「(あ、今日もいる)」
仕事中に摘むお菓子を物色しながら、デザートコーナー越しに見える特徴的な顔立ちに視線が吸い寄せられる。彼の人こそが最近の楽しみそのもので、この人を見たいがために始業時間には早いこの時間に来ていると言っても過言ではなかった。気が付かれないように視線を外し、レジの方向に意識を向ける。セルフレジでは買えないコーヒーを注文し、カップを渡す店員さんに「ありがとうございます」と言う声に、「これこれ!」と誰に言うでもなく心の中で叫んだ。
決して声フェチではない、と思う。少なくとも今までの人生で「声が好き」と思ったことは一度もない。けれど、ある日聞こえてきた「ありがとうございます」に胸を鷲掴みにされたような感覚に陥ってしまったのだ。名前は勿論、正直顔もまじまじと見たことは無い。遠目に鼻筋の通った、スーツの着こなしが様になっている人だと言うくらいしか知らなかった。
もちろん声が好きと言うだけで、お近付きになりたいとか思ったことは無い。ただ、毎日この声が聞きたいがために、憂鬱な満員電車に乗り込むのが少しだけ楽しみになったことに対して、感謝の念だけが募って行った。
「(毎朝いるってことはこの辺で働いてるんだよなぁ)」
どんな仕事をしているんだろう。同じフロアであの声が聞こえてきたら背筋が伸びそうだ。そんなことを考えながら、今日のお供に選んだチョコを手に、「良い声の人」が去ったレジへと向かった。
***
目の前には歪んだノートパソコン、点滅する画面。三秒ルールだ!と床から拾い上げたものの、当然機械に適用されるわけもなく、どこからどう見てもご臨終の相棒を手に途方に暮れる。血の気が引くとはこういう事かと、一周まわって冷静な頭で慣用句を体感しながら、脳みそをフル回転させて取るべき行動を考えた。隣に座る同僚に翼を授けるドリンクを差し出し、5分間の使用許可を得ると、社内ポータルにアクセスする。使ったことの無いFAQチャットで「ノートパソコン 壊した」と小学生のようなワードを打ち込むと、賢いAIから「情報システム部」の連絡先が提示された。
「情報システム部って行ったことある?」
「あるわけない」
「だよね。10階かぁ……」
仕事が出来ないからさっさと行け、と言う愛のない同僚に追いやられ、渋々立ち上がる。赤い牛のドリンクもう一本で着いてきて欲しいと言おうとして、上司からの訝しげな視線を察知して諦めた。
罪を告白しに出頭する気持ちでエレベーターのボタンを押し、入社して以来初めて踏み入れるフロアに重い気持ちになる。どれだけ朝の楽しみが出来ようと、八時間働くには朝のせいぜい三分足らずの楽しみでは足りない。けれどパソコンがなくては仕事が出来ない。悲しいかな身に染み付いた社畜精神では「これを機にサボっちゃえ」とはなれず、恐る恐るセキュリティエリアに入るためのインターホンを押した。所属部署と名前、用件を告げるとカチャリとロックの外れる音がする。
心做しか重く感じるドアを潜り、顔を上げた先にいた人物に考えるより先に声が漏れた。
「良い声の人!!」
「は?」
良い声はたった一文字でも良い声らしい。どう考えても今考えるべきでは無いと冷静な自分がツッコミを入れていたが、場違いにもパソコンを落として良かったかもしれないと思ってしまった。
「す、すみません忘れてください。ノートパソコンを落として画面がご覧の通りでして……」
「……十分ほど待てますか」
「何分でも待ちます」
貴方の声が聞けるのならば。辛うじて最後の言葉は飲み込んで、怪訝そうな顔をする「良い声の人」に相棒を渡す。毎朝レジで聞く「ありがとうございます」以外の言葉を聞ける日が来るとは、と感動に浸る私を尻目に奥の扉に吸い込まれていくスーツを眺め、耐えきれずに溜めていた息を吐いた。
近くの会社だろうとは思っていたが、まさか同じ会社だとは思わなかった。声と横顔しか見たことがなかったが、鋭い眼差しにきっちり整えられた髪、シワひとつ見当たらないスーツを着こなす姿は想像以上に格好良い。おまけにあの声だ。耳に残る低音に心拍数が上がる。自分はこんなにもミーハーだったのだろうかと戸惑う一方で、あの声に落ちない人はいないだろうなんて誰にするでもない言い訳を頭に並べた。
「お待たせしました」
「……え!?」
「落とした際の衝撃で背面の蓋が歪んでいたようです」
「わっ、動いた……!」
おそらく十分どころか五分も経っていない。音もなく現れた声良人(こえよしんちゅ)に肩を跳ねさせながら、差し出されたノートパソコンに映る見慣れたログイン画面に目を瞬かせる。机に置くとカタカタと鳴る嫌な歪みは消え、画面の点滅もなくなっていた。
「あ、新しいパソコンですか……?」
「いえ、外蓋のネジを締め直しただけです」
「ええ!?じゃあ顛末書もいりませんか?」
「……まぁ、今回だけ」
「!!ありがとうございます!」
やっぱり今日は良い日だ。つい数分前の暗鬱たる気持ちはすっかりどこかへ行って、スキップでもしたい気持ちだった。満面の笑みでお礼を言って自分のフロアに戻ろうとする私の背に、ほんの少しの笑いを滲ませた言葉が掛けられた。
「またコンビニで」
星の音を聞く
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