テンシに煩悩

今日はなぜか絶不調で、朝方はそこまでではなかったのに、昼休みに近づくにつれてどんどん眩暈が酷くなっていった。無理をして家に連絡をされても嫌なので、保健室に向かおうとしたが。歩いている途中でさらに悪化して、視界が回る。もう自分の足が地面を踏んでいるかどうかもわからず、いっそ倒れてしまった方が楽なのではと思い始めて目を閉じかけたとき。

「会長くん!」

聞きなれた、とても焦った声が、そこそこ距離があるのだろうなという大きさで聞こえて、バタバタと乱暴な足音が聞こえて、ぶつかるような衝撃を身体に感じた。
ぶつかったのではない。支えてくれたのだ。まるで抱きつくような姿勢で。よく僕が倒れる前に間に合ったな、なんて呑気に考えたけど、そういえばこの子は足が速いんだった。

「会長くん、私のことがわかる?」
「………いぶ、き」

視界が左右に半回転ずつ、徐々にではあるが落ち着いてきている。

「歩けそうじゃないね。ゆっくり座ってみようか。大丈夫、祈蕗が支えてるから」

彼女は僕が視覚で彼女を上手く捉えられないとき、自分のことを祈蕗と呼ぶ。目で見なければ人がわからないわけではないが、それは彼女なりの気遣いなのだとわかっている。

「ゆっくり、膝曲げて。そうそう、大丈夫だからね」

僕の脇の下を支えるようにきつく抱きしめられたまま、反転する世界を無視して地面に近づく。途方もない時間が経ったとも思えて、やっとのことで地面に膝がついた。そこからも気を抜くことなく、彼女はしっかり最後まで補助してくれる。

「うん、座れたね。会長くんえらいぞ」

恐らく膝立ちをしていて僕より座高が高くなっている彼女は、抱きしめるようにして僕の頭を撫でた。女子特有の、甘い香りがする。

「飲み物買ってきてもいい? 心細い?」

僕は少し悩んで、僕を抱きしめたままの彼女に体重を傾けた。わがままを言っている。迷惑だろうか。

「うん、わかった。ここにいるよ。大丈夫だからね、祈蕗はどこにもいかないからね」

さらさらと僕の頭を撫でる作業が継続される。視界の揺れはマシになった気がするけど、抱きしめられて目を閉じたままなので確認できない。
したくない、とも思った。良くなったら抱きしめてもらう理由が無くなる。
僕がわがままを言って許してもらえるのは、今だけだから。

「会長くん、もしかして今日無理した?体調やばそうだなって思ったら、誰にでもいいから言いなさいって言ってるでしょう」

言葉はお説教のようにとれなくもないが、その声はとても優しかった。赤子でもあやす様に、小さな子どもを諭すように。

「私に言ってくれればいいのに」

囁くように、彼女は言った。目を開ける。彼女を見上げる。案外彼女の顔は近くにあった。身長差は20センチほどあるから、座った僕と膝立ちの彼女でも差を埋めるくらいの働きしかしなかったらしい。彼女の表情を認識する前に、視界が回転する。ふらつきかけて、また彼女の、僕を抱きしめる力が強まった。

「会長くん、大人しくしなきゃだめでしょ」

言葉が出ない。言葉を組み立てて発するほどの思考ができない。情けない。不甲斐ない。

「寝っ転がった方が楽かな。5歩くらい歩けばベンチあるけど……寝っ転がる?頑張れそう?」

訊きながら、彼女は僕の手を取る。イエスなら握れ、という彼女がよく使うものだ。僕は彼女の手を握る。長めに握って、反射反応ではないことを示した。
先程よりはよっぽど、眩暈は良くなった。 支えてもらえば、歩けないことはないはずだ。

「よし、わかった。会長くん、少しだけがんばろうね。支えてるから大丈夫だよ。せーので立とうか、せーの、」

彼女が立ち上がるのに合わせて足を動かす。大丈夫だ。比較的視界は安定している。全体重をかけているから、彼女にしてみればかなり重いはずだ。体格差は大きく、体重差もある。体重を聞いてみたことはないけど、平均かそれ以下くらいの体型に見える。辛いだろう。僕の身体を支えるのは。

「大丈夫だよ、一歩ずつゆっくりいこうね。倒れそうになっても受け止めるから安心して?」

彼女を視覚で捉えられないとき、彼女の声は驚くほど優しく感じられる。いつも声色は変わらないはずなのに、柔らかく、優しい、その声があるだけで僕は、この弱いからだを呪う。

「着いたね、会長くんはすごいね。ゆっくり座るよ」

冷たくて硬いベンチの感覚。視界の揺れはほとんどないけど、平衡感覚が定まらない。傍から見たら、座っているのにふらついている変なやつかもしれない。

「ほら会長くん、横になるよ」

彼女に体重を預けながら、徐々に彼女の方に倒れていく。頭が、柔らかくてすべすべしたものの上に乗った。僕は目を閉じてすぐに、意識を手放した。



目を覚ます。一階のホールだった。ああ、気分が悪くて、保健室に行く途中で。

「おはよう、会長くん」

頭上から声が聞こえて、視線を向ける。祈蕗が微笑んでいた。やさしい、天使みたいな笑みだった。
僕はやっと、彼女が介抱してくれたことを思い出して、そして彼女に膝枕をしてもらっているという現状に気づいた。

「……どのくらい寝ていたかな」
「40分くらいかな。体調はどう?」
「良好だ。寝たおかげですっきりしたよ」

40分、というと、もう午後の授業が始まっている。恐らくライブ関係の所用でアイドル科に足を運んだ彼女を引き止めてしまう形になった。

「ならよかった。でも、もうちょっとこのままでいてもらおうかな」

彼女の指先が、僕の頬を滑る。

「英智くんを独り占めできる機会なんて滅多にないからね」

脈打つ。心臓だ。徐々に、その音は大きくなっていく。まるで、生を主張するように。まだ、夢をみているのかもしれない。醒めない夢を。うん、醒めなければいいと思った。ずっとこんな夢なら僕は、浸っていたい。
上体を起こす。ベンチに手をついて自重を支えて、彼女の黒髪を梳くように撫でる。そのついでのようなワンテンポで、唇を重ねた。
僕よ、まだ目覚めるな。もう少し、もう少しだけ。
口を離す。祈蕗は目を見張っていた。快晴の瞳を瞬いて、僕をじっと見つめている。

「会長くん、寝ぼけてる?好きな子と間違っちゃった?」

僕も彼女を見つめる。夢が醒めても、醒めたあとの世界でも、彼女は僕が口付けをすれば、こんな反応をするのだろうか。

「ねえ、私祈蕗だよ、わかる?やっぱりまだぼやっとしてる?」
「わかるよ、祈蕗」
「会長くん、ゆめうつつ?」

言い慣れていないのか、なんだか少し舌足らずに彼女は訊いた。夢現。そうかもしれない。ただ僕は、ぼんやりしているだけで、これは本当に夢ではなくて。彼女が僕を支えてくれたのも、介抱とはいえ抱きしめてくれたのも、膝を貸してくれたのも、

「…………え?」

これが、夢ではないとして。

「夢じゃないぞ、英智くん」

鼻をつままれる。当たり前に呼吸が詰まる。
これが、夢では、ないとすれば。

「いいよ、しかたないから、許してあげる。好きな子と間違えちゃったのも忘れてあげる。運がいいよ、授業中だから誰も見てない」
「祈蕗」

間違えたんじゃない。それは、断じて違う。
でも、自分にとって、祈蕗がキスをしたいと思う対象であるということも、上手く飲み込めない。でも、きっとそうなのだ。無意識に近い、意識の若い部分に近い僕が、彼女との口付けを望んだなら。たぶん、それはもう、そういうことで。
これは、恋ではない。恋なんて、きれいな感情ではない。恋という名前であってはいけない。もっと別の何か、褪せた部分の名前なのだ。

「………………ごめん」

喉の奥が乾いていた。祈蕗は笑った。

「いいよ。忘れてあげる」
「他に、キスしたい相手がいたんじゃないよ」

ごめんね、と俯いたが、この至近距離では、俯いたところで表情なんか隠せない。僕は今、とてつもなく変な顔をしているだろう。

「会長くんは私とちゅーしたかったの?」

冗談めいた声で、祈蕗は言った。拒絶のようすはない。ないけど、彼女は優しいから。優しさと好意は違うのだ。
僕は身体を起こして、中途半端な膝枕から脱した。彼女の隣に、正しく並んで座る。

「よし、じゃあ間違っちゃった会長くんに罰ゲームね」

驚くまもなく、にしし、と彼女が笑う。わざとらしく、人をからかうときの笑い方だ。

「ぎゅってして」

彼女は腕を広げた。笑いながら。
それが本気なのか、冗談なのかは、判断がつかなかった。この子は人を困らせるのが好きだ。些細なイタズラくらいだし、どこまでが良くてどこまでが迷惑かはわきまえている。
から、これはたぶん、イタズラではない。
抱きしめる。小さな身体だった。こんなに小さいのに、僕を支えてくれる大きな存在なのだ。彼女は僕が弱っていると必ず駆けつける。敬人みたいな速さで、でも落ち着いていて、世間話のような温度で。弱っていないときも体調を確認して、そういう彼女の行為のひとつひとつは、時間をかけて、僕の中で温度になった。
これは恋ではない。恋なんて、きれいな感情ではない。でも、それでも、恋からきれいなものをとって、その残りみたいな影と、近似値をとる感情だと思っていいのなら。
胸が痛かった。病気のせいなら事件だけど、そうじゃないから大事件だ。

「…………ごめんね、祈蕗」
「このハグでプラマイゼロだよ」

僕は彼女に手を伸ばす。ついさっき、触れてしまった唇をなぞるように、顎の先を掬う。
連れ去ってしまいたい。誰もいない場所に。誰の目も届かない遠くに。ただふたりですごして、朝起きたらおはようを言って、寝るときはおやすみを言って、そういう景色で彼女に隣にいて欲しい。

「あ、チャイム鳴るね。会長くん保健室行く?」
「いや、もう大丈夫そうだ。教室に戻るよ。授業、サボらせてしまってごめんね」
「いいよ、会長くんの寝顔、貴重だし」

彼女は笑うと、まるで寝癖でも直すような仕草で、僕の後頭部を撫でた。笑って、離れた。

「じゃあ、私行くね。また辛くなったら無理しないこと!わかった?」
「うん」

よし、と彼女は満足気に微笑んで、手を振って走っていった。これから普通科に戻っても、受付や何やらで次の授業に間に合うかどうかは五分五分だろう。今度彼女が生徒会室に来たときのために、良い茶葉と良いお菓子を用意しておこう。
ふと立ち上がって、歩く度に覚えのある、でも自分のものではない香りがすることに気づいた。それは、祈蕗の香りだった。
指先を、自分の唇に触れる。
もしも、彼女も同じなら。
そういう甘い希望は、生まれてすぐに消えるのだ。
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