犬畜生だった自分の手をいつも引っ張ってくれたのは兄でした


 「ぅあ…」

 大きな水槽の中を悠々と泳ぐ魚を見上げ、伽藍は感動のままに意味をなさない声を出した。
 生まれつき耳の聞こえない伽藍が出す声としてはいつも通りだったが、耳の聞こえる人間が感動した時に思わず零す「おぉ…」やら「わぁ…」となんら変わらない響きだと棘は思った。

 「ツナマヨ?」
 「んっ!」
 「しゃけ」

 楽しい? と聞く気持ちで自分の好きなおにぎりの具材を言えば、妹は何を聞かれたのか分かっているように大きな黒目をきらきらとさせて頷いた。
 今、棘達は水族館にやって来ていた。イルカショーを見てみたいという伽藍のリクエストがあったからだ。イルカショーを映したバラエティ番組を指さして、物欲しそうな表情で棘を見上げるという無言のリクエストだった。
 ちなみに、今日ここに連れてきてくれたお母さんは今は少し離れたところで水槽の前に立つ棘達の写真を撮っている。思い出のアルバムや動画は耳の聞こえない伽藍も一緒に楽しめるから、と両親はこうして思い出を形に残すのに余念が無い。

 「すじこ」
 「ん!」

 そろそろイルカショーの時間だったので、さあ行こうかと妹と繋いでいる手を軽く引っ張る。妹は今日ここに来て一番嬉しそうな顔をして棘の手に引かれるままにお母さんの方へ歩き出した。
 自分の所へやって来る我が子にショーの時間を思い出したのか、お母さんは持っていたカメラをしまった。

 「イルカショーを見に行くの?」
 「しゃけ」
 「ん」
 「よし、じゃあ行きましょうか」
 「しゃけ」
 「ん」

 傍から見れば不思議な会話だっただろう。
 母は普通に話し、自分はおにぎりの具材しか話さず、妹は言葉を話さない。
 だがそれで会話が成立するのが狗巻家の日常だった。
 
 狗巻家相伝の呪言を棘が保有していると発覚したのは妹が生まれて暫くした頃のことだった。
 妹の伽藍が耳が聞こえていないと親が気がつくのは意外と遅かった。何故なら棘の声に反応している様子を見せていたからだ。しかし、大きな音が出るガラガラを振っても、家の近くに雷が落ちた時も全く反応を見せなかったことでようやくこの子は聞こえていないのだということを両親は気づいた。
 そこで疑問が生まれた。何故耳の聞こえない伽藍は息子の声には反応していたのか、という疑問だ。

 そうして棘が狗巻家の相伝である呪言を保有しており、無意識に日常で使っていたことが調べた結果明るみになった。呪力の籠った呪言師の声というのは頭を呪力で守る他に防ぐ術はない。逆に言えば、呪力で頭を守っていなければ呪言師の声ならば耳の聞こえない伽藍にも聞こえるということだった。
 呪力の乗った音だけを聞くことができる──伽藍はそんな体で生まれてきていたのだった。
 呪言を使うと分かってからは下手に呪いを吐かないようにするため、棘は意味のない言葉を話すようになった。それがおにぎりの具材だったというだけで特に意味は無い。意味ある言葉が呪いとなってしまう呪言対策として意味が無いことこそが重要なので、呪霊を祓う時以外では棘は具材以外の言葉は話さないようになった。

 「しゃけ、こんぶ、ツナマヨ」
 「ふふ、あー」
 「そうねぇ、凄かったわねぇ。みんなびしょ濡れになっちゃったけど。あんなに最前列が濡れるとはお母さんも思ってなかったわ」
 「しゃけ」
 「ん」

 イルカショーを終え、夕飯の時間に間に合わなくなるからと棘達は帰路についていた。
 イルカショーでは運良く最前列に座れたものの、イルカの遊び心なのかそういう演目だったのか水しぶきをこれでもかと掛けられ、親子三人は着ていたカッパも意味をなさない程にびしょ濡れとなった。

 「夏で良かったわね。風邪も引いちゃまずいし、すぐに乾いてくれて助かったわ」
 「しゃけ、しゃけ」
 「ん、ん」

 棘に続いて、耳の聞こえないはずの妹もまるで聞こえているかのようにお母さんの言葉に相槌を打つ。
 これが、もう一つの会話が成り立つ理由だった。
 伽藍は棘の声を聞いて、相槌を打つ場面だと判断して相槌を打っているわけではない。
 伽藍は人の心を読む力を持っているのだ。いや、実際に伽藍がそう言ったわけではないが、そうでしか納得のできないような行動を伽藍はよくやる。試しに棘が心の中を読めるのかと尋ねたことがあったが、少し首を傾げた後に頷いたので当たらずといえども遠くはないのだろう。
 しかも、偶然外で呪霊に出くわした時に、一緒にいた棘がそれを祓う前に妹が恐怖で叫んだ叫び声に呪霊が祓われたということもあった。
 棘と同じく呪言に関連した術式を伽藍も持っていて、その術式の副次的な能力で心を読めているような行動をしているのかも、と妹を見た呪術師らは言っていたが本当のところは謎のままだ。
 妹はまだ五歳。もう少しして文字を覚えたら筆談で詳しいことを教えてもらおうというのが狗巻家の結論だった。

 「ん」
 「しゃけ?」

 棘の足の間に座っている妹が手に持った飴玉を棘の口元に持ってきていた。妹の頬がその飴玉の大きさ分くらい膨れている。お裾分けしてくれているのだと口元に持ってきてくれている飴玉をぱくりと口に入れる。
 いちご味だ。

 「すじこ」
 「ん!」

 ありがとうの気持ちを込めて胸元にある妹の頭を撫でる。妹の髪は棘のものよりも少し淡い亜麻色をしている。棘の気持ちはちゃんと伝わったのか、妹の顔はどこか得意げだった。

 「……また行こうな、伽藍」
 「…っ! んっ!」

 これぐらいの約束なら呪いになっても許してくれるよな。


□□□□□



 どこかに出かける時、家族とはぐれないように伽藍の手を握る係はいつも兄の棘だった。
 伽藍よりも少し濃い亜麻色の髪をした兄は、口元に目ん玉模様をつけている。舌を出せばそこにも描いてある。゛呪言゛を迂闊に放たないためのものだということは聞いているが、そもそも若干五歳の伽藍にはそんな理屈は理解できず、ただ兄にはそれが必要なのだとだけ理解していた。
 兄は伽藍にとっての世界の窓だった。声という、兄からしか聞こえない特別な゛音゛。
 生まれた時から、その音を常に探して生きてきた。

 かと言って、別に生活に不便を感じたことはあまりない。伽藍には人の心を見る力があったからだ。
 例えば、家のインターホンが鳴ったとしよう。勿論、耳の聞こえない伽藍にはその音は届かない。しかし心を読める伽藍にとって、自分の知覚した範囲の人間の心など手に取るようにわかるのだ。
 なんといっても、第六感の冴えが伽藍は半端ではなかった。
 インターホンの音が聞こえずとも無意識に心──この場合は魂と表現した方正しいだろうか──を感じ取り、その次にその人間の「さて、いらっしゃるだろうか?」という中身を感じ取る。
 このプロセスが伽藍の中で一瞬で行われるので、反応のラグがほとんどない。
 そのため普通に伽藍はインターホンに出るし、人見知りの女の子の振りをして大人を呼びに行く。
 不便があるとすれば、沸騰したお湯の音にも吹きこぼれる音にも気がつくことができないことだろうか。

 ああ、あと、歌を歌えないのは悲しい。聞くのは兄に歌ってもらえばどうにでもなるが、歌うのは自分の声が聞こえないから無理なのだ。

 何はともあれ、耳が聞こえないというハンデを生まれ持った伽藍だったが、正直普通の子と変わりなかった。
 とはいえ、呪霊を叫び声だけで祓った人間を一人で外に出すことは誰もしなかったが。

 伽藍に友達はいない。







 「言霊、だね」

 呪術師の兄が来年から通う『東京都立呪術高等専門学校』で兄の担任になるという人は、目に着けていた布を外して伽藍を見るとそう言った。
 その人の目は兄の声のように特別で、その目で見た人や物の術式のことをなんでも見通してしまうのだそうだ。いまだにこちらを興味深そうに見つめてくるその特別な目が、テレビで見た沖縄の海のようだと思った。

 「いくら」
 「うん、ごめん。僕まだ君のそれ何言いたいのか分かんないんだよね」

 ま、心配しなくてもそのうち分かるようになるよ、僕だし。
 そう続けて言った兄の担任予定の人──五条悟先生は外していた布でまた目を隠した。
 彼は狗巻家の昼ご飯中に突然やってきた。なんでも、来年自分の受け持つ兄の情報を読んでいた時に家族構成で妹の記載を見つけ、そういえば詳細な術式が分かっていない兄のトゲに次ぐ二人目の呪言師だったか、と興味を持ったことからの気まぐれな訪問であったそうだ。
 文字を覚えてから、自分の術式の感覚をなんとか家族に伝えようとしたこともあったものの上手くはいかなかったので、渡りに船と言えなくもない。
 期待の気持ちを込めて、兄と共にとても高い位置にある青い目を見上げる。

 「妹ちゃんの術式は意思の籠った言霊を吐き出して、それを実現化させるものだね」
 「おかか?」
 「お、今のはなんとなくわかった。自分のものとどう違うのか、でしょ?」

 兄の具材に込められた疑問を読み取れて嬉しかったのか五条先生はにやりと口の端を上げた。
 伽藍は心を読めるので彼が今から言おうとしていることはそっくり分かっているが、その内容が少し難しく兄と一緒になって首を傾げる。それを見た五条は仕草がそっくり、兄妹だなあと思っていた。

 「術式自体はそう変わらない。ただ言霊において、重きを置かれているものが違う。妹ちゃんのは声じゃなくて、゛心の゛声。想い、と言い替えてもいいね。妹ちゃんの術式の言霊というのは、その心の声の方が重要になってくる」

 つまりは。

 「たとえ言葉を話せなかろうが心の中でちゃんとその言葉を言えてたら、呪力を込めて念じるだけでお兄ちゃんと同じことができちゃうってわけ。中で組まれた術式を外に出すための媒体として、どっちにしろ声は出さなきゃダメみたいだけどさ」
 「おかか…」
 「ま、あとは想いっていう物理的な拘束のないものだからなのか、距離とかもあんまり関係ないみたい。一言で言えば願えば叶う流れ星術式だね、これは」

 五条先生の言葉に驚愕する兄の姿を目に入れ、伽藍はそっと目を伏せる。兄の心が、ほんの少し黒くなっていた。

 強いて名づけるなら。
 そんなふたりの様子に気づかず、うーん、と考えながら五条は言った。

 「想いの言霊でこの世の全てのことに干渉する術式、『言霊干渉術式』ってとこかな」

 その日、五条が帰った後の夜、伽藍は体調を崩した。






 夢を見た。


 『殺す』

 殺意に満ちた、恐ろしい血のように赤い二対の目がこちらを睨みつけていた。その心は黒くおぞましく、逃げ出したくなった。


 夢を見た。


 『丁度いい寝床が他に無いだけだ。すぐに出ていく』

 離れた場所に寝転がるその背を通して心を見た。最初はどす黒さしか見えなかったその奥に、膝を抱え込んで丸くなっている幼子の姿を幻視した。


 夢を見た。


 『貴様、まさか患(わずろ)うたのか…?』

 眉間に皺を寄せてそう見下ろしてくる顔は面倒くさそうにも、どこか心配してくれているようにも見えた。


 夢を見た。


 『なんだ…野いちごか。俺にばかり食わせてどうするつもりだ。お前に食わすために採ってきたのだぞ』

 文句を言うようで掌に落とされる赤い果実に嬉しさを感じている心の有様に、自分の心もじわりと温かくなった気がした。掌で転がる野いちごが宝石のようだった。


 夢を見た。


 『からん。伽藍堂(がらんどう)の伽藍(からん)。お前の名は今より伽藍(からん)だ。』

 泣きたくなるほどの感謝と愛おしさが総身を震わせた。その時、自分は生まれてきてよかったのだと認めてもらえた気がしたのだ。そして犬畜生である自分のために名を考えてきてくれたその想いを近いうちに裏切ってしまうだろう己自身を責めた。

 からん。伽藍。伽藍堂の伽藍。犬畜生のイヌではない、彼が与えてくれた名。


 夢を、見た。


 『死ぬのか…伽藍』

 死にたくないよ、宿儺。
 あぁ、でも──────。




 「…す………ぅ…な…?」

 目が覚めて眦から零れた涙を拭う頃には、さっきまで見ていたはずの夢の残滓は霞のように消えていた。
 耳の聞こえない伽藍には、夢うつつで呟いた自分の声も聞こえない。

 「ぁ…?」

 なんで泣いてたんだろう。
 子首を傾げ、伽藍はむくりと体を起こした。

 「んー」

 背を反らしてぐぐぐと伸びをする。
 兄の棘が高専に行ってから、この家は随分と寂しくなった。両親も仕事であまりおらず、寮生活の兄もお盆に一度戻ってきただけだ。
 伽藍はその術式から一人で外に出ることは許されていない。ふとした感情の発露が何を引き起こすのか分からないからだ。
 一度、呪印を喉に施すことで術式を封印しようと試まれたことがあった。しかし伽藍が呪力に耐性がないことがその時分かり、結局、外に出さないことが最適解であるという結論に至った。生まれ持っての聴力の喪失や、呪力への敏感さから何らかの天与呪縛ではないかというのが呪術師の見解であるらしい。

 櫛を持って鏡の前に座る。
 兄とそっくりな亜麻色の髪をといていく。ぐっと頭の上に集めた髪に床に置いていた赤色の簪を拾って絡め、ぐるりとねじる。
 簪から手を離せば、[[rb:簪で留めた少し和風なお団子頭 > どこか既視感のある髪型]]のできあがりだ。

 『しゃけ』

 上手。
 そう褒めてくれる声がしない。

 兄がいないと、本当に世界は静かだ。

 「………」

 卓上に置かれたカレンダーを見る。
 次いで、兄弟共有のクローゼットを見る。

 明後日は、世間でいうクリスマスイブだった。

 鏡を見れば、お団子髪に挿さっている簪が目に入る。赤色が好きな伽藍のために、兄が一昨年のクリスマスイブの夜に贈ってくれたものだった。
 伽藍はマフラーを手作りして贈ったけれど、明らかに上等なものであると分かる簪とそれは釣り合わないと常々思っていた。去年は特大のイルカのぬいぐるみをくれたし、伽藍は小ぶりなフラワーアレンジメントを贈った。
 手作りのもので毎年誤魔化していたが、それにも限界を感じてきていた。だって、きっと兄は伽藍から贈られたものならなんでも喜んでくれるだろうけれど、゛兄の好きなもの゛を贈れた試しがなかったのだ。

 今年こそは、と伽藍は立ち上がった。

 伽藍が一人で外に出されない理由は外に出ることでとんでもないことをしでかすかもしれないと疑われているから。心の声なんてものは縛りようがないし、術式自体を封じようにも体質的に無理。
 だからお家で大人しくしててね、というのが周りの主張なわけだが、伽藍はもう十歳、少しのことで狼狽えることも無い。呪霊だって幼い頃から兄と祓ってきた。十歳というのは半分大人なのだから、ちょっとぐらい一人で遠出したって構わないはずなのだ。

 無理矢理な理論だと自覚はしつつも、伽藍はお小遣いを貯めた巾着袋を取り出し首にかける。
 両親は今まで良い子に家で大人しくしていた伽藍を信じて、特に閉じ込めるようなことはしていない。
 伽藍は玄関のドアを開け、簡単に外の世界へと飛び出した。




[chapter:犬畜生だった自分の手をいつも引っ張ってくれていたのは兄でした]





 家を出てから数時間後。ろくに外に出ていなかったために地理も交通機関の利用の仕方も分からず、迷子になった十歳の少女がいたという。
 そして、その隣には調子の悪そうな少女の背をさする袈裟姿の長髪の男がいた。

 「調子悪そうだね、大丈夫かい」
 「ん…」

 優しいけど、優しくないような不思議な人だと思った。心はどんより曇っているのに、真ん中の方はきらきらと輝いている。根は良いが、なにか辛い体験をして負の感情に囚われてしまっている人に多い心の有様だった。
 そして、彼は恐らく呪術師なのだろう。心の中の彼は、伽藍が呪術師であることに気がついていて、それに喜びを感じていたから。

 「親御さんは…いないのかな。迷子?」
 「ん…」
 「やっぱりかあ」

 さてどうしようか、と悩み始めた彼を後目に、伽藍もさてどうしようと考えた。

 なんか、この男の人、明後日のクリスマスイブにとんでもないことをしでかそうとしてる。
 しかも、兄が通っている高専で。

 「警察は…」
 「んっ!」
 「嫌なんだ。訳ありなのかな」

 ちょっと面倒臭くなってきた。
 そんなことを心の中で呟いた彼に伽藍は思う。

 いや、貴方の方が面倒だよ、と。