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初めて会ったの。この時代で自分と同じくらいの歳の子。

篠突く雨。大通りに小さな池が幾つも溜まり、着物の裾が泥で汚れた人々が足早に通り過ぎていく。朝までの快晴が嘘のような悪天候にウチの子の顔をした混じり色の猫がゴロンっと寝っ転がり喉を鳴らした。裏で小豆を仕込んでいた父様が『この雨じゃ今日は店仕舞だな』と手拭いを外し暖簾をしまう。それならば私もと客人用の座敷を掃く手を止め、店の奥へ戻る父様の代わりに土間を下りほんの少し空いた戸の隙間を閉めようとした時だ。

あの子、こっちに来る。

大通りの真ん中。女の子を背中にしょった男の子が宛を探すようにキョロキョロと方向を定めかね、ふと視線が合った直後、彼はその足先を私に向け真っ直ぐとこちらへ走ってきた。女の子を落とさぬように片手を空け立て付けの悪い引き戸を軽々と引いた男の子はどれほど雨に打たれたのか、川から上がった死体のようなずぶ濡れ具合だった。
騒々しい戸の引き音に父様と母様が私の名を呼び店の奥から現れると、慌てて私から男の子を引き剥がした。母様は私を抱きしめ、父様は包丁片手に男の子を威嚇する。言葉一つで死ぬかもしれない状況だというのに男の子は突きつけられる刃物に臆することなく、背にしょった女の子を抱え直すと腰に携えた麻袋を差し出し深々と頭を下げた。

「カヤが、妹が熱を出したんだ。刀圭家にかかる金は無いし、凄く苦しそうで、どうしたらいいか分からない。頼む、金なら必ず払う。だからどうか妹を助けてくれ!」

髪から水滴を垂らしながら妹を助けてくれと土間に座り込み助けを乞う男の子の切羽詰まった様子に父様は包丁を下ろし母様と顔を見合わせる。うちは甘味処の商いを営んでいるが客足も少なく他所の子供の面倒を見るほど裕福ではない。私一人養うだけでもだいぶ生活を切りつめている。そこに病人の子供とやせ細った子供を一時的に保護する余裕など無いことは子供の私にも理解していた。このまま追い返すのだろうか。母様の腕を握り顔を見上げると母様は父様と同じ善人の顔で濡れた二人の子を見つめていた。差し出された麻袋に2人は1度足りたも視線を向けてはいない。素性知らずの私を娘として温かく迎え入れたこの夫婦はきっとこの子達も私と同じように。

「おい、おまえ。座敷に布団を敷いてやれ。俺は何か拭うものを持ってくる。坊主、名は?」
「伊織。宮本伊織だ。妹はカヤ」
「お嬢ちゃんはあたしが預かるからアンタはここで待ってな。背丈はナマエと同じくらいだね。女物で悪いが我慢しとくれよ。ナマエ、アンタの着物この子に貸してあげな」

土間に落ちた麻袋など目もくれず苦しそうに息を吐く女の子を母様が抱き抱え、裏から引っ張ってきた布切れの束を父様に渡され、2人はせかせかと病人を出迎える準備に取り掛かった。客人が来た時よりも慌ただしい店の音に転がった猫はいつの間にか姿を消し土間には布切れの束を抱えた私と濡れた衣服のまま座り込む男の子だけになってしまった。母様はこの子に服を貸してあげなさいと言ったが流石に桜色は…菫色の着物なら着てくれるかな。
濡れた髪ごと体を布切れで覆い、青白く染まった肌に布を当てる。手を握り立ち上がらせる際に気づいた皮膚の硬い掌と腰に携えた二本の刀。お侍さん、なのかな。随分と長い間雨に打たれていたのだろう。氷水に手をつけていたような冷たさを掌で包み込みいつまでも立ち止まったままの足を店の中へと案内する。
いつもとは違う客人にこの時の私は少しだけワクワクしていた。だって初めてだったの。この時代の私と同じ年頃の子と出会ったことも、目が合ったことも、手に触れ言葉を交わしたことも。

「ここ寒いから。中にどうぞ。お腹すいてる?おにぎりがあるから持ってきてあげる」
「…かたじけない」

何かが始まる予感がした。大通りの中を彷徨う貴方と目が会った瞬間、【何故】に満ちた私の人生に確かな【理由】がひとつ分かったような気がした。

***

厨から聞こえてくる朝の支度音に意識を覚醒させゆっくりと上半身を持ち上げた。残念なことにもう朝が来てしまったらしい。瞼を擦りながら顔を洗い欠伸しながらモタモタと着物に袖を通しているうちに厨から甘い香りが漂ってくる。きんつば、柏餅、それとも三色団子だろうか。きんつば以外がいいなぁ。通りすがりに摘めるし。

「おはよう父様。店の外掃いてくるね」
「こらナマエ、摘み食いはするなど何度言えば」
「あなた、鍋が吹いているわよ」
「おっと!こりゃいかん」

よし、今日の摘みはお団子。母様が丹精込めてこねたできたての甘味。お味は…うん。甘さ控えめで凄く美味しい。摘んだ指を掲げたばかりの暖簾で拭い半開きの戸を開けるやいなや数年前から我が家の家族面で入り浸る猫はいつもの特等席でゴロンっと寝そべった。いいなぁ、猫は気楽で。私も生まれ変わったら猫になりたい。それで一日中日当たりのいい縁側でダラダラしてお腹が減ったらご飯を貰うんだ。でもねこまんまあんまり好きじゃないんだよなぁ。長い着物の袖を襷で結びさほど汚れていない店先を箒で掃く。日も昇らないうちから暖簾を掲げた店は浅草の中でも多分うちだけだ。早起きの父様と早起きの母様。常に閑古鳥が鳴いている甘味処なのだからそう毎日仕込む必要などないだろうに、休むことなく働かなければ生活がままならないとせかせかと働く両親の健康状態が私は常に心配でならない。歳も歳だし2人にはゆっくり日々を過ごして欲しいというのが本音。だが2人が言うように店を常に開けておかないといつ客が来るか分からないし休みなく働かなければ食にありつけないのもまた事実。特に最近は多種多様な問屋が大通りに乱立し、物珍しい甘味処が浅草の町人を惹き付けてはうちへの客足が減っているのは見過ごせない問題の一つだ。どうにかして客を集めなければならない事は家族共々分かってはいるが、はてさてどうしたものか。とりあえず良案を探しに敵情視察でも行ってくるか。味見も兼ねて。

「ナマエ〜ちょっと手伝ってくれ」
「はーい!」

江戸時代。浅草下町の古びた甘味処。8年前、とある施設で行われた人体実験に参加し時空の歪みに迷い込んだ。幸運な事に五体満足で見知らぬ土地に飛ばされた私はひょんな出来事か娘を亡くした気の良い夫婦に拾われ、それ以降この店の娘として生活を営んでいる。
私の知る文明よりもはるかに退化した時代は未来人が暮らすには些か不便な事も多くあったが幸いにも人間関係には恵まれているようで何とか現地の人らしく振る舞えている。この先どうしたいかとかは何も考えていない。今はただ明日も今日と同じように穏やかな日々を延々と送りたい。それだけを考えながら今を生きている。

「ナマエ、カヤちゃん来てるわよ〜」
「はーい」

こっくりと首を上下しながらもぞもぞと口を動かすおばあちゃんへ茶をつぎ足しのれんをくぐって縁台へ顔を出す。先に甘味と茶を運んだ母様がすれ違いざまに「まぁゆっくり愚痴を聞いてあげて」と私の肩を叩いた。嘴のようにツンっと突き出した唇から長屋帰りであることはゆうに察しが着いた。さてさて、今日は一体どんな可愛らしい兄妹喧嘩をしてきたのやら。一人っ子の私が聞いてしんぜましょう。なんちて。

「こんにちはカヤちゃん。その様子だと、また伊織が無茶をしたの?」

袖を縛った襷を解きカヤちゃんの傍へ腰を下ろす。まぁまぁお茶でも飲みなさいなと底がみえる湯のみに茶を注ぐとカヤちゃんは口の中のものをゴクリと嚥下し、プックリと餅のように頬を膨らませた。

「そうなの!もう聞いてよ姉ちゃん!!兄ちゃんったらまたろくにご飯も食べないで稽古してたの。ついこの前なんか飢えてこそたどり着く境地がどうとかこうとか云って、結局お腹すきすぎて倒れちゃったこと、もう忘れてるの。今日だってあたしがおにぎりを包んでこなかったら兄ちゃん朝餉も食べずに稼ぎに行く気だったのよ。もう!…カヤは兄上の健康が心配でたまりません」
「とは言っても、伊織の稽古好きは今に始まった訳でもないからね。仕事の方は助之進様に紹介してもらっているようだしそれなりに稼いでいるとは思うのだけど…どうしていつも素寒貧なんだろうね」

誠実な人柄に無欲と倹約家を足し、そこから一月分の消え物やら生活費を差っ引いても何故素寒貧になるのか私の頭では皆目見当もつかない。私が知らないだけで実は浪費家なのか。花街で遊ぶ姿はこれっぽっちも想像つかないが、不思議とよく切れる刀やら手入れ道具やらに後先考えず懐を寒くする姿は容易に想像が着く。そういえば父様が言ってた。武具は持っているだけでも案外お金がかかるって。
世話のかかる兄を持って妹は大変だねと拳一つ分低い肩へと寄りかかる。するとカヤちゃんも体を傾けそれはもう盛大なため息をついてひとつ残した団子の串を駒のように片手で回した。

「あーあ、何処かにあたしに代わって兄ちゃんをお世話してくれる器用で賢くて優しい姉ちゃんはいないかなぁ〜」

あらあら、また始まった。カヤちゃんの嫁探し。世話焼きの妹を持って兄は果報者だね。

「そうだねぇ。じゃあ今度私がいい人を探して声をかけて「違ぁーう!あたしが言いたいのは…コホン。姉上、どうかウチの兄上を末長くよろしくお願いします!」
「…ん〜、伊織は多分私のこと妹のように思ってるからお嫁さんはちょっと厳しいと思うな」
「そんな事ないよ!!」

うーん、どうだろう。伊織やカヤちゃんとはもう随分付き合いが長く、恋愛を通り越しても家族のような関係性に近い。互いに数年歳もズレているため余計に三兄妹が拍車をかけている。伊織が阿呆な無茶をする度にカヤちゃんは兄の嫁探しに躍起になっているが、私の見た目ではそう焦らずとも2、3年後にはいい人の尻に敷かれている伊織が見られると思うんだ。頭の中は常に稽古稽古そのまた稽古と、食事を疎かにしてまでも熱心に稽古に打ち込む残念な武人だが、刀を抜きにすれば家族の贔屓目を抜きにしても中々の好男子だし。現に素寒貧さえ目を瞑れば夫婦になりたいと浅草中の娘に好意を寄せられている事は客の噂話からそれとなく聞いている。後は空から五月雨の如く貨幣が降ればカヤちゃんの心労も終わりを告げるだろう。

「伊織のお嫁さん探しはともかく、私からも食事はちゃんと摂るように言っておくよ。カヤちゃんが心配してたから無茶しないでねって」
「うん。すっごく心配してたって兄ちゃんに伝えておいて!」
「はいはい。すっごく心配してたって伝えておくね」

甘味で一服し、浅草の問屋街に新しく構えた店や他所の甘味処の偵察を兼ねて散歩をした後カヤちゃんは小笠原のお家へと帰って行った。お師匠様の繋がりで小笠原家の養女として迎え入れられてからは忠真様に迷惑をかけないようにと遠回しに浅草へ来ないよう伊織に忠告されているはずだが、空腹で倒れる兄が気になって仕方ないのだろう。浪人退治でお金を稼ぐと聞いた時はなんと命知らずな子供だと家族総出で馬鹿な真似はよしなさいと止めたが、今となっては命知らずな浪人退治よりも栄養失調の方が深刻な問題なのかもしれない。カヤちゃんのおかげで朝餉はありつけたらしいが、昼と夜は一体どうしてるのだろう。
日が山の裏へと姿を隠し始め、そろそろ店仕舞いだと父様が手を打ち客人に帰り支度を促す。今日も今日とて客足が少なかった。賑わっている甘味処とうちの閑古鳥の店は何処で差が生まれているのか、カヤちゃんと偵察に行ってきたが何一つ得た物は無い。正直味はうちの方が断然美味しい。味で客が来ないとなれば何がうちの店には足りないのだろう…甘味の華やかさ?

「何やら難しい顔をしているな。どうした、困り事か?」

あっ、伊織だ。まだ日も落ちてない刻にうちによるとは珍しい。今日の仕事はもう終わったのだろうか。衣服に返り血等の汚れはなく肌には特に目立った切り傷も見当たらないが、少し寄れた襟元や曲げに仕事帰りだと察する。

「んー、困り事と言えば困り事だけど…商売ごとの困り事だから父様と相談して解決しようかな。お勤めご苦労様。大きい怪我は…なさそうだね。よっ、流石二天一流の剣士様」
「こら、茶化すな」

とはいえ頬に張り付いてか溜まった赤黒い血は見逃せない。どうせ白玉粉で汚れているからこれ以上汚したところで。

「切れていたか?」
「少しね」

手拭いを左の袂から引っ張り出し粉が付着した箇所を折って薄く切れた頬に当てる。小さい頃は同じ目線だったのにいつの間につくしの如く背が伸びてしまったのやら。この高さでは踵を上げても頭のてっぺんに手が触れることは難しいだろう。
後は自分でやるからと手拭いを取った手の甲の痣に私は何処かで打ったのかと伊織に尋ねた。薄らと模様のような赤い痣、いや、火傷の痕と言った方が何となくしっくりくる赤だ。ともかく痛みはないのかと尋ねると伊織はいつできた痣か全く身に覚えは無いが痛みはないとケロッとした顔で答えた。痛くないなら別にいいんだけど。なんだか嫌な痣だ。

「暖簾は店の中に片付けておいたぞ。縁台と傘は何処に置けばいい」
「そこの端に立て掛けておいて。非毛氈は畳んで縁台の上に置いておいて」

ふぅ、伊織が手伝ってくれたおかげでいつもより店仕舞いが早く終わった。少し前までは父様と一緒に店仕舞いをしてその間に母様が夕餉の支度をしていたが、父様が腰を悪くしてからは店仕舞いは私の仕事になった。和傘も縁台も見た目を裏切らない重さで正直店開きと店仕舞いはあまり好きじゃないんだよなぁ。だからこうしてたまに伊織が手伝いに来てくれて凄く助かっている。私としては是非毎日手伝いに来て欲しいところだが…流石に褒賞もなしに働かせるのは心苦しいので想いは心の中で留めている。素寒貧にタダ働きさせるほど人間は腐っていない。

「ところで親父さんは今いないのか?」
「さっきお隣さんに調味料を借りに行くって言って、伊織とはちょうど入れ違いだったかな。母様は夕餉の支度中だけど」
「そうか。ならこれを親父さんに渡しておいてくれないか?」

そう言って伊織は懐から見慣れた麻袋を取りだし私に渡した。この口の擦れ具合は父様の麻袋だ。程よい重さが腕にかかる。まさかと思い紐を解き中を覗くと鈍い輝きが詰まっていた。

「お金?」
「嗚呼。実は先週、やむにやまれぬ事情で金を借りていてな。命拾いしたと伝えておいてくれ」

今度はまたどんな厄介事に巻き込まれたのやら。硬い表情筋から伝わってくる幸の薄さに苦笑いで話題に区切りをつける。それにしても伊織にしては麻袋が大分重いのでは無いだろうか。生活費まで含めてないよね、この重さ。これじゃあカヤちゃんが心配して小笠原家から兄の様子を見に来るのも頷ける。

「言伝のことはわかったけど…伊織、少しはお金持ってる?カヤちゃんが君のこと凄く心配していたよ。稽古も大切だと思うけど、ご飯はちゃんと食べなくちゃまた空腹で倒れちゃうよ」
「それは…うん。今朝方同じことをカヤにも言われたばかりだ。今回ばかりは反省している」

逸れた視線に自然と刀の柄に乗った左手。この様子だとまた同じことを繰り返しそうで妹も幼なじみも大変気苦労が絶えません。まったくもう。
ちょっとここで待っていてと伊織を土間で待たせ父様が伊織が来たら渡してくれと棚の上に用意された包みを持って伊織が待つ土間へ戻る。もう、呑気に猫と戯れている場合じゃないよ伊織。

「はいこれ、父様が伊織が来たら渡してくれって。三食は厳しくてもせめて1食はちゃんと食べてないと」
「…かたじけない」

包みには父様が握ったおにぎりと漬物が入っている。私ならともかく伊織にとっては1食にもならない少なさではあるがまぁ無いよりかはマシだろう。
夜が深くなる前にと伊織に礼を述べ引き戸を開ける。父様には責任をもって私から伝えておくと別れの挨拶へ移ろうとしていた時だった。

「ところでナマエ。お前が使っている簪なんだが、房飾りが今にもちぎれそうだぞ?」
「え、本当に?」
「どれ、少し貸してみろ。飾り部分なら俺でも直せるかもしれん」

妙に髪を見てくるなと思ってはいたがまさか簪が壊れかけていたとは。纏めた髪が崩れないよう簪を抜き伊織に渡す。伊織が言った通り飾り房の糸が今にも切れそうな程に擦り切れ頼りなく揺れている。他にも簪は何本か持ってはいるがこの簪が私の中では一番のお気に入りで出来る事なら直して使いたいのだけど。

「直せそう?」
「ああ。この分なら紐を替え結び直せばすぐ直るだろう。替えの紐なら確か前にカヤが長屋に置いていったものがあったな。色は多少違うだろうがちぎれるよりかは幾分かましだろう」
「そっか。じゃあ伊織が手隙の合間にお願いしようかな」

ああ、伊織の手先が器用で良かった。私も不器用な方では無いがこういった何がどう結んで形作っているのか分からないものを直すのは苦手というか、要するにそれ程器用では無いということだ。
今日はもう長屋に帰って寝るだけだそうで、明日にでも直して持ってきてくれるそうだ。勢い余って壊さないでねと軽口を叩いて伊織に簪を預ける。あ、そうだ。お駄賃渡さないと。とはいえ私も貨幣は今持ってないしなぁ…うん、奥の手を使おう。

「はい、簪のお駄賃。たまには甘いものもいいでしょう?」

昼に食べ損ね戸棚にしまっておいたみたらし団子を取りだし伊織の口にタレをつけた。面倒事に巻き込まれたとでも言わんばかりに眉間に皺を寄せ伊織はムッと口を結んだ。しかし腹の減り具合には敵わなかったのか、直ぐに大口をあけ一気に2玉も団子を口に含み頬袋に詰め込んだを

「後でお袋さんに怒られても知らないぞ?」
「大丈夫。伊織の名前を出したら怒られないから。それにもし怒られた時は伊織も一緒に怒られてよ。もう一口食べてるんだから同罪だね」
「しまった。頭の回る娘に嵌められこりゃあ一本取られたな。いた仕方なし。俺もお袋さんに怒られてやるか」

いつの間にか自分で串を持ちモゴモゴと口を動かす伊織の素直な空腹につい笑いが溢れる。腰元には刀を二本挿しているし、背は高いし、見るからに堅物な雰囲気と怖そうな面持ちで気楽に話しかけやすそうな人柄では無いが、こういう素直で可愛らしい一面を知ると不思議と見ているだけでほっこりする。
伊織は優しい。冗談も分かるし、困り事があれば聞いてくれるし解決もしてくれる。これがもし付き合いが短い関係性であればうっかり勘違いなんてしていたかもしれない。ただ5年以上も家族を含めた交流を続けていると恋にときめく年頃を抜きにしても向けられる笑顔は気のいい兄の笑顔にしか見えない。恐らく伊織は私をカヤちゃんより後に現れた甘味処の妹としか思ってないだろう。やはりカヤちゃんには悪いけどお嫁さん探しは他の人に当たってもらわないといけないようだ。

「さて、冗談はここまでにして。母様にバレる前に証拠隠滅を…」
「ナマエ〜」
「げっ」

伊織の名を出しても母様の説教は回避できなかった。客の為に作った商品を摘むなと母様に怒られ、伊織にいたってはちゃん3食食べなさいと別の事で怒られていた。
うちで片してしまう予定だった売れ残りの甘味を小脇に抱えぺこりと頭を下げ長屋へ帰っていく伊織を母様と見送り食卓につく。ここ最近は浪人が増えて浅草の町も物騒になったと話し、物騒な話題が上がる度に芋づる方式で始まる母様の一人娘に対する過度な心配性。『絶対にひとりで遠出しないように』と約束させてくる両親にもう私大人なのにといつまでも子供扱いな事への不満を募らさながらも口約束でその場を収める。カヤちゃんだって1人で出歩いている、彼女より数歳年上の私が1人で出歩けないなんておかしな話しだ。心配だ心配だと繰り返し一人娘の身を案じる両親に私はいつもの切り札『何かあったら伊織に助けてもらうから』で話に区切りをつけた。うちの両親は伊織に謎の信頼を置いている。正しい事を正しく肯定し悪しき事には刀を抜く切れ味の良い実直な性格に惚れているのだろう。人垂らしにまんまとたらされたとでも言おうか。かく言う私も両親と同じ伊織にたらされた1人なわけだが。
夕餉を済ませ、水を浴びて体を清め、灯りが消えるまで日々の記録を綴り床に就く。そしてまた朝日が昇れば昨日と同じ一日が始まるんだろうなと、呑気に錆びた簪を髪に挿し暖簾を掛けた。
浅草の外れに立つ堅牢な屋敷が一夜にして見るも無惨に破壊されたと目覚めたばかりの町に嘘みたいな噂が波のように広がるまでは。
サムレム1
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