私の贋作
彼の涙に色があるとすれば、それは私の血の色だろう。
彼は元々二次元だった。最初は点、それから線。私の握るペンから始まり、コンピュータを経由し、彼は三次元に成った。
それは、かつての友人の模倣個体だった。
「おはよう、空閑。気分はどうだ?」
「おはようスズせんぱい。いつもとかわんないよ」
トリオンで構成した身体。プログラムした頭脳。トリオンが切れれば機能が停止するが、考えようによっては「人間と同じように眠る」と言える。
身体を作るのはそう難しいことではない。普段ボーダーが使っているトリオン体と同じだ。ただ、思考能力を搭載することはできなかった。今の彼は、ただ僕の言葉に対して最適解を演算して解答するただのロボットである。それは空閑遊真ではない。わかっている。わかっているが、そうする他になかった。なかったのだ。私は思っていたより弱かった。さらに言えば、元から強くなんてなかった。その事実が、彼の不在によって露見してしまっただけなのだ。
空閑遊真の劣化版を造った。それは私の罪である。
空閑遊真の劣化版は彼ではない。それが私への罰である。
僕の造った彼は、彼のようには笑わない。
もちろん改良を重ねた。彼の表情の機微、言葉に含む語気、口元の角度、目の細め方、眉の動きでさえも。でも、それは彼にはならなかった。
違うのに。空閑遊真はもっと、美しく微笑むんだ。無邪気で、無垢で純真で、でもその心は世の儚さを知っている。絶望などを抱くことなく、ただそれを事実として知っている。
だから美しいのに。きれいなのに。
いくら改良を繰り返しても、それは空閑遊真にはならなかった。
ほとんど無意識に足が向かったのは、いつか彼と歩いた通学路だった。目を焼くほどの夕陽がギラギラと光っていて、それは、私の贋作よりもずっと、空閑遊真に似ていた。
この夕焼けを持ち帰りたい。突然、そんな衝動に駆られた。私はどうしたらいいのだろう。考えた。この頭は思っていたよりも優れていなくて、役に立たないものだったのだと思い知った。だって私は、空を持ち帰る方法を知らなかったから。この空がそのまま、空閑遊真になればいいのに。栞の焼いたクッキーを食べて、みんなで囲んだ机で、平和を体現したみたいな空気で笑えばいいのに。そういう彼に、私はもう一度、会いたい。ただ、なったそれだけだったのに!
「スズせんぱい」
どん、と、耳のすぐそばまで心音が響いた。視線をずらす。しゃがみこんだ私の視線の先には、見慣れた後輩の靴先があった。
見上げる。首を傾げた拍子に、彼の白い髪がぴょこんと揺れる。
「何してるんだ?」
その贋作に、思考能力はない。ただし、演算能力はある。
僕を探しに来る、なんて選択をしたのは空閑遊真ではない。私の育てたAIに違いない。違いない。
「…………それがお前の最適解か?」
口元の空気だけが振動するほど、囁きに近い声が、掠れて漏れた。聞き取れなかったのか、劣化版の後輩はもう一度首を傾ける。
「いや、何も無い。帰ろうか」
「おう。今日の夕飯はなんだろうな」
「当番はレイジさんだったな。きっと肉たっぷりだぞ」
「スズせんぱい?」
なんだ、とかなんとか返事をする前に、空閑の手が私の頬に触れる。そんなことをされなくたって、自分の状況くらいわかっている。ただ、理由がわからないだけで。
「なんで泣くんだ?どこか痛いのか?」
「さあ、わからないな。そういう気分なんだよ」
そんな日があったって良い。意味もなく泣いても、意味を持って泣いても、どちらでもいい。空閑はよっぽど納得がいかなかったのか、私の目をじっと覗き込んだまま動かなかった。僕はその目が苦手だったはずだ。眩しくて、汚してはいけない気がして、すべてを見通されてしまう気がして、苦手だった。でも今はそうではなかった。だからやっぱり、オリジナルに優ることはないのだ。
僕はこの少年を再現することも、もしくは「彼」よりも美しく仕立て上げることも、どちらも叶わない。
「帰ろう、空閑。僕が泣いたって、そんなのどうだっていいだろ?」
「どうだっていいことはないだろ」
少しムッとしたように、でも優しい声で彼は言う。
「おれは、笑ってるせんぱいの方が好きだ」
それが空閑遊真から出た発言であると、脳が勝手に認めてしまった。その事実はある意味では正しく、ある意味では正しくない。私が造った彼なのだから、私が欲しがる言葉を知っているのは、当たり前のはずなのだ。
なあ、でも、おまえさ。
私はおまえに「好き」をプログラムした覚えは無い。AIが勝手に学んで、解析して、それが今に最適だと判断して寄越しただけだ。私がどれだけ愚かであったか、今更気づいた。これはどういう地獄なのだろう。私は何がしたかったのだろう。私は、私の造った彼ではない劣化版の何かに愛を求めて、楽しいのだろうか。私は彼ではない何かに心を砕いて、何かが満たされるのだろうか。空っぽの贋作を満たすための愛ならいくらでもあるけれど、それには、虚無に捧ぐ愛には、何か意味があるのか?
なあ、涼宮梓よ。
お前は一体何がしたい?
空を見ていて、後ろでキイと扉が鳴いたから振り返った。風に揺られる白い髪が目を焼く。それが空閑遊真だとすぐにわかって、だったらこれは夢なのだと、夢のない私の頭脳は理解した。
「スズせんぱい」
柔らかい声が、私は好きだった。好きだったと素直に表現できるのは、もう彼に伝える術がないからでもある。
彼はごく自然なしぐさで、それがまるで当たり前に受け入れられることのように、僕の隣に座った。
「怖がりだな、せんぱいは」
わざとらしく抑揚のある声で、彼は言った。何がだろう、と他人事のように考える。元々、誰かの私に対する見解を聞くのは結構すきだった。それは私の知らない私な気がして、それを知れば知るほど、私は僕を取り繕うのが上手くなると思っていた。
空閑遊真にだけは、私は取り繕うのが下手だけれど。
乱されるわけじゃない。ただ、君には誠実でいたいだけだ。私にとっての誠実とは、自分を僕と言わないことだ。僕と言わなきゃ立ってられない自分を大人しく椅子に座らせて、彼と目を合わせて会話をすることだ。それが私にとっての誠実だった。他のみんなには見栄を張りたい。涼宮梓は自分を守れる強い子だって思ってほしいから。みんなを助けられる私だって思ってほしいから。
でも、空閑遊真は私が見栄を張りたい相手じゃない。いつか、私が君に恋だと言っても、なんだそんなことかって笑ってもらうために。
「おれはここにいるよ」
夢みたいな空閑が言った。その笑顔が、何よりも私の胸の穴を穿った。もう血すらでないほど腐っているのに、君に触れると蘇る。そして、繰り返し腐る。
あなたに触れることで癒される傷がある。
あなたに触れることで腐敗する僕がいる。
なあ、どうしてくれるんだ。お前は一体、どこにいるって言うんだよ。
「おれはいなくなったりしないよ」
うそだ。
「せんぱいは寂しがり屋だな」
誰のせいだと思ってるんだ。
「おれは、せんぱいがすきだよ」
うそだ。うそだよ。
「せんぱいと同じものが見たいんだ」
はあ、と吐いた息が酷く熱いような気がして、私は思わず手で口を覆った。このまま、息を止めて、全部終わらせたかった。終わってしまえばいいと思った。彼のいない世界に光を見い出せないから?そんなご立派な理由じゃない。私は、彼の顛末を受け入れないままどこまでも愚かになる私のことが、底なしに嫌いなだけだ。
指の爪が頬に食い込む。喉から嗚咽が漏れる。全身が焼けるように暑い。視界が滲む。私の涙はきらいだ。みじめで、きらいだ。
「おはよう、せんぱい」
私の手を、やさしい力で、小さな後輩が掴んでいた。目を動かして彼を見やる。
「死んじゃうぞ」
片方しかない私の腕が、有り得ない力を放出した。突き飛ばした後輩は床に尻もちをつく。どん、と響いた音は、脳には到達しなかった。
「おまえは」
逃げていく。言葉が逃げていく。喉があつい。私から声が出ているのだとようやく気づいた。
「おまえは、死なせてすらくれないのか」
ひどい耳鳴りがしていた。荒い息が漏れていく。汗で髪が顔に貼り着く。後輩の、赤く揺れる瞳から、目を逸らせなかった。
「……おれのせい?」
静かな、彼の声が、凪いだ部屋に注いだ。空気が揺れる。呼吸が詰まる。立ち上がる彼のしぐさがひどく緩慢に思えて、体の表面が震える。
「また泣いてる」
その指先が私の頬を、まるで割れ物にでも触るみたいに、やさしく包んだ。彼の手が優しくなかったことなんて一度もない。その、少しも私を傷つけない柔らかさが、私は怖かった。怖かっただけなのだ。爪ひとつ立てずに私に触れるその手が、手に入れたいと願ったことすらない温度が、私の手に勝手に収まってくる日常に、慣れてしまうのが怖かった。
欠陥のない優しさが怖かった。せめて傷つけてほしかった。君も人間なのだと、それがわかったあとならば、君の喪失にも、きっと私は立っていられた。
でも、私はどうしようもなく、お前を空だと思っていたから。
写真に収めるのと同じだ。油絵でキャンバスに景色を描くのと変わらない。お前のことを、私は、寸分たがわず描けると思ってしまったんだ。
「ごめん」
裏返った声は、しかし空閑には正確に届いたらしい。答えるように、彼は私の手を握った。
「ごめん、……ごめん」
「怒ってないよ」
「わかってるよ、わかってて、やったんだ」
空閑遊真の再現。あの少年は、きっと私の所業を知っても、すごいな、そんなことができるのか、なんて笑うだけだ。少し歯を見せて、「ホンモノじゃ物足りないの?」とかなんとか、言ってくるだけだ。怒らないんだ。わかってる。わかっていた。
怒ってくれた方が都合がいいのに、彼は絶対にそうしない。
「……ごめん、空閑。もう君には頼れない」
「いらなくなったか?」
柔らかく紡がれていく声に、私のなかみはまっくろになる。いらないわけがない。私にはいつだって、お前だけが必要だったんだ。
「私は、ひとりで生きていかなくちゃいけないんだ。君に誠実でいるために。やっと、その覚悟ができたんだよ。遅すぎるよな、ごめんな、面倒かけて」
「せんぱい」
彼の目を見る。私では再現できなかった赤が、そこにはあった。
「ひとりじゃなくていい」
空気を吸った、肺の奥が痛む。
「みんながいる」
それは、少し前の私にとっては、毒になったかもしれなかった。みんながいる?そのみんなに、お前が含まれていないと意味がないじゃないか、って。今だってそう思う。
でも、ちがう。
私は、もう少しだけ、空閑がいなくて寂しいんだって、誰かにこぼしていいのだ。喪失っていうのはそういうふうに垂れ流して、抱えて集めて持っていていい。夕焼けを見る度、写真を見る度、手紙を見返す度、泣いていい。穴が埋まらないなら埋めなければいい。その穴こそが、お前の生きた証だって言い張っていいんだ。
昔、すごく好きなやつがいたんだって、誰かに言いふらすくらいがちょうどいいんだ。
「ばかだなあ、おまえは」
こぼれる涙が、空閑が触れているところから解けていく気がした。あたたかさに触れて、凝固した塊がほどけていく。
「やっぱおれ、笑ってるせんぱいが一番すきだ」
せかいでいちばん遠い告白を残して、私の贋作は停止した。昨日スリープモードにしないままだったから、ただのトリオン切れだろう。トリガーをオフにして、彼の体をただの黒い棒状に戻す。
なあ、知ってるか?私の友達にさ、すごく強くてかっこいい、素敵な少年がいたんだよ。