なまえと言う女は単純なようで腹の底が見えない。腹に一物を抱えている、と言うわけではなく、見えたと思った真意の奥行きに驚く。開けっぴろげに好意を晒したかと思えば一定以上踏み込まず距離を保ち、こちらからの反応は求めない。自分が話したいことを話し、好きなだけこちらを見て、同じ熱量を返さなくても意に介さない。その潔さが清々しく、自己完結している様子が好ましかった。
鈍いのかと思えば、そうでもないらしい。好意を返してやれば挙動不審になれど、こちらの意は違うことなく汲み取る察しの良さは恐らく職種柄多くの人間と関わることも影響しているのだろう。これ以上踏み込みたいという欲求がないのか、それにしては誘えば花が咲くように笑うのだから好意の種類を見定めかねた。
そんなわけで、一方的に好意を浴びせ満足している女はこちらに何かを求めてくることはなかった。なかったから、こちらから仕掛けた。ただ会えただけで安心しきったようにはにかむ女に報いてやりたいと思ったのは確かだが、自分にしては珍しい衝動だったと思う。

「私も、会いたいと思っていたよ」
「そ、れは光栄です……?」

柔い唇と何をされたかわかっていない惚けた顔は、長く忘れていた熱を思い起こすには十分だった。理解してなお平静を装う姿も、最後の壁として築いていた「なまえさん」という呼び方を崩すだけで簡単に乱れる。お互い向けていた甘ったるい気配は、どうやら同じ種類のものらしい。沸き立つ感情を飲み込んで、ぽやぽやとした女を見送る。無事に家に辿り着けるのかという心配もあったが、家まで送ったが最後手を出さないと断言できなかった。

「一人で生きられる者同士」とは、発言した人間はともかく、なるほどと思う。なまえは逞しい女だ。一人でもそれなりに生活に困らない程度を稼ぎ、近しい者たちと楽しく生きていけるだろう。実際、恋人を探している様子もなかったし、それは自分もそうだった。何かしらのきっかけや縁があれば忌避することでは無いが、自ら積極的になる事柄ではない。なかったのだが、着いてしまった火を消そうとは思わなかった。

「私も、楽しみにしてました。春を見るのも、照星さんと会えるのも」

残業続きで疲れていただろうに、綺麗に整えられた髪といつもより艶のある唇で紡がれたその言葉は心地好く鼓膜を揺らす。社内で聞いて以来耳に残る穏やかな音で、意を汲み取って惜しげも無く返される柔く甘い想いは存外悪くないと思った。
唇を重ねることに何の感慨も抱いたことはない。ただ言葉の代わりに伝えるには、わかりやすい手段だと思っていた。強いて言うなら交わりの合図ではあるが、幸福を絵に描いたような表情を見られるのであれば、花を手折るよりも愛でるのも一興だ。
精神的に満ち足りた気分で、性急に事を進めず、取るに足らない言動一つにコロコロ表情を変える様を見ていたい。そう思っていたのに、意図せず出たであろう艶めいた声には揺らいだ。 辛うじて飲み込んだ欲を察しの良い女に伝わる程度に滲ませる。隣で見た「恋心」のように顔を染め上げた女の瞳に宿った熱に、胸がざわめいた。
それでもその日は高揚もそのままに帰したのは、柄にもなく振り回される感情を落ち着かせたかったからに他ならない。羨望にも近い眼差しを失望に染めたくないなど、これまで考えたこともないことを思ってしまった自分に自嘲染みた失笑みが零れる。
きっと彼女はどんな自分も受け止めるだろう。勝手に良いところを見つけて勝手に騒いで、自分の中でその熱を大切に仕舞って幸せそうに笑う。長くはない付き合いだが、早い段階から取り繕わない素の姿を晒していたから、それだけはよくわかった。
だからこそ彼女から求められたい。あの距離の近い身内達にすらしないという「求める」という行為を起こさせたい。そう思って、付かず離れず、以前とさほど変わらない距離感を保つ。変わったことと言えば、脈絡なく送られてくるメッセージアプリのスタンプが増えたことくらいだ。なまえという女はよく口が回るが、考え無しに発言しているわけではない。多種多様なスタンプから何を言おうとしているのを推察するのはなかなか楽しかった。
朝のコンビニからエレベーターまでの十分弱と、夜の数往復のメッセージ。二週間ほど、穏やかで少しもどかしさの残る日々が過ぎた。

『良いんですか?楽しみです!』

拍子抜けするほどあっさりした返信に、悔しさすら感じた。この女、どこまで天然でどこまで計算なんだ。……深く考えずに送って、今頃頭を抱えているであろう姿が思い浮かばなければ、多少強引にでもわからせてやろうと思っていただろう。
優しく穏やかな春の風のような声が耳元で囀る。機械を通すことで普段の声と少し違って聞こえるのも悪くない。なるほど、この声で宥められたらクレーマーも鎮火せざるを得ないだろう。何てことはない日常の挨拶に過ぎない言葉のやり取りが、知らず溜まっていた疲労を癒すようで心地良かった。

「あ、呆れてますね!?お風呂上がりだったので……」
「……いや、とりあえず着替えなさい。待っているから」

こちらの気も知らないで、本当に自由な女だ。不本意にも程があるが、雑渡の心配も今ならわかる気がした。壁がある癖に壁を乗り越えると警戒心の欠片もなさは、仕事中の鋭さを足して二で割った方が良い。電話越しに聞こえる衣擦れの音に頭を抱えながらそんな事を思う。

「……お邪魔していいんですか?」

喜色の滲む声音に、口角が上がる。どこまで理解しているのか定かでは無いが、来る気があるのであればそれで良い。単純に仕事が落ち着かなかったこともあるが、暫く会う時間もまとめて作れていなかった。朝の短い逢瀬でこちらを見上げる瞳の熱が強まるのもわかっていた。

「泊まりに来ると言質はとったからな、それなりに覚悟しておけ」

散々待った。お膳立てはしてやるから、後は大人しく膳の上に上がってもらおう。

閑話2-星の内側-

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