夢が醒めても、熱が冷めない(真澄)
お気に入りのアーティストの限定版CDが隣町のCDショップにあるのを知って、俺は今日電車に乗った。
行く時はそれほど人が多くなかったのに、帰りの電車内は気持ち悪いぐらい人が多かった。電車に乗るまでは目当てのCDを手に入れられたことに内心テンションが上がっていたのに、その光景を見た瞬間気分は一気に急降下していった。
(うざい…)
どんどん人が多くなっていく電車内の窮屈さに、不快な気分を隠しもしないで顔に出す。
早く目的地に到着することだけを強く願って、俺は曲を聞くためにヘッドホンを耳に当てようとした。
…その時、下半身に妙な違和感を覚えた。俺のお尻に何かが触れている。その感触にピタリ、と動きを止めると、気を良くしたようにその動きは徐々に明確なものになっていった。
(…嘘だろ……)
いや…たまたま荷物とかが電車の動きに合わせて当たっているだけかも。そう思って少し身をよじると、一度離れた感触が再度追いかけてきた。
それとう同時に、今度は俺の頭上辺りから生暖かい息が聞こえてきて、背中がゾッとした。前にある鏡には、俺の後ろに黒いスーツを身に着けた男が見えた。
信じられない…。男が男に痴漢とか……
気持ち悪い。うざい。消えろ。そんな言葉が頭の中で渦巻くが、人混みの多い中大した身動きもできず、相手の良いように体を撫でられる。
耳に届いたアナウンスの声が、次の駅名を知らせる。目的の駅までまだまだ時間がかかることを察して、俺は眉間に皺を寄せた。
今日は最悪な日だ。
(早く着け…)
気色悪い男の手の感触と息遣いを感じながら、俺は手摺に捕まりながら耐えるしかできなかった。
じと、と手に汗が溜まった時、アナウンスが告げた駅で電車がゆっくりと停車した。
――その時、俺の左腕が急に誰かに掴まれて引っ張られた。
(!?)
咄嗟のことに驚いて声も出ず、抵抗もできずに引っ張られた方向へ体が傾く。引っ張った人物が誰か確認する前に、再びアナウンスが流れて電車が再発進を始めた。
電車の動きに慣れてきて、ようやく俺の腕を掴んだ目の前の人物を見ることができ、それを見て驚いた。
――そこにいたのは、女だった。
俺よりも少し身長が低めで、年上っぽい。記憶を遡るが見たことない。誰だ…?
知らない人に引っ張られたことに驚いて彼女を見下ろすと、女性は俺ではなく隣に目を向けていた。何となく彼女の視線を追うと、そこにはこっちを忌々しげに睨んでくる知らない男がいた。
その男の容姿が、さっきまで鏡越しに見えていたものと一致する。
…もしかしてあいつ…さっきの、痴漢? それを、何で彼女が……
「…アンタ」
「キミ、どの駅で降りる?」
「え?あ…天鵞絨駅…」
「そう。じゃあ、悪いんだけどそれまで我慢してて」
色々と聞きたいことがあって声を掛けたのに、彼女は一方的に話をして終止符をつけた。俺と話をする間も目はこちらに向かず、ずっと痴漢男を見ていた。
…凄く、新鮮に感じた。
今まで俺の周りにいた女は、皆俺を見て五月蠅く騒いでいた。俺から話しかけてもいないのに、一方的に名前を読んだり話しかけたり。
でも、目の前の女の人は俺からの視線に気づいているだろうに、一向にこっちを見向きもしない。そんなことが今までなかったことと、痴漢に遭遇したことへの衝撃が重なって、俺は目を白黒させるしかできなかった。
(…どんな人だろ…)
そんな風にぼんやり思いながら見ていると、俺の心の声が届いたのか、目の前の女性の顔が上がった。
見えたのは、吸い込まれそうな程綺麗な真っ黒な瞳―――。初めて交差した視線に小さく息を飲みこむ。
「大丈夫。私が守るから」
俺にしか聞こえない声で、真っすぐと目を見つめながらそう言った彼女の声が、耳の奥に深く響いた。その声が響くと同時に、どくん、と胸の奥で何かが弾けた。
「…っ」
息が苦しい。周りは相変わらず人混みで溢れかえっている… なのに、今此処には俺と彼女しかいないような錯覚に陥るほど、俺は目の前の人から意識が離せなかった。
ずっとこっちを睨んでくる痴漢男から庇い立てるように、彼女は痴漢男を睨みながら俺の体を窓際へと追いやる。
より一層体が密着し、彼女の髪から漂うシャンプーの香りが鼻をくすぐる。その匂いを感じた途端、どんどん胸の奥から何かが込み上げてきて、自分の呼吸が早くなるのを感じた。それに比例するように、心臓がどんどん早く脈打つ。
(なん だ、これ……)
ふ、ふ、…と、荒くなる息を抑えるように制服の裾を強く握る。さっきまで俺を見ていた彼女の瞳は警戒するように痴漢男に向けられている。
それを見て、俺の胸がちりちりと焦がれるような感覚がした。
(――そいつじゃない。俺を見て)
(もう一度、あの瞳を見せて)
そんな想いがどんどん溢れてくる。強く、願いを込めて目の前の彼女に視線を送るが、彼女の顔が全然上がらない。
それに何故か焦っていると、ゆっくりと電車が止まるのを感じた。微かに聞こえてきたアナウンスが、目的地である駅名を告げる。
いつの間にそんなに時間が経っていたのか、と驚く暇もなく、俺は彼女に背中を押されるようにして電車から降りた。
降りてから振り返ると、彼女は役目を終えたとばかりに先に改札口へ向かって歩き出していた。
(っ待って…!)
波のように押し寄せる人混みの中で、彼女の背中を見失いように必死に目で追いかける。改札口を抜けて広い場所に出ると、駅の出口でスマホを操作しながら立ち止まっている彼女を見つけた。
「ねえ、アンタ」
追いつけたことに安堵して勢いのまま声を掛ける。
すると、彼女が俺の声に反応して振り返り、パッと目を大きく開いた。
「ん?あ、さっきの。大丈夫だった?」
焦がれていた黒い瞳と再び目が合い、体の底から熱いものが込み上げてくるのを感じる。ドクン、と胸が高鳴った。
「俺は、大丈夫。助けてくれて…ありがと。それより」
「大丈夫そうで良かった。じゃあ、悪いけど私急いでるから。君も気を付けて帰ってね、それじゃっ」
舌を縺らせながら話をしようとするも、彼女は慌てた様子で別れを告げ、どこかへ走って行ってしまった。
「あっ…」
駅から段々と遠ざかっていく背中を、俺は手を宙に浮かばせて見つめることしかできなかった。彼女の姿が見えなくなり、暫くの間立ち呆ける。
夢でも見ていたのだろうか?
そう錯覚するほど、短い時間の間に多くの衝撃を受けていたことに気づく。
時間が経つにつれ、徐々に心にぽっかりと穴が空いたような虚しさを感じた。なのに…体は未だに熱くて、虚しさが大きくなるに連れて、胸の高鳴りが大きくなっていく。
(…これは、なに…)
今まで感じたことのない感情に頭の中がぐちゃぐちゃに混乱している。それでも、さっきの彼女の瞳を思い出すと、再び体が熱くなるのを感じて、俺は無意識に足を踏み出した。
もう一度会って、この感情を知りたい。
そう思い、俺は彼女が消えていった方向へと歩き出した。
――これが、俺と彼女の運命の出会い。
夢が醒めても、熱が冷めない
(もう一度会った時、俺の中で『好き』が弾けた)(最悪だった今日が、最高の日に)
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行く時はそれほど人が多くなかったのに、帰りの電車内は気持ち悪いぐらい人が多かった。電車に乗るまでは目当てのCDを手に入れられたことに内心テンションが上がっていたのに、その光景を見た瞬間気分は一気に急降下していった。
(うざい…)
どんどん人が多くなっていく電車内の窮屈さに、不快な気分を隠しもしないで顔に出す。
早く目的地に到着することだけを強く願って、俺は曲を聞くためにヘッドホンを耳に当てようとした。
…その時、下半身に妙な違和感を覚えた。俺のお尻に何かが触れている。その感触にピタリ、と動きを止めると、気を良くしたようにその動きは徐々に明確なものになっていった。
(…嘘だろ……)
いや…たまたま荷物とかが電車の動きに合わせて当たっているだけかも。そう思って少し身をよじると、一度離れた感触が再度追いかけてきた。
それとう同時に、今度は俺の頭上辺りから生暖かい息が聞こえてきて、背中がゾッとした。前にある鏡には、俺の後ろに黒いスーツを身に着けた男が見えた。
信じられない…。男が男に痴漢とか……
気持ち悪い。うざい。消えろ。そんな言葉が頭の中で渦巻くが、人混みの多い中大した身動きもできず、相手の良いように体を撫でられる。
耳に届いたアナウンスの声が、次の駅名を知らせる。目的の駅までまだまだ時間がかかることを察して、俺は眉間に皺を寄せた。
今日は最悪な日だ。
(早く着け…)
気色悪い男の手の感触と息遣いを感じながら、俺は手摺に捕まりながら耐えるしかできなかった。
じと、と手に汗が溜まった時、アナウンスが告げた駅で電車がゆっくりと停車した。
――その時、俺の左腕が急に誰かに掴まれて引っ張られた。
(!?)
咄嗟のことに驚いて声も出ず、抵抗もできずに引っ張られた方向へ体が傾く。引っ張った人物が誰か確認する前に、再びアナウンスが流れて電車が再発進を始めた。
電車の動きに慣れてきて、ようやく俺の腕を掴んだ目の前の人物を見ることができ、それを見て驚いた。
――そこにいたのは、女だった。
俺よりも少し身長が低めで、年上っぽい。記憶を遡るが見たことない。誰だ…?
知らない人に引っ張られたことに驚いて彼女を見下ろすと、女性は俺ではなく隣に目を向けていた。何となく彼女の視線を追うと、そこにはこっちを忌々しげに睨んでくる知らない男がいた。
その男の容姿が、さっきまで鏡越しに見えていたものと一致する。
…もしかしてあいつ…さっきの、痴漢? それを、何で彼女が……
「…アンタ」
「キミ、どの駅で降りる?」
「え?あ…天鵞絨駅…」
「そう。じゃあ、悪いんだけどそれまで我慢してて」
色々と聞きたいことがあって声を掛けたのに、彼女は一方的に話をして終止符をつけた。俺と話をする間も目はこちらに向かず、ずっと痴漢男を見ていた。
…凄く、新鮮に感じた。
今まで俺の周りにいた女は、皆俺を見て五月蠅く騒いでいた。俺から話しかけてもいないのに、一方的に名前を読んだり話しかけたり。
でも、目の前の女の人は俺からの視線に気づいているだろうに、一向にこっちを見向きもしない。そんなことが今までなかったことと、痴漢に遭遇したことへの衝撃が重なって、俺は目を白黒させるしかできなかった。
(…どんな人だろ…)
そんな風にぼんやり思いながら見ていると、俺の心の声が届いたのか、目の前の女性の顔が上がった。
見えたのは、吸い込まれそうな程綺麗な真っ黒な瞳―――。初めて交差した視線に小さく息を飲みこむ。
「大丈夫。私が守るから」
俺にしか聞こえない声で、真っすぐと目を見つめながらそう言った彼女の声が、耳の奥に深く響いた。その声が響くと同時に、どくん、と胸の奥で何かが弾けた。
「…っ」
息が苦しい。周りは相変わらず人混みで溢れかえっている… なのに、今此処には俺と彼女しかいないような錯覚に陥るほど、俺は目の前の人から意識が離せなかった。
ずっとこっちを睨んでくる痴漢男から庇い立てるように、彼女は痴漢男を睨みながら俺の体を窓際へと追いやる。
より一層体が密着し、彼女の髪から漂うシャンプーの香りが鼻をくすぐる。その匂いを感じた途端、どんどん胸の奥から何かが込み上げてきて、自分の呼吸が早くなるのを感じた。それに比例するように、心臓がどんどん早く脈打つ。
(なん だ、これ……)
ふ、ふ、…と、荒くなる息を抑えるように制服の裾を強く握る。さっきまで俺を見ていた彼女の瞳は警戒するように痴漢男に向けられている。
それを見て、俺の胸がちりちりと焦がれるような感覚がした。
(――そいつじゃない。俺を見て)
(もう一度、あの瞳を見せて)
そんな想いがどんどん溢れてくる。強く、願いを込めて目の前の彼女に視線を送るが、彼女の顔が全然上がらない。
それに何故か焦っていると、ゆっくりと電車が止まるのを感じた。微かに聞こえてきたアナウンスが、目的地である駅名を告げる。
いつの間にそんなに時間が経っていたのか、と驚く暇もなく、俺は彼女に背中を押されるようにして電車から降りた。
降りてから振り返ると、彼女は役目を終えたとばかりに先に改札口へ向かって歩き出していた。
(っ待って…!)
波のように押し寄せる人混みの中で、彼女の背中を見失いように必死に目で追いかける。改札口を抜けて広い場所に出ると、駅の出口でスマホを操作しながら立ち止まっている彼女を見つけた。
「ねえ、アンタ」
追いつけたことに安堵して勢いのまま声を掛ける。
すると、彼女が俺の声に反応して振り返り、パッと目を大きく開いた。
「ん?あ、さっきの。大丈夫だった?」
焦がれていた黒い瞳と再び目が合い、体の底から熱いものが込み上げてくるのを感じる。ドクン、と胸が高鳴った。
「俺は、大丈夫。助けてくれて…ありがと。それより」
「大丈夫そうで良かった。じゃあ、悪いけど私急いでるから。君も気を付けて帰ってね、それじゃっ」
舌を縺らせながら話をしようとするも、彼女は慌てた様子で別れを告げ、どこかへ走って行ってしまった。
「あっ…」
駅から段々と遠ざかっていく背中を、俺は手を宙に浮かばせて見つめることしかできなかった。彼女の姿が見えなくなり、暫くの間立ち呆ける。
夢でも見ていたのだろうか?
そう錯覚するほど、短い時間の間に多くの衝撃を受けていたことに気づく。
時間が経つにつれ、徐々に心にぽっかりと穴が空いたような虚しさを感じた。なのに…体は未だに熱くて、虚しさが大きくなるに連れて、胸の高鳴りが大きくなっていく。
(…これは、なに…)
今まで感じたことのない感情に頭の中がぐちゃぐちゃに混乱している。それでも、さっきの彼女の瞳を思い出すと、再び体が熱くなるのを感じて、俺は無意識に足を踏み出した。
もう一度会って、この感情を知りたい。
そう思い、俺は彼女が消えていった方向へと歩き出した。
――これが、俺と彼女の運命の出会い。
夢が醒めても、熱が冷めない
(もう一度会った時、俺の中で『好き』が弾けた)(最悪だった今日が、最高の日に)
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