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DIRTY(2/2)


 
「……なにをしてる」
「……あれ?」

兵士長、と随分間抜けな声色でその人を呼んでしまった。いつもならばそこまで見ることに苦労しないその姿は、今は私のかなり上方にあった。見上げるというよりは私はただ目を開けているだけで、兵士長が見下しているのだが。兵士長が良い位置に立っているからか、先ほどまで眩しくて目も開けていられなかった太陽が遮られている。夕暮れの太陽は昼とはまた少し違う眩しさを持っていて、兵士長の体を綺麗な橙と赤のグラデーションで染めていた。
なにをしてる。兵士長がもう一度問いかけてきた。

「泥に埋ってます」

見てわかりませんか、と続ければ、兵士長はあからさまに怪訝な顔をした。それは無理もない。子供とは言えない歳の女が、ただなにをするでもなく泥の上に寝転んでいるのだ。ただでさえ普通とは言えない行為なのだから、潔癖症な彼には相乗しておかしく見えているのかもしれない。兵士長は何も言わずに私を見下し続ける。

「大丈夫です。わかってます。これはおかしいことです」
「…毎日やってんのか」
「はい」
「理解出来ねぇな…何がしてぇんだ」

日が更に暮れてきた。もう兵士長がいなくても目を開けていられる。私は瞬きを数回したのち上体を起こした。逆光もなくなり見やすくなった兵士長の表情は、やはり不可解で怪訝そうな顔をしていた。

「私も理解出来ません」
「……あ?」
「兵士長、何故毎日、あの時間に、あの道を通るのですか。聞くところによると兵士長の部屋は真逆の位置ですよね。あの辺りに特に何かがあるとも思えません。何故ですか?」

兵士長は答えない。私は兵士長から目線を反らし、かわりに自分が座り込んでいる地面の泥に手を沈めた。妙な感覚が気持ちいい。なんとなしに兵士長より後ろの光景を見れば、やはり刻一刻と日は暮れている。いつもならば、そろそろ帰る時間だ。
けれど、構わないと思った。

「……兵士長、泥はお嫌いですか」
「……嫌いだな。汚ぇ」
「ですよね。私も今はそう思います」
「……今は?」
「はい。……今は」

びしゃびしゃと音を鳴らしながら立ち上がった。先ほどより幾分か見やすくなった兵士長が、先を促すかのように私を見ていた。

「昔、知人が亡くなったんです。泥まみれで。健康だったし理由が思いあたらなくて、なんでかなって思ってました」
「……」
「感染菌ですって、泥の中にある。泥はやっぱり汚いんですよ」
「なんだお前……死にたいのか」
「いいえ」

泥は汚い。感染菌で人が死ぬほどに。それでも私は毎日この泥に身を浸す。いいや、だからこそそうするのだ。日々巨人のことを考え鍛練し死を覚悟し殺めていく。死に慣れていく。私自身も泥のように汚れていくのだ。
私は何も、死にたいわけじゃない。ただ単に、汚れに浸っているだけだ。

「油は油で落とすって言うじゃないですか。汚い泥に浸かっていれば……私の汚れも落ちるかなって」
「……くだらねぇな。そんなことしても落ちたわけがねぇ。余計汚くなるだけだ」
「……そうですね」

あなたは私と真逆ですもんね。そう言いかけた言葉を堪えた。けれどそれは言葉を堪えたところで私の中では何も堪えきれてなんかいなくて、自分でも制御できない何かが内側から競り上がってくるのがわかっていた。でもそれは、駄目だと。どうこうしていいものじゃないと私が告げている。
情けなくなってその場にまたしゃがみこめば、すっと、兵士長が手を出してきた。掴めとでもいうのか。そんなことをしなくても私は立ち上がれるのに。

「兵士長」
「なんだ」
「…あなたはなんで、潔癖症なんですか」

精一杯の抵抗だった。なのに兵士長はそれに答える様子などさっぱりなく、私の泥にまみれた手を無理やり取り、私を立ち上がらせた。

「帰るぞ。そろそろ飯の時間だ」
「兵士長、泥が」
「知らねぇ」

差し出したハンカチは受け取られることなく使われることなく、また私のポケットにしまわれていく。
――飯の時間なんて、私に与えてもくれなかったくせに。
あぁなんて酷い話だろう。潔癖症でありながら何故私の手を取ったのか。何故私を立ち上がらせたのか。彼のその行動一つひとつが私には理解できない。この人が何故こんなにも汚れなくいられるのかわからない。理解したくない。何故どうしてという気持ちしか沸き上がらなくて、けれど私はそれを確かめることはしない。できないのだ。したくないのだ。それをしたら私はなんのためにここにいるのかわからなくなってしまうから。

私はまた明日もきっと同じ毎日を繰り返す。兵士長も同じだろう。お互いに相容れない行動だが、私たちはお互いに止めることはしないのだろう。そんなことできないのだろう。

あぁ、本当に酷い話だ。
私は知っている。貴方の弔いを。
なんて酷い話だろう。
あなたが汚れに沈んでしまえば、全て解決するのに。

私は貴方に何も出来ない。
 
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