翌朝、空は真っ黒な雲に覆われ雨が降りしきっていた。日本代表の全体練習は一旦は中止となり、午前中は各自自由に過ごすことになった。しばらく止む気配がなさそうな空模様だが、天気予報が報ずるに昼頃に近付くにつれ晴れ間が見えてくるという。
そんな中、一星はひとり悩みあぐねていた。全体練習は中止。自主練をしようにも外は雨。室内練習場はきっと他の選手がいるだろうから気乗りもしない。かといって自室にいても岩戸がいるから気を遣う。――それはきっとお互い様だが。
さあ、どうしたものか。完全に手持ち無沙汰になってしまった一星は、廊下の窓から外の景色を眺めていた。窓を叩きつける雨粒をぼんやり見つめる。そのとき、ふと頭に浮かんだのは昨日、部屋にやって来てお節介なほどに自分の手当をしにきた彼女の姿だった。
「……好きな人が傷ついてる姿は、もう見たくないの」
「もちろん、男の子としての好きだよ」
「名前で呼んでほしいな」
「あれ? 一星くん、なんか照れてる?」
そして、昨日彼女に言われた言葉が次々に頭の中で蘇り、思わず頭を振り払った。クソっ、出てくるな。これじゃあまるで、本当にあいつに絆されているみたいじゃないか。そんなはずない。俺は誰にもつけこまないって決めたんだ。俺は悪なんだ。悪人なんだ。だから俺は、あいつなんかに――。
「あ、一星くん」
「うわっ!?」
「……?」
悶々と考えていたそのとき、背後からその考え事の張本人である夜月に声をかけられ一星は大きく体を揺らし驚いた。そんな様子を見て、夜月も首を傾げながら「そ、そんなに驚くかな……?」と不思議そうに一星を見つめた。
何で今日もまた出くわすんだ。一星は胸の中でそう吐き出しながら目の前にいる夜月を見返す。彼女の頬には昨日と同じガーゼで手当てが施されていたが、控えめながらもよく観察してみるとそのサイズは昨日よりも小さくなっている気がした。順調に治っているのかと悟ったとき、ほっと安堵の息を吐きたくなるような気分に一星はなりかけたが、我に返って頭をまた振り払った。
「今日、雨だね」
「……」
「でもお昼には止むらしいし、良かった。次のウズベキスタン戦に向けて練習しないとだもんね」
一星からの返事も待たずに、夜月は淡々と話し続ける。そんな彼女をみて、一星は思わず目を細める。相変わらず、掴みどころのない奴だ。一体何を考えているのか毛頭にも分からない。余計なことは言わずにだんまりを決め込んだ一星だったが、夜月が手に持っている小さなカバンに目に入った。
「……風秋さん、どこか行く予定があったんじゃないんですか?」
「うん、昨日行けなかった買い出しに」
「じゃあ、俺に構ってる時間があるならさっさと行くのがいいと思いますよ」
「でも、好きな人を見かけたら話したくなるのが普通だと思うよ」
「………」
どうしてこう、何度も何度も皮肉が通じないんだ。ここまでくると怒りや苛立ちを通り越して、いっそ呆れてくる。隠す素ぶりもなく、大袈裟に溜め息を零してみるがそれも彼女には通じないことは分かっている。分かっているけれどやってしまうのが、己の器の小ささを表しているようでそれも気に食わなくなる。
「一星くん、今時間空いてるよね」
「……それが何か? 暇人だって笑いに来たんですか?」
「うん」
「は?」
「ああ、笑いに来たわけじゃないけど。暇なら、よかったら買い出し手伝ってほしいなって」
夜月からの頼みを聞いて、昨日の朝もそんなことを頼まれたなと一星は思い出した。俺の怪我だらけだった身体を危惧して勝手に特訓させないために、買い出しの手伝いをしてほしいのと同時に監視するために連れ出したいのだと。結果的に俺はあのとき断った。しかし、夜月はまだ買い出しに行けていないという。その理由は明白だ。夜月が買い出しに行こうとしていた練習後の午後一に、あの事態があったのだから。もし俺があのときに嫌々でも買い出しに付き添えば、あの一連の事態はなかったのかもしれない。
一体どれほどの買い出しをしようとしているのかは分からないが、もし本当に多くの買い出しをするのなら、このか弱い女一人で大丈夫なのか。昨日、灰崎に殴られ目の前で吹っ飛んだ夜月がまた脳裏に蘇る。しかも外はまだこんなにも雨が降っている。昼頃から晴れ間が見えるとはいえど、午前中にこの雨が止むのは厳しいだろう。……。
頭に浮かんだ、その夜月への返答の言葉を彼女に伝えることに一星は抵抗を覚えていた。いや、違う。俺は悪なんだ、決してこれは善意では断じてない。一種の罪滅ぼしだ。――あのときの彼女への贖罪なんだ。そう自分に言い聞かせ、一星は夜月の目も見ずに口を開いた。
「行くならさっさと行きますよ」
「えっ」
「……」
「買い出し、手伝ってくれるの?」
「そっちが頼んできたんじゃないですか。他の人の方が良かったなら別にいいですけど」
「ううん、そんなはずないよ。駄目元だったから、ちょっとびっくりしちゃって」
「……」
「ありがとう一星くん。行こっか」
ふんにゃりとした笑顔を一星に見せた後、夜月は先に前を歩いた。外は本当に止むのかと疑いたくなるくらいの大雨。傘は……寮にあるものを借りればいい。こんな雨の中出掛けるなんて、そんな面倒なこといつもなら絶対にしない。まあ、でも。
心なしかご機嫌そうに見える彼女の後ろ姿を見て、一星は無意識に口角が上がった。
☆
代表チームのサポーターの買い出しとやらは、一星の予想していたより大変なものだった。あれやこれを買って、次はあれを、とテキパキ動く夜月に唖然としながらその後ろをひたすらついていっていた一星だったが、買い出しの帰りは“贖罪”をしっかり果たすためにも荷物を彼女から奪って持っていた。しかしこれがかなり重い。男の自分が一人で持っても結構な重さだ。持てないほどではないが、サポーターのような女子が持つにはかなりの負担だろう。しかもこんな雨なら、傘を持つせいで片手は否応なく塞がる。一星は決して本人には言わないが、心の中で手伝って正解だったな、とぼんやり思った。
帰り道に、会話は一切なかった。いつもなら鬱陶しいくらいに話しかけてくるはずなのに、何も声をかけてこない。さすがに気になった一星は、それまでずっと道の先を見ていた視線を隣へ移した。そして呆気にとられる。
一応、大半の荷物は一星が持っているわけだが、比較的軽い袋は夜月が持つといって聞かなかった。そのため諦めの悪いやつだと呆れていたが、実際どうだ。軽いといってもそこそこ大きな袋を持ちながら傘をさすその姿は危なっかしい。少し風が吹くだけでよろめいている。腕の力がなけりゃそうなる。一星はため息をついた。そして、一人必死に四苦八苦していた夜月はそんな一星の様子に気が付き苦笑いを浮かべた。
「……わたし、こういうところ不器用なんだよね。折り畳み傘で小さいから余計に…わっ!とと」
そして自ら己の鈍臭さを指摘している最中にも傘のバランスを崩していた。遮るものが一瞬なくなった夜月の頭に雨が降りしきる。……何やってるんだ。頭からかぶった雨水を振り払い、自分に向かって誤魔化すかのようにへらへらと笑う夜月を見て良い考えが脳に浮かぶ。その考えを思いついた瞬間、にやりと口角が上がるのが自分でも分かった。
「俺の方の傘に入ったらどうですか? こっちの傘の方が大きいですし」
「えっ」
「ほら、」
半ば強引に夜月が持っていた残りの荷物を奪い取り、力を込めて握れば今にでもポキリと折れそうなほど細く脆そうな腕を掴む。そして、ぐいっと勢いよく自身の傘の中へと招き入れた。招いた、なんていえるほど丁寧なものではないが。夜月は何も言わなかったが、その表情はあたふたと慌てているようだった。しかし何かに観念したのか、自分の持っていた今は用無しとなった折り畳み傘をゆっくりと仕舞う。そして、遠慮がちにいそいそと一星の傘の中へと更に踏み入った。
「……一星くん。私、今手ぶらだから傘は持つよ」
「危なっかしいんで良いです」
「でも……なんか……」
いつもの威勢はどこへやら。夜月の語尾につれて小さくなっていく声を聴いて、一星は頭に疑問符を浮かべた。いつもはしっかりと(鬱陶しいくらいに)目を合わせて話をするくせに、さっきから一切目を合わせようとしない。というかむしろ顔を背けている。別にどうでもいいといえばどうでもいいけれど、いつもと違うそんな夜月の態度にやはり一星も気にせずにはいられない。
「どうしたんですか、さっきから静かですね」
「……え、そ、そう?」
自覚していないのかよ、と思わず心の中で突っ込んだ。なんなんだ? 一体。こんな短時間で風邪でも引いたのか。しかし端から見ても具合が悪そうにはあまり見えない。なら、何か考え事か。ああ、それとも。
「まさか……今のこの状況に緊張してるんですか?」
男女二人で、同じ傘の下。女子が憧れそうなシチュエーションに夜月が緊張しているなんて今までの彼女を思うと考えられもしないが。
「どうなんですか? ……夜月さん?」
少しからかうつもりのジョークでそんなことを尋ねてみる。そして、彼女が望んでいたように下の名前を初めて口にしてみる。しかし、それに対しても返事がない。どうしたんだ、こいつ……何か変なものでも食べたんじゃないのか。不思議を通り越して心配になってきた一星が夜月の顔を覗き込んだ瞬間。
一星の思考が停止した。
夜月の顔は耳から首元、そして頬を真っ赤に染め上げていた。顔から火が吹き出しそうだ、なんて比喩表現があるけれど正しくそれは今の彼女を表すにぴったりだった。そんな顔を真っ赤にさせた彼女に呆気を取られていた一星に、夜月がようやく目を合わせる。
「……緊張、してるし、その……名前……」
照れくさそうに、けれど何か吹っ切れたかのようにはにかみながらそう口にした夜月に一星は息を呑んだ。なっ……と、言葉にもならない声が溢れる。そしてその"赤"はやがて伝染して、一星も首元から熱が上がってくるのを感じる。
「……そ、そっちが呼んでほしいって言ったんだろ」
「うん。……嬉しい。ふふ」
「……」
「一星くんも緊張してたりする?」
「俺は、……別に」
夜月から今まで伝えられてきた、好き、だとか。それらはいつも淡々とした表情や声色でしか聞いたことがなかった。なのに、……なのに何なんだよ。好きだとかは恥ずかし気もなく言えるくせに、同じ傘に入るだけでそんなに照れるって何なんだよ一体。おかしい。絶対こいつはおかしい。けれど、さっきにはにかんだ笑顔は正直今まで見てきた中でも一番夜月の感情豊かだといえる表情で、頭からこびりついて離れない。だめだ、こんなの。もしかして風邪をひいて頭がおかしくなってきたのは俺なんじゃないのか。肩と肩が触れ合うくらいの至近距離で、夜月と目が合った。一星はごくりと生唾を飲み込む。すると夜月が口を開いた。
「別に、かあ」
「なんですか」
「でも今一星くん、すごい顔赤いよ」
「……」
「うん、真っ赤!」
「うるさい、傘から追い出すぞ」
「ええっ、一星くんが入れって言ってくれたのに」
吐き気が出そうになるほど甘ったるい雰囲気になりかけたのも束の間、夜月の反撃とも取れるような一言に一星は我に返った。そしていつものような通常運転な会話を繰り広げていたが、なかなか引いてくれない自分の顔の熱に気付き、また思わず舌打ちをしかけた。
……くそ、からかうんじゃなかった。心の中でそう悔やみながら、一星は自分の右肩が濡れるのも厭わず、傘をまた少し彼女の方に寄せて買い出しの帰路を辿るのだった。
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