「おはようございます」
「お、はようございます……!!」
後ろから聞こえてきた「おはようございます」は間違いなく人生史上最も感動した挨拶だった。標準的な朝の挨拶に色気が含まれていて良いのだろうか。何らかの罪に触れるのではなかろうか。そんな阿呆なことを考えながら、ソッと後ろを振り返る。この間約0.03秒だった。
ある意味で見慣れた、けれどこの至近距離では初めての邂逅だ。整えられた髪、私服の社員も多い会社でスーツを着こなす姿は目の保養である。声の印象が強かったが、それを抜きにしても全身隙がなく格好良い。正面から目を合わせられる気がせず、ネクタイの結び目辺りに視線を落ち着かせ、軽く会釈をする。
「あの、昨日はありがとうございました!お陰様で昨日の業務は昨日の内に終えることが出来ました」
「それは良かった。この時期は交換の端末がなかなか来ないので気を付けてください」
「はい、気を付けます……」
あの毎朝の楽しみだった声の主と会話をしている。これは夢だろうか。まだ寝惚けてるんだろうかと頬を抓るが普通に痛かった。怪訝そうな顔で見下ろしてくる顔も格好良くて、初めて声を聞いた時のように胸を鷲掴みにされたような心地になる。
いつも商品棚越しに見ていた人が隣にいるのが不思議で、何を見るでもなく着いて行く。ふと、お菓子コーナーの前で足を止める様子に「珍しいな」と思った。
「お菓子食べるんですね」
「?あぁ、いつもここに居るからあなたがここに用があるのかと」
「し、知ってらしたんですね……」
穴があったら入りたい。まさか存在を認知されていたとは思わなかった。恥ずかしさを誤魔化すようにお菓子の棚に向き合うが、見慣れたお菓子達が全く頭に入ってこない。幸い挙動不審な私を気にせずレジに向かう姿に、ようやく息が吐き出せた。極々一般的な社会人をしているため、朝からこんなに感情を揺さぶられることは皆無だ。決してマイナスの感情では無いから嫌な気はしないが、心臓が持ちそうにない。
ここまで来て何も買わないのは不自然だし、と目に付いたミルクティー味のナッツを手に取りセルフレジに向かう。そう言えば、混乱している内に今日の「ありがとうございます」を聴き逃してしまった。会話までしてしまったのだから一生分聞いたと言っても過言では無いが、あの「ありがとうございます」を聞くことが最近の仕事スイッチになっていたから、少し残念な気持ちで溜まっていたポイントで支払いを済ます。
電子マネーの支払い完了画面を閉じるためにスマホに落とした視線を上げ、ガラス越しに見えるスーツに目を見張った。慌てて自動ドアを飛び出すと、私を一瞥して歩き出す。てっきりいつも通りもう行ってしまったと思っていたから、状況が上手く理解できなかった。何となく離れて歩くのも変かと思って半歩後ろを歩く。
「ほ、本日はお日柄も良く……」
「……曇りですね」
やってしまった。なんならちょっと雨が降りそうな曇天だった。いたたまれなくて俯いてしまう。こんなにコミュニケーションが下手だったっけと若干泣きそうですらあった。
不意に堪えるようなくぐもった音が聞こえて顔を上げる。口元を抑えて顔を逸らしてはいるが、手の隙間から見えた口元には確かに笑みが浮かんでいた。
「わ、笑ってます!?」
「いや……」
気の所為か肩まで震えている。これは黒だ。笑われて恥ずかしいハズなのに、何故だか心が沸き立つ。「すみません」と微かに震える声で笑われていることが確定的になると、咄嗟に「許す代わりに」なんて交渉するような言葉が自然と出て自分で驚いてしまった。
「敬語、やめてください。私の方が年下だと思いますし」
馴れ馴れしかっただろうか、という不安も一瞬の内で、僅かに目を見開き驚く仕草をしたと思ったらすぐに表情を和らげ、首を縦に振る姿に内心ホッと息を吐く。
「わかった、善処しよう」
「それ、答えはいいえのやつじゃないですよね……?」
「さぁ、どうだろうな」
くつくつと今度は可笑しそうに笑う姿に釣られて、自分の口角も上がるのを感じた。思いの外あっさりと提案を受け入れて貰えた嬉しさと、涼し気な見た目で存外柔らかな表情をするギャップにまたも胸が鷲掴みにされる。気を抜けば呻き声でも出そうな衝動を飲み込み、緩む頬を引き締めようと頬の内側に力を入れた。
そうこうしている内に、気が付けばオフィスフロアに向かうエレベーターの前だった。一人で歩く時は「三歩の距離にあってほしい」なんて思っていたのに、今は「徒歩十分の距離にならないかな」と真逆のことを考える。弊社の入るオフィスビルは、階層によって止まるエレベーターが異なるので、自然とここでお別れになってしまうのだ。
「では、私はここで」
「あ、はい!今日もお仕事頑張りましょう」
名残惜しさを感じているのは当然私だけで、ピンと伸びた背筋は自身のフロアへ向かうエレベーターへと向かっていた。ちょうど開いたエレベーターに乗り込む姿から目が離せなくて、無意識に手を振る。その姿が可笑しかったのか、一瞬面を食らったように目を瞬かせた後に小さく笑って口を開いた。
「それではまた、なまえさん」
言い終わるのと扉が閉まるのはほぼ同時だったが、言われたその言葉の意味を理解した時には自分のフロアに着いた頃で、真っ赤になったであろう顔の熱を鎮めるために、暫くトイレから出ることが出来なかった。
***
「人が他人の名前を知るのってどんな時だと思う?」
「なに?なぞなぞ?」
デスクに顔を付けて隣で春雨スープを啜る同僚に問いかける。ダイエットをしているのだと言う彼女は最近毎日春雨スープを食べていた。
元より答えを望むよりも脳のキャパオーバーで漏れ出ただけの言葉は、訝しげな顔でなぞなぞ扱いされて終わった。いや、終わらせるなこっちは真剣に悩んでいるのだ。
「朝から様子がおかしいけど何かあった?まぁ元々おかしいけど……」
「えっ、私ずっとおかしい人間だと思われてたの?」
「で?名前が何だって?」
聞き捨てならない台詞に対するツッコミはスルーされたが、早々に食べ終え聞く体勢に入ってくれたらしい。深追いすると脱線して都合の悪い話題になるのは目に見えていたので、自分がおかしいと思われていた事実を何とか飲み込み、「実は」と経緯を話す。
昨日の情報システム部デビュー、そして今朝のコンビニ、別れ際の名前呼び……話していく内に思い出されて気恥しさに声が小さくなる。話し終え同僚に視線を向けると、心底呆れ返った顔をしていた。
「それ、明確に狙われてない?」
「何に?」
そんなにあほ面だったのだろうか、同僚は憐れむような顔をする。
「その人に。いくらコンビニで一緒になるって言っても名前も知らないわけでしょ?ってことはその人が明確な意思を持って社員リストとか見た以外考えられないじゃない」
「社員リストって何?」
「……アンタ本当に人に興味無いわね」
興味がないわけではなく、交友関係を積極的に広げるほどのコミュ力を持ち合わせてないだけだと言おうとして、口を閉ざす。この同僚には口で敵う気がしなかった。口を噤む私を尻目に、同僚はスリープ状態のパソコンを立ち上げる。慣れた手つきで社内ポータルサイトにマウスを滑らせる様子を眺めていると、画面に映る顔写真の一覧に目を瞬かせた。
「えっ何これ、全社員あるの?」
「そうだよ。社員証の顔写真と所属組織、任意だけど趣味とか経歴入れてる人もいるから、コミュ強は部を跨いで交流してたりする」
「は〜……知らない世界だ……」
スクロールする度に人の顔が流れていく様は、スパイ映画などで見るターゲットリストみたいで変な心地だった。よく見ると部署単位や役職単位でも絞込みはできるようだが、流石に性別や顔での検索はできそうにない。
「……仮にこれで探そうとしても、顔しか知らない人を探すのは無理だよね」
「かと言って部署もわからないのに誰かに聞くのも考えにくいし、そうなるとここからせっせと探したってことじゃない?」
「そんな暇そうな人には見えなかったけどなぁ」
顔と声しか知らない勝手な印象だが、今朝の10分ほどでも干渉し過ぎず、けれどよく人を見ている人だと感じた。落ち着いた話し方で、一方的に理想を肥大させているだけかもしれないが、何となくあの人が仕事できない姿が想像できない。
「どこで私の名前知ったんだろ」
「情シスならセキュリティカード手配したり社内アカウント登録で見ることもあるんじゃない?」
「うーん、だとしたら凄い記憶力」
おにぎりを頬張りながら朝のことを思い出して気恥ずかしくなる。「ライブで推しと目が合った」と楽しそうに話す友人が頭を過り、そうかこれが推しのいる生活なのかと今更ながら思った。あの時は嬉しそうな友人に良かったねぇと思えど、その気持ちを理解しきれていなかったのだろう。今度会ったらもっと話が弾みそうだ……などと脳内で考えを広げる。
「社内恋愛はやめときなよ」と早くも話題に飽きたらしい同僚が言うのに「ないない」と返し、残りのおにぎりを飲み込む。何度食べても飽きない味をありがとう、○美屋の混ぜ込みわかめ。
***
「やぁ、お疲れ様」
「あ、雑渡さん!お疲れ様です」
お昼休みが終わる直前、オフィスビルの一階に入っているス○バで午後のお供を調達しお店を出ると後ろから話しかけられた。聞き慣れた声に振り向くと、予想通りの人が新作のフラ○チーノを持って片手を上げていた。
「何だか久しぶりじゃない?」
「そうでしたっけ?……最近ス○バを控えてるからですかね?」
「へぇ、珍しいね」
「何かあった?」とフラ○チーノを啜る雑渡さんは見た目に依らず甘党らしい。いいなぁイチゴのやつまだ飲んでないんだよね。そんなことを思いながら、「何か」が我ながら恥ずかしい話で苦笑いを零した。
「最近朝コンビニに寄ることが多くて、ついついお菓子を買っちゃうからこっちは控えるようにしてるんです」
買ったばかりのラテを掲げると、雑渡さんは「ふうん?」と首を傾げた。納得したようなしていないような、何とも言い難い声だったが、まさか「声の良い人に会いたくて毎朝コンビニに寄るようになった」とはなかなか恥ずかしくて言いにくかった。
「コーヒーくらい買ってあげるのに」
「そんな子供みたいに……そこまで困窮してませんよ」
「ス○バ仲間がいないと寂しいからね」
「尊奈門くんを誘えばいいじゃないですか」
「残念、尊奈門もお茶派なんだ。
……あ、照星だ」
私の背後に視線を向ける雑渡さんに釣られて首だけ後ろに向ける。「ショウセイ」さんと言う初めて聞く名と、雑渡さんが呼び捨てで呼ぶほど仲の良い人なのかと、純粋な興味だった。
視線を辿った先にいた人物に、目を見開く。今朝と同じようにエレベーターに乗り込む人はまさしく毎朝の日課の原因そのもので、その人と雑渡さんの口から零れた「ショウセイ」さんが結び付かず、けれど「もしかして」と言う可能性に震えてしまった。
「ざ、雑渡さん!!あの人知ってるんですか!?」
「照星のこと?昔馴染みなんだよね」
「あの人ショウセイさんって言うんですか!?」
「え、うん。照らす星でショウセイだよ」
明らかに異様なテンションの私に対しても雑渡さんは冷静だ。否、面は食らっているようだったが、そこそこ付き合いも長く普段から面倒見の良い人なので許容範囲だったのだろう。口の中で知ったばかりの音を転がす私を見下ろしながら、フラ○チーノを啜っていた。
ショウセイ、照星、照らす星で照星さん。なんという事だ、名前までロマンティックだった。実はものすごく寝相が悪いとか、ものすごく不器用とか、そんな欠点がないと完璧な人間過ぎる。高鳴る鼓動と興奮して熱くなった顔を気にする余裕もなく、唐突に知り得た名前をブツブツと呟く。
「なまえちゃん、照星のこと知ってたんだ?」
「この間ノートパソコンを直していただいたんです。何故か私の名前を知っていたので、私も名前を知りたくて」
「……へぇ、照星が葵ちゃんの名前を……」
何か腑に落ちたようにニヤニヤし始める雑渡さんを尻目に、名前を知れた嬉しさに小躍りしそうだった。正直午後の仕事が落ち着いたら社員リストで情シス社員全員分に目を通して探そうかと思っていたので、思ってもなかった収穫だ。
明日また会えたら私も名前を呼んでみよう。どんな反応をしてくれるだろうか。考えるだけで楽しみで、こうも日常に楽しみをもたらしてくれる「照星さん」にいつか恩返しをしなければならないなと思った。