「……うそだ、」
思わず唇から溢れたその声は、誰がどう見ても震えている。俺の目、どうかしちゃったのかな。もしかして、コンタクトがずれてしまっているのかもしれない。それとも仕事疲れで頭が働いていないのか。認めたい、だけど信じられない。葛藤と期待が交差する。心臓がバクバクと大きな音をたてながら跳ねるのが、苦しい。
嘘だ、嘘だ。まさか、そんなこと。
一体、どのくらいの時間が経ったんだろう。それほどに今突きつけられている現状に理解することが出来なくて、頭が困惑し続けていて。ただただ、丁寧に綴られたその一枚の手紙の最後に記された名前の部分を俺は見つめた。
「どうしたんですか、七瀬さん」
「い、一織」
「はい?」
「この、一番下に書いてある名前、読んでみて」
いきなり何なんですか、と少し馬鹿にしたような目で俺を見る一織に、普段なら機嫌を損ねるかもしれないけれど今はそんなの構わなくて。それより早くと、俺はずっと握りしめていた手紙を差し出した。
「名前? ……えっと、」
桜田陽向さん、じゃないですか。
抑揚もなく淡々とした声色だったけど、俺にはその一織の声が、頭の中で何度も木霊するように響き渡る。名前が、何度もリピートされていく。手紙に記された名前の部分を、俺は震える指で撫でた。何度も何度も、なぞるように、確かめるように。
――陸くんは、すっごくかっこいいね!
桜田陽向。
彼女と出逢ったのは、俺が八歳の頃だった。
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小さな頃から病院にはお世話になっていたのに、当時も長期入院が決まったとき、俺は周りの慰めなど知らぬ顔でわんわんと泣いた。純粋に、病院の匂いが苦手で。普通の子みたいに学校に行けないのが、悲しくて、悔しくて。そんなふさぎ込んでいた俺に、看護婦さんが紹介したのがまさしく彼女だった。
隣の病室で、歳が一緒。俺と同じで、歌が大好きな女の子。そう、彼女こそが桜田陽向。
「天にぃはすごいんだ! 歌がすっごく上手くて、ダンスも踊れるんだよ」
「へえ……」
「だからね、俺もいつか天にぃみたいになりたいんだ!」
「確かに天くんも凄いと思うけど……でも、私は陸くんの歌、すっごく好きだよ?」
「…ほ、ほんとに?」
「うん! 陸くんは私の中で、もうアイドルだもん。ほら、昨日みたいに歌って」
彼女は物腰柔らく、だけどすごく明るくて前向きな性格の女の子だった。俺と仲良くなるのに、時間は全くかからなかった。毎日朝起きて検査が終われば、隣の病室に遊びに行って。一緒にご飯も食べて。一緒に勉強もして。いつも、天にぃのことを自慢しに行って。だけど、天にぃが初めて彼女の前で歌を歌って、彼女が天にぃを直接褒めたとき、なんだかそれがすごく悔しくて落ち込んだんだ。
だから、彼女に自分の歌を褒められると調子に乗って大きな声で歌を歌っていた。もちろん看護婦さんには静かにしなさいとこっぴどく怒られて、また凹んで落ち込んで。それを彼女にやさしく慰められて。そして今度は二人で一緒に、小さな声で囁くように歌って。ひっそりとお互い耳元で歌おうとしたら、距離感をいまいち掴めなくて頭がぶつかって二人で痛みに悶えていたんだ。それがまたおかしくって、俺たちは笑い転げた。
数え切れないほどの彼女との思い出は、今でも忘れたことはない。忘れるわけがなかった。彼女の名前だって、今でもフルネームで書ける。好きな女の子の名前を書けるようになりたくて、漢字で書けるようになりたくて、彼女の病室についてあったネームプレートを必死に見て、必死に練習していた頃だって、懐かしい。彼女の笑っている顔が見たくて、どう笑わせたらいいだろうっていっぱい悩んで考えたりもした。彼女が辛そうな顔をすれば、俺だって悲しかった。彼女が笑うだけで、俺は幸せだった。――そう。
俺は紛れもなく彼女に、恋をしていた。
彼女の病気について、俺は詳しくは知らなかった。もちろん彼女だって、俺の病気がどんなものなのかは知らないはずだ。無論、幼い頃にお互いそんな話をしたことがないからだ。
彼女と出逢ってしばらくしたとき、俺は退院することになって一度彼女とは別れてしまうことになった。でも体の弱かった俺はすぐに病院に戻されて、再び入院することが決まったそのときにも彼女はまだ入院していた。裏を返せば、俺が退院してからも戻ってからもずっと入院していたということ。彼女は退院することが、できていなかったのだ。
とはいえ幼い俺はそんなことに頭が回るほど賢くはなくて、彼女がいるならあんなに嫌だ嫌だといっていた入院生活も苦じゃないと思えた。病院だって、入院だって、めちゃくちゃ嫌いなことには変わりないけど、また彼女に会えたことが嬉しかった。彼女と過ごせるのが嬉しかった。彼女もまた、喜んでくれた。
けれど、彼女と出逢ってから入退院を繰り返していた俺が三度目の入院をしたとき。確か、十二歳くらいのとき。
また入院かと肩を下げていた。けれど彼女と再び過ごせるという事実が俺のどんより暗い気持ちを軽くしてくれた。それだけがたった一つの心の救いだった。――だった、のに。
彼女の姿は、病院にはもう無かった。
信じたくない、信じられないほどのショックと同時に、とてつもない焦燥感に駆られた。そのときはもう小学六年生だったから、最悪の事態だって考えられた。一時退院もせず、ずっと入院していた彼女。そんな彼女が、もう病院にいない。まさか、と思った。嫌な予感ほど当たるものはないということを知っていたから、冷や汗が止まらなかった。ポジティブな考えなんか出来るわけなかった。
小さな頃から俺や彼女を知っている看護婦さんにすぐさま尋ねた。「陽向は、どこ」って。俺の表情を見てビックリしていた看護婦さんは、俺のその問いによって表情に影をさした。そして、悲しそうにぽつりぽつりとつぶやいた。
「陽向ちゃんはね、病気が少し悪くなって。ついこの前、大きな病院に移ったの」
彼女の情報は、それっきりだった。
彼女がいない入院生活なんて久しぶりで、本当に辛かった。どれだけ自分にとって彼女の存在が大きかったのか、改めて痛感させられた。辛かった、ただ寂しかった。そうだ、入院生活はこんなにもつまらなくて孤独で悲しいものだったな、と思い出しては泣きそうになった。さすがにもう十二歳だったから、泣かなかったけれど。いや、泣いちゃ駄目だと思っていた。
それからはただ、ひたすらと、彼女の想いが日々募るだけだった。なにも俺は彼女に伝えられていなかったから、なにも俺は彼女に返せていなかったから。
彼女に、もう一度会いたかったんだ。
ポタリ。手紙の上にひとつの雫がこぼれた。それは止まることを知らず、俺の目からぽろぽろと溢れ出てくる。そんな俺の様子に、いち早く気が付いたのは一織だった。
「……感動なされたんですか」
「いや、ちがっ、違うく、ないけど、」
「はい?」
「うっ、ど、どうしよ、俺、どうじよぉお」
「ちょっと、七瀬さん!?」
本当に、嬉しかった。良かった、まだ生きていた。不謹慎ながら、最悪なことをずっと考えていたんだ。嬉しくて、たまらなくて。その事実だけでも充分なのに、彼女がこうして手紙を書いてくれた。彼女も、俺を探していてくれた。いろんな感情が無茶苦茶になって、とにかく涙が止まらなかった。
一織は俺が発作を起こしたときくらいに慌てていて、同じくファンレターを読んでいたメンバーのみんなも何事だ、とか一織が泣かせたのか、とか凄く慌てていた。
「リク、どうしたんだ?」
「――実は、」
入院していた頃に出逢った女の子のこと、彼女と十二歳の頃から音信不通になってしまったこと、安否がずっと分からなかったこと、――彼女のことが、ずっと好きなこと。そんな待ち焦がれていた彼女から手紙が来たこと。全てを包み隠さずに話すとメンバーみんなが良かったなって自分のことのように喜んでくれた。手紙を見せてくれってすっごいせがまれたけど。
「そんじゃあ、りっくんその子ともう一回会えるんじゃねーの?」
「そうだよ。手紙に差出人の住所が書いてるはずだし」
壮五さんにそう言われて、俺は手紙の入っていた封筒の裏面を確認した。確かに、そこにはしっかりと住所が記されていて、その住所を見たとき思わず息を飲んだ。「大学病院ですか……」一織の声に、頷いた。この病院は、東京で一番大きい病院のはずだ。そしてそれはすなわち、彼女がまだ入院しているという事実を表していた。それを見て一瞬暗い気持ちになったけれど、だけども。
ここに、彼女がいる。ずっとずっと会いたくてたまらなかった彼女が、いるんだ。
「俺……会いに行っても、いいのかな?」
俺の口から出た声色は、それはそれは自分でも思うくらい情けないものだった。そんな俺を見兼ねてか、メンバーのみんなも表情を変えた。
「それを決めるのはお前だよ!」
「リク。このレディも、リクに会うことを心から願っていますよ」
「男なんだから一丁前に会いに行ってやれよ」
三月、ナギ、そして大和さんがそう背中を押してくれて。環も壮五さんもそれに同意するように頷いてくれて。一織はなんだか浮かないような顔だったけど、駄目だとは言わなかった。その瞬間、覚悟が出来た。
「―――よし」
四年間、俺に幸せをもたらしてくれた彼女の元へ。六年間、想いを募らせていた彼女の元へ。
十年間、俺が恋をしている彼女の元へ。
「会いに行ってきます!」
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