れ出すなんてどうかしてると軽い口調で鋭い指摘を述べる女性になまえは無意識にジェラルトの服を掴み不安げな顔で見上げる。彼女の指摘は最もだ。傭兵として置いておく気がない子供を危険な場所へ連れ出す利点などないし、明日の安全すら保証もない。傭兵団は慈善活動団体じゃない。安い報酬と引き換えに血腥い仕事をこなし薄味の汁で空腹を凌ぐことも珍しくはない。育ち盛りに貧しく危険な生活を強いるよりも具が浮いた汁を腹一杯食べられる孤児院へ預けた方がなまえにとっては幸せな環境なのかもしれない。が...なんてくだらない問いかけだとジェラルトは落ち着いた様子でふっと軽い笑い声を溢した。
「確かにお前さんの指摘は一理あるかもしれん。が、出会って日が浅いとはいえ、既に娘同然に可愛がっている子を孤児院送りにする薄情な親が何処にいるってんだ?」
「あら、言うようになったわねぇ」
さっさと自分の商売にもどれと邪険に手で払うジェラルトさんに女性はよかったわねと私に耳打ちした。娘、ジェラルトさんは私のことをそう言った。知らなかった。ジェラルトさんが私を娘同等に思っていたことも、孤児院に預ける気が無いことも。
「また会いましょうなまえ」
女性に見送られ私たちは気持ち急ぎ足で既に集まっているであろう傭兵団の元へ向かっていた。この世界に来てからはずっと裸足で歩いていたため靴を履いて歩くことになんだか違和感を感じる。意識しているせいか自分の足元から聞こえてくる靴音が耳についてついつま先で音を消して歩きたくなる。衣服を握りしめたまま大きな歩幅にくっついて歩いていると頭上から声がかかる。
「あの短期間で随分親しくなったようだなぁ。だが気は抜くなよ。ただより怖いもんはねぇって話だ」
対価として渡したはずの首飾りがなまえの首元で輝いていることにジェラルトは詳しい理由を求めなかった。ただ、気をつけろと一言忠告を送るだけ。商売と金においてあれほど貪欲な女はいないぞと冗談交じりに無料と女の恐ろしさを説くジェラルトさんはたくさんの恐ろしい経験を味わってきたのだろう。なまえから見た赤髪の女性は商売っけある溌剌とした女性で、あとから高額を請求してくるような人には見えなかった。彼女はとてもいい人だ。とてもお洒落で会話上手。あと、少し不思議な人だった。私の首飾りを見て彼女の態度が一変した。ジェラルトさんから高額を捲揚げるはずだっただろうに代金も要らないし服もあげると急に掌をひっくり返すなんて裏があると考えざるを得ない。
軽率に手放しちゃだめよと小指を結び持ち主の元へ戻った首飾りを撫でる。知らない世界、命の奪い合い、異なる常識。彼女の真意はどんなに思考をめぐらせても今の私ができることは周りの好意に感謝を伝えることだけだ。
白い雪に頬を赤くし爽やかな風が髪を吹き上げる。あの子が、ベレトさんが私にくれた紅い花が互いの堅い心を開いて、蒼い月を見つめながら私たちは毎夜星をなぞって遊んだ。私に居場所ができた。定まったお家はないけれど家族がいる場所が家になる。そう傭兵団の誰かが教えてくれた。傭兵団に拾われて季節が二度回った。不便な生活が板に着いた月夜が美しい日の事。乱立した天幕を縫うように歩く影は野営地の中央で足を止め明かりが灯る天幕に自分の影を映した。身動ぎする音が天幕から聞こえ呟くように名を呼ぶと入口から顔を見せた男は少女を視界に映すやいなや右上がりの眉をくしゃりと顰めた。
「こんな夜更けに餓鬼が出歩くもんじゃねぇ。どうした、寒くて眠れないのか?」
「…ジェラルトさん」
当然訪ねてきたなまえを寒空の下立たせておくのも可哀想だとジェラルトは浮かない顔を天幕の中へと招いた。落ち込んだ声音。瞳はか細く揺れている。彼女が何に心悩ませているのか、目の下の隈を見ずとも理由に心当たりがあるジェラルトはなまえを適当に座らせ空の杯を手に取った。紅茶…のような洒落たものは当然持ち合わせていないため杯に注ぐのはただの水。なまえは礼を述べて杯を受け取るがそれに一口もつけることはなく、ただじっと水面に映る淡い光を見つめている。鼻をすすり手を強く握りしめる。唇をかみ締め持ち上げた顔は悲しみと決意に満ちていた。
「私に、私に戦い方を教えてください」
誰かを守る力が欲しい。危険に立ち向かう術を知りたい。どうか、どうかお願いします。杯に雨を降らせ喉を絞るように願いを口にした私にジェラルトさんは何も言わなかった。ただ静かに下げた頭に手を置いて、涙が止まるまで優しくあやす様に撫で続けた。
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