『なまえちゃんは魔法使いなんだね!』

私の掌を覗き込んだあの子は目を輝かせそう言った。魔法使い。本の中だけに登場する架空の存在。現実にも魔法使いや魔女を名乗る人は多くいるがその殆どが偽物だと言われてる。
…でも 私は。私だけは。
もしかしたら、ひょっとして。
存外あの子の言う通りなのかもしれない。掌を蹴り上げ雑草の中へ帰っていった五体満足なバッタを見送る。数秒まで死にかけていた命が私の掌で息を吹き返した。私の手は魔法の手。この瞬間、私は生まれて初めて自分の価値を高く見積った。

小学校高学年、夏。早々と水着から私服に着替えたクラスメイトは教室に戻っていく真面目くん達を尻目に更衣室横に生えた雑草に踏み入り跳ねるバッタを捕まえて遊んでいた。遊ぶといっても捕まえて観察したりペットとして飼育するなんて事はしない。大抵は虫嫌いを追いまわす玩具にするか意味もなく手足を捥いで鈍くなる動きを観察するかの残酷な二択だ。残念ながら子供という生き物は人の成熟過程の中で最も残酷で無知な未熟者で、ちょっと生物の授業を齧ると悲鳴を上げない小さな命を好奇心の赴くままプラスチック人形同等に解体してしまう。だから無垢な殺戮者から命からがら逃げ延びたバッタは体長が長いほど欠損している個体が多かった。
虫は嫌いだ。色とか節だらけの体つきとかちょっと想像しただけでも鳥肌が立つ。それにプール横に生息している虫はどれもこれも欠損してるし尚更気持ち悪い。けれど勇気を出せば触れるし潰せる派の私は果敢に雑草に踏み入ることはせずグループの子が集まるのを木陰で涼みながら待っていた。遅いなぁ。女子更衣室の扉が開く度に顔を上げてはまた違ったと靴の先の汚れを眺めていると虫狩りに出かけていたグループの子が嬉々とした表情で私の元へ駆け寄った。『ほら見て!』と彼女は鼻を膨らませて膨らませるように合わせた両手を開く。この子の前世は猫に違いない。初めて自力で捕まえられたと得意げに獲物を見せびらかす彼女は食べも飼いもしない両足がちぎれたバッタをなんの嫌がらせか私の掌に落とした。全身の肌が粟立ち吐き気が込上げる。気持ち悪い。カサカサとちぎれた両足を必死に動かし身を攀じる。だが両足がもげた体ではどうすることも出来ず掌でコトンっと横たわったまま動かなくなった。気持ち悪い。でも、可哀想。捕獲され、自慢の道具にされ、好き勝手手足をもがれた後は飽きた、気持ち悪いと悪態をつかれ灼熱のコンクリートの上に放り捨てられる。可哀想...でもやっぱり気持ち悪い。
適当に狩りの腕を褒めたら捨ててもいいだろうか。もぞもぞと触覚を動かす緑を一刻も早く捨ててしまいたかった私は“凄いね”と薄っぺらい賞賛の言葉を送り器のようにくっつけた両手を離す寸前、

「うわっ!」

それは掌から火花が散ったような一瞬の驚きだった。文字通り虫の息だった緑がぴょんっと蛙のような見事な跳躍で尻もちをついた女子2人の横を通過し雑草畑へと帰っていく。さっきまで掌で死にかけていたとは思えない跳躍に私たちは互いに顔を見合せる。あれは目の錯覚だろうか。去り際に見えた幻の両足に首を傾げる。何処からが現実だったのだろう。溜まった唾を喉の奥へと押しやり説明のつかない事象に納得がいく可能性を探しあぐねている理屈っぽい私とは対照的に赤ちゃんはコウノトリが運んでくると本気で信じているあの子は非現実的な光景を既にすんなりと飲み込みんでいた。そして立ち上がることすら忘れている私に憧れを固めたようなキラキラの目で『なまえちゃんは魔法使いなんだね!』と言った。今の光景を見たら普通私じゃなくてバッタが特別なのかもしれないと疑いを持つのがセオリーだと思うのだが、あの子は少しも他の可能性を疑う素振りも見せず自信満々にバッタではなく私が特別なんだと断言した。確たる証拠なく、たった一度目にしただけの非現実の出来事。今思うとあの子は未来予知の術式持ちだったのかもしれない。正確に言うと私は魔法使いではなかった。でも“特別”という点では当たっていた。私だけに与えられた特別。良くも悪くも私の人生はこの日を境に“特別”に振り回されることになるなんて、この頃の私は露にも思っていなかった。

口を開けば『今日ね、学校行ってる時にスカウトマンに声をかけられたの〜』と平然な顔で嘘をつく子の話を真に受ける人は1人もいない。けれど魔法使いの御業を刮目すれば皆たちまち掌をころっとひっくり返した。足を怪我した澪ちゃん家の犬も、紙で切った七彩ちゃんの指も、足の骨を折った倫太郎くんの怪我も全部私が治してあげた。最初こそは私も半信半疑でこんな馬鹿げた非現実が有り得るわけがないと無理に手を引くあの子を言葉で突き飛ばした。けれど他人から何度もあなたは特別なんだと持ち上げられるとそういえば妙に怪我の治りが人並み以上に速いかもしれないと変に意識し始める。徐々に気乗りして、物は試しとあの子が引き合わせた転んだばかりの子の膝皿を掌で覆った。驚いたことに非現実は現実となり掌で覆ったはずの傷はたちまちに跡形もなく消えた。
どうやったのかと聞かれてもなんて答えたらいいか分からない。治りますようにとお願いしながら治った後の患部をイメージしてエイッ!て感じ。特別なことは何一つしていないし、コツというコツもない気がする。
魔法を使い始めて気づいたことは1つ。それは傷を治す度に小さな眠気が加算していくことだ。私は比較的真面目な子供だったから居眠りなんてしない子だったがこの頃はよく授業中に船を漕いでは先生に大声で名前を呼ばれていた。自分でも良くないこととは分かっていた。けれどグループの仲間でありクラスカーストの上位に位置するあの子に魔法を見せてとせがまれたら断わりづらい。だから私は頼まれるがままに魔法を使い続け、その代償として先生から今日も居眠りかと見事に問題児認定されてしまった。担任からの連絡が増えるに比例し両親の顔は険しく食事時には常に嫌味が食卓に並びとてもおかわりできるような空気ではなかった。だが大人達に嫌われる一方で私はたった3週間弱でクラスカースト上位へと上り詰めた。常に周りには誰かがいて私を褒め讃える。まるで女王様みたいだと調子に乗っていたのは言うまでもない。
大いなる力には大いなる代償が伴う。険しい顔をした英雄が腕を組み偉そうに語っていた言葉は辛うじて頭の隅にあった。しかし『マジシャン』『魔法使い』『神』へと徐々に昇格していく肩書きへすっかり悦に入っていた幼い私は今振り返ると顔から火が出るほどに有頂天で、周りが見えていなかった。教室の隅から向けられていた敵意を含んだ冷えた眼光も、小さな舌打ちも。
人の枠から外れかかっていることなど気にも留めず、鳩にパンくずをばらまく感覚であちこちに奇跡と善意を振り撒いた。この頃になるとあの子に手を引かれたからというよりも率先して手を引いていた気がする。自主的に目立つようなタイプじゃなかった。けれど不思議な手を持つ“特別な子”としてクラスの中心で持て囃される生活に良くも悪くも性格が変わったのだろう。周りから必要とされる事に喜びを覚えていた。そんな私の喜びを一転させる出来事は唐突に私の片足を掴み地獄の日々へと引きずり込んだ。

あの日の空は灰色の雲で覆われていた。雨が降り出す前に帰らなくちゃ。玄関に置きっぱなしにした折り畳み傘を思い出した私はランドセルに教科書を詰め込んでいた。背中越しに感じる嫌な空気から必死に目を背け下校時間を告げるチャイムが鳴った途端走って教室を飛び出そうとした。けれどできなかった。ランドセルを背負った直後周囲を女子グループに囲まれてしまったからだ。

「きっしょ」

そう言って目を伏せたあの子は投げ出した私の手を踏み特別と言ってくれた手に粘っこい唾を吐き捨てた。切れた口の端が秒速で治る様を見下ろす瞳は『魔法使い』だと目を輝かせていた頃と比べ泥水に墨汁を混ぜたように濁り一欠片の光も見えない。『放課後空いてる?』賑わう机を尋ねてきたあの子に私は空いてるよと首を振るしか選択肢がなかった。処刑台に向かう足取りで彼女達の影を着いて歩き、雑草だらけの神社の裏でちょっと前まで行動を共にしていた子達に羽交い締めにされ、日が暮れるまで罵倒され、殴られ、服を破かれた。ポケットに突っ込んだままのジュース代も気づいた時には消えていた。犯人はあの子達だ。草むらを探しても見つからなかったから絶対にあの子達だ。でもどうして私は虐められたのだろうか。これまでの出来事をふりかえっても全く心当たりがなく、でも怒っているなら謝るべきだと次の日いつもより10分も早く学校へ登校した。そして自学級の廊下に一組の机と椅子が派手に投げ捨てられていた光景に頭が真っ白になった。教室を覗くと私が使っていた机と椅子がどこにもなくて、意を決して覗き込んだゴミ箱の中には持ち帰らなかった教科書が丁寧に切り刻まれ消しカスや塵の中で埋もれていた。
突然牙を剥き襲いかかった非情な現実に精神はゴリゴリとすり減っていく。心臓が激しく鼓動を打ち、予告なしに始まった終わりの見えない地獄に指が震える。耳につく冷ややかな笑い声。狭まっていく自分だけの居場所。捨てられた机を元の位置へと運ぶ最中空っぽだと思った引き出しの奥からコロンっと四肢をもがれ息絶えたバッタの死骸が私の上履きの上に滑り落ちた。嗚呼、たぶんこれは私自身なんだ。そう思うと可哀想の言葉が虚しく感じた。
子供ほど残酷な生き物はいない。これから辿る末路を物語るような死骸に落ちぶれた神の有様を意地悪い人々は愉悦とばかりにほくそ笑んでいる。バッタ狩りの次は魔女狩りか。上履きに乗った死体をゴミ箱に埋葬し規定の位置に机を運ぶ。中身が何も入っていないと机がこんなに軽いなんて知らなかった。そんな強気な言葉で無理やり己を鼓舞しながら必死になって溢れる涙をこらえた。

友達と呼べる人は多いほうじゃなく狭く浅くな人間関係が私にはちょうど良かった。なので所属していた女子グループから見事に外された私は一日中影を見つめて過ごす時間が多くなった。

「お願いだからこれ以上問題は起こさないで」

憂鬱だった。毎日。
何処に行っても居場所がないし名前を呼ばれる度に人気のない場所へ呼び出されては殴られるか、説教を受けるかの二択。両親も、先生も、友人と読んでいた人たちも『なまえ』と呼んでくれなくなったから眠る前に自分が誰かを問いかけるように毎夜自分の名前を唱えるようになった。浮いた存在がそのまま遠くへ飛んでいかないように。
影を見つめる暗黒時代を抜け受験期を乗り切ると地元から少し遠い中学校へと進学を決めた。通学費にお金がかかるからと両親はあまりいい顔をしなかったが、近所の目を考え最終的には折れてくれた。小学校の苦い思い出を無かったことにするため、常に平凡な人間を演じ特別を排除した。すると私の慎ましい努力の甲斐あって交友関係に問題はなく環境も今のところ悪くはない。進学校のスピードに振り落とされないよう熱心に勉学を励み放課後は流行りを求めて友達と街で遊んで帰る。膝皿を隠した健全なスカート丈で廊下を走る真面目と不真面目の中間体を集めた女性徒グループはまさに私が求めていた心地よい居場所で青春だった。誰も私の過去を知らない。奇特な目に晒されることもない。多数派の空間がこんなにも居心地がよかった事を長く忘れていた。ようやく掴んだ普通の学校生活送って。どうかできるだけ長く、誰も私の秘密を暴きませんように。祈るように手を組みひっそりと穏やかな時間に浸かっていたかった。望みは至って慎ましやかだった。何も欲張ってはなかったはずだ。それなのに、どこかの馬鹿が流した噂のおかげで私の穏やかな日々は音を立てて崩れ落ちた。

「ごめん、ちょっと無理だわ」

他人と違う事を人は『個性』と呼ぶんじゃなかったのか。多数派に突き放された二度目の人生。心臓を刺す痛みはそこまで私を苦しめなかったが足速に去っていく背中がいつまでも目の奥から去ってくれなかった。やっと手に入れた私の青春はたった3ヶ月で終わりを告げた。あまりにも速すぎる終幕だった。
幸いにも小学校のような過激なイジメはなかった。偏差値が高い中学校に通っていたこともあって実力行使よりも陰湿な嫌がらせの方が精神的にクル事を知っているからだ。机が廊下に放置されることは無かったが、シカトと紛失物に頭を抱えるなんて事は日常茶飯事。悪口、陰口、ありもしない話の尾ひれ。耳に入ってくる話を聞く限り、私を嫌っていると言うよりは得体の知れない力を持った私が怖かったのだろう。自分自身把握できていない奇妙な力を皆恐れ誰も寄り付かなくなった。不思議や奇妙なことが好きそうなオカルト部すら私を避けていた。周りに配慮して常に手袋を嵌めるようにしたけれど寄せられる好奇な視線を見る限り効果は全くなかった。あんなに声に出して呼んでいた友達の名前すらもう思い出せない。今日は保健室でサボり。明日は教室。常に外の雑音を音で塞ぎ、一日も喋らなかった日なんて数え切れない。周りから弾き飛ばされてもせめて人の枠から外れないようにと自分なりに努めた。けれど当時まだ流行していた雪の女王の影響もあって私の人外はますます加速していった。思い出そうとにも思い出せない真っ白な中学校生活だった。
両親に言われるがまま受験を終え卒業式を迎える前に母方の祖母が住む東北へと追いやられた。厄介者に振り回され周りに常に近所の噂のネタにされる生活が終わることを心の底から喜んでいたのだろう。新幹線の乗車予約が完了した日の晩御飯はいつもより3品手作りが多かった。焦げた卵焼き、濃い味噌汁、原型を留めない謎の固まり。味は…そこそこ。可もなく不可もなく。これ以上の感想は思い浮かばない。そんな味だった。

数々の失敗を糧に高校では予め周囲と一線を引いて過ごす事を制服に袖を通しす前から心に決めていた。勿論友達は多ければ多いほど日々は充実するだろう。だが友人が敵へと成り代わる度に塞がらない傷を抱えて過ごすくらいなら初めから一人でいる方が気が楽だ。交友関係は最低限に留め、目をつけられないよう休憩時間では机に突っ伏してチャイムが鳴るのを待つ。入学当初は何も考えず髪を解いて登校していたが伸びた髪に目をつけたイケてる女子が髪をアレンジしてもいいかと話しかけてきたものだからその次の日からはキツめに編んだおさげと伊達メガネで距離をとった。
放っておいて。
入学してひと月程で私は望みどおり一人になった。5月の連休が終わる頃には八方美人もとうとう私に話しかけることを諦めた。これでいい、これがいい。耳を塞いだ世界が一番落ち着く。私が描く人生のシナリオには『みょうじなまえ』ただ1人だけが存在していればいい。私の私による私のための物語。演じ終えたエキストラを舞台の上から突き飛ばし、これでようやく1人になったとほっと息を着こうとした時、約1名、私の舞台に割り込もうと企む例外が現れた。

「みょうじ問3の問題解けた?俺次の問題で当てられそうなんけどぜんっぜん分かんなくて。頼む、解き方教えて?」

そう言って通路を塞ぐように身を乗り出しプリントを覗き込んでくる圧倒的陽な男子生徒は一週間前不運にも私の隣の席に引っ越してきた。名前は虎杖悠仁。血の気が多く他学年どころか他校までその名を轟かせる問題児であり、クラスカーストのトップに君臨する良い奴。私が一番苦手とする類の人間だ。
虎杖くんは罰ゲームでも喰らっているのか疑いたくなる頻度で私に話しかけてくる。

『ごめん、教科書忘れたから見せてくんない?』
『部活何処に入るか決めた?』
『アンケート用紙っていつまでに提出だっけ?』

スマホもノートも持ってるくせに『今日って何日だっけ?』とさも困った顔で遠慮なしに尋ねてくる虎杖くんに面倒臭いなぁと思いながらも角が立たないよう黒板の右端へ指を向ける。無視しても良かったが機嫌を損ねて殴られたくない。傷は直ぐに治っても痛みは火傷みたいにいつまでも残るから。

「みょうじっていつも手袋つけてるよな。日焼け対策?」
「そう」
「ふーん。女子って大変なんだな」

話を広げる気もないのに目に付いたことはなんでもズケズケと尋ねて心底迷惑。聞いたところで私が短文でしか返さないこと、そろそろ学習して欲しい。

「あれ、部活行かんの?」
「週番日誌を渡さないと行けないから」
「ふーん。じゃあさ先生探しに行こうぜ。俺もオカ研の先輩探しててさ。部室覗いたけど誰もいなかったんだよなぁ」

手伝って欲しいなんて一言も頼んでないのに勝手に手を差し伸べて、恩を売って。

「みょうじこれあげる。昼飯よくこれ食べてるだろ?いつも授業中助けてくれるしそのお礼」
「…あ、りがとう」
「こっちこそありがとね」

空洞のメロンパンなんて好きじゃないし、安いだけが取り柄のパンより具が詰まったおにぎりとかお弁当の方が良かった。
袋を破り、咀嚼して、喉に通る生温い優しさが無性にむず痒くて堪らない。まるで内側から絆されていくようで、無意識に口が緩みそうになる。どうして虎杖君は私に優しく接してくれるのだろう。『地味子の隣とか、ハズレくじ引いたな!』と背を叩かれていたくせに、一月が経ち隣の席じゃなくなった後も変わらず虎杖くんは私の机に立ち寄り話しかけてくれる。宿題の解き方を尋ねに来ておきながら話す話題は互いのたわいもない世間話。私と違って友達は持て余すほど沢山いるはずなのにどうして私なんかと。高純度な善意を真っ直ぐに向けられると彼とどう接したらいいかたまにわからなくなる。素っ気なく振舞っても虎杖君の笑顔は曇ることなく、逆に私の方が悪いことをしているようで決まり悪い。そもそも私達は『友達』という関係性であっているかさえ疑問だ。だから今更傷つく心を持っていない私は虎杖君が私のことをどう思っているのか明確な関係性が知りたくて率直に尋ねた。『私と虎杖君は友達なのか』と。すると虎杖くんは困ったように視線を泳がせ照れくさそうに頬を掻きながら『俺はずっと友達だと思っているんだけど…え、もしかして違った?』と質問を質問で返した。
正直、驚いていた。それと同時に出会った頃よりも縮まった距離間をこれからどうすべきなのか戸惑っていた。さらに縮めるかそれとも離れるか、どっちに1歩を踏み出せばいいのだろう。自分で決めなきゃいけない事なのに、気がつけば虎杖くんから答えを探そうとする自分がいる。迷惑じゃないだろうか。嫌われないだろうか。何度想像しても虎杖君が私を突き放す光景を描くことができず、浮いた片足は既に前へと傾いている。

...信じてもいいのだろうか。虎杖くんの事。
私のこと、嫌わないでくれるだろうか。

「みょうじ部活サボるんだろ?放課後先輩達とコックリさんする予定なんだけど、暇なら来いよ!お菓子もあるし、オカ研の先輩達いい人だからさ!」

…信じてみたい。虎杖くんの事。
もし嫌われたとしても仕方がないって人間関係にも救いようのない人生にも諦めがつく気がする。

「本、返したらね」

断られることを前提に誘うだなんて変な人だ。まさか私からYesの返答が返ってくるなんて1ミリも想定していなかったのだろう。猫のような目をかっぴらき虎杖君は数回瞬きを繰り返した後『じゃ、待ってるから!』と逃げるように去っていった。間抜けな顔。鳩が豆鉄砲を喰らったような顔とはまさにあの顔を指すのだろうなぁ。そんな冷めた感想を心の中で呟いているうちに意味もわからず笑いが込み上げてくる。空っぽの教室に響く自分の笑い声は自分のものとは思えないほど子供っぽく、涙まで流れて。周囲から向けられる冷たい視線に心が折れないよう常に気を張って、浮かせていた踵を慎重に慎重に底へと下ろしていく。そしてピタリと足底が床にくっついた途端、滝のように流れ落ちていく堰き止めた感情にブルりと心が震えた。

友達の絆を試されたのはそれから3週間後のことだった。

「いっ…てぇー」

皆で折れば早く終わるんじゃない?とオカ研の先輩達の提案に賛成した私たちは先輩達が部室に来るのを待ちながらも与えられたノルマを地道に消化していた。何故文化部が鶴を折らなければいけないのか。誰に問いかけたところで納得のいく答えは得られそうにないだろう。
外から聞こえてくる部活生の声をbgmに県大会用の折り鶴をちまちまと折っていると切れ味の良い音が聞こえて頭を上げた。どうしたのかと音が聞こえた方へ顔を向ければ眉間に皺を寄せた虎杖君が親指を口に含んでいた。

「切ったの?」
「んー。ま、このくらいの傷なら舐めたら治るでしょ」

と言いつつも「うわぁ、また出てきた」と虎杖君は再び親指を咥え、ちっとも止まる気配の無い血に少し慌てている。恐らくざっくり奥まで切ってしまったのだろう。腹に浮かぶ赤い粒は窓ガラスを這う水滴のように親指の輪郭を滑り跡を残す。絆創膏を持ってないかと聞かれたが、残念ながら絆創膏要らずの体質なため自分で買ったことすらない。体育会系ならともかくオカ研の部室にそう都合よく救急箱があるわけもない。このくらい平気だと虎杖くんはまた親指を口に含むが、この溢れようを見ていると誰だって心配になる。保健室…はこの時間だともう鍵をかけている頃か。待っていればどうせいつか止まるだろうし私が出る幕は無いけれど、彼は友達だからつい手を貸してあげたくなった。

「ねえ、虎杖くん。目、つぶってくれない?」
「えっ!?ちょ、みょうじさん!?えっ、そんな、いきなり大胆な。お、俺たちそういう関係じゃ「五月蝿い」あっ…はい、すんません」

お花畑な妄想を膨らませる虎杖君を黙らせ大人しく椅子に座らせる。深く息を吐きながら手袋をゆっくりと外し自分のものより一回り大きく硬い石のような手を両手で包む。自分でもなぜこんな危険なことしているのか分からない。過去を繰り返すことだけは避けなければと誓ったはずなのに、今は虎杖くんを助けてあげたい気持ちが恐怖と不安に勝っている。いつだったか。日焼け対策だと適当に返した言葉が案外その通りだったと手首を境に色失せた病的な手に笑いが込上げる。ほんと、便利な力だ。階段を1弾飛ばして昇ったような疲労感を背負う代わりに線を引いた傷口は跡形もなく治ってしまった。ちらっと視線を上げれば虎杖君は約束通り目を閉じており、謎に力んでいる顔は笑っちゃうほど変な顔をしていた。律儀な人。もっと早くに出会っていたら辛い子供時代も少しは変わっていたのだろうか。
傷を治したまでは良かったが目を開けた虎杖君に傷口のことをなんて説明したらいいかわからなくなって「ちょっと待っててね」と手袋を嵌め直すと鞄を掴みそっと部室の扉を閉めた。

「みょうじ、もう目開けていい感じ??みょうじ?おーい、みょうじさん??あれ、もしかして帰った?えっ、俺置いてけぼり??ちょっとー、みょうじさーん。目開けるよー?いいのか??開けるからなー。じゅー、きゅー、はーち、なーな」

傷のこと、明日なんて答えよう。
布団に潜り意識が途切れる寸前まで頭の中は虎杖くんの事ばかりぐるぐると回り続ける。誤魔化そうか、それとも正直に話そうか。何も決まらないまま制服に着替え気づけば席に座っている。宿題を教卓へ提出する道中、さりげなく虎杖くんの机を確認すると珍しく机の中身が空っぽだった。珍しいこともあるんだなと自分の席に着き本を開く。それから物語などちっとも頭に入らず、虎杖くんになんて説明しようかと空席の机を見つめて、今日は遅刻なのかもしれないなぁと定刻通りにやってきた担任におはようございますと頭を下げる。良くも悪くもノリがいい担任のことだ。きっと空席に気に触らない程度の冗談を呟いてホームルームを始めるんだろうなぁと引き出しに本を忍ばせた時だ。わざとらしい咳払いの後唐突に舞い込んできた衝撃の事実に教室がざわついた。

虎杖くんが転校した。

クラスメイトにも、私にも、虎杖君は一言も別れの言葉を残さず去っていった。先生も今日知らされたと言った。転校の理由は家庭の都合らしい。

何日経っても実感が湧かなかった。席に座って待っていればいつものように話しかけに来てくれるような気がするのに実際は独りぼっち。あんなに虎杖虎杖と呼ばれていた名前も最近ではめっきり聞かなくなった。彼が使っていた机も3日経てばプリントを配り間違えることもなくなって、今ではクラスの人数も当たり前のように1人分引き算されている。
もう私の席を訪ねてくる人はいない。喧騒の中席で食事をとる理由もなくなって、鞄を背負い最初に向かった場所はオカ研の部室だった。けれどドアを引く寸前で扉の内側から聞こえてくる高く騒々しい話し声にああ、そうだったと頭の中の日付を進め、人気のない校庭の端に飾られた椅子に腰を下ろす。やっと一人になれたのに足りない気がするのはなんでだろう。
メロンパンを齧りながら視線を上にあげるがいつもポールの先に張り付いていた黒い“あれ”がいない。今日はいないのだろうか?もしかしてポールに張り付くことが飽きてしまったのだろうか?ネタは沢山あるというのにオカ研が解体された今誰もあの黒い正体の謎に迫る人物はいない。オカ研に天部していたら廃部にならなかっただろうか。校庭を軽快に走り回る部活生には目もくれず、複雑な思いと後悔に苛まれながら上ばかりに視線を向けていると黒くて大きい何かが隣に腰掛けた。

「探しものかい?」

心地よい低音を追いかけ首を横に捻ると鞄を挟んだすぐ隣に男が足を組んで座っていた。誰だこの人。部外者か、空いてる椅子はそこら中にあるのにあえて私の隣に腰かけた全身黒ずくめの不審者に私は鞄を抱え体を椅子の端に寄せた。学校関係者でないことはその奇抜な容姿と目隠しから瞬時に理解したがそれ以上の情報は何も掴めない。それにしてもこの人無駄に脚が長い。前世はキリンか?前にオカ研の先輩が見せてくれたらスレンダーマンもびっくりの脚の長さだ。スレンダーマン元い不審者はあの呪霊ならもう祓ったよと“あれ”が張り付いていたポールの先を指さした。驚いた、この人も“あれ”が視える人らしい。…ますます怪しさに拍車がかかる。
そもそも学校関係者じゃない人間がなんの許可証も首からぶら下げず敷地内に踏み入ってる時点でアウトだ。悠長に咀嚼している場合ではないな。

「さすまた…いや、警備の人を呼んでから警察に」
「おっと、聞き捨てならない単語が聞こえたから一応訂正しておくけど、僕怪しい人じゃないからね」
「怪しい人ってだいたい自分は怪しくないって否定しますよね」

こんな時スマホがあればワンタップで助けが呼べるのに貧乏生活を強いられている私には物理的手段しかない。1番近い教室はどこだっけ。鞄を肩にかけ腰を上げる。もしかしたら不審者は肩を掴んででも止めに来るかと内心身構えていた。しかし組んだ足を崩す気配もなく不審者は非常に落ち着き払った様子で目隠し越しにどこか遠くを見つめている。なに、頭の電源でも落ちたのか。起きてますか?と視力補正器具の前でヒラヒラと手を振る。すると不審者は急に私の手首を掴み、すかさずもう片方の手でスルリと手袋を外した。必死に力を入れ抗う手を不審者は強く掴んだままピンッと張った手の甲に爪で浅く線を引く。ピリッとした痛みに背筋が凍りつき、秘密がばれることを恐れ思いっきり足を踏み下ろした。しかし不審者はちっとも痛そうな素振りは見せず、抵抗も虚しく、チャックのように縫い合わされていく光景を男は「ユウジが言ってた通りだ!」と弾んだ声を上げて漸く掴んだ手を離した。
ユウジ。その名で思い浮かぶ人物は1人だがユウジなんてさほど珍しい名前じゃない。地面に落ちた手袋を拾い上げ敵意むき出しに睨みつけても不審者は怯むどころか愉快な笑い声を上げる。何が面白いんだ。頭のネジ取れているんじゃないのか。湧き上がる笑いを消費しふぅと息を吐いた不審者は滑るように距離を詰めた。

「こういうのって当人の意思を1番に尊重して決めるべきことなんだけどさ。僕が不在にしている間にちょーっとマズイ事が起こっちゃったみたいなんだよね〜。正直君を巻き込む気なんてこれっぽっちも無かったんだけど、腐った老害どもに目をつけられた時点で君に選択肢はないって訳。君自身思うことは色々あると思うけど、まっ、これも運命と思って受け入れなよ」

ポンポンと頭を叩かれる度に重い何かを背負わされているような気分がしてなんだか落ち着かない。この人の言ってることが一ミリも理解できないのは私の頭が悪いからだろうか。当人、尊重、運命。確かに自分に向けられている言葉がどんな意味を含んでいるのか、この人は私に一体これから何をさせようとしているのか微塵も分からない私はただただ不快を表すように眉間に皺を寄せることしか出来ない。頭に乗った手を素っ気なく払っても男は口角を上げたまま「大丈夫、なるようにしかならないから!」と他人事のような言葉を発して、じゃあ行こうかと何処かへ連れていこうとする。何処へ行くのかと不審者に尋ねる。すると不審者はえ、言ってなかったっけ?と首を傾げると

「君、シティーガールに憧れはあるかい?」

長い指が銃を模倣し、バーンッと空砲を撃つ。その一昔前のナンパみたいな誘いに私は校舎へと振り返り自分でも驚くくらい大きな声で警備員を呼んだ。


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