この世に生まれ落ちてから今まで、無音の世界で生きてきた。
゙音゙というものがあるということは理解していた。
周りに生きる村の者達が口を動かし、喉を震わせ、その゙音゙を出すことで意思の疎通を行っているのだということは分かっていた。
どうにか真似をして喉を震わせれば、自分もその゙音゙を出せていることも周りの反応から気づいていた。その゙音゙に彼らがやっているような意思を乗せられていないということにも、また気づいていた。
けれど、それでも構わなかった。不便はそれほどなかった。昔から、いやきっと生まれた時から───自分には人の心の内が手に取るように分かったからだ。
言葉は人の心の内から学んだ。声をかけられた時もその心を読んで振り返った。
イヌ、という自分を呼ぶその名が犬畜生からきていることも、その由来が黒々とした飢えた犬のような目をしているからという悪意からの名付けであることも知っていた。
けれど別にどうでもよかった。それが自分を差ず音゙だと理解できて、呼ばれた時に振り返ることができるのなら、本当に、なんでも。
だって、その名に篭められた嘲りも憐れみも何もかも、自分にはなんにも聞こえないのだから。
イヌは村の女衆と一緒に川で洗濯物をする。森で採ってきた木の実も洗う。洗い物をしていない他の子ども達は川に入って魚を捕まえていた。
「イヌ、干してきてくれ」
濡れた布を入れた籠を叩いた女は、布を洗う手を止めもせずそう言った。顔を上げることもしなかった。それでもイヌには伝わると分かっているからだ。
イヌは女に言われた通り、水を吸って重くなった布の入った籠をまだ小さな手で持ち上げた。
日が落ちる寸前、世界が赤く色ずく黄昏時。
イヌは家に帰ってきた。村の外れにある小屋がイヌの家だった。親兄弟は既に亡く、一人ここに住んでいる。
村の雑事を手伝った報酬に貰った魚を火をおこして焼く。昼に川で子ども達が捕まえた魚だ。
そうこうしている内に日は落ち、美しく赤づいていた外は暗くなっていた。この時間からは月明かりだけが唯一の明かりとなる。松明を作れるような素材はイヌの家にはなかった。
火が通ったことを確認し火を消す。そして、魚の頭としっぽを持ち、さあ食べようとした時のことだった。
家を覆うように何かがひしめいているのを感じた。月の光が隙間から差し込んでいたそれさえも消え、家の中が本当に真っ暗闇と化した。
ミシッ、ミシ…。
その『何か』は家を押し潰そうとしているのか、ぱらりと軋んだ木から落ちてきた木屑にまずいと立ち上がる。
隙間から入り込んだ黒い何かについていた大量の目が此方を見ていた。
イヌは音が聞こえない、言葉が分からない。だからいつも人の心を読んでいた。
だから、その時も゙聞こえてしまっだのかもしれない。
『アァ…ニクシヤ…ニクシヤアァァ!』
大量の目を宿す何かから聞こえてくる怨嗟の声が、確かにイヌには聞こえていた。その何かが心の奥底から叫び続けているその声はイヌの頭を酷く揺さぶり痛めつける。
総身が独りでに震え、頭に石で打ち付けられているような痛みが走る。耐えきれずに床に転がり頭を抱え込む。震える体をそのままに、頭を押さえ、生まれてから初めて知る激痛と苦しみに泣きながら悶えた。
苦痛の中、ふと近くに感じた嫌な気配にぐしゃぐしゃになった顔で見上げる。生存本能だった。
見上げた先には、いつの間にか近づいていた目がイヌのすぐ頭の上まで迫っていた。
『アァアアァァ!』
放たれた怨嗟の塊に、耐えきれずにイヌは叫んだ。
「あ゛あ゛ぁっ!!!!」
うるさい!うるさい!うるさい!うるさい!うるさい!うるさい!うるさい!うるさい!うるさい!うるさい!うるさい!うるさい!うるさい!!!!!!!
だ ま れ !!!
こ こ か ら で て い け !!!
『ァ…………』
意識を持っていかれる苦しみについに幼子の貧相な体力が果てたイヌは、目の化け物が空気に溶けるように消えていったのを見ることはなかった。
はっと、気がついた時には静かになっていた。
外からは日光が差し込み、あの家を覆っていた何かがいなくなっていることに気がついた。
まだ頭が痛いような気がして額を手で押さえる。
あれは一体何だったのだろうか。妖の類だったのだろうか。
よく分からないが、命は助かったのだと胸を撫で下ろした。昨晩食べられなかった魚を探す。灰の中に落ちていたそれを取り、灰を手で叩いて落としてかぶりつく。落ちきらなかった灰が歯の上でじゃりじゃりとして気持ちが悪かった。
食べながら、イヌはあの目の化け物が入ってきた隙間を見る。
その時、イヌは親兄弟がいなくなってから初めて自分以外誰もいない家を恐ろしいと思った。
□□□□□
あの不思議な経験から幾ばくかの季節が巡った。幼かったイヌももうすぐ子を産める歳になる。細い体はそのままだが、あの頃よりももっと楽に濡れた布の入った籠を持ち上げられるようになった。
あの夜から、あの目の化け物のような形容しがたい何かと遭遇することは何度かあった。その度に最初の夜と似たようなことが起こり、何度目かの夜にやっとイヌは気づいた。
イヌが『消えろ』と思いを込めて叫ぶと、あの化け物達は本当に消えてしまうのである。それは言霊の力だった。
イヌが言霊を発せば化け物はまるで霞のようにその体を空気に溶かして消える。それが分かってからは、少し一人の家が恐ろしくなくなった。
そんな変化ともう一つ、イヌの生活に大きな変化があった。
家族が増えたのだ。
「イヌ、飯だ」
「あ」
「[[rb:稗 > ひえ]]とあけび、魚もあるぞ。食え」
「ん」
どさっと手渡されたそれらの食材に、暫くは食いっぱぐれることはなさそうだと頬を緩める。目の前の男はイヌの反応に満足気に腕を組んだ。男は病で寝込んだイヌのために、いつもはイヌがやる食材調達をやってきてくれたのだ。
ある日、イヌの家に倒れ込んでいた名を[[rb:宿儺 > すくな]]というこの男は、最初家に帰ってきたイヌを殺そうとした。
『あ゛ぁっ!(やめろ!)』
『……何?』
だがその時には言霊を使いこなしていたイヌは咄嗟に言霊で自分の身を護った。
骨と皮だけの貧相な体をしている少女の首を落とすつもりだった宿儺は瞠目した。明らかに自分よりも弱い存在であるイヌに動きを止められたことに、驚きを禁じえなかった。
『…貴様、術師か?』
『…う?』
ほんの少しさっきを削ぎそう問うた宿儺に、術師って? と宿儺の心を読むもよく分からなかったイヌが首を傾げたところから二人の関係は始まった。
あれから宿儺はイヌは耳が聞こえていないことと、言葉を話せないことに気がつくや否や、興味が失せたとばかりにまた殺そうとした。
しかし、それを心を読んで気がついていたイヌが防ぐ。言霊の効果が消えると腹を立てた宿儺がまた仕掛ける。イヌが防ぐ。それを何度も繰り返し、十何回目かで宿儺はやる気を失った。
元から腹を減らしていたのだろう、疲れたように床に転がった宿儺に飯時でもあったのでその日の報酬である木の実の汁物を分けてやると、何故か宿儺はそれからイヌの家に住み着くようになった。
住み着き始めてすぐの頃は隙を見せれば殺しにかかって来ることもあったが、心を見れば本気ではないことが分かったし、防ぐことも簡単だったので特に問題はなかった。
二人で向かい合って食事するようになる頃にはそういうこともなくなり、すくなの字は宿儺と書くのだと教えて貰った時にはその心に温かみさえ感じ、寒い冬には体を寄せあって眠るほどに距離が近くなってからは宿儺の中にイヌへの殺意は見つからなくなった。
「すぐに焼く。あけびは自分で皮をむいて食え。患っておろうがそれぐらいはできよう」
「ん」
そう言い、稗を炊くための水を汲みに行った宿儺を見送る。火の準備をしようかと思ったものの、宿儺の好意を無駄にすることもないだろうと今から食べる分以外のあけびを食材用の籠に入れるだけに済ましておく。
あけびの皮をむいて、果実のあっさりとした甘さを味わっていると川から水を汲んできた宿儺が帰ってきた。
水を入れた器を持っている方とは別の手には野いちごが根っこごと握られていた。
「ついでに抜いてきた。これも食え」
「…んぅ」
稗と魚が腹に入らなくなるのではと思いつつも、男の純粋な好意は無碍にできない。笑みを浮かべて感謝を伝え、その赤い果実をひとつまみ口に入れる。甘酸っぱい。
できあがるまで食っていろ、と根っこごとイヌに野いちごを渡した宿儺は、慣れたように火をおこして夕飯の準備を始めた。
火にかけて沸騰した湯に稗を入れ、魚に枝を挿してその横に突き刺す。
その様子をぷちりぷちりと野いちごをもぎ取りながら見ていた。あとはできあがるのを待つだけ。
手持ち無沙汰になった宿儺が此方を見る。相も変わらず、見るもの全てを威圧する鋭い眼差しだ。けれど、それも随分最初と比べると穏やかになった。
「一つ寄越せ」
「ん」
此方に伸ばされた掌に一つと言わず五つ野いちごを乗せる。採ってきた功労者が一番多く食べるべきだ。体の大きさも宿儺の方が倍以上大きいのだから、腹にあまり入らないイヌにばかりやらず彼の方がいっぱい食べるべきなのだ。元より宿儺はいっぱい食べる。そうして彼がいっぱい食べる姿をイヌは結構気に入っている。
イヌは幸せだった。宿儺は化け物を簡単に退治できるぐらいに強かったから、一人で戦っていたあの頃よりもずっと安心して夜を越せる。寂しくもなくなった。両親と兄弟達と暮らしていたあの日々を、泣きながらではなく微笑みながら思い出せるようになった。
「ん」
「なんだ…木いちごか。俺にばかり食わせてどうするつもりだ」
お前に食わすために採ってきたのだぞ。
目の前の大食漢が稗と魚を食べ終わったのを見計らって差し出した木いちごに、ぺろりと晩飯を平らげた宿儺が苦言を呈した。渋い顔のその心の中では男が喜んでいるのが手に取るように分かったから、イヌも自然と嬉しくなって笑った。
受け取った木いちごを一気に口に入れた宿儺に続いてイヌも一粒口に運ぶ。きらきらと赤く艷めく果実は、イヌにとってどれほどの高価な玉にも違わない美しいものに見えた。
残すなよ、とイヌが食べている稗と魚を指さして片づけを始めた宿儺にこくりと頷く。宿儺がそれに目を細める。
イヌは感謝していた。宿儺という男に本当の本当に心から感謝していた。愛していた。心を許していた。受け入れていた。宿儺という男を、人間を、真正面から見据えていた。
真っ当な善人とは言い難い魂をしていた。
時折、血の匂いを漂わせていることがあった。
身にそぐわぬ高価な物を持ち帰ってくることがあった。
稀に──極稀に、イヌに対する殺意を感じることがあった。
善人ではない。それどころか最低な部類の悪人だろうことは、心を読まなくとも気づいていた。
宿儺の心は、イヌが全てを見通せない程に出会ったその時よりずっと前から、負の感情で溢れかえっていたのだから。
──イヌという名もお前に相応しく悪くはないが、せっかく大人になったのだから名を変えるのも良いだろう。
──からん。
──あ? 意味か? そんなものはない。だが縁起の良いものであるらしいぞ。伽藍堂とは寺の名であるらしいからな。お前のような庶子にそのような大層な名をつけてやるのだ。有難いと思え。
でも、とイヌは思う。
それでもやはり自分は、宿儺に殺されようと恨みはしないのだろう。
□□□□□
女が死んだ。
己が殺した。
耳の聞こえない女だった。その代わりとばかりに、言霊を操る術を持っていた。初めて出会った時、その女は飢えたイヌのように大きな黒目を瞬かせ、家に寝転がっていた宿儺を見つめていた。
最初はすぐに殺してやればいいと思った。だが予想以上に女の術は強く、己の力を以てしても殺すことはできなかった。
何故かその事実に不愉快以外の感情が沸いたそれの往くままに動いてみたのが、それこそが間違いだったのだと歯を噛み締める。
女は呪力に脆かった。
言霊を操る術に読心術と、強力な神通力に恵まれた者であったにも関わらず、女は音の他にも呪力に対する耐性をも奪われていた。
宿儺は強い。生まれ持った呪力は莫大で、それは日々強大になることはあっても弱くなることはない。
徐々に弱っていく女に、原因が己だと気づかぬまま病であると思い込んで、己自身でも馬鹿馬鹿しいぐらい厚く扱っていた。
死んでほしくなかった。
心を読まれていると分かった時には心底腹が立った。殺そうとした。けれど、こいつは己を全て理解していて、その上で隣で眠っているのだと気がついた時には泣きたくなった。
まだ、宿儺だって、子どもだった。
誰も自分を見てくれなくて、愛してくれなくて、でもそれを当然だとも思っていた。
自分を産んだだろう母を、抱き上げてくれただろう父を夢想して泣いた。声を押し殺して、女に背を向けて泣いた。
失いたくないと、初めて思った。
「……もう、俺にお前のような奴はできないだろう」
──伽藍、お前はきっと俺の最初で最後の[[rb:家族> 友・妹・母]]だった。
まだ幼さを残す顔でそう呟き、男は女を埋めた土の上に野いちごを置いた。そして、そのまま踵を返し去っていく。
その背は母とはぐれた迷子のようだった。
『
澄んだ純粋な声。子どもの高い声。
聞こえないはずなのに聞こえたそれに、ぱちりと目を開ける。
幼子の大きな顔が視界いっぱいに広がった。
「起きた…」
びっくりしたように朝顔色の目を瞬かせた幼子が手を伸ばしてくる。小さくも、この体には大きく感じる柔らかな人差し指が頬を軽くつついた。
「ぼく、君のお兄ちゃんだよ」
兄か。とても幸せだったような、とても悲しかったようなよく分からないものを思い出したような気がした。
「あ、お母さん。うん、棘お兄ちゃんだよって教えてた」
兄はとげ、という名なのか。
兄の声が聞こえる世界に、自分の耳は聞こえるようになったのかと疑問に思っていた。だが奥から兄に声をかけたのだろう女の声が聞こえなかったことから違うと気づいた。
兄の声だけが特別なのだ。
「あー」
「からんが喋った」
からん。それが自分の名前なのだろうか。
とくりと心臓が鳴る。その名の響きは好きだ。嬉しい。
「伽藍、早く大きくなって遊ぼうね」
その声に応えようとするも、急激に襲ってきた眠気に微睡む。慈しむような、零れるような幼子の笑い声に失いたくないと何故か思った。
生まれたばかりの赤子は前世の記憶を覚えていることがある。そしてそれは、成長するにつれて忘れられていくものでもある。
けれど。
『死ぬのか…伽藍』
『…すぅな』
──ごめん宿儺、
──また、会えたらいいね。
言霊は廻る。
前世の縁は繋がり、千年以上の時を越えて言霊が縁を手繰る。魂に刻まれ、沈んでいた言霊が息を吹き返す。
言霊は廻り続ける。
あの日の祈りを遂げるまで。