1

1.


 実の父であり、後見人であるセブルス・スネイプの家で暮らし始めてから数日。そこで分かったのはスピナーズ・エンドは治安が良くない場所だということと、家とはいえスネイプは滅多に帰ってこないということだった。
 彼と話したことといえば、この家で暮らす上での注意点を一方的に聞かされたぐらい。最後に決して父と呼ぶなと言われたが、じゃあどう呼べばいいのかと聞く前にさっさと姿くらましでホグワーツに戻ってしまった。
 次に出会った時は『Sir』か『Mr』と呼んで反応を伺おうとモルヴィスは決意している。
 ちなみに血の繋がりがあるとはいえ親権を持たないスネイプはただの後見人でしかなく、モルヴィスの籍はウィンギンス家に移されている。そのため、モルヴィスは父の姓であるスネイプではなくウィンギンスを名乗っている。モルヴィスはスネイプの家に住んでいるが、ウィンギンス家の人間であるということだ。経済的負担はスネイプではなくウィンギンス家が担ってくれていた。
 身の回りの世話はカーチス家の頃から仕えてくれていた屋敷しもべ妖精のメリッサがやってくれている。彼女はカーチス家が没落した日にモルヴィスをクローゼットに隠した屋敷しもべ妖精だ。カーチス家がなくなり、仕える先が無くなった彼女の行き先としてモルヴィスはどうかとダンブルドアが提案したのだという。
 スピナーズ・エンドは子どもが一人で出歩くには危険な場所だ。けれど、川を渡りいくらか歩いたところにあのハリー・ポッターが住んでいると思うと、今すぐにその家に行ってチャイムを鳴らしたい衝動に駆られる。
 彼が受け入れてくれるとは限らないのに、楽しみで仕方なかった。
 
 
 
 近所にある公園で一人、地面に座り込んだハリーは膝を抱えて泣いていた。今日もハリーは不幸だった。ダドリー達にいつものように外に引きずり回されたかと思ったら、公園に着いた途端に何もしていないのに突き飛ばされたのだ。
 
 ─ドジなハリー! 弱虫ハリー! 弱っちょハリー!
 
 ダドリー達のハリーを馬鹿にした笑い声が頭の中で繰り返される。ハリーが泣き出した後、興味を失ったようにダドリー達は公園の真ん中のほうへ行き、フットボールをやり始めた。
 
「ひくっ……」
 
 転けた時に擦った膝からは血が出ていた。
 大きな公園だ。周りに人がいない訳ではない。ハリーが理不尽に虐められているのも、泣いているのも見ている人はいる。けれど、今はもう助けてくれる人はいない。
 昔はまだ声をかけてくれる人はいた。ダドリー達にも注意してくれたし、伯父さん達に苦言を呈してくれる人だっていた。でもそれらが繰り返されるごとに、ハリーを守ってくれる人はいなくなっていった。
 当たり前だ。
 注意してもダドリー軍団は反省しない。伯父さん達に報告しても、返ってくるのはうちの子は悪くない! という怒鳴り声に金切り声。たまに心配してくれた小さい子どもが声をかけてくれることもあるけど、それももう稀だ。親がハリーに近づけさせない。今や、ハリーを助けてくれる人はいなかった。
 
「大丈夫?」
 
 だから、膝を抱えて泣いていた時に聞こえたその声に驚いた。
 子どもの声だったから、親からハリーのことを聞いていないのか、最近引っ越してきた子なのかと思った。
 
 どうせ、暫くしたら声をかけなくなる。
 
 知らないからこそ声をかけてきたのだ。知ったらもう関わってこないだろう。そんな一度きりの優しさなんて欲しくない。
 ハリーは頭上からかけられた優しい声を無視した。
 
「転けちゃったの? 血が出てるね……とっても痛そう。あ、僕、絆創膏持ってるよ。よかったら使って」
 
 何かを取り出すような音と一緒に、誰かが近寄ってきた気配がした。真正面にしゃがみ込んだ子どもの靴が顔を伏せている足の隙間から見えた。
 じゃり、とその靴の下から砂が擦れる音がした。
 ハリーが顔を上げるのを待っているのだろう。二人の間に不自然な沈黙が降りる。
 
「僕、君の名前知ってるよ」
 
 ダドリー達に虐められているのを見ていたのだろうか。ドジなハリー。弱虫ハリー。弱っちょハリー。あれだけ連呼されていれば、そりゃあ分かるだろう。
 
「僕、君のお父さんとお母さんの友達にハリーと友達になってあげてって言われて、君に会いに来たんだ」
 
 え?
 お父さんとお母さん、という言葉に思わず顔を上げてしまう。そんなことをバーノンやペチュニアの知り合いが言うはずがないからだ。家にやってくる彼らの知り合いといったら、殆どろくな人がいないのだから。なら、もしかして彼が言うハリーの父と母とは──。
 顔を上げた先にいたのは、この辺ではあまり見かけない真っ黒な髪に黒い目をした少年だった。年頃はハリーと同じぐらいだろうか。彼はハリーの真正面からこちらを見つめていた。
 
「 Hi. やっと顔が見れたね。僕はモルヴィス・ウィンギンス。ここから少し遠いスピナーズ・エンドっていう所に最近引っ越してきたんだ」
「……僕のお父さんとお母さんって言った?」
「うん。君が今一緒に暮らしていないほうの両親だよ」
 
 その言葉にハリーが生まれてすぐに交通事故で亡くなってしまった両親のことだと確信した。
 
「友達って……誰なの?」
 
 今まで両親の知り合いという知り合いに会ったことがなかった。母の子どもの頃を知っているという人は何人かいたけれど、父のことを知っている人やそれ以上の人には出会ったことがなかったのに、彼は"両親"の友達から頼まれたと言うのだ。
 
「僕の保護者のボス。白い髭のおじいちゃんでね、君の両親の先生だったんだって」
「先生って、友達じゃないんじゃ」
「僕もよく知らない。多分それぐらい仲が良かったってことじゃない?」
「う……ん、君はその人にお願いされて僕と友達になろうと思ったの?」
「うん。……友達になるの、嫌かな? 僕は君と友達になりたいと思ってここまで走ってきて、君のこと探してたんだけど」
 
 不安げに手に持った絆創膏を弄る男の子に、そういえば自分は怪我をしていたんだったと思い出す。
 ハリーはこのモルヴィスという男の子のことを信じきれなかった。過去の記憶が邪魔をするのだ。優しくしてくれた人達が離れていく悲しさが思い起こされる。
 友達になりたいと言われて嬉しかった。それは本当。でも、この男の子もハリーから離れていかないなんてどうして信じられるだろう。もしかしたらハリーに巻き込まれてダドリー達に虐められるかもしれない。そんなことになってもずっと友達でいてくれるだろうか。
 ハリーはもう答えを出していた。無理だ、と。
 
「……君が虐められてることは知ってる。家族からの酷い扱いも、教えてもらった。おじいちゃんは、ずっと君を助けたいと思っているけれど助けられない事情があるんだって。だから僕に頼んだ。君のことをいっぱい教えてくれたよ。それでね、僕は君のことを聞いて、友達になりたいと思ったんだ」
 
 ハリーの目を覗き込んで、モルヴィスは静かに話していく。嘘はついていないと分かる真剣な声だった。
 
「君の力になりたいと思った。君と仲良くなりたいと思った。僕と友達になってほしいと思った。大人になっても一緒に遊んだりするような、……親友になれたら、って思った」
 
 だから、とモルヴィスは浅く息を吸った。
 
「僕と友達になってくれたら、嬉しい」
 
 ゆっくりとこちらに伸ばされた右手。握手を求めるようにハリーが握り返すのをじっと待っていた。
 ハリーの状況を知った上で、ハリーの友達に、いずれは親友なりたいというモルヴィスに、足の痛みとは違う理由で泣きたくなった。きっかけはお願いされたからなのだろう。けれど、友達になりたいと言うその言葉に嘘はないと、人の悪意には殊更敏感なハリーは感じ取っていた。
 いいのだろうか、その手を取ってしまっても。失った時に後悔はしないか?
 いいや。きっと、取らない方が後悔する。
 
「僕はハリー・ポッター。よろしくねマイフレンド」
 
 差し出された手を握り込むように掴み、膝の痛みを我慢して立ち上がる。一度手を離してモルヴィスの横に並び、その手をもう一度握る。目を丸くしてこちらを見返すモルヴィスにハリーは笑いかけた。
 
「ダドリー達がこっちに気がつく前にあっちの水場に行こう。膝を洗ったら、その絆創膏使わせてよ、モルヴィス!」
 
 繋いだ手をそのままに水場に歩き出す。握ったモルヴィスの手にぎゅっと力が籠った。
 
「うん。いつでも言ってよ、ハリー!」
 
 お互いに見合わせた顔は本当に嬉しそうな笑顔で、思わず大きな笑い声が出た。笑いながら二人で水場まで駆け出す。水で膝を洗い流している間にダドリー達がやってきた時は、また手を繋いで一緒に逃げた。必死に走って、二人だけになった時にまた笑った。
 その時にもらった絆創膏の記憶は、ハリーの中に幸せの思い出として一生残った。