橋の上にて

静寂包む夜のこと。青白い月が淡く照らす五条の橋に男装の麗人が一人白い息を吐きちょうど橋の真ん中で歩みを止めた。どれほど遠くまで走っただろう。怖々と後ろを振り返った麗人は追っ手の影がないことにホッと胸を撫で下ろす。もとより人望が厚い人間でもなかったため追っ手に警戒する必要などなかったが、辺りがこうも暗いと心細くなる。当然ではあるが足音どころか人の気配もなく犬の鳴き声だけがたまに聞こえるくらい。きっと彼らは頭を下げて頼んでも追いかけてはくれまい。疎まれても尊ばれることは無かった。世間体を気にして旦那様が捜索を命じない限りは誰も私の逃避行など気にもかけまい。家出なり駆け落ちなりどうぞご勝手に。彼らはそういう人たちだ。
纏めた髪を被った市女笠で隠し真名はせかせかと足を動かし橋を渡る。誰も追いかけてこないのならばゆっくり歩いて渡ればいいものを。怪異を信じる年頃ではない。といえやはり女一人の逃避行は危険が多い。特に安全な逃げ道が前後と限られた橋の上では誘拐が後を絶たないと聞く。鬼や怪異といった類の話が都に広まってからというもの月明かりの下で寝そべる浮浪者や乞食の姿は減ったと聞く。しかし育ちがどうであれ、女の一人歩きが危険であることくらいは世間知らずの真名も承知していた。それ故に長く伸ばした髪を纏め下人の服を拝借し市女笠を深く被り若い男を装っていたのだが…隠し損ねた生白い茎のような足でせっかくの変装も台無しであることに彼女は気づいていない。幸いにも橋の上を歩く者は真名だけ。夜の深さが彼女のあと一手足りない変装を完璧まで繕っている。履き慣れない草履に指の股を痛めながらも真名は文を詰めた風呂敷を背負い黙々と歩く。そしてついに橋の袂を視界に捉え笑みを零したその時、それは雛鳥のようなか弱い声で真名の気を惹き付けた。夜闇の中、前方に小さな塊が蹲っているのが見える。あれは…子供だ。まだ小さい。5つくらいだろうか。啜り泣く声を放っては置けず真名は道を逸れると橋に蹲る塊の前で足を止めた。家出だろうか。春の夜はまだ冷えるというのにその格好では風邪をひいてしまうだろう。布切れ一枚で啜り泣く子供に真名は自身の羽織を1枚脱ぐと肉の薄い体に掛け、膝を折り目線を揃えた。

「こんばんは。どうして泣いているんだい?お母様やお父様は?」

男性の優しい話口調を知らない真名は手探りで『青年』を演じながら子供に話しかけた。軽く市女笠を上げ、私は怖い人じゃないよと笑顔で話しかける真名に対し子供は膝に顔を埋めたままただしゃくりをあげるだけ。泣きじゃくってばかり。言葉を返すどころか顔を合わせる努力もしない。これが市井の人ならば話にならない子供だと言葉を吐き捨て適当に放って橋を渡るところだが、声を殺して泣く子供の姿がかつての自分に重なったのだろう。真名は見捨てることなく子供へと言葉をかけ続ける。

「事情を話してみなさいな。少しは気持ちが楽になるかもしれないよ」

親と喧嘩したのかと尋ねれば子供はやっと反応を示し、ゆっくりと頭を横に振った。子供の返答に真名は少し考え、罪深いことをしたのかと問いかけたが子供はまた首を横に振って否定するだけ。具体的な原因は何も分からずどうしたものかと頭を掻きながら真名は思いつく原因を頭の中で並べていた。するとどういう心変わりか、急にしゃくり声が聞こえなくなったことに真名はたいそう目を丸くし蹲る子供を凝視した。なんだろう。まるで泣いたふりでもしていたかのような、不気味なまでに速い感情の切り替えは子供にしては異常だった。子供特有の愚直で無邪気な感情を捨てるには些か早すぎやしないだろうか。説明がつかないおぞましさにひっそりと打ち震えていると子供は小さな声で「...おなか、おなかが空いた」と呟いた。そして蹲ったまま子が腹に手を添えた直後、力が抜けるような鳴き声が橋の上に響き渡った。

「何も食べていないのか?」
「うん。もう三日も食べてないの」

三日も水だけで凌いできたと語った子供に真名は顔を顰めた。怪しげな雰囲気を纏う子供とはいえ、育ち盛りが空腹に飢えているとは何が花の都だ。都に花を咲かす種は3日も食にありつけず飢えているといのに貴族は体型を気にして箸もつけずに膳を下げている。なんて酷い現実だろう。
自分から話しかけた手前、子の抱えた空腹を満たしてあげたい気持ちは山々だが生憎胃に詰める物は何もない。風呂敷には文と水と少しの黄金。逃避行に用意した最低限の持ち合わせは他人にやれるほど多くはなく、無駄遣いする余裕すら一銭もない。だが黄金など無くとも腹が減れば木の実を取って食べればいい。喉が乾けば川の水を飲めばいい。外の厳しさなど露も知らぬ真名はそんな脳天気な発想で懐に隠した黄金を握り子供に手を差しのべた。

「...それは可哀想に。少し待っていなさいな。夜更けとはいえ一人くらい商いに勤しむ者がいるはず。さぁ、手を」

急に話しかけてきた人間が慈悲をかけてくれると聞き強い警戒心は解けたのか、子供は膝に埋めた顔をゆっくりと持ち上げた。
言葉を交わし漸く顕になった顔は月光のせいだろうか。肌は病に伏したように青白く、朱を吸ったような唇と線を引いたような目が愛らしい顔立ちを不気味に仕立てている。
大切な何かを私は見落としている気がする。漠然とした違和感に指先が打ち震えていることも忘れている。取り返しのつかない失敗を犯した。けれど何を失敗したのかまでは分からない。場の冷ややかな空気にツと冷や汗が輪郭をなぞる。ポタリと足元へ落ちた汗を怯えた視線が追いかけたその時、自分の影がやけに子供よりも小さい事実に息を詰まらせた。

「ありがとう優しいお兄ちゃん、いやお姉ちゃんかな。どちらにしても...とぉーっても美味しそうな腕。うふふ、あはは!!」
「あっ...」

不健康に伸びきったものとは違う刃のような黒い爪が震えた手首を掴み捻りあげた。月下に露となる青白い大人の手がさぁ来いと私の手を引く。抗う術はなかった。抗う術を知らなかった。小さな影に歪な影が被さる。あれほど美しかった月はどこで輝いていただろう。灯りのない廊を歩いているような心細さが奥歯を震わせる。尖った歯を剥き出しに生ぬるい吐息が腕にかかると時間が経った鉄の香りがツンっと鼻を刺激した。

「いただきまぁす!!」

嗚呼、噂は本当だったのか。額から生える芽のような角と赤々と燃える獣のような眼。グッと近づいた距離に気の早い心臓が鼓動を止めた。現実から目を背け瞼をつぶると一瞬にして掴まれた腕から感覚が消えた。喰われたんだ。処理しきれない情報の多さに痛覚も正常に動作しない。これが噂に聞く鬼の悪行か。落ちた市女笠を追いかけるように体制が崩れていく。膝皿が橋板に着いた。心の中で九字を切り、嗚呼いよいよかと大好きだった姉の名を呟いたその時だ。

「ここにいたか」

感情を感じない低音が脳裏に現れた姉の姿を消し去った。影のようにヌルッと現れた太い腕が胴に回り白い羽織の内側へと私を匿う。嗅ぎ覚えのある荷葉の香り。何故こんな場所に彼が。姫様との逢瀬に出かけたはずではなかったのか。
狩衣の皺を辿りながらゆるゆると顔を上げ、留め具、胸元、襟元の装飾に差し掛かった時、足元から聞こえた鈍い音に反射的に視線が落ち、転がった細い腕に驚き思わず近くにあった体へとしがみついた。私の腕。落ちた自分の腕を拾うために慌てて手を伸ばす。だが床板に落ちた腕がやけに細く爪が尖っており、斬られたはずの腕を伸ばしている事実に私はハッとし羽織の中へ手を引っ込めた。

「おのれおのれおのれおのれ!!!人間風情がぁ!!!!」

野太い雄叫びが豪風を呼び寄せる。腕を切り落とされた怒りを爆発させ、愈々人の形を捨て残る四肢の爪を研いだ。瘴気を撒き散らすこの世のものとは思えないなんともおぞましく醜い姿に真名は悲鳴を抑えることができなかった。今度こそ喰われる。縋るようにしがみつき目に涙を浮かべる真名とは対照的に武人は剣を構え怯むことなく鬼を見据えている。分厚い雲が月光を遮った直後、視界から鬼が消えた。そして次にあの恐ろしい姿が視界に現れ膨らんだ巨体が丸ごと彼の間合いに入り込んだ瞬間、迷いのない一閃が己の何倍も大きな体を真っ二つに切り伏せた。
中央を避けるように肉が裂け細かな肉片が橋から滑り落ちた。信じられない。人が鬼に勝った。それも怯む素振りもなく易々と鬼を切ってしまうなんて。涼し気な顔が刀の汚れを振り払う様を真名は呆然と口を開け見上げる。まさかこの方も人ならざるものとは言わないだろうか。人間離れした芸当を見たせいか、感情が乗らない表情が恐ろしく見える。地に足が着いても尚しがみついていた自身の腕に気づき真名はハッと声を漏らし弾かれたように武人から距離を取り落ちた市女笠を被った。

「...た、助けていただきありがとうございました。それでは私はこれで」

暗闇で顔を隠しやや早口で礼を述べる。どうして彼がこんなところに。情報量の多さに頭の中は未だ混乱しているが鬼よりも恐ろしい男の登場に真名は他人の振りを装ったまま逃げ道の方向へと体を向けている。洛外まであと少し。ここで連れ戻されるわけにはいかない。
…そもそも、彼にとって私は連れ戻すに値する人間なのだろうか。1度だって彼から名を呼ばれたことは無いし、私が隠れて名も知らぬ御人と文を交わしている事実すらも知らない。知っていたところで咎めてきそうな人でもないが。邪魔なら目を瞑って見過ごせばいいのに。こんな私でも手元に置く方が彼にとっては都合がいいようで、刀を鞘に収めた武骨な掌は今にも走り出しそうな肩を掴み「何処に行く気だ」と走り出す直前の足を静止させた。威圧的な視線が今にも駆け出したい気持ちを分厚く削いでいく。深く被った笠を持ち上げ顔を覗き込んだ黒い眼に真名は驚きと悔しさを顔に滲ませる。なんだ、腰の刀は飾りじゃなかったのか。流石は頼光四天王の一人。人間離れしていらっしゃる。

「怪我はないか?」
「…はい。擦り傷ひとつありません」
「そうか」

肩を掴む手が離れ『夜更けに薄手の格好では風邪をひくだろう』と徐に羽織の紐を解き私の肩にかけた。内心何やってるんだと呆れているくせに彼はため息一つつかず『屋敷まで送り届ける』と言ったきり口を開けることは無かった。罪など犯してないのにまるで罪人のようだ。前を歩く彼の後を頭を垂れ渋々着いて歩く。あと少しで洛外だったのに。美しく刈り上げられた後ろ髪を真名は3歩後ろから恨めしそうに睨みつけ、わざと少しづつ歩幅を狭め距離を広げた。一度の失敗がなんだ。あんな屋敷に戻るくらいなら橋から飛び降りた方がいい。この状況下でも真名はまだ逃げ出す機会を伺っており、隙を見て橋から身を投げ逃走しようと画策していた。しかし当然ながら真名の浅はかな計画が功を奏す訳もなく、10歩歩いては1度振り向く頻度で真名の歩みに目を光らせる綱の用心深さには逃げ出す隙もなかった。
いっその事もう一度鬼が現れこの人の相手をしてくれないだろうか。恨めしそうに綱を睨みつけながら不貞腐れた顔で歩く真名。ふと綱が本人も気づいてないであろう鼻緒擦れに気づき綱は真名が暴れることを見越して彼女を小脇に抱えた。当然真名は何をするんだと怒り暴れたが、自身のすぐ真横で揺れている刀に気づき抵抗を控えた。
もし『あの時』私が碓井様もしくは卜部様を夫役に選んでいたら俵感覚で雑に運ばれることは無かったのだろうか。何から何まで神経を逆撫でする御人だ。真名はこめかみに筋を浮かべ不貞腐れたように浮いた両足を揺らした。犬の方がもっと敬意ある抱き方で運ばれると心の中で文句を垂れながら。