「うわあ……」

 思わず、目の前にそびえ立つ建物を目にした瞬間に感嘆の息が漏れた。大きい。とにかく大きい。これが、この東京で一番の病院。自分が今まで行ったことのあるそれとは、比にならないくらいの大きさだった。駐車場もだだっ広くて見舞客なのか診断客なのかは分からないけれど、とにかく人がウジャウジャと溢れかえっていた。そして俺は、無意識に溜まった唾をごくりと音を立てて飲み込んだ。

 ――ここに、陽向がいる。
 ずっと会いたかった、ずっと思いを馳せていた、陽向がいるんだ。

 その事実はいとも簡単に己の心臓をきつく締め上げていく。信じられない、でも認めたい、だけど。今日唯一持ってきた荷物である小さなショルダーバッグを開いて、中からそっと手紙を取り出した。そして住所の部分を、今一度確認する。よし、ここで合ってる。間違いない。うるさく跳ねる心臓の音を宥めるように、何度か小さく深呼吸をすると幾分かマシになったような気がした。そして正面玄関をそのまま横目に過ぎ、病棟に繋がる玄関へと俺は足を進めた。



「あ、あのー」
「はい」
「その、会いたい人がいるんですけど…」
「……面会ですね?」
「そっ、そうです! 面会したい人がいて。ただ、部屋の番号も分からないから、その。教えてもらいたくて」

 言い終わると同時に、目の前にいる看護婦さんの口からふふっという笑い声が漏れていた。絶対に笑われるような気がしたけど、やっぱり恥ずかしくてたまらなくて情けなくなった。俺、何でこんなに落ち着きがないんだろう。そもそも会いたい人なんて直球過ぎる。でも仕方ない。いつもは自分が来てもらう側だったから、こうして自分から誰かのために病院へ来るっていうことはあまり無かったのだ。というか恐らく初めてだと思う。だから面会のときはどうすればいいのか全く分からなくて。つまりその、出来たら見逃してほしいな、なんて……。

 心の中で言い訳じみたことを言ってるなかでも看護婦さんは何だか微笑ましそうに、だけど楽しそうに笑いを我慢していて、俺はだらしない戸惑いの表情を浮かべることしか出来なかった。

「患者さんのお名前を、フルネームでお願いできますか?」
「陽向…、桜田陽向です!」
「少しお待ちくださいね」

 看護婦さんは物腰柔らかく笑顔を浮かべながら、パソコンやらを使って色々と調べてくれていた。その間、ただ待つことだけしかできない手持ち無沙汰な俺はふと周りを眺めると、老若男女たくさんの人が受付していたり席で待っている光景がみえる。俺が入院していたときも、父さんや母さん、天にぃもこうして面会するためにさまざまな時間を割いていてくれたのかと考えると、改めて感謝しなければならないな、なんてぼんやりと思う。

 すると、しばらくしてパソコンのキーボードをカタカタと鳴らしていた看護婦さんが、笑みを浮かべて画面を眺めながら口を開いた。

「……桜田さんとのご関係をお聞きしてもよろしいですか?」
「ご、ご関係……?」

 思わず言葉を復唱すると、看護婦さんは俺と同様に頭に疑問符を浮かべた。側から見ればお互いが首を傾げるという異様な光景だと思う。
 俺と陽向の、関係。

「………えー、っと……」
「はい」
「幼馴染……はちょっと違うし、友達、というのもなんか違う気がするし……」
「……」
「あっ、すみません! いや、その、なんというか……昔、一緒に入院していたことがあって、それから、ずっと会いたかった人で、」

 そう言ってから、俺は口を噤み顔を俯かせた。そして気付く。さっきから俺、言動も挙動も不審すぎるんじゃないか。たった関係を聞かれただけなのにこんなにも動揺して、看護婦さんも引いているんじゃないか。それどころか、もしかすると面会も認めてくれないかもしれない。それだけは許してほしい。しかし、恐る恐る顔を上げてみると看護婦さんの表情はとても柔らいものだった。

「ずっと会いたかった人、ね」

 そして、俺の目を見てはくすりと笑った。
 呆然としている俺をよそに、看護婦さんは不思議なくらいニコニコとしながら「こちらにお名前を書いていただけますか?」と説明した。とにかく指示通りに俺は指定されたところに自身の名前を書いた。そして看護婦さんをちらりと見た。

 ……関係は、あれで良かったのかな。

 当の本人を置いて看護婦さんが勝手に納得したような、その問いへの俺の答え。ちゃんとしたことを言えてないような気がするけれど。そんなことをぼうっと考えていた俺に向かってその人はまるで自分のことのように嬉しそうな顔をしながら、また笑った。

「どうぞお越しになって下さい。あなたの、ずっと会いたかった人の元へ」






 西病棟の七階までエレベーターを使って向かう。さすがは大学病院で、病室の数も半端じゃない。迷わずスムーズに目的地へ辿り着けるように、俺は病室の番号をずっと唱えていた。

「七○一号室……七○一号室…」

 番号的に一番エレベーターから近くて分かりやすいところにあるのかと想像していたけど、そうではないらしい。大きい病院じゃあ図書コーナーという、所謂図書館みたいなところも設けられているようだ。中には入院されてるであろう患者さんが数人ほど利用している姿が見える。そんな感じで新鮮なものを見るかのように周りを眺めながら、七階に来てからおよそ三分過ぎだと思う。ようやくこの目当ての場所に辿り着いたのは。

「……」

 ひとつの病室のドアを目の前に、俺は立ち止まった。部屋の前にはネームプレートはなく液晶画面が設置されていて、そこに『701』という数字が浮かび上がっていた。今時の病院がいかに進化しているか、それだけで分かるような気がした。液晶画面に手を伸ばして、人差し指でそっとタッチした。すると、数字だけが浮かんでいた画面は切り替わり、次に出てきた字に心臓がまた跳ね上がった。

『桜田陽向』

 病室の前でその名前を見ると、やっぱり幼い頃の記憶が蘇る。彼女を好きになって、彼女の名前をフルネームの漢字で書きたくって、彼女の病室のネームプレートを必死に何度も見ていたあの頃を。
 そうだ、俺はあんな幼い頃から、ずっと彼女のことが好きだった。それは今までも、ずっと。


 相も変わらず体は緊張していて、手は汗ばんでいて少し気持ち悪い。指も震えていて情けない。だけど、そんな俺だけど、気持ちは変わらない。彼女に会いたいという気持ちは、何一つ変わらない。

 今日何度目かの深呼吸をした。期待、不安、緊張。全てが混じり合う心をも飲み込んだ。生唾をごくりと飲み込み、人差し指を曲げてドアにそっと置く。そして勢いをつけて響くように鳴らしたノックの音は、周りにも俺の鼓膜にもよく響いた。そしてきっと、この病室の中にも。

「――はい」

 華奢な声が、返ってきた。その途端、立ち眩みをしてしまうくらいの衝撃を覚える。また心臓が早鐘のように鳴る。

 記憶の中に生きる彼女より、少し大人びた声。でも、たしかに、彼女の声だって直感で分かった。

 なぜか、部屋の中から聞こえるはずのそれは俺の耳元近くから聞こえたような気がした。間違いなく緊張のせいだろう。だって、その声はまだ俺の頭の中に木霊しているんだから。絶対に度を過ぎた緊張のせいだ。一体どういう現象だっていうんだ、どうにかしてる。ふう、落ち着け俺。きっとまだ冷静さが欠けているんだ。落ち着いて俺、とにかく落ち着こう俺、落ち着くんだ俺。

 スライドドアの手をかける部分に、己の震えた指をかける。そして、覚悟を決めた俺はそのままドアを開けた。


 
 窓の外から吹き抜ける風が大きく揺らしているカーテンから、隙間を覗くようにして温かい陽射しが差し込んでいた。俺が入院していた病室も、確かこんな真っ白だった。部屋の大部分を占めているベッドに目を向けるとそこには布団が捲れたような後はあるけれど誰もいない。部屋の中を見渡すように一望する。あれ。

 ……あれ。

「……い、居ない?」

 俺のか弱い声が、無人の部屋に溶けていった。
 そんな間抜けなことがあるのだろうか。俺は肩をガクリと下げた。そうだ、そりゃそうだ。四六時中この病室にいる保証なんてない。検査やら色々あるんだし。だから居ない可能性だってあったのに。その可能性を一ミリとも考えていなかった俺の余裕の無さを改めて実感して思わず溜息が漏れた。あんなに緊張していて扉を開けば誰もいなかったって、そんな馬鹿馬鹿しいこと誰にも言えない……とそのとき、俺の頭の中にひとつの疑問が浮かんだ。

 それじゃあ俺がノックしたときに「はい」と返事をしたのは誰なんだろう。


「……あの、すみません」

 そう考えた瞬間、振り返る前に背後から声をかけられた。ハっと息を呑む。どうしよう、無人の病室のドアを開けて項垂れている俺を見て不審に思ったのかもしれない。心なしか先程聞いたばかりの「はい」という返事に似ている気がする、そんな声に振り返って慌てて弁解をしようとしたがそれが叶うことはなかった。

「どちら様で……」


 バサバサッ。数冊の本が床に落ちた音が廊下に響く。でも俺はそんな本たちに目もくれず、目の前にいるその人から視線を外すことは出来なかった。それはその人も同様で、手に持っていた数冊の本が落ちたことに気も留めず、俺の姿を見ては目を大きく見開いている。

「え……っ」


 日焼けをしらないんじゃないかってくらい、真っ白な肌。病衣が思わず大きく見えてしまうほどの華奢な体。しなやかで綺麗な髪の毛。右目の近くにある特徴的なほくろ。困ったとき、片方の眉毛だけ下がるところ。

  ――陸くんは、すっごくかっこいいね!

「っ」

 彼女の声が、姿が、蘇る。
 ずっと想い焦がれていた彼女。
 ずっと会いたくて堪らなかった彼女。

 目の前にいるその人に、重なる。



「陸、くん……?」

 目の前にいるその人に、彼女に、重なる。いいや違う、似ているんじゃない。重なるんじゃない。彼女は、紛れもなく、


「――……陽向?」

 俺が捜していた彼女に違いなかった。


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