籠の中の君

都合がいい妻を演じることはそう難しいことじゃない。牡丹の如く静かに座り、土筆のように背を伸ばす。返す言葉は二言三言。決して自己を表に出さない。周りの意見を常に肯定し、慎ましやかに笑みを絶やすことなく、他人の影に潜んでいればいい。私に足りない部分は周りが勝手に繕って上手く事を運んでくれる。
傀儡になりなさい。お前は黙って用意された席に大人しく座っていればいい。10年も血の繋がらない子供を育てた私たちの苦労を無駄にするな。黙っていればいい子なんだから、死んだ姉の分まで私達に恩を返しなさい。
養母はとても優しい人だった。手習いを忘れても叱らなかったし、いつも綺麗な服を着させてくれた。桜が見たいとせがんだ時は侍女に桜の枝を折って持ってくるよう頼んでくれた。本当のお母さんみたいで毎日衣の袖を掴み跡を継いで歩くほど大好きだった。
けれど大好きだった姉が死んだ途端養母は怖い人になった。言葉よりも先に手が出る事なんて日常茶飯事になったし、躾と称して断食を強いられたこともあった。毎日掴んでいたはずの袖も眼前で揺れる様を見るだけでまた庭へ競り飛ばされるのかと怯え足音を殺すように彼女の影を踏んで歩いた。
養母が嫌いになった。だが皮肉にも彼女の厳しく躾られたおかげで今の裕福な生活が成り立っている。広い屋敷、数多の付き人、綺麗な衣、仕事熱心な夫。皆が私を羨む。だがここには私が望むものはひとつもない。自由も話し相手も居場所もない。嫉妬に思惑、腹に一物を抱えた人達が集う蠱毒の空間。嗚呼、竹籠に囚われた雀が嘆く気持ちもよくわかる。ここは地獄だ。心休まる時は無く、孤独は絶えず命を蝕む。

竹籠に捕らえられた雀は今日も籠の小さな隙間を眺めながら、日がな一日同じ場所を跳ね回っている。嗚呼、可哀想に。私が欲しいと呟かなければお前は自由に空を飛んでいただろうに。逃がしてやりたい気持ちはある。けれど私の甲斐甲斐しい世話に免じ今はまだ私のそばに居てくれないだろうか。私もお前と同じなのだ。同じ場所に座り、同じ風景を眺め、同じ筆を握っては障子2面ほどの枠から空を眺めることしか出来ない。ここにはお互いに自由も居場所もない。孤独で、寂しくて、嗚呼、死にたくなる。

人の弱みを握る事に下人はたいへん忙しそうだ。ちょっと私が欠伸しただけでも彼女たちはせかせかと口を動かし毒を吐いている。

『朝から夜更けまで仕事だなんておかしな話と思わない?いくら主様が真面目な方とはいえ夜更けに都で物怪退治なんて、とても信じられないわ』
『噂で聞いたんだけど、昨夜朧上様に呼ばれて屋敷に行ったそうよ。なんでも朧上様の御息女が憑かれたそうで主様に診てもらうためと』
『あらあら、朧上様も人が悪いわ。姫様の婿探しに主様を狙うだなんて。仮名様が聞いたらなんと仰るか』
『何も仰らないわよ。仮名様も主様も互いの行動に無関心なんだから。ああそういえば、あの方また例の殿方に文を書いていたそうよ。まったく、没落貴族の娘の癖に我儘放題。これじゃあ主様が目移りするのも無理ないわね。愛想を尽かされるのも時間の問題ってとこかしら』

筆を執り雀と心を通わす怠惰な私と違い彼女たちは声をかける隙もない程にとても忙しそうだ。尋ねる時間を間違えたみたいだ。出直そう。真名は音を立てないようゆっくりと戸を閉め、床が軋まぬよう踵を上げ自室への戻った。お喋りに夢中なあの様子では秘密の訪問に勘づくことはないだろう。
ちょっとつまめる物を分けて欲しいと頼みに行ったはずが、あの空気じゃとても声をかけられない。夕飯時まで我慢するか。私も彼女たちも気まずい空気は避けたいもの。
畳に四肢を投げ出して井草の香りを肺いっぱいに詰め込むと真名はゴロンっと部屋の隅まで移動し竹籠を手元へと引き寄せた。私の味方はお前だけよ。肘をつき竹籠に人差し指を差し込むと慣れたように雀は指にとまる。小さい足が肉に食い込んでも真名は少しも嫌な顔を見せず、むしろ口角を上げて、全く悪戯好きな子だと綿毛のような体毛を親指で撫でた。

「ねぇ、一つだけ私の話を聞いてくれる?」

盗み聞きは褒められた行為でないけれど、あの綱様が朧上様の姫君と逢瀬と聞いた時は流石の私も驚いてしまった。驚いたというのは、名が挙がった2人は刀と鞘のようにお似合いな組み合わせで言葉数が少ない彼にもちゃんと女性の好みがあったことを知ったからだ。私はてっきり仕事の邪魔にならない人形のような方なら誰でもいいのかと...。
火のないところに煙は立たないとはいうが、それでも私の小さな頭では想像がつかない。仕事一筋の生真面目な方が一時でも刀を置き美しい女性との逢瀬を楽しむ姿なんて。噂の姫君と面識はなくとも彼女が吟じた歌や詩は存じている。どれも豪快且つ多弁で、恐らく気立てが良くて、お喋り好きで、天真爛漫な方なのだろう。さぞかし昨夜は熱く盛り上がった事でしょう。三日三晩部屋の端まで布団を離し床についた無機質な傀儡との逢瀬などあの方の記憶には初めからなかったように。
別にあの方がどこで火遊びしてこようが構わない。はなからあの方に抱く感情は愛ではなく憎悪も恐怖以外持ち合わせていないのだから。ええええ、どうぞどうぞ、お好きに楽しんでくださいな。その代わり私も好きにさせてもらいますから。

「いつまでも黙って従うほど聞き分けがいい娘じゃないんだから。…貴方もでしょ?」

バタバタと両足を揺らしながら同意を求めて指を軽く上下させると雀はピチピチと鳴きながら立派な翼を広げてみせた。どうやらこの子も既に飛ぶ準備は整っているらしい。私も全てを擲つ覚悟はずっと前から決まっているわ。広いくせに息苦しい屋敷へ越してきた日からずっと。私には健康的な2本の足、貴方には可愛らしい翼がある。せっかく生まれ持った宝物を屋敷の中で腐らせるなんてもったいない。私たちが居ても居なくても誰も探しに来てくれない場所で時間を費やすなんて真っ平御免だわ。
空が恋しいのか、この頃ずっと雀は空に向かって翼を広げて鳴いている。その健気な訴えに胸を打たれそろそろ逃がしてあげなければと思ってはいるが、これがまた可笑しな話しで、旦那様が私にくださった雀でも屋敷にあるもの全てが綱様の所有物だから私の独断で空に放つことは許されていない。何をするにも許可がいる。1羽雀を逃がすだけでもだ。

「…文の方が寛容であることを願うわ。私の逃避行の行方を祈っててね。といってもその頃の貴方は私の事など忘れているでしょうけど」

雀を囲む竹籠を軒に引っ掛け、ふと目を遣った御簾の奥に積み上げた文の束に燻る胸のざわめきに気待ちが急く。誰が書いているのか、何処から届けられているのか、週に1度運ばれてくる1枚の文は周りが邪推するような恋や和歌など浮かれた内容は書かれておらず、季節の移り変わりや都の流行りといった世間話ばかりが淡々と述べられているだけのもの。年頃の娘が受け取ったら間違いなく破り捨てられるつまらない内容だが、真名にとっては十分に退屈を凌ぐ娯楽たり得るものであった。住み慣れた家を離れてからは話し相手もおらず、どこに居ても嘲笑が絶えない悪質な環境に身を置くと自室へ塞ぎ込むのも無理はない。食事もろくに喉を通らず、横たえた体を起こすのも億劫で、憔悴し、すっかり弱りきった頃だ。前触れもなく彼女の元へと届けられた名も知らぬ花は真名の孤独を和らげ、花に添えられた文に目を通した時真名は数日ぶりに己の鼓動を感じたという。
一方的に届けられる文に真名はいつしか筆を執り部屋から見える景色や都で有名な清少納言の歌の感想などを書き記した。そして返ってきた文に『面白そうだ』と味気ない感想が1つ書かれているだけでも真名は顔を綻ばせ満足していた。幼い頃から自己を表に出すなと躾られてきた。お前の言葉など誰も求めていない、発したところで誰も取り合わないと。しかしこうして自分の言葉に対して相応の言葉が返ってきた。嬉しかった。たった一文の返事でも自分の言葉に耳を傾けてくれる存在がいる、その事実がしれただけでも満足だった。実体が見えずとも彼女が欲していた話し相手の出現はいつしか折れかけていた心の支えとなっていた。
筆を執り文が雪崩を起こすほど重なるにつれ真名の目が屋敷の外へと向かうにそう時間はかからなかった。
起伏のない日々を繰り返しながらも真名はひっそりと、しかし着実に部屋の荷を片していった。要らなくなったものは他に譲り、貰った文は束ねて風呂敷の中へ。さぁ、やっと貴方の番だ。そう竹籠の雀へと言葉をかけると真名はちょっと待っててねと部屋の隅に籠を置き玄関へと向かった。

「行ってくる」

日が落ちる頃に帰宅し、その数刻後にはまた戸に手をかける綱へ真名はお気を付けてと言葉をかけた。お気をつけて...あ、この場合は行ってらっしゃいませの方がよかっただろうか。姫君との逢瀬にをつけてなんて失礼だったかもしれない。
細かいことに気を配り勝手に疲れため息を着く私と比べ人間味の薄い綱様は今日も腰に刀を携え私に背を向ける。側室なんて聞こえのいい浮ついた関係が蔓延る世の中だ、抜く予定のない刀など置いて行けばいいのに。

「あの」

いつも静かに見送っていた女が突然声をあげたことに旦那様は戸から手を離しゆっくりと振り返った。考えが読めない表情と対面していると言いたい言葉が喉に引っかかって、でもここで押し黙っては屋敷を飛び出す勇気もでまいと真名は震える手に爪を立てた。

「な、長く竹籠に閉じ込めていては雀も弱ってしまいます。空に放ってもよろしいでしょうか...」

視線が落ちるにつれだんだんと言葉尻が弱くなっていく。口に物を詰めた話し方では誰も取り合ってくれまい。言い終えて後悔し嫌な汗がドっと吹き出した。それからどうしても雀を逃がしたい真名はもう一度伝え直そうと口を開いたが、上からじっと見下ろされる居心地の悪さに口を噤み震える指を長い袖の奥に隠した。無口と話し下手は同じ屋根の下に住まうものでは無い。浅く肺を膨らませ忍ぶように息を吐く。それを3度繰り返し、なんでもないと顔を隠すように目線を下げたその時、

「好きにするといい」

一言。たった一言。顔を顰めることも緩めることもなく、呆気なく裁量を委ねた綱に真名は心の中で拳を握った。勝った。生まれて初めて自分の意見が通った。月明かり照らす夜の世界へ消えていった綱の足音が途絶えるや否や真名は自室へと駆け込み深く息を吐いた。強い緊張感から解放され壁に背を預け座り込んだ。怖かった。場合によっては生意気だと斬られていたかもしれない。震えた手で腕を掴みよくやったと自分の体を労った。暫くして指の震えが止まり足に力が入るようになると真名は小刀を握ると部屋の隅に置いた竹籠を抱き寄せた。

「先に行きなさい。私もすぐに追いつくから」

小鳥一羽なら容易く潜れる穴に手を差し入れる。さぁ、待ちに待った自由よ。おいでおいでと指を揺らすと雀は小さな嘴でチョンっと薄桃色の爪をつつき、掌に体を寄せた。私の手がなくとも自力で逃げ出せるというのに、籠から手を引き抜いてもなお私の掌にとどまり続けている。私との別れを惜しんでいるのだろうか。だとしたら少しだけ空に放つことが惜しく思ってしまった。彼は憧れ続けた空をじっと見つめていた。そして『さぁ、行きなさい』と掌を開くと雀はゆっくりと翼を広げ丸い月を見据えると振り返ることなくその細い足で掌を蹴った。去っていく影は星が流れるように美しく眩しくて、裸足のまま庭に飛び出した私は一足先に屋敷を飛び出した友の門出を心から祝福した。遠くへ。誰にも捕まらない場所へ。離れていく星のこれからを、そしてどうかこれから旅立つ私にも祝福を。真名は願いをかけるように手を組むと美しい満月へと濡れた長いまつ毛をそっと伏せた。