暗雲と兆し

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凛と立っている白羅を前に、金蝉はいかに今まで無駄に過ごしてきた事かと己に呆れた。考えず、何かに興味を覚える事も無く、与えられた仕事をするだけの日々。無限の時間の中では急ぎ焦る事も無いのだと惚けていたのだ。悟空がやって来た事でそれも変わりつつあるが、この白羅を前にしてそれを言うのは憚れる。そんな思いから金蝉は白羅から視線を外した。


「あいつらの所に行く前に少し冷やせ」

「……ありがとうございます」


素っ気なくも少なからず気遣ってくれる金蝉に白羅の気が緩む。異端視するようで時たまそれが薄れる瞬間、白羅はそれが嬉しくもあると同時に警戒心を助長するものでもあった。

なにしろ金蝉童子とは、李塔天にとって危険を孕むとされる悟空の保護者と呼ばれる人物だ。今回の事といい、李塔天からの目は相当厳しいものだったのだろう。いくら周りを気にしながらナタクと悟空を見守ろうとも、李塔天が何の手も打たずに静観しているはずが無い事は判っていたというのにこの結果だ。白羅は自身の出来得る限りの警戒が、ただ李塔天の手の内で泳がされていただけという事実に頬の痛みで気付かされたのだ。


濡れたタオルを頬に当てると、白羅の顔が僅かに歪んだ。きつく唇を噛み締めているのは痛みとは別物だとすぐに気付く。


「おい、大丈夫なのか?」


金蝉の問いに白羅は静かに頷き返すと、徐にメモ用紙にさらさらと何かを書き始めた。それを不審に思いつつも黙って見ていると、何やら地図の様なものが描かれていた。


「皆さんが向かった場所の地図にございます。人目がありますのでどうぞお先に向かってくださいませ」


腫れた頬のせいでそう見えるのかは判らないが、よくよく見れば白羅の姿が何とも脆そうに映り、先ほどまでの凛々しく淑やかな彼女とは別人のようだと、金蝉はその地図を受け取りながら思う。

取り繕い疲れたのか、少しでも触れたら崩れてしまうのではないかという不安と、一思いに壊してしまったらどうなるのだろうかという嗜虐心。どちらも初めて覚える感情だと金蝉は思った。


「そんなに警戒する必要があるのか」

「危急……であると考えております」

「それでもお前は悟空とナタクを止めない。そう言う事でいいんだな?」


その質しに白羅は逡巡し、慎重に言葉を選ぶ。いくらこちらの意を伝えたとて、それには李塔天という危険が伴う。金蝉が悟空を止めてしまえばそこで話は終わってしまい、ナタクは唯一の友人を失うのだ。

しかしそれはあくまでも白羅側の主張に過ぎない。いくらナタクがそれを望んでいたとして、そのせいで悟空やその周りに危険が及ぶとあれば、聡いナタクは自身の感情を押さえ付ける事など容易くやり遂げてしまうだろう。だからこそ白羅は言葉選びに時間をかけ、その判断を金蝉に委ねようとしたのだ。


「ナタク様は、自身のせいで事が起こるとあれば迷わず退るお方です。ですから、金蝉様は悟空とご自身の事だけをお考えくださいませ。いくらナタク様がお望みとあっても、こうなってしまった以上、私は金蝉様のご意向に従うのみでございます」


熟々面倒だと金蝉は思った。晦渋な様で実際は至極明解なのだが、それぞれの立場がそれを邪魔する。李塔天のように、当人以外の者が外から操ろうとするなど金蝉からすると滑稽だとしか言えないのだ。


「そんなに周りばかり気にして疲れねぇのか?」

「そのようなつもりはない、のですが……」

「俺はお前がどうしたいのか知りたい」

「ですから、私は……」


金蝉は白羅に近付いて行く。じっと見据えたまま、確かな足取りで白羅の前を立ち塞ぎ、それから自身の指を白羅の頬に静かに這わせた。その優しく労うように触れる金蝉に白羅は心底瞠目した。


「痛いんだろう?」


金蝉に触れられた頬に熱が集まり思わず顔を背けたくなった白羅だが、その金蝉の射抜くような瞳に貫かれ、溺れてしまうのではないかと錯覚するほど苦しくなった。善良とは真逆の自分の痛みなど取るに足らない。そう白羅が自身で捨て置いたものを、金蝉は唐突に掴み上げたのだ。

戸惑いが苦しさを引き寄せ呼吸を拒み、胸の締め付けが増していくに連れて視界が滲んでくるも白羅はそれを必死に堪え、決して痛いとも言わなかった。金蝉はそれを見て悟る。


「ガキ共は好きにさせておけ。何かあったら保護者である俺達がその時に考えればいい」


あまりにも哀れで同情したと、そう見えるかもしれないが、金蝉はそれとは違った思いに動かされた。凛としているがどこか脆い、そんな白羅の奥底を暴いてみたいと思ったのだ。


「金蝉様……」


白羅は遠慮がちに口を開いたが、そこから先は突然荒々しく押し開けられたドアによって遮られてしまった。

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