Step.87



コトハのインナーに入ったのは初めてだった。
目を閉じれば広がる世界に、まるで瞼のない魚にでもなったような気分だ。

「お兄ちゃん、こっち」

白いコトハが手を引いて、黒い扉を押し開いた。
白はここから先に行けないのか。
インナーのコトハが心配そうに見つめる白の代わりに俺の手を握って真っ暗な闇の中に飛び込んだ。

「私の白い心が消太くんを守ってくれるはずだけど。インナーである以上、気を付けてね」

このずっと先のどこかにいるよ、とコトハは手を離した。
途端に、足場のようなものがなくなって、本当に水の中にいるような前も後ろも分からない空間にぽつりと残されてしまう。
これは、まずいな。
泳ぐように深くへと潜っていくが、本当に前へ進んでいるのか目を開けているのか、分からなくなっていく。
どれほど泳いだのかすら分からなくなってきた時、暗闇の向こうに光りが見えた。
黒か?
近づいていけば、それがコトハの部屋を模していることに気づいた。
枕元に置かれた、シルバーのバングルとヘッドフォンが光を放っているおかげで、真っ黒な家具も輪郭が分かる。
光をわずかに反射するそれらに囲まれて、黒はベッドで眠っていた。
胎児のように体を丸め、深く浅い呼吸をゆっくりと繰り返している。
黒。
ベッドに座って、少し迷ったものの黒の髪を撫でた。
ぱちりと目を覚ました様子の黒は、俺を見て驚いたように跳び起きて、またぱたりとベッドに沈み込んだ。

「妄想乙」

妄想?
いや、違うぞ。
黒はベッドに横たわったまま、俺をちらりと伺って手を握った。

「お兄ちゃんのこと、傷つけたくなかったの」

ぐす、と泣いているような音がして、黒の顔にかかっていた髪を避けた。
真っ黒な顔でどんな表情をしているのかは分からないが、経験上泣いているのだろうと目のあたりを拭った。

「わたし、コトハの足手まといに、ずっと、そう、だった、ささえて、きたのに……」

支離滅裂で言いたいこともままならないような様子ではあったが、縋ってくる黒を、俺は何も言わず受け止めた。
うん、知ってるよ。
お前がずっとコトハを支えてきた。
でもだからといって、お前がコトハの邪魔をするのは違うだろ。
もし敵が俺の姿を模倣するような奴だったら?
物間のようにコピーするような力を持っていたら?
きっと、お前はコトハの手を止めてしまう。
ヒーローを目指す以上、最大の弱みは隠して、乗り越えなければいけない。

「お兄ちゃん、本物みたい。こんな時まで説教しに来たの?」

こんな時だからだ。
本物だしな。
黒を抱き起こして、枕元にあったヘッドフォンをかけてやり、バングルを右手にはめる。
白もコトハも心配してる。
帰るぞ。

「待ってお兄ちゃん」

黒は俺の首に腕を回すと、そのまま口のあるだろうところを俺の口もとに当ててきた。
まったく、こいつは。
ぎゅ、としがみつく黒を仕方がなくそのまま抱いて上へと飛びあがる。
帰りもやはり海の中のような無重力感に方向が分からなくなりつつも、おそらくこっちだろうと自分の勘を信じつつ泳いだ。

「好きなの」

ああ、分かってる。
俺も好きだよ。

「やっぱり嫌い」

あーそう。
ふと腕を放した黒を危うく落としかけたが、何とか捕まえてそのまま泳いでいく。
しばらく泳げば白いエントランスから光の漏れている扉があった。
あそこか。
ほっと胸をなでおろして黒を撫でる。
ついたぞ。

「コトハに合わせる顔無い」

黒はそういって俺の手を引っ張った。
お前ら顔は一つだろ。

「そうだけど。私のせいで、赤点になったようなもんだし」

こいつ面倒くさいな。

「めんどくさいって思ったでしょ!分かるんだから心には気を付けてよね!?」

これ、放っておいてもよかったんじゃないのかと思いつつ、問答無用で扉を引いた。
ほら行け。
黒の背を蹴り飛ばして白とコトハの前に押しやる。

「く、黒!?ちょっと消太くん!!」
「おにいちゃんのいじめっ子!!」
「最低!」
「ひとでなし!」

連れて来てやったのに言いすぎだろ。



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