心臓をくり抜かれた友人の死体を前にしても不思議と涙は流れなかった。悲しくないわけじゃない。ただ診察台の上で眠る顔があまりにも穏やかで、陰湿な仕掛け人がネタばらしの看板を持って押しかけてくる瞬間を心の片隅で願っていたからだ。

「友人だったって聞いているよ。辛いなら今日だけは勘弁しといてあげる」

横たわる元同級生の遺体の前で静かに立ち尽くす私に家入先生は大丈夫か?と肩を叩く。結んだ口から大丈夫の言葉は出なかった。動揺していた。だが言葉を発することが出来ないほどまでではなく、このモヤモヤとした感情になんと名前をつけたらいいか分からなかった。ただ大丈夫じゃない事だけははっきりとしていた。だから返す言葉が見つからなかった。それだけの事だ。
2週間ぶりの再会は腐乱臭とアルコールが入り混ざる部屋で果たされた。会いたかった。なのに素直に心から喜べないのは普段煩いほど元気でお喋りな君が鳴き終えた蝉のように死んでいるからだ。

「眠ってるみたい」
「顔が綺麗な死体はだいたいそんなもんだよ。まあ、綺麗な死体なんて滅多にお目にかかれないけどな」

心臓が抉られていることを除けば体には小さな傷一つ見当たらず腐敗を遅くさせるように何か施しているのか、肌の色も生者と変わらない色をしている。心臓さえはめ込めば今にも動き出しそう。それできっと私を見てこういうんだろう。おっ、久しぶりじゃん。元気だった?って。
泣きたいなら泣いてもいいと家入先生は言ったけど“虎杖悠仁が死んだ”という事実がまだ呑み込めておらず、死体がこうも新品さながらの状態だと尚更実感もわかない。思考も感情も何処に向かうべきか酷く混乱してる。肩を揺らせば閉じた瞼が開くんじゃないか。興味本位で手を伸ばし触れる寸前で急に勇気が無くなって引っ込める。嫌になった。冷たくなった体を触ることに。

「それで、これから君の友達をバラしていくんだけど、見学するか?」
「いっ、家入さん!!!!?」
「はい」
「へあっ!!?」
「伊地知うるさい」

渡されたゴム手袋を躊躇なく嵌めていると見るからに幸薄そうな男性が声を震わせ狂った大人達に異を唱えた。この子は昨日まで一般人だったんですよ!とか。道徳的にどうなんですか!?とか。五条先生に振り回されているだけの大人かと思っていたけれど、勇気を持って元一般人を憂う伊地知さんの優しさはよく伝わった。伝わったからこそ、伊地知さんに背を向け記憶の中で笑う虎杖くんを重ねるように下がった口の端を人差し指で押し上げた。ははっ、間抜け面。これで死んでいるなんて。とても、信じられない。

『みょうじ!』

ほら、やっぱり。友達なんて作るんじゃなかったなぁ...
スンっと鼻をすすり目元を擦る。それから嵌めたばかりのゴム手袋をグッと引き伸ばし、喉に引っかかっていた『大丈夫』を言葉にした。

「...虎杖くんにお別れを伝えられないままだったんです。でも今の虎杖くんに私は何ができるか自分なりに考えたら、手を合わせて彼の旅立ちを見送ることぐらいかなって。心配してくださりありがとうございます。でもこう見えて私辛い事には慣れてますから、私」

ちょっとやそっとの子とじゃ私のSAN値は下がりませんから。ドンと来いと拳を握った私に伊地知さんは何か言いたげな顔をしていた。けれど私の決意を配慮してかそれ以上は何も言わなかった。言うじゃんと抑揚のない声で家入先生が脇腹を小突く。ちょっと痛かった。でも悪い気はしなかった。

「さて、そろそろ始めるけど。いいのか五条?私は責任とらないよ」
「なまえの意志に任せるよ。ということだから、伊地知。何かあったらお前責任とれよ」
「そんな横暴な!!」

なんて肩身の狭い人なんだろう。申し訳なさそうに肩を下げ五条先生の横に控える伊地知さんを五条先生は理不尽に弄り家入先生は慣れた様子で台に器具を揃えていく。医療もののドラマで出てくる器具が多く並ぶ中、白衣を着た人物は1人で、五条先生らを追い出すような家入先生の発言に違和感を覚える。

「あの、1人で解剖するんですか?」
「人手不足だからね。下手に手を出されたくないってのも理由の一つだけど良い継手が見つからずこうしてワンマンオペって訳だ。宿儺の器に興味があるみたいだけど、どうだ、解剖してみるか?」
「見学だけで十分です」

SAN値が簡単に低下するほどヤワじゃないとは言ったけど流石に友人の体を切り刻む度胸はまだ無い。家入先生の換えの白衣に袖を通しマスクの紐を耳にかける。
これで虎杖くんの顔を見るのも最後かと思うと生前に写真の1枚でも思い出に撮っておけばよかったと後悔が残る。宿儺とか呪霊とか丁寧に説明されても凄いなぁー怖いなぁーと月並みの言葉しか出ないが、改めてくり抜かれた心臓部分を見ると呪いの恐ろしさを思い知る。アイスクリームディッシャーでくり抜かれた跡みたい。ぽっかりと空いた赤黒い空洞に興味本位で拳を突っ込むと本で書かれていた通り空洞は拳よりも少し大きい。ここにあるべき心臓はどこにいったのだろう。

「何しているんだ?」
「ちょっと確認を...」

心臓を真似るように拳を上下させる。こんな感じで動いてたのだろうかと1人感傷に浸っていると空洞に響く聞こえるはずのない脈拍を拳越しに感じた。まさか、いや、そんな事あるわけ無いと首を横に振り拳を引き抜く。薄らとゴム手袋に付着した暗赤色の液体は友人の死を雄弁に語る。生気を失った色。期待しても裏切られることが目に見えているというのに、どうしてこんなに胸がざわめくのだろう。汗ばんだ掌を開いて閉じてを繰り返し指の腹を擦り合わせる。尾を引いて残る微かな脈動を私はどうしても気の所為で片付けたくなかった。

「あの。虎杖くんが死んだのって確か昨日って言ってましたよね」
「ああ、報告によるとな」
「…本当に死んでいるんですか」
「それ、どういう意味?」

疲れきった目がジットリと視線を向ける中なまえはゴム手袋を外し真実を解明するためにぽっかりと空いた心臓部を両手で覆う。信じられない事だけど体に触れて判明したことが一つだけある。この死体、心臓がくり抜かれてまる1日経っているというのに細胞はまだ生きている。まるで心臓が戻ってくる時を待っているかのように絶えず生の営みを繰り返している。
心臓を与えたらどうなるんだろう。もしかして生き返ったりするんだろうか。頭のネジが外れた大人達に見守られながら、探究心と期待を胸に掌へと力を込める。人間用の臓器生成は生まれて初めての試みだった。けれど私に不安要素は一切なかった。電池切れの玩具へ新しい電池を付け替える作業と同じ。細胞の記憶を基盤に拳よりも少し大きい心臓を空洞へそっと置き電源コードのような脈を正しい組み合わせで繋ぎ合わせる。こんなものだろうか。そっと体内から手を引き抜き皮膚で蓋をする。
傷跡一つ残さず修復した左胸へ手を置き耳をすませる。足りないものは無いはずなのに、鼓動は止まったままだ。

「へー、なかなか面白い事するね。感触も本物そっくり。動くの、これ?」
「死んでいなければ。欠損部位の復元条件は復元部位の細胞が生きていること。復元できたってことはこの体はまだ生きている証明だと思います。でも復元した物が動かないって事は死んでいるとも取れる...すみません、余計なことをしました」

今から解剖する体を勝手に弄った上に肌を縫い合わせてしまった。許可も取らず勝手な真似をした事に対し強く叱られるのではないかと身構える。しかし家入先生の反応は薄く別に構わないよと肩を竦めるだけ。さして解剖に問題ないといった様子でゴム手袋の口を引き伸ばしている。細かいことは気にしないタイプなんだろう。あまり余計なことはしないようにしよう。血塗れの手を洗い見学席に移動する最中、背中越しに感じた覚えのない人の気配になまえは恐る恐る振り返り大きく目を開けた。

「いたどり、くん?」

ムクリと起き上がった死体は衣服を身に纏っていない状況をさほど慌てる様子もなく、この様子だと数秒まで死人だったことにも気づいてないのだろう。平然と息を吹き返した元死体に生前彼が名乗っていた名を呼んでみる。すると虎杖くんと呼ばれた彼は自身のイチモツから顔を上げると間違えることなく私の苗字を口にした。

「えっ、なんでみょうじがここにいんの?どういう状況??」

あの...質問する前に隠すとこ隠して欲しいんですが。この位置だと丸見えなんだけど。
すっかりお葬式ムードに包まれていた空間が一転、寝起きの人間を医務室で囲むカオスな空間に一般人代表の伊地知さんは分かりやすく驚き、生じた嬉しい誤算に五条先生は立ち上がり状況を呑み込めていない虎杖くんに向け『おかえり』とハイタッチで彼の目覚めを祝福した。
手術台から足をおろすと家入先生から受け取った服に袖を通しながら虎杖くんは再度何故私がここにいるのか尋ねた。私としては転校してたった2週間の間に心臓をくり抜かれ死亡に至った経緯を知りたいんだが、でもまぁ無事生きを吹き返した事だし知らなくてもいいか。説明されたところでどうせはてなマークを飛ばすだけだろうし。

「性癖歪んでそうな不審者からシティーガールにならないかって誘われて、それで流れるように拉致されて気づいたらここに」
「アッハッハ!なまえってば見かけによらず冗談が上手いね!!伊地知、座布団1枚持ってきて」
「いや、事実を述べたまでなんですけど」

こんなちゃらんぽらんな人が教師とか。しかも担任とは先が思いやられる。私が口を開くまでもなく五条先生はペラペラと私の経歴を虎杖くんに説明し『じゃ、あとは若い人同士で。なまえは書類書き終わったら伊地知に出しといてー』と適当に書類関係を他人に放り投げ家入先生と共にどこかへ行ってしまった。何から何まで説明不足でとことん適当な人だ。あれがマダオというやつか。ああいう大人には絶対になりたくない。
色々あって呪術高専に転入したと虎杖くんに伝えると彼は自分の事のように喜び改めて宜しくなと手を差し出した。気色が良い手。私が治した親指の腹もしっかり完治している。
生き返った虎杖くんに“久しぶり”と“おかえり”のどっちを伝えるべきか手を伸ばしながら考えていると無骨な手が颯爽と手を掴んだ。ちょっと指に力をいれると鱗のような硬い腹が肌を擦る。想像以上に高い温もりを感じ急に左胸が締め付けられ、曇っていく視界を伊達眼鏡諸共制服の袖で擦った。駄目だなぁ。涙止まりそうにないや。
眼鏡を床に落ちたことも気に留めず急に鼻をすすり出した泣き虫を前に虎杖くんは慌てふためく。ああ、良かった。ちゃんと生きてる。安堵した反動でガックリと膝折れ座り込んでしまった私に伊地知さんが良かったらどうぞと白いハンカチを貸してくれた。虎杖くんに背中を摩られながらありがたくハンカチを受け取る寸前、鼻をすする音に気づき視線を上げた私は可哀想になるほどびちゃびちゃに濡れたその顔にぎょっとした。

「づがっでぐだざい!」

伊地知さん...なんで貴方、私以上に泣いているんですか。


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