世界に裏切られた日
私は、選ばれし者だ。
己れの特異性を示す根拠は、遡れば生まれた瞬間からある。自覚したのは同年の子どもが意思の疎通ができるように成長したころ−−すなわち今なんだけど。周りが成長してようやく、私はふつうの子どもと違うらしいと気付いた。
産声をあげたときに目覚めて以来、私はずっと記憶も思考もハッキリとしている。初めから頭の中では大人と意思疎通が可能だった。ただ肉体がまどろっこしいほど愚鈍で、思ったことは言えないし、不快だと感じれば勝手に泣き喚くし、手も足も動かないし、すぐに眠たくなるし、と思うようには行かなかった。
みんな、そうなんだと思っていた。
みんな、身体が大きくなるまで不便を感じながらじっと耐えているのだと思っていた。
隣に寝かされた赤子の瞳を見つめて“お互い大変だねぇ……”なんて心のうちで語りかけていたのに。
どうやらちがうらしい。
お漏らしをしてしまうのは膀胱が未発達だから。お漏らししてびええええと泣くのは身体が勝手に泣くから。わかる。なにせ私もときどきやらかす。だから粗相をした子を“気の毒に……”と生暖かい目で見ていた。
でもね? どうして粗相をしたあとに自分であと片付けをやらないんだろうと不思議だった。
服を洗濯場に持っていって、身体を清潔にして、床を掃除する。身体が愚鈍だから動作はのろまだけれど、ひとつひとつ丁寧にすれば、大人の手を煩わせないで済む。涙は止まらないけど、そのくらいできるのに何でしないんだろう? 他人に後片付けをされると恥ずかしくない?
サボってるのかな、と思っていた。
着替えも同じ。指が動かなくてうまくできないのも、イライラして癇癪を起こすのも、わかる。なぜ上達するために努力しない? 時間をかけて練習しない?
廊下で騒ぐなというルール。騒ぎたくなる気持ち、駆け出したくなる衝動、ついそれらが我慢できずに行動に出てしまうのは、わかる。なぜその場から移動しようとしない?
絵本やおもちゃは順番に使うこと。
そんなのは建前でしかなく、力の強い子が欲しいものを得る、なんてこと分かりきっている。盗られて悲しくて泣き出したり怒り出すのはわかるけれど、なぜ弱いままに甘んじるの? 感情が落ち着いたら次は負けないように鍛えればいいのに。
綺麗に食べろ。好き嫌いするな。人の物を取るな。
スープをこぼしたり口周りをベタベタにしてしまったりお腹がすいてもっと欲しくなるのは私も同じ。けれどきちんと自分で拭うし、汚さないようにできるだけ気を付ける。人の食べ物は視界に入れない。なんなら一言もしゃべらず食べることだけに集中する。なんで好き放題やりっぱなしなの?
小さいことが降り積もっていく。
降り積もったものを、最近、質問としてぶつけてみた。言葉がそれなりに話せるようになり、相手もそれなりに聞き取って話せるほど成長してきたと思ったからだ。
着替えができない子には「なんで、れんしゅう、しないの?」と私の練習道具(ボタン付け外しセット)を押し付ける。
廊下で騒ぐ子には「なんでさわぐの? そとにいきなよ」と行って扉を開けてあげる。
おもちゃを盗られた子には「くやしくないの? なんでカラダを、つよくしないの?」と質問。
食事で問題を起こす子には、少しうんざりしてきていたので「なんで、みっともなく生きていられるの?」
結果はさらなる泣き声か、キーッと喚く怒りの声か、きょとんと呆けた顔か、怯えられるか。
ここで “あれ?” と思ったけれど、私はまだまだみんなを信じていた。きっと落ち着けば私の質問に答えてくれるし(私は取り乱している最中のこともしっかり覚えているので)、練習すればいいんだ!と気付いて努力し始めるだろうし、と前向きだった。
前向きに観察していた。
けれども。
誰も変わらない。質問にも答えてくれない。もう一度たずねても意味がわからない、という顔。
そもそも言われた内容を理解出来ていないかのような。
……体が付いてこないだけで頭では理解している……んだよね……?
もしかして……。
もしかしてだけれど……。
…………。
ひとつひとつ確認していく。
「小さいころってねてばっかりでしゃべれなくてタイヘンだったよね?」「え? なあにそれ?」
「かってにカラダがなきだすのヤんなるよね?」「カッテって?」「ヤダからなくんだろ?」「はへ?」
「……うまれたトキのこと、おぼえてる?」「いつのこと?」「おぼえてないよ」「なにいってんの」
「……シスター、あかちゃんも、あたまのなかでは、おとなみたいにはなすよね?」「そんなわけないでしょう」
……みんな阿呆なの?
というか私が特殊なの?
頭が真っ白になって、私はお昼ご飯のあとフラフラと孤児院の庭をさまよった。
産まれてから三年、一番の衝撃だった。
私ってなんなんだろう…………。
何者ぞや……?
木陰に座ってボーーーッとしていると、遠くで誰かが室内に向かって走っていった。すごく慌てている。同時にどこか慎重な動き。たぶんあれ、漏らしかけてる。私と同い年くらいの3歳児にみえるからトイレトレーニング中なんだろう。大丈夫かな〜と目で追っているうちに、可哀想に、間に合わなかったみたいだ。
幼児が泣き出した。
しばらく眺めていたけれど、動く気配がなく立ち竦んでいる。泣きながらでも早く洗いに行けばいいのに。ああいうときってみんなは何を考えているんだろう。
……そういえば粗相をした子にはまだ「なんで?」を聞いていなかったな。
私はいそいそと泣いている3歳児に近寄った。
「ねえ」
黒髪の男の子だ。黒い目がくりくりしている。潤んだ目が私を呆然と映した。
「なんですぐにかたづけ、しないの?」
ぱちくりと大きな目が瞬く。
「ないてても、あらうこと、できるよね? なにをかんがえてる?」
ゆっくりと私の言葉が3歳児に染み込むのを待った。聞いて、考えて、口を動かす。これがなかなか重労働だったりする。頭のなかではすっかり言いたいことが出来上がっているのに、表現するのがむずかしい。その苦労を知っているから、私はいつも辛抱してみんなの反応を待つ。待っていれば中身の詰まった返事が来るのだ、と信じている。信じていた。信じていたのに、その信用がゆらいでいる。
3歳児の顔がくしゃりと歪んだ。
−−怒った。癇癪玉が弾ける。弾けてもいい。でも、気持ちが落ち着いたら私の質問を考えてほしい。肉体にふりまわされても頭は働くはずだ。私の言っていることを理解してくれるはずだ。
だって私は理解できる。
だからきみも理解できるはずだ。
そうだよね?
3歳児の瞳が、ぎらりと赤黒い光を反射した。おそろしい形相をした男の子は泣かなかった。怒鳴らなかった。ただ一音ずつ噛みしめるように、
「う、る、さ、い」
衝撃。
物質的なインパクトだった。
視界がブレて歯がガチンと鳴った。前のめりになり、頭の重さを支えきれずに地面へ倒れ込む。いきなりなにがなんだか。
たぶん男の子になにかされたんだろうけれど。
土しか見えない。
痛い。
痛い、それだ。
起き上がれないし、痛いし、ビックリしたし、頭が熱いし、ヌルッとした液体が垂れてくるし、私も3歳児だし……、つまり、
泣いた。
びええええええええと泣き声を出す。
いいいいいたいいいい!
なんなのなんなのなんなの!
意味わかんない!
なんでみんなはノロマなの。なんで頭の中でもっともっと考えていないの。私の考えがなぜ伝わらないの。かんたんなのに! 私の感じている不自由を、なんで共有してくれないの。
みんなが同じく我慢しているのではないの。どうしてどうしてどうしてどうして!
みんな、そうなんだと思っていた。
みんな、身体が大きくなるまで、不便を感じながらじっと耐えているのだと思っていた。
隣に寝かされた赤子の瞳を見つめて(お互い大変だねぇ……)なんて心のうちで語りかけていたのに。
なのに。
ちがった!
みんなただのバカだった!
どうして?
じゃあ私は?
私はなんなの?
愚図でノロマで阿呆な子たちに囲まれた私は?
ああそうか。みんなが『普通』なら。
私は−−選ばれし者だ。
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