色めく夢の快晴
照りつける太陽、光る海、怠いくらいの暑さ。
ビーチである。名目上は強化合宿、目的の三分の一程度は避暑を兼ねた観光。在学中の高校生の子たちは夏休み、それ以外の大人は各々、都合がつく者は休暇をとって。僕たちは異国の島に来ていた。うちの所有地である。
海でみんなが自由にはしゃぐ中、僕はビーチチェアに寝転んでパラソルの下で休んでいた。隣で祈蕗も同じようにしている。明日、明後日とライブをするので、音響担当として来てもらった。彼女は泳げるらしいが、先程から海で遊ぶ様子はない。僕に気を使っているのか、なんなのか。
ふと隣でチェアが軋む音がした。視線を向けると同時に、彼女が手を伸ばして、その手は僕の上を跨いで、テーブルに置いてあったトロピカルジュースを取ろうとしていた。乗り出された体は僕に触れることはないけど、近いし、視界の半分は彼女で埋まっている。
「良くないよ、祈蕗」
「あ、起きてたんだ。微動だにしないから寝ちゃったかと」
サングラスをしていたから、ぼうっとしていた僕は寝ているように見えたらしい。
「跨いでごめんね」
「いいよ」
この暑さだからか、観光気分なのか。普段はあまり肌を晒したがらない彼女も水着姿だ。大変目に毒、というと失礼に当たるかもしれないけど、本当に目に毒だ。スクール水着くらいの露出度かと思えば、普通にビキニを着用している。ショーツは足の付け根まで大きく見せるような細いもので、やや控えめな胸にはフリルがあしらわれていて可愛らしい。
「……サングラスがあってよかった」
「おや?英智くんおやおや?」
「ふふ」
「エッチ、見るだけだからね」
見るのはいいのか。どうも、彼女は僕のこういった発言を冗談として処理する傾向がある。自分がどれだけ魅力的な容姿をしているか、恐らく自覚していないのだろう。
祈蕗は、芸能人のような美貌をもってはいない。体型については嗜好が分かれるだろうけど、男の大半が思わず目を奪われる、といった豊満な体躯ではない。それでも、僕は腹の奥の何かがじくじくと唸って逆らえない。理由は簡単だ。すきだから。それ以外にない。
「英智くん、ちゃんと水分摂ってる?暑いんだから、いつも以上に気にしなくちゃだめだよ」
いつもこういったことは、弓弦が桃李にするついでのように、僕に世話を焼くのだけど。今、弓弦は海辺ではしゃぐ桃李の面倒をみているし、今僕の隣にはもしかしたら弓弦よりもお節介焼きかもしれない祈蕗がいる。介護はいただけないけど、彼女の『お世話』なら悪くないなと、思う。
「じゃあ、僕も同じものを飲もうかな」
「おっけー、もらってくるね」
立ち上がりかけた彼女の手を掴む。驚いたようすの彼女が手にしていたトロピカルジュースのストローを咥える。爽やかな果実の香りと微炭酸が喉を潤していく。水分が身体に入る感覚が明瞭だった。
「あ、もう、伏見くんに怒られるよ」
「見られてないから平気だよ。君が告げ口しなければね」
「あとお触り禁止」
「手くらいいいだろう」
「だ・め・よ」
「恥ずかしくなっちゃうのかな?」
祈蕗の身体が一瞬固まる。僕が弱い力で握っていた彼女の手が、身動ぎされて離れる。祈蕗は立ち上がってドリンクを置くと、屈んで僕の顔に、自分の顔を近づけた。そう、例えば、キスができるような距離まで。艶めかしく熱を帯びた彼女の指先が、僕のサングラスを持ち上げる。突然鮮やかになった世界の色に、祈蕗の瞳は灰の空から快晴になる。
「いい度胸してるよね」
彼女は僕の口の端に唇を落とすと、サングラスを元に戻した。世界は再び茶褐色に染まって、僕が身体を起こすより早く、夏の彼女はパラソルの下を出ていった。
いい度胸、なんて、どっちが。
「渉さーん!サーフィン教えて!」
「祈蕗ちゃん!サーフィンのことなら俺に聞いてよ〜」
「薫はイヤ」
「なんで!?」
熱が癒えない。
しかし、これは不快な暑さではない。彼女が触れていった口の端に指を添える。腹いせのように彼女のジュースを二口飲んだ。
「祈蕗」
「あれ、英智くん」
どうしたの、と言う彼女は、ランニングでもしていたのか、髪がしっとりと首筋に張り付いていた。ただの白いシャツに半袖のパーカーを羽織っただけの、男だらけの空間にあんずちゃんとたった2人だけで送り込まれてきたとは思えない無防備さだ。
「こんな時間まで起きてていいの?明日はライブでしょ」
「昼間半端に寝てしまったから寝付けなくてね。祈蕗こそ、こんな時間に走り込みかい?」
「あは、ちょうどいい気温だし、走るのすきだから。散歩ーって思って出たらつい」
「良くないね、君は女性なのだから。いくらうちの所有地とはいえ、絶対に安全とは言いきれない」
彼女がぐっと黙り込む。てっきり間髪容れずに「気をつけてるから」というような言葉が返ってくると思っていたので、肩透かしをくらった気分になった。
「確かに。はしゃいでたかも。ごめんね」
「反省したならよろしい。僕に一言声をかけてくれれば守ってあげられるからね」
「守ってもらうならアドニスくんに頼むかな……」
「え」
そこであの彼の名前が出るとは思わなかった。彼は基本的には素直だし、彼女が『か弱い』女性である限りは守ってくれるだろう。僕の心持ち的には大変複雑で、多少不服だけど。
「ていうか英智くん、ほんとにちゃんと寝ないと。明日ふらふらになっちゃうよ?」
「眠気が一向になくてね。誰かが子守唄でも歌ってくれたら、眠れるかもしれないけど」
「歌おうか」
「……ほんとかい?」
「それで君が眠れるなら」
どうも彼女は、僕のことになるとやけに向こう見ずというか、自分を顧みないというか。まあ、その性質を利用できるならするまでだけど。
「じゃあ僕の部屋においでよ。今すぐにでも」
「汗だくだからシャワー浴びてからね」
「僕の部屋のを使えばいいよ」
「いやだめでしょ、倫理的に」
「恋人どうしなのに?」
あれ、と彼女が顎に手を当てて考え込む。真面目だ。
「いや、だめだよ……」
「添い寝はいいのに?」
「添い寝をするとは言ってない!」
しまった。黙っておいて、あとで「添い寝も」とベッドに引き込めばよかった。
「オイオイ良からぬことを考えてる顔をしてるね英智くん!」
「おっと、心外だな。気のせいだよ」
「すけべ」
彼女はぐりぐりと拳で僕の腰あたりをぬるく攻撃する。その手首を掴んで、ほどけた拳と強引に指を絡めた。
「ほら、行こう。早く僕を寝かしつけたいんだろう?」
「それはそう」
いつもは手を繋げば並んで歩く彼女が、今日はやけに抵抗して僕の少し後ろを歩いていた。振り返ると、彼女は僕の疑問を察したのか表情を歪めて言った。
「あせくさいので」
思わず足が止まった。それは、そうだろう。ランニングしてきたんだから。臭いを気にするのも不思議な話ではない。女性なら尚更だし、僕だって練習のあとはきちんとケアをする。
けどなぜか、今僕は。
「英智くん、それはどんな感情の顔?」
「君を抱きしめたい衝動を堪えている顔だよ」
「なんでそうなった」
「ほんとは堪えたくないけど、君の意志を尊重しよう」
「なんなんだ本当に」
彼女を僕の部屋に招き入れて、彼女はかなり渋ったけど結局僕の部屋のシャワーを使っていた。服がないと言われたので僕のものを貸そうかと提案したけど、さすがに下着がないのは困ると断られた。服を部屋まで取りに行って、僕の部屋のシャワーを使っている。一度部屋に戻るならそのまま自室のシャワーを使う選択肢もあると思ったけど言わなかった。気づかなかったようなので。変なところで真面目で変なところで抜けているのだ、あの子は。
「おまたせ」
「うん」
しっかり髪も乾かしている。僕がドライヤーをあてても良かったのに。そういうところこそ甘えてほしいんだけど。
「ほら英智くん、とっとと横になる」
「雑だね」
「早く寝かしつけたい」
「眠いのかな?」
「……走ったからちょっと眠い」
僕はベッドに横になって、ベッド脇に立ったままの彼女の指先を軽く引く。
「シングルだけど狭くないよ」
祈蕗の口が真一文字に結ばれる。片眉が二回ほど跳ね上がって、彼女のことを知らない人間が見たら不機嫌なのかと勘違いするだろう。しかし、これは照れたときの彼女のクセだ。大変可愛くない照れ方をする、とても可愛い僕の恋人。
「おいで」
彼女の手の甲に指を滑らせて、そのまま手首を緩く掴む。少し動けば振り払えるくらいの強さで。
彼女は俯いて、長く長く息を吐いた。そして羽織っていたパーカーを脱いでソファの背にかけて、それからベッドに上がった。
「お触り禁止で……」
「ハグもだめかい?」
「がっつりお触りですね」
彼女は、僕が触れても嬉しそうにしない。逆らえなくはなるようだけど、いくら照れると不機嫌な様子になる癖を知っていても、さすがに疑問を抱いてしまう。彼女が少し男性を苦手としているきらいがあるのはもちろん知っている。でも、彼女は、僕をすきだと言ってくれた。僕が自分の中で、あらゆる感情やら欲やらを調整した上で試しているスキンシップも、空振りなような気がしてならない。
「嫌かな」
「……ごめん、そうじゃなくて」
「抱きしめてもいい?」
しばらく、彼女は黙っていた。その時間はとても長いように思えて、でも壁にかけられた時計を見れば、それは一分にも満たなかった。彼女のことになると、待てなくなる。良くない。まだ、大人になりきれていない。
彼女が身動ぎをして、僕の胸に顔をうずめた。これは、先程の僕の許可への返答だろう。彼女の背中に腕を回して、深く、ゆっくりと息を吸い込む。
ホテルに備え付けられているシャンプーは全て同じもののはずなのに、彼女からは、僕とは違う香りがする。甘い、フローラルで、女の子の香り。
指先で彼女の髪を梳いて、毛先を指の中で弄る。彼女のすべては、柔らかい。温度と質量を持っていて、すべすべしている。
「撫でないでいただいて……」
「多めにみてほしいな」
「くすぐったいし。早く寝ろし」
「口が悪いよ」
「ごめん」
とはいえ、いやがる彼女に無理強いをすると本当に今後僕が痛い目をみることになる。嫌よ嫌よもなんとやら、だけど、節度は守らなくてはならない。
「英智くん、まだ眠くないの?」
「そうだね、君とこうしていると、安心して眠れるような気がするよ」
「微妙にずれた回答だね」
語尾が大きく緩む。欠伸をしたのだ。どうやら身体を動かした彼女の方が、僕よりよっぽど眠いらしい。
「このまま君も、ここで眠ったらいいんじゃないかな」
「………………明日はやくおきて部屋にもどる」
「渉が起こしに来るから?」
うん、と言ったであろう彼女の言葉は、既に聞き取れない言語となって音のまま消えていった。きっともう何をしても、外が薄白むまで起きないであろう彼女を、もう一度抱きしめる。
「君がいると安心するんだ。嘘じゃない」
きっと、彼女はそれを疑ってはいない。ただ、僕と同じ重さで受け取っていないだけで。
彼女は僕と同じような重みの感情をいくつか持っているけれど、果たしてこの子は、僕の存在で安堵することがあるのだろうか。
彼女の頭に顔を寄せて、まためいっぱい息を吸う。ああ、これが呼吸だ。君と僕の円が交わる少しの空間。そこには、僕の酸素を奪うものはいない。君にとっても、僕がそうあればいい。そうあるようになりたい。ならなければいけない。義務があるわけじゃないけど、彼女が僕を好きでいてくれるなら、せめてお互いの前でくらいは、『呼吸のように』呼吸ができるようにしたい。
彼女の寝顔を一晩眺めていても良かったが、明日弓弦に叱られるのが目に見えているし、僕も祈蕗と夢を共有したかった。仕方なく目を閉じて、彼女の手を軽く握る。
「おやすみ、祈蕗」
返ってこないとわかっているのに、こんなに幸福になる挨拶は、きっとこの瞬間だけのものだろう。