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 夜色の真っ直ぐな御髪、雷光のように鋭い漆黒の瞳。
 十五歳という少年期の未完成さと、武人としての熟練がせめぎ合う不思議な魅力を宿している。大刀を握り締める手には稲妻のように血管が走り、足が大地を踏みしめれば雷鳴の如く鋭い音を響く。軽やかな身のこなしは疾風のよう。
 強さという美しさを纏う、野生の獣。

 圧倒的強者の前にエリンは平伏したくなる。ビリビリと皮膚が震え粟立つ。彼の、なによりもそう、気迫が大好物だ。命の危険があればあるほど男も人生も粋だ。

 その日もエリンは幸せいっぱいの気持ちで訓練を見学していた。

「ん?」

 見学していると、ふわふわの赤髪が中庭を挟んで反対側の廊下を移動していた。
 見事な赤い御髪は、高華国の姫君のものだ。

 ぼんやりした姫は人気のない方向へ進んでいく。そばに女官の姿はない。政治区域外であれば姫は基本的に自由に城内を動き回れるので、女官には四六時中追いかける義務はなく、姫が供を命じなければ女官が部屋の外まで侍ることはないのだ。
 エリンと交代で姫の室に控えている女官はそのまま部屋で待機しているのだろう。衣の繕いをしているのかもしれない。

 ハクに視線を戻すと、彼は姫の消えていく廊下の角を見ていた。
 エリンは静かに姫の後を追った。





 部屋付き女官となったものの、エリンは姫と業務外の会話をほとんどしていなかった。

 小さい頃は、身分の差をよく考えもせず、姿を見かけた際に会話していた時期もある。だが年齢とともに裁縫の勉強や見習い女官の勉強が本格的になり、姫の生活区域自体が疎遠になって行った。
 部屋付き女官になってからは姫と接する機会は格段に増えたものの、お茶をいれたり、茶の種類を伺ったり、用事を承ったり、時々衣装や、気温や天気の話をしたりするだけなのだ。

 エリンが年若くして部屋付き女官に抜擢されたのは、女官として技能が飛び抜けていたからではない。歳上の相応しい者がいくらでもいる。

 そりゃあエリンとしてはハクの近くに居られる機会が増えて満足だ。だが普通に女官の仕事をしているだけでは、エリンの人事はただの依怙贔屓になってしまう。与えられた職をこなす日々に甘んじていてはいけない。

 エリンはきっと別の役割を期待されているのだ。
 イル陛下は期待の内容を明言はしなかった。けれどおそらくは−−ほかの女官がしていない、しそうにもないことだろうとエリンは考えた。

 静々と廊下を歩いていくと、二度角を曲がった先の殿廊の突き当たりに、綺麗な着物を羽織ったその背中がポツリと佇んでいた。姫は勾欄に肘をついて、退屈そうに景色を眺めている。

 さてどうしようか、と思案する。とりあえず、ほかの女官がしそうもないこと−−ひとりのヨナの後を追ってみた。退屈そうな彼女に声をかけてなにか役に立てないだろうか、と考える。

 ヨナは女官たちから少し距離を置かれているとはいえ、決して冷遇されているわけではない。蝶よ花よと育てられたお姫様だ。

(そんなお姫様に私ができること。できることと言えば……うーん)

 エリンは手ぶらで出歩いていたことを後悔する。お菓子も手遊びの品もなく、特に提案できるものがない。
 しばし思案して、

(とりあえず声をかけてみましょうか)

 と行き当たりばったり作戦に出ることにした。やはり最初の話題は、共通の話題が良いであろう。

「ヨナ姫様? ハク様の訓練をご覧に来られたのですか?」

 ヨナが癖のある赤髪を揺らして振り返った。薄紫の丸い瞳が瞬く。

「いいえ。エリンは何をしているの?」
「休憩中にハク様の訓練を見学して英気を養っておりました」
「ハクの?」

 ヨナは父親譲りのぽやんとした表情で首を傾げた。
 
「格好良いですよ。ハク様の刀さばきは惚れ惚れするほど鋭く雄々しくて、わたくし息苦しくなって倒れるかと思いましたわ」
「え、ええっ? それはいけないわ。休みをやるから安静にしてらっしゃい」

 天然ぎみのヨナは戸惑いつつエリンの戯れ言を間に受けて、体調の心配をした。エリンは否定せずに恐縮してみせる。

「お気遣いありがとうございます。お隣の手摺を借りて休んでもよろしいでしょうか?」
「もちろんよ、どうぞ」

 エリンは笑顔で失礼します、と言ってヨナの隣で勾欄に寄りかかった。

「具合が悪かったからハクを見て英気を養ってたの? おまえ、変わってるわね」
「長年の片想いですからねえ。ヨナ姫様と同じですね」

 ぼっとヨナの顔が林檎色に染まる。彼女は袖の中に隠した両手で慌てて顔を隠した。

「な、なんのことかしら」
「あら……てっきり女官にバレていることはとっくに御存知かと」
「……そんなに前から?」
「ええ、もう数年前から姫の部屋付き女官はみな察しておりますよ。スウォン様が来場なさる日は気合を入れて入念に準備をなさいますもの」

 相手の名前を言い当てられて、ヨナは勾欄に俯せてしまった。女官たちには開き直って恋のお手伝いをさせたら良いですわ、と声をかけて差し上げる。

「そんなことしたらスウォンに伝わっちゃう……」
「スウォン様と伝のある女官などおりませんよ」
「……そうかしら……。……待って」

 ヨナはがばりと気負いよく顔をあげた。

「エリンの好きは、私のスウォンへのす、好きと同じ好きだって言った?」
「はい」
「そ、それって冗談? 昔からエリンは冗談でそんなことを言っていたけれど−−」
「ヨナ姫様、昔、私とお話していたことを覚えておいでですか?」

 エリンは意外だった。まだヨナは小さかったのできっと一年ほど交流のあった女官のことは忘れてしまっているだろうと思っていた。

「エリンみたいな人のこと忘れられないわよ!」

 どういう意味だろうか。

「それで、どうなの」
「冗談ではなく本気ですよ。ヨナ姫様と同じ種類の片想いです」
「いつから!? 私、全然知らなかった!」
「かれこれ六年でしょうか」
「そんなに! エリンがハクを好きだ好きだと言うのは何度も聞いたわ、でも犬や猫に言うみたいな気持ちだと思っていた」

 ヨナのハクへの評価を察して、エリンは内心で苦笑する。エリン以外にもハクを想う女性はこの城に幾人もいるというのに、ヨナにはちっとも男性としての魅力が伝わっていないらしい。

 ヨナはエリンの手を両手で取り、愛らしい顔で至極真剣な表情にして、熱心な瞳をキラキラさせてエリンへ向けてくる。

「どこがいいのかちっとも分からないけれど、エリンが好きというなら応援する。私になんでも言ってね」
「ありがとうございます。頼もしいですわ」

 「たのもしい……」とヨナが言葉を噛みしめる。誇らしげに、少し照れくさそうに、いくらでも頼って、と呟いた。実に可愛らしい。彼女が高貴な姫君でなければエリンは頭を撫でていただろう。
 エリンはついでにもう一歩踏み込んでみる。

「差し出がましいようですが、ヨナ姫様のお気持ちも応援しています。誰かに相談したい時は、わたくしでよろしければお使い下さい」
「……話を聞いてくれるの?」
「はい」
 
 ヨナは戸惑いつつ目を伏せた。くせっ毛の赤い髪をいじってくるくると指に巻き付ける。ええと、じゃあね……、とヨナはぽつりぽつりと慣れぬように語り出した。
 エリンは穏やかに相槌を打つ。



 もっぱらの悩みは、スウォンがヨナを子ども扱いしてばかりでまったく異性として意識してくれないことだという。エリンはポンと手を叩いて提案する。

「ヨナ姫様、ここは我が家秘伝の『男を骨抜きにする術』を用いてみてはいかがでしょうか」
「秘伝?」
「ええ、まず夜中に男の寝室に忍び込み−−あてっ」

 ぺしっと背後から手刀が振ってきた。

「ヨナ姫になんつーことを吹き込んでやがる。色ぼけ女官」
「−−ハク!?」

 驚いているヨナの隣で、エリンは「あらあら」と口元を隠して笑って振り向いた。

 訓練後の熱気を軽くまとい額に汗を残した少年が、半眼の眼差しでヨナとエリンを見ていた。

「冗談ですわ。訓練お疲れさまです、ハク様」

 ヨナは慌てて「おまえ、どこから聞いて……」とあわあわしていた。さーね、とハクは惚けている。

 きっとヨナはエリンの恋心がハクに聞かれてしまったかもしれないと危惧しているのだろう。しかし、ヨナはなぜ自分がエリンの気持ちを誤解していたのかを忘れている。
 エリンはちっとも動じずにほぼ日課の挨拶をする。

「職務を果たすためお力を磨くお姿を見ていっそう好きになりました。今日も大好きです」
「うるせぇ見るな」

 六年間何度も言われているハクは、慣れたようにあしらった。むずがゆそうな口元はヨナに聞かれているせいだ。

 ヨナはポカンとした。それから、日常的にエリンが愛の告白をしていたことを思い出した。あまりにも日常茶飯事だからこそ、エリンの気持ちを本気だと思っていなかったのだと。

 本気にされていないとはいえ想い人に冷たくあしらわれてエリンは大丈夫なのかしら、とヨナは心配した。ヨナならとっても落ち込む。

 当のエリンは「かしこまりました……」目元を袖で覆って俯いている。
 ヨナの頭の中では『頼もしい』と言われたことが繰り返された。

「ハク、冷たいことを言ってはだめよ。いつも笑顔のエリンだって傷つくのよ」
「……これで傷付いてたら」

 ハクはバツの悪そうに声をもごもごとさせた。

「こいつは何年も同じことをして傷付いてる変態なアホってことになりますよ。いや変態なアホですけどね? 本気にしたらいけません」
「だって、顔も上げられないのに。スウォンならそんなこと絶対にしない」

 ハクのうっという呻き声や床の軋む音から、エリンはハクが密かに打撃を受けたことを察した。 

「俺はスウォン様じゃないんで。……あんた」

 目を覆ったまま動かない女官をハクが見下ろす。

「いつまでそうしてるんだ。てか何やってんだ」
「視覚以外の五感でハク様の気配を感じ、お姿を描き出してとっくり眺めようとしています」

 ハクが「せめて普通に見ろ!」とエリンの両手を無理やり外した。眼前に凛々しいハクが現れてエリンはぽっと頬を赤く染めた。

「では普通に拝見しますね」
「…………っ」

 ハクがしがしと髪を引っ掻き回して顔を背けた。幸せそうにはにかんでいるエリンを指さして、

「ほら、姫さん。こいつはこういうやつなんですよ」

 と拗ねたように言う。
 ヨナが腑に落ちないような面白いような、不思議そうな顔をした。エリンとハクを見比べ、やがて、くすくすと笑い出す。
 エリンは、華やかなお姫様が笑うと空気まで華やぐのだなあと思った。そのくらい可憐な姿だった。もっと笑わせたいと願ってしまうような無垢な笑顔だ。

「ねえエリン、やっぱりハクが犬か猫みたいよ」
「犬猫ってなんですか。ちんまくて小動物みたいなのは姫さんでしょう」
「お黙り下僕!」
「ヨナ姫様は犬猫というよりは可愛らしいリスでしょうか」
「エリンまで!」

 緋龍城の物静かな廊下の隅っこがいっとき賑やかになった。
 たぶん、イル陛下の求めているものは、こんな温かさだ。

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