「すごいね。朝の雨が嘘みたい」
星が広がった雲一つない空を見上げながら、夜月がそうぽつりと呟いた。隣を見れば、そんな彼女の横顔がすぐ近くにある。
「見て一星くん。ここにも星空だ」
夜月の指の先に従うように視線を向ければ、それは目の前にある湖のほとりを指していた。透き通った湖は、星空を鏡のように映していた。神秘的な景色。柄にもなくそんな月並みな感想が出てきたがもちろん口にしない。
「知ってますよ」
「うん。綺麗だね」
「……ですね」
「うん」
生憎の皮肉が通じないのも、もう慣れた。分かっていながら、そんな言葉を投げかけた。そして案の定、想定通りの返事が返ってきた。その安定さになぜだか安心感を覚えている自分がいた。本性が分からなくて、何を思っているのか全く分からなくて、読み取れなくて、不気味だと思っていたこいつと一緒にいるその空間に慣れている。落ち着いてしまっている。心地が良いとすら思っているような気がして、その考えを必死に振り払う。やっぱり、これじゃあ本当にこいつに絆されているじゃないか。思わず自分を嘲笑した。自分が心底馬鹿だと思う。俺は悪なのに。なのに、もういっそ、このまま絆されていってもいいんじゃないかとも思ってしまう自分もいた。
「今日、練習に参加しなかったの?」
まるで今思い出したといわんばかりの表情で、夜月はそう一星に問いかけた。関係ないだろ、と今までなら返答していたに違いない。しかし、なぜかそう答える気にもなれなかった。なぜかは分からなかった。
「……まあ」
今日の午前――雨の中での夜月との買い出し後。あんなに止む気配すらなかった天気は、晴れるまではいかずとも奇跡的に雨が止んだ。そのため予定通り、次のウズベキスタン戦に向けて代表の全体練習が行われた。しかし、灰崎やヒロトをはじめ他の選手たちからの警戒心剥き出しの視線で、練習どころではないことを一星は早々に察し、自ら練習を抜けたのだった。
とはいえ、グラウンドに顔を出していない夜月にも情報が回っているなんて、相変わらず俺の話をどこでもしてやがるのか。一星は日本代表の選手たちの顔を浮かべながらそう内心でごちた。
「そっか」
夜月はやはり、一星に対しそれ以上何も踏み込んでこなかった。どうして参加しなかったのか。何かあったのか。気になっているけど聞かないようにしているのか、それとも本当に気にしていないのか。けれど、もうそれすらもどっちでも良かった。ただ一星は、その夜月の対応が気楽だった。
「出かけていたの?」
「さあ」
「あ、行ってたんだ」
「……どうでもいいだろ」
「うーん。そうだけど」
「……なんだよ」
「外に出かけたなら、私も一緒に行きたかったなって」
せっかく一星くんと二人きりでお出かけできる機会だったんだし。ああ、でも一日に二回も好きな人とデートなんて贅沢だよね? じゃあやっぱりダメだ。一人でぶつぶつと楽しそうに呟く夜月を横目で眺める。相変わらず、何を言ってるんだこいつは。お前の脳内はお花畑か。溜息が溢れそうになるくらい呆れたけれど、口角が上がっていることには自分自身、薄々と気付いていた。まあ、今日練習を抜け出し向かっていた先は“あいつ”――光のところだったから。どれほど頼み込まれても夜月を連れていくことはないだろうけど。いや、でも、もし夜月をあいつの元へ連れて行ったらどうなるか。……あいつは、喜ぶかな。ありもしないそんなことを柄にもなく考えてみる。人懐こいあいつなら、彼女とも気が合うかもしれない。仲良くなるのにも時間がかからなさそうだ。
(……)
しかし、それを考えたときなぜか心の奥底がざわついたような感覚に襲われる。気に食わない。良い気がしない。何でだ? そう疑問に思った瞬間、隣から唸り声が聞こえた。無論、夜月だ。
「うう〜…寒いね」
「そんな格好だからじゃないですか」
「……そんなことないと思うけど」
「ある」
今の季節、日が出ているときはそれなりに温かいが夜になるとまだ冷え込む。夜月が着ているのは半袖と薄手にカーディガンで、気温の低い夜に、ましてや湖のほとりという風が冷たく感じる場所にいれば寒さをより強く感じるのも当然だ。今度こそ、一星は溜め息を吐いた。掴みどころがないが、何だかんだしっかり者なやつという印象を持っていたけれど、過ごしていくうちに意外と抜けているところが多いことに気が付いた。あと頑固。夜月へのイメージが着々と変わりつつある一星は、目の前で寒そうに腕を摩る彼女をもう一度横目で眺めた。そして、自身が羽織っていたジャージの上着を脱ぐ。
「これ」
「えっ」
「寒いなら着ておいてください」
「…いいの?」
「見てるこっちが寒い」
「…でも、それじゃあ一星くんが」
「いいから着ておけって言ってるんだよ」
「わっ」
本人の有無は聞かずに、一星は自分のジャージを乱暴に夜月の肩へ羽織らせた。夜月は驚きで目を丸め、しばらく何かを考え込むような表情をしてから「……ありがとう」と小さな声で呟いた。
「……うーん。あったかい」
「…」
「けど、まださむい」
「わがままだな」
「まだ寒いしか言ってないよ」
「それ以上ねだっても何もないからな」
「すごい! 手を繋いでほしいなって頼もうと思ったんだ。よく分かったね」
「……はあ」
頑固な奴とは思っていたけれど、こいつもなかなか言うようになってきた。否、これは元々からなのかもしれないけれど。でも、こいつもこいつなりにだんだと俺に素を曝け出してるとでもいうのか。何を考えているのか分からない、そんな少女。――そんな彼女が、もっと自分に本当の姿を見せてくれたら、誰も知らないような一面を見ることが出来るなら――。その先を考えようとしたそのとき。自分のものでも、もちろん隣にいる夜月のものでもない足音が耳に入り込み咄嗟に振り返った。
「あっ、キャプテン。お疲れ様です」
「おう! お疲れ!」
この場にやってきたのは、この日本代表イナズマジャパンの大黒柱であるキャプテン、円堂守だった。まさかの来訪者に一星は身構えるが、隣にいる夜月は相変わらず呑気に口角を上げていた。
「一星とちょっと話がしたいんだ。いいか?」
そして、円堂の掛けた言葉に一星は更に目を丸くさせた。俺にするような話なんてあるのか。いや、このチームのキャプテンであれば自分の行動について把握する必要とでもあるのか。一星は溢れそうになった溜め息を何とか心の中で留まらせた。
隣にいる夜月は、円堂からの問いかけに何の反応も見せることなく、しっかりと頷いた。
「はい。じゃあ、離れたところにいます」
そこは寮に戻るんじゃなくて、円堂の話が終わるまでもずっと待っているってことかよ。思わずそんな突っ込みを内心でしていると、夜月は下ろしていた腰を上げ、少し離れたベンチに移動した。本当に待っているのか。寒いっていってたくせに……。心配なわけじゃないが、代表のサポーターが体調不良にでもなったらどうするんだと一星はまた呆れる。
そんな夜月の様子を円堂も眺めていたが、夜月が離れたところにあるベンチに座ったのを見かねて、円堂も一星の隣に腰を下ろした。そして呑気に「星がきれいだな、ここは……」と呟いていた。この人もこの人で、ペースを掴ませない人のため一星はかなり苦手意識を持っていた。
「円堂さん。何も聞かないんですか? 疑ってるんですよね」
まったりとした雰囲気に痺れを切らした一星が、どうせ自分のことを聞きにきたのだろうと自身のことについて問うた。すると、これまた表情を一切変えず円堂は「ん? ああ、お前がみんなから誤解されてるってことか?」とさも当たり前かのように答えた。
(こいつ、馬鹿か? 誤解してるのはお前の方なんだよ)
円堂のその言葉を聞いて、単純に驚く。もしも本気で俺のことをそういう風に思っているなら、こいつは本当にただの馬鹿だ。しかし、決してそうではないことを一星も薄々と理解していた。何か違う意図があるはずだ。
「一星〜。俺はさ、みんな自分の場所があると思うんだ」
「自分の場所?」
「最初はな、それがどこなのかみんなわからないんだ」
だけど、だんだん分かってくる。ここだって分かってくるんだ。それを、どんなことがあろうと忘れるな。ここには俺たち仲間がいる チームがある。
「ここがお前のいる場所だ」
語りかけるように、諭すように、円堂は一星に対してそう訴えた。何を言っているんだと、そう呆れる前に一星の頭の中には一人の少年が頭に過ぎっていた。
(光……)
「どうした? 一星」
「いや、別に。俺はみんなにチームだと思われてるんでしょうか」
「仲間だっていがみ合うときくらいあるさ。お前はチームの一員だ。俺はそう思ってるぞ」
「そうでしょうか…」
よく分からない言い分を聞き、附に落ちないながらも適当に返事をした。
「なあ、一星サッカーのいいところってなんだと思う?」
「それは……そういわれるとなんなんでしょうね」
「仲間がいるってことさ!」
寂しいときも、辛くて泣きたいときもみんながいる仲間がいる。一緒に笑ったり泣いたり熱くなったり……。
「仲間がいるって、それだけですっげーことなんだぜ。そう思うだろ?」
ひとしきり円堂は自分の想いを伝えたのか、目を輝かせながら一星の反応を窺った。その様子がなぜか一星からみて面白く感じた。そして、思ったままの気持ちを吐き出した。
「別に思いません。」
「げっ!? な、なんでだよ!」
「仲間なんて関係性が不確かなもの……」
俺が今信じられるのは血の繋がりだけだ。そう口にしたとき、心がストンと落ち着いたような気がした。そうだ。俺はひとりじゃないんだ。俺にはあいつがいる。あいつがいるから、俺は今ここにいるんだ。仲間なんていらない。そんな反吐が出そうになる関係なんて……必要ないんだ。だから必ず、俺が救ってみせる。俺があいつを救うんだ。
円堂への言葉を振り払うように、一星はそう心の中で自分自身に鼓舞する。
「一星……そっか。じゃあ俺は行くな! でも、これだけは忘れるな」
一星の隣に下ろしていた腰を上げ、円堂は勢いよく立ち上がった。そこまで長話をしていたわけではないが、円堂は大きく両手を伸ばし体をほぐしている。その様子をぼうっと見ていた一星に、円堂は笑いかけた。そして、その笑みに対して一星は目を大きくした。
「俺はお前を仲間だと思ってる! どんなことがあってもな」
それだけを言い残して、円堂はその場を立ち去った。なぜか、心臓が、鼓動が、忙しない。まるでそれは、俺が、円堂の言葉に核心をつかれているようで。
(まさか、俺が戸惑ってる?)
いや、――そんなはずはない。俺はやるんだ、俺のために。そしてあいつのために。揺らいでいる自分に気付いたからこそ、自身で正気に戻すしかない。そうだ。お前たちなんか信用できるはずがない。何を根拠に信じればいいんだ? あいつらを欺き、騙し、蔑んだ……そんな俺を信用する奴なんて誰一人いるわけがない。俺は悪なんだ。悪人なんだ! もしも信用しているなんて言ってみろ。俺が信用するわけないさ。誰一人として、信用できるわけがない。そう、あいつ以外……。
しかしそのとき、一星の頭にひとりの顔が浮かんだ。さっきまでずっと一緒に喋っていた、今もなお少し離れたところで一星たちの話が終わるのを待っていたであろうその人物。でも、そいつだって。……そいつだって、きっと。
円堂は、少し離れたところにいた夜月に声をかけに行った。大方、もう話し終えたぞなんてわざわざ報告しに行ってるのだろう。円堂は声が大きいから予想しなくとも薄ら聞こえてくる。夜月はそれを聞いて、何かを円堂に言うわけでもなく、聞くわけでもなく、頷くだけだった。そして別れた後、さも当然かのような表情で一星の元へ歩み戻ってきたのを横目で確認した。
「お話終わったんだね」
「……」
「キャプテンとふたりでお話しなんて、緊張したんじゃない?」
「……別に」
いつものように穏やかに話しかけてくる夜月に、一星は冷たく返事をして素早く立ち上がった。そしてその場を立ち去ろうとする。さすがの夜月も突然すぎるその一星の行動に目を丸くし慌てた。
「えっ、ちょっと一星くん。寮に戻るの?」
「戻る。ついてくるな」
「…ええ」
ずっと一星くんのこと待ってたのに……と呑気なことを呟いているが、それ以上夜月は何も聞いてこなかった。普通、どうしたとか、どんな話をしたんだとか、聞いてくるもんじゃないのか。キャプテンからの呼び出しも同然だぞ。興味がないのか? それとも。
彼女のことを理解できるようになったと思っていたがやっぱり理解が出来なくて、そのモヤモヤとした気持ち悪い感情の塊は行き場失い、やがて苛立ちと成り代わる。一星はさっさとあいつに背中を向けて足を進めた。背後からは「一星くん……」と嘆くように自分の名前を呟く声が聞こえたけど、聞こえないふりをする。
しかし、後ろから「くしゅん!」と小さなくしゃみが耳に入ってきたとき、思わず足が止まった。
「あ、ごめんね。一星くんのジャージにはついてないと思う。でもしっかりと洗うね」
振り返れば、一星が貸したジャージの袖口をわざわざ捲って鼻を抑えていた夜月の姿があった。ずっと我慢していたため息が溢れた。そんなに寒かったなら、さっさと寮に戻ればよかっただろ。また次々に文句が溢れそうになるが、そこで一星はとある考えが思いついた。
こいつを信頼できるのかできないのかハッキリしないなら。信頼してもいいのか、利用してもいい人材なのか――自分自身で確かめたらいいんじゃないか。
「夜月さん」
「はい」
「頼みたいことがあるんです」
「?」
そんな難しいことじゃありません。当然、俺のことが好きならもちろん聞いてくれますよね。心の中でそう彼女に問いかけながら、一星は一人ほくそ笑んだ。
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