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CLEAN(2/2)


 
「…なにをしてる」
「…あれ?」

兵士長、と随分気の抜けた声が耳に入ったが、そんなことを気にとめることもないほどに俺の方が気が抜けていた。目の前に広がる光景はまさに俺の記憶を、胸中を抉る光景を再現されているかのようだった。
目が合った。声を聞いた。生きている。
それだけでどうしようもない安心感が広がっていき、同時に今すぐこいつをこの中から取り出したいと思った。なにをしてるいるのか本当にわからない。馬鹿なんじゃないかと思う。けれど恐らく毎日繰り返されていたであろうこの行動が俺への当て付けだとしたら、それは俺は甘んじて受け入れるべきなのだ。元から知っていたかはともかく、ハンカチを渡してしまった以上俺が誰かは知られているだろう。今さら言い逃れることは出来ない。

あぁ、けれど、もしかしたら。
そんなくだらない希望を抱いて、質問を重ねる。これは毎日やっているのか。何故こんなことをしているのか。理解出来ないなんて言葉はほとんど嘘で、正直な話は「理解したくない」だ。けれど何がしたいかを知りたい。これは矛盾だと思いながらも、聞くことは止められなかった。

「私も理解出来ません」
「……あ?」
「兵士長、何故毎日、あの時間に、あの道を通るのですか。聞くところによると兵士長の部屋は真逆の位置ですよね。あの辺りに特に何かがあるとも思えません。何故ですか?」

上体を起こしたとはいえ未だ泥にまみれたままの彼女が言う。真意はわからない。わからないからこそ答えられなかった。
そこまで聞いて、わからないわけがない。やはりこいつは全てを知ったのだと思い、何を言われても仕方ないと覚悟した。いっそ早く止めを指して欲しいと思った。
日は刻々と沈んでいく。いつもならもうあの部屋に向かっている頃だろう。

「……兵士長、泥はお嫌いですか」
「……嫌いだな。汚ぇ」
「ですよね。私も今はそう思います」
「……今は?」
「はい。……今は」

意味がわからない。しかし会話の主導権は俺にはない。
立ち上がるそいつを眺めながら、先を促すように見て、
言われた言葉に、呼吸を忘れた。

「昔、知人が亡くなったんです。泥まみれで。健康だったし理由が思いあたらなくて、なんでかなって思ってました」
「……」
「感染菌ですって、泥の中にある。泥はやっぱり汚いんですよ」
「なんだお前……死にたいのか」
「いいえ」

我ながら酷い返しをしたと思う。こいつと話すことは全て裏目に出る。だが…知人だとか言っている、そんな言葉を使っているこいつも酷いものだ。それでは死んだあいつが浮かばれない。
はっきり言ってしまえばいい。死んだのは自分の兄だと。

「油は油で落とすって言うじゃないですか。汚い泥に浸かっていれば……私の汚れも落ちるかなって」
「……くだらねぇな。そんなことしても落ちたわけがねぇ。余計汚くなるだけだ」
「……そうですね」

そんなことで落ちるなら、俺がとっくにしている。
俺とこいつは、本当に真逆の道を行ったらしい。目の前のこいつの、どこが汚れているというのか。自ら汚れに浸りに来ているのはわかるが、本当に汚れているのは誰かなんて比べるまでもない。こいつは綺麗だ。汚れてなどいない。汚れているのはむしろ、巨人討伐に身を投じ、形だけ清廉潔白であろうとする俺の方だろうが。本来そこにいるべきはお前じゃない、俺の方だ。俺が汚れに沈むべきなのだ。
手を差し出した。それを掴んでほしいとは思わない。汚い俺の手など取らない方がいい。けれどそのまま汚れに浸るお前を放ってはおけない。まだ戻れるうちに、戻って欲しい。

「兵士長」
「なんだ」
「…あなたはなんで、潔癖症なんですか」

耐えきれなかった。
答えることなく無理やり手を掴んで立ち上がらせた。それがこいつを汚してしまったような気がして、自分に対する嫌悪感が一気に沸いた。

「帰るぞ。そろそろ飯の時間だ」
「兵士長、泥が」
「知らねぇ」

差し出されたハンカチには見ないフリをした。元からそれは俺が持っていていい代物じゃない。
――頼むから今日は、俺のことなんか考えないでくれ。
歩みを進めながら考える。きっとこいつは俺を探しにきたのだろう。復讐なのか、何なのか。その詳細はわからない。だがそうでなきゃ理解出来ない。あいつが死んだのは兵士としてとは言えない。納得できるものじゃない。全ては一番近くにいながら気づいてやれず、それどころか拍車をかけた俺が悪いのだ。
俺を信じ切っていた、部下だったのに。
くだらないことで死なせてしまったのは、俺だ。

それでも前に進むことはやめられない。立ち止まっていられる状態ではないからだ。恨まれるのならそれでも構わない。受け入れよう。お前が汚れにまみれていくことさえ、俺には止める権利はない。干渉は出来ない。

わかっていながら俺は彼女に何も出来ない。
本当に、酷い話だ。
 
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