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昨晩浅草の下町で落雷が落ちたらしく辺り一帯の家屋が吹き飛んでしまったらしい。勿論昨日は月光に照らされた静かな夜でそんな馬鹿な話有り得るわけ無いだろうとお代を置いて去っていった商人の話を戯言程度に聞き流し皿を片していたのだが、

「ナマエ姉ちゃん大変だよ!兄ちゃんの様子を見に行ったら長屋に雷が落ちて天井に大きな穴が空いていてね、それで綺麗な女の人と親しげに話して祝言の日取りを話してた!!」
「…なんて?」

あまりにも突飛で、それでいて妙な信憑性を帯びた妹の目を輝かせた興奮ぶりについうっかり片付けるはずの皿を落とし割ってしまった。町に広がる噂は本当だったのかと伊織の長屋に落雷が落ちていたことにも驚嘆したが、それ以上にあの恋愛など腹に堪らんだろと真面目な顔でのたまいそうな朴念仁が、カヤちゃんの話を聞くまで女人の影を一切匂わせなかった男がたった一夜で長屋に女人を連れ込みあまつさえ祝言の日取りを決めていたという事実が、妹の口から聞いてもなお私はまだ信じられそうにない。
兄の健康と将来を思うあまり幻覚でも見たのではないかと邪推する私を他所にカヤちゃんはうっとりとした様子で伊織が連れ込んだらしい女人に対し誤差の多そうな女の勘を働かせている。おっと、茶葉が切れそう。後で裏から取ってこないと。

「兄ちゃんは客人だって言ってたけど、こんな朝早くに客人を迎えるなんて怪しい。怪しすぎる!それに…なんだかとっても親しげな様子だったし、朝早くから長屋で二人っきりなんてただの客人とは思えない!ね、ナマエ姉ちゃんもそう思うでしょ?」
「私はその御仁を見てないから何とも言えないかな。あ、そこの湯のみ持ってきてくれる?」
「はーい。それでね、兄ちゃんに何時何処で出会ったのか尋ねたんだけど上手く話をそらされちゃって結局なーんにも教えてくれないの。はぁ…江戸じゃ見かけない程すごく綺麗な御人だっなぁ」
「そんなに綺麗な人だったの?」
「あれ、姉ちゃん気になるの??」
「全然」

伊織の女性関係には全く興味ありません。でもカヤちゃんがそこまで綺麗な御人っていうから怖いもの見たさで気になってきた、それだけの事。江戸じゃ見かけない顔立ちと言っていたか、御相手は南蛮の御方だろうか?ともなるとますます何時どういう経緯で知り合ったのか気になってくる。伊織以上に伊織の事を把握しているカヤちゃんが初めて知り合ったとなると、カヤちゃんが朝餉を渡し今日の朝を迎えるまでに出会って意気投合して長屋へゴーってことか。昨晩店仕舞いを手伝ってくれた時は女性について一言も話してなかったし、仕事も終わったから長屋に戻って寝ると言って店を後にしたと思ったのだが、何かやましい事でもあるのだろうか。
もうすぐ生えてくるかもしれない姉上に思いを馳せ軽い足取りでカヤちゃんは小笠原の家に帰って行った。
恋人、か。生業は刀工か、浪人か、はたまた伊織と負けず劣らずの稽古好きか。伊織は律儀だからカヤちゃんに紹介した後にでも私に報告に来るだろうとは思うが…年頃だし当たり前のことだろうけど伊織だけ心身共に大人になったいく一方で、いつ潰れてもおかしくない甘味処でいつまでも両親から子供扱いされ歳をとっていく自分の将来を思うと1人同じ場所に取り残されていくようで少し寂しい。

「嬢ちゃん。お代置いとくぜ」
「はーい。また来てくださいね」

私も伊織を見習って何か人生が変わるような事を初めて見るべきなのかな。これを機に思い切って恋人作りとか?…うーん。自分と家族のことで精一杯だから私には荷が重いかな。
縁台に置かれた銭を銭箱に納め使い終えた茶器を厨へ運ぶ。身なりを整えた母様に少し休みなさいと言われ、ふぅと息を吐き襷の結び目を解く。立ちっぱなしで足が棒になったみたいだ。ちょっと休憩と座敷に座り伸ばした足を軽く叩いているとうちの店前で止まった足音に勢いよく顔を上げる。顔は暖簾で隠れていた。しかし隙間から覗く藍鉄色の着物と腰に指した色違いの二刀を見れば訪問者が誰かなど顔を見ずとも直ぐに予想がついた。

「すまない、ナマエはいるだろうか」

ほら、私の予想通り訪問者は伊織だった。…それと、伊織の背後で長い髪の尾をユラユラと揺らす小柄な御仁は伊織の知り合いだろうか?のれんを潜った伊織の後に続き店の中へ入り物珍しそうに店内を見回すその御仁はカヤちゃんが激賞するのも頷ける美しい人だった。艶のある黒髪にはっきりとした顔立ち、凛とした立ち振る舞いから垣間見える愛らしい子供っぽさは遠目から眺めているだけでも自然と庇護欲を掻き立てられる。伊織が惚けるのも何となく分かる。これは伊織でなくとも世の男は彼女に首ったけだろう。

「噂をすればなんとやら。早速カヤちゃんの言ってた通り綺麗な御仁連れ…祝言の日取りを決めていたって話も本当なの?」
「祝言?いったいお前は何を訳の分からぬことを…嗚呼、解った。カヤ、だな。何を吹き込まれたか知らないが全くもって事実無根だ。此者は俺の客人だ。カヤが騒ぎ立てたような関係では」
「カヤがどうかしたのか?」

頬がほんのり赤みを帯びている。年頃なんだし恥ずかしがる必要なんてないのに何を必死になって否定するのだろう。寧ろ彼女との関係を進展させてくれと私に助力を仰ぐべきでは?恋に奥手では恋人に愛想をつかされるのも時間の問題だよ伊織。
どこでこんな綺麗な人を捕まえたんだとカヤちゃんにすら明かしていない隠し事を暴いてやろうと興味津々に脇腹をつつき、伊織のお得意技『三十六計逃げるに如かず』で話題を逸らされかけた時だった。

「ふむ。イオリの長屋に見劣りしない狭く質素な家屋だな!見たところ穴も空いてないようだし、埃臭くない分こちらの長屋の方が住みやすそうだ…むっ、良い匂いがする。甘い匂いだ。こっちの方から匂うな!」
「セイバー。待て。他所様の家で勝手に動くんじゃない」
「…むぅ」

質素。うん…まぁ他のお店に比べたら狭く質素で引き戸の立て付けも良くないが、皆が心の中で留めている事実をこうも素直に言の葉にされると返す言の葉も出てこない。毎日隅々まで掃除してはいるんだけど狭さと質素さは掃除じゃどうにもならない。
落ち着きもなくソワソワと店内を見回し、厨の方から漂ってくる小豆の匂いへ興味津々に向かおうとする御仁を伊織は咄嗟に首根っこ掴んで強引に静止させた。咄嗟の行動とはいえ首根っこ掴むのはどうなのか。それも彼女の爪先が少し地面から浮いているのは…うん。駄目だと思う。

「伊織。女人の首元を猫みたいに摘むのはよくないよ。大切な人相手なら特にね」
「そうだぞイオリ。彼女の言う通り私の事はもっと丁重に扱え!」
「…」

首元をつまむ指が緩んだ途端に彼女は風のように素早く私の背後へと回った。両肩に手を置き不満を云う彼女へ…いや、この手の大きさと力強さは、彼?ともかく、2人の仲の良さを挟んで見せつけられこの場の居づらさを苦笑いで誤魔化した。やれやれと言わんばかりに額を抑える伊織の左手の甲に赤い紋様が浮かんでいる。やっぱり、ただの痣じゃなかったんだ。じゃあ伊織がセイバーと呼び私の背後に回った人物は名を伏せた過去の偉人か。
そうか…そうかだったのか。
辿り着いた先は間違えていなかったのか。
…死にたくない。だが役目を果たさなければ、正しき歴史を記録しなければならない。もとよりその為にここにいるのだから逃げることは許されない。

「どうした。どこか物憂げに見えるが悩み事か?」
「そう?気のせいだよ」

腕を組み顔を覗き込んできた伊織に不自然さを悟られぬよう程々に視線を交わし薄らと口角を上げる。伊織は良く人を見ている。その淀みない真っ直ぐな双眼で他人と呼ばれた生物の生態を探るように観察し、時に言の葉を交え心の内を覗き込む。相手の本質を的確に捉え、曖昧のまま放置した感情を丁寧に言語化し本人以上に相手を理解しようとするきらいがある。私が知る中で最も油断ならない人物。悟られぬよう気をつけなければ。全てを知られた結果、線を引いて距離を取られるのは凄く寂しいもの。振るわなければ。いつも通り、冷静に落ち着いて。

「そんな事より、この御方がカヤちゃんが言ってた伊織が親しげにしている方で、お名前は…セイバー、さん?」
「セイバーで構わないぞ。ははん、なる程。きみがイオリやカヤが話していた#name2#だな?甘味処の娘でしっかり者。だが客人用の団子なるものを頻繁に摘んでは母親に叱られぬよう目撃者に甘味を与え口を封じるとか。見ての通り私は口が堅い方だ。だが、腹が減っては何とやら。団子とやらを与えなければうっかり口を開いてしまうかもしれないなぁ〜」
「伊織」
「嘘は云ってない」
「伊織」
「…解った。解った。セイバーには後で云っておく。そんな怖い顔で睨まないでくれ」

たとえ本当の事だとしても知り合う前から人の醜態をあれそれと話すのは些か意地が悪いんじゃないか。

「こんなところで油売ってないで素寒貧は早くお勤めに行ってきなさい!」
「そうだぞイオリ!いつまで油を売っているつもりだ。銭なし者に飯は無し。早くオツトメを終わらせて米とオミオツケだ!!」

朝餉の量が少なかったのか、それとも単に食いしん坊なのか、米と味噌汁を想像し涎を垂らしたセイバーは置いていくぞ!と一足先にのれんくぐり行き交う人の流れなど気にしないとばかりに大通りの真ん中で早く行くぞと伊織を手招いている。見るもの全てに目を輝かせあれはなんだこれはなんだと説明を求める様はまるで餌を前にした犬みたいに落ち着きがない。

「元気な人だね」
「まったくだ」

伊織の苦労が耐えなさそうではあるが案外いい組み合わせなのかもしれない。性格の不一致で撫で斬りにされた例だって過去に数件あったと記録で読んだことがあるし、一先ず仲違いによる友の死は記録せずに済みそうだ。

「ところで私に用があって来たんだよね。もしかしてセイバーさんを紹介しにここへ?」
「いや、セイバーは別件だ。此処に来たのはナマエに伝えねばらぬ事を伝えるためだ。避けようのない騒ぎごと故、まずは怒らないで聞いて欲しい。昨夜俺は不測の事態に巻き込まれ手荒な浪人に有無も言わさず襲われた。命は取られずに済んだものの、荒屋の天井が抜けた際にお前から預かっていた簪も衝撃に巻き込まれこの通り…割れてしまった」
「あらら…これはまた見事に」

手拭いに包まれたそれは取れかけた飾り房を修理するどころか小枝を踏み割ったように割れている。飾り房と簪を結ぶ紐の色が変わっていることから修理した後に壊れてしまったのだろう。手荒な浪人と婉曲的な表現をしているが、実際に襲撃したのは赤い印を宿したマスターとサーヴァントだろう。さしずめ長屋で眠っていたところに他のマスター陣営に襲われた、だがセイバーに助けられて間一髪で助かったが長屋の天井に穴が開き簪はポッキリと割れたってとこだろうか。長屋の天井と簪一本を犠牲に五体満足で生き残るなんてなんて…呑気に謝罪しに来ている場合じゃないよ伊織。もっと危機感持たないと、死んじゃうよ。

「纏まった銭が手に入ったら代わりの簪を買って返す。悪いが、それまで暫く待ってくれないか?」

簪なんて。
簪なんてどうでもいいよ。

「簪なら他にも持ってるから気にしないで。代わりも要らない。そんな事より浪人に襲われたんでしょう?大きな怪我はしてない?簪が無事でも伊織が無事じゃない方が私は嫌だよ」
「しかし」
「しかし、じゃないよ。私の簪1本で命が助かったなら折れた簪に感謝して今日も生活費を稼ぐためにお勤めして来なさい!…それで、お勤めが終わったら店仕舞いの手伝いをすること。これでこの話はおしまい。さ、セイバーの言う通りこんなところで油売ってないでほら、行った行った」

割れた簪を包みごと受け取り用が終わったなら仕事に行きなさいと伊織の背中を押し店の外に追い出した。

「今日は何処まで出かけるの?」
「吉原だ」
「そっか。綺麗な女の人に鼻の下伸ばして懐緩めすぎないようにね?」
「どちらかと云うと鼻の下を伸ばした者たちの懐を戒めに行くんだが…そう云うナマエもあまり頬を緩めすぎぬように。摘むのも程々にしておけよ?」
「はいはい、私の事は良いから自分の心配だけしていなさいな」

軽口を叩きあい早く行こうと急かすセイバーに伊織は肩をすくめ柄頭に掌を乗せた。フッと息を吐きこちらへ向ける顔は凪のように穏やかだ。

「行ってくる」
「うん。気をつけてね。行ってらっしゃい」

去っていく2人の背に手を振って見送る。どうか2人とも無事に帰ってきますようにと折れた簪を握りしめながら。
サムレム2
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