わたしは死に物狂いで走っていた。恐らく最近の中で一番といっても過言ではないくらいに走っていた。息はもう絶え絶えで、もはや呼吸が出来ているのかすら定かではない。それでもわたしは走らなければいけなかった。足はもう限界を迎えそうで覚束ないものになっている、けれどわたしは足を動かす。馬に鞭を打つように気合を入れてわたしは走る。追いかけなければいけなかった。それはわたしの使命だった。きっと周りからは「そんなのいいじゃないか」っていわれるに違いない。呆れられるに違いない。けれどわたしは、それを無下にするなんて出来なかった。待って、待って、お願いだから待って――! 祈るように綴るように、どれほど心の中で願ってもそれは立ち止まってはくれない。何度も心が折れかけた、でもわたしは諦められない。絶対に追いついてやる。

 奴は商店街の路地へと入り込んだ。ここまで坂道を恨んだことはない。下りだからわたしもスピードは上がるけれど、それ以上にわたしの追いかけている存在のスピードが更に増しているのだ。気が遠くなりながらも、魂胆には「絶対に諦めない」という気持ち。誰でもいいから、そいつを追いかけて。そいつを、捕まえて!

 しかしそのとき、わたしの一縷の光にかけたような望みが届いたのか、奴の目の前にひとりの男性が立ちはだかるように現れた。思わず「お願いっ、捕まえて!」と走りながら叫んだ。その人は一瞬何事だと慌てたような表情を浮かべながらも、奴に気が付くと身構えた。わたしも歯を食いしばって最後の力を振り切ろうとした、その瞬間。体がふわっと浮いたような感覚に陥って、視界がぐわんと大きく揺れ動いた。そして、男の人が奴らを捕まえた様子を伺えたのを最後に。

 ズッシャーーン!

 ハイラル城下町の商店街の路地に、決して平穏とはいえないような音が響き渡った。





「………っ」

 気が付いた時には、うつ伏せに転んでいた。鼻先が地面に擦れたせいか、ヒリヒリと微量の電気が流れているみたいな痛みがする。周りからは「おやまあ、派手に転けたもんだねえ」「あらあら、あの子って……」とわたしのことを小さく話す声が耳に入る。くそう、聞こえているんだよう。のそりと起き上がると、膝小僧にじんわりと痛みが広がる。確認してみるとそこは派手に擦り剥けて鮮やかな真紅が滲んでいた。思わず視界がぐにゃりと歪んではぼやけていった。

「……いたい」

 情けない。どうしてわたしってこんなにも情けないんだろう? いろんな箇所から広がる痛みや、行き場のない悲しみに押し潰されてわたしの双眼からぽろぽろと涙が溢れた。

 どうして、こうなっちゃったんだろう。……いいや、事の発端は分かっている。

 わたしは、自他共に認めるドジだった。
 今回の追いかけっこの始まりも、全てわたしのドジから始まった。



 城下町にあるしがないクスリ屋の一人娘であるわたしは、商店街へと買い物にやって来ていた。

「おじさん、リンゴふたつ頂戴!」
「おっ! エマじゃないか。今日はご褒美の日かい?」
「ふふっ、そうなの。はい、5ルピー」

 決して裕福とはいえないわたしたち一家。わたしの大好きなリンゴをふたつ買うことでさえ、わたしにとっては奮発だった。そんなわたしたちの金銭事情をよく知る親切な八百屋さんはなんとオマケをしてくれて、今日得たリンゴはみっつとなった。やったね。

「転んじゃダメだから、これに入れとくぜ」
「ありがとうおじさん!」

 わたしのドジを危惧して、ご丁寧にしっかりとリンゴを紙袋に入れてくれたのを受け取り、わたしはそれを抱えながら帰路についていた。みっつもリンゴがあるなら、アップルパイを作ろうかな。それとも、せっかくだしひとつひとつ大事に使おうかな。その時、わたしはすこぶる楽しい気分で歩いていた。

 まるで、そんな楽しい気分を表しているかのように広がる澄み渡った青い空。ほんの少し前まで不気味な黄昏に染まっていたけれど、今はとっても綺麗なスカイブルー。何だか今日は良いこと尽くしな気がする、なんて空を見上げながら考えていたのが悪かった。

 両手で抱えていた紙袋が傾いて、中に入っていたリンゴがみっつとも全てゴトゴトゴトッと音をたてて、はっと気が付いたときには坂道をごろごろと転がっていた。ふふ、まるでおむすびころりんならぬ、リンゴころりんだわ。なんてね。……――じゃないっ!

 そうこうして、なけなしのお小遣いで購入したリンゴとわたしの追いかけっこが始まったのだった。そして今に至る。



 涙をぽろぽろと流した状態のまま顔を上げると、わたしが追いかけてやまなかったリンゴの姿が目に入った。そして、更に視線を上に向けると奴らを捕まえてくれた男の人がわたしを心配そうに眺めている顔。

「だ、大丈夫か?」

 男の人はわたしが泣いていることに気がついて大いに困惑しながらも、わたしにそっと手を差し伸ばした。居た堪れない気持ちになりながらもご厚意に甘えてその手を取る。力を借りて重い体を立ち上がらせると、服は砂だらけで所々破れてしまっていた。ああ、またお母さんに怒られちゃう。お父さんにはこのドジ間抜け野郎って怒られちゃう。

「これ、…君の、だよな?」

 自己嫌悪に陥っていると、男の人が控えめにそう尋ねてきた。彼の手には、わたしが追いかけてやまなかったリンゴたちの姿。だんまりしながらこくりと頷くと、「はい」とやさしい声色でそれを手渡してくれた。

「……ありがとう」

 わたしより背の高い男の人を見上げて、真っ直ぐに目を見ながら感謝の言葉を告げる。緑衣を纏った、とても若そうな男の人だった。背中には剣や盾を構えているから剣士さんだろうか。ちょっと、いやかなりへんてこな帽子を被っているけれど、顔立ちはとても端正でいわゆるイケメンさんだった。

 わたしは受け取ったリンゴたちをまじまじと眺めた。ところどころ傷がついていて、はじめて見た時より酷い姿になってしまっている。でも、……それでも。無事で良かった。

「……リンゴ、それで全部か?」

 わたしが腕に抱えている、ずっと追いかけていたそれ――リンゴを指差しながら、救世主である男の方はわたしにそう問いかけた。いち、に、みっつ。全部でみっつ。わたしはこくりとまた黙りながら頷いた。すると、救世主の美剣士さんは「良かった」と微笑んだ。その笑顔に、思わず釘付けになる。

「ありがとう。本当に……ありがとう」
「突然リンゴが転がってきてびっくりしたけど、役に立てたようなら良かった」

 そういって美剣士さんはまたやさしく口角を上げた。つられるように、わたしも笑みが溢れる。すると、美剣士さんは「あっ」と表情を変えてわたしの目の前に跪いた。彼の視線はわたしの悲惨な膝小僧。「血が出てるな……」美剣士さんは一言ぼそりとそう呟いて、わたしの顔を見上げた。

「歩ける、か?」

 そして突然そんなことを尋ねてくるものだから、わたしは当たり前だといわんばかりに頷いて、実際に足を動かしてみると力が入らなくて再び真正面から転げそうになる。しかし、今度は美剣士さんがわたしを支えてくれたお陰で二度目の悲惨な事件は免れた。

 い、痛い。痛くて堪らない。随分と傷は深いようで、膝小僧からたらりと血が伝っていてその感覚もまた気持ちが悪かった。また涙がぽろぽろと溢れる。すると美剣士さんはあわあわと慌てふためきはじめた。

「あ、あー、泣かないでくれ。どうしよう、どうすればいいんだミドナ?」

 周りには誰もいないのに、まるで誰かに話しかけるみたいに喋る美剣士さんに申し訳なくなる。どうしよう。せっかく助けてくれたのに、困らせている。気合を入れて自分で歩かないと。もう一度お礼を言って、ちゃんと自分で歩けますって言って、早く家に帰らないと。すぐに帰るってお母さんにも言っちゃったからきっと心配している。夕方からは店番もしなくちゃならないから。よし、と決意して涙を拭って美剣士さんを見上げた。

「……ちょっと、ごめん」

 しかし先に口を開き、行動を起こしたのはわたしではなくて美剣士さんの方だった。

 彼はわたしの膝裏に手を通したかと思えば、そのまま勢いよくわたしを持ち上げた。いわゆるお姫様抱っこだ。一瞬何が起きたか分からなくって、わたしの思考は停止する。

「すぐそこに酒場があるんだ。そこだったら、きっと手当してくれるはずだから」
「……」
「だからしっかりと捕まっていて……いや。リンゴ、落とさないようにな」

 やさしい声色でそういった彼の顔を伺うと、少し困ったような表情で笑っていた。とりあえずわたしは落としそうになったリンゴを両手でしっかり抱え直す。そして、また美剣士さんの顔を見上げた。「ん?」不思議そうに彼は首を傾げた。この人は、この人は。

 なんて素敵な人なんだろう。一瞬においてわたしは心をがしりと強く掴まれた。

 そんな気がした。



  

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