それでも、日常の中に照星さんという彩りができたとは言え、比率で言えば平凡の方が多い。現代社会を生きる一般人にとって一日の大半は仕事をして過ごすし、仕事が終われば帰ってご飯を食べて寝て終わりだ。生憎アフター五で自分磨きに精を出すほどできた人間では無い。そもそも残業続きで早くてアフター七の日々である。
そんなわけで、お付き合いを始めたところで日常はさほど変わりなく進んでいく。ポキポキ音が増えてポキポキ音が楽しみになった生活は、変わらず仕事と家の往復で終わるし、帰り時間が合うわけではない照星さんとも朝のコンビニ以外で会うことは殆どなかった。
『(通勤って楽しいな……♡のスタンプ)』
『おはよう。そんなに仕事が好きだったのか』
『おはようございます。お仕事だぁいすき』
『妬いた方が良いか?』
『比較するのもおこがましいです。照星さんの方が百億倍大好きです』
『そうか』
照星さんは絵文字や顔文字、スタンプも使わない。ただ脈絡なくスタンプを送れば、律儀に内容を推察して返してくれる。優しさと想像力に感動した。ちなみにこのやりとりも三文字の相槌で終わってしまったが、その後合流したコンビニでチョコをくれた。その日は仕事が捗って上司にも褒められて最高の日だった。
また別の日。
『(仕事終わりましたのスタンプ)』
『お疲れ様。気を付けて帰りなさい』
その日は照星さんに会えなかった。なんでも早急に対応しないといけない案件があるとかで、前日の夜にわざわざ連絡をくれたのだ。だからいつかのように不安を感じることはなかったが、寂しいものは寂しい。そんな日に限って気を紛らわせられるほどの仕事もなくて、珍しく定時に勤怠を切る。
電車に乗って手持ち無沙汰でスマホを開き、トークの一番上にあるデフォルトアイコンに社畜スタンプを送ると、すぐに返ってきたメッセージに生活の彩りって素晴らしいと感じ入ってしまった。
『(明日も仕事、明後日も仕事のスタンプ)』
『今度の週末、どこかに行こうか』
ひょえ……という鳴き声が口から出かかって、隣に立つ学生に怪訝そうな顔をされる。見知らぬ人の怪訝そうな顔、心のダメージがすごい。出し切る前に飲み込んで、素知らぬ顔で画面を見返し、口元を抑える。
『デートですか?』
『そうだな。どこか行きたい所は?』
『海!』
『泳ぐのか?』
『見たいです。それか水族館でクラゲを見ましょう』
『クラゲが好きなのか』
『来世はクラゲになりたいと思っています』
『それなら少し離れてるが、ここなら海も水族館も見れそうだな』
送られてきた地図が示す大好きな水族館に、胸がぎゅっとなる。どこまで私のツボを押さえているんだ照星さん。心臓を握られていると言っても過言では無い。
『これで今週も生き延びることができます』
『それは良かった』
『お礼に私のオススメのご飯屋さんも紹介させてください』
『行きたい所でもあるのか?』
『照星さんとならいつでもどこでも行きたいです』
シュッポシュッポとテンポ良く現れる吹き出しが止まった。普段であれば差程気にしないが、最後の発言的に「もしかしてついに引かれたのだろうか」と不安が過ぎる。過ぎるが、タイミングが良いのか悪いのか最寄り駅の到着を告げるアナウンスに慌ててスマホを鞄に放り込んで立ち上がる。
照星さんも帰り道で移動中なだけかもしれないし、考え過ぎても仕方がない。そう自分に言い聞かせて、気を紛らわすためにも駅前のスーパーに足を向けた。
朝に食べるヨーグルトやパンを適当にカゴに放り込み、知らぬ間に値上げされていたことをレジで知ってやるせない気持ちに浸っている時、画面上部に現れた通知に危うくスマホを放り投げるところだった。スマホに意思があったら間違いなく苦言の一つや二つ言われていたに違いない。
『金曜日の夜なら空いている。そのまま泊まって次の日出掛けるか?』
特売の卵が売り切れていて良かった。買ってたら間違いなく、衝撃で落としたエコバッグの中で全滅してた。照星さんは、今日も私を揺さぶるのがお上手だ。
落としたエコバッグを救出し、無の境地で帰路に着き、『良いんですか?楽しみです!』という当たり障りのない返信を送ったその後。お風呂上がりのスキンケアをする際に洗面台の引き出しが目に留まった。『お泊まり』という言葉を反芻しながら、旅行用にストックしている試供品の小袋を手に取る。美容液に化粧水、乳液、下地やファンデーションもあるから、荷物は最低限にできそうだ。溜め込んでいて良かった。
と、そこまで考えて急に現実に引き戻される。仕事終わりに?ご飯行って?お泊まり?化粧を落としてすっぴんを晒す?
「無理では!?」
冷静になればなるほど『楽しみです!』などと言っている場合では無いと、一時間ほど前の自分を引き留めたい。何でもノリで返事をする癖はそろそろ直した方が良い。今から断るか?どうやって?と言うか何処に泊まるの?照星さん家?それはちょっと見てみたいかもしれない。ぐるぐる回る思考と同じようにお世辞にも広いとは言えない部屋を歩き回りながら、あぁでもないこうでもないと唸る。
何分程経っただろうか。いい加減服を着なければこの時期と言えど風邪を引く……と思いつつ、私の手は部屋着ではなくベッドに放り投げたスマホに伸びる。考えても仕方ないから聞いてしまおう。脳直で話す癖は良くないが、わからないことは素直に聞けるのは長所だと自負している。
『ちなみにどこに泊まるんでしょうか』
『何処がいい?』
ど こ が い い ?なんだこれ、なんて答えるのが正解?もしかして我が家を解放すべき?疑問の解消どころか疑問が増えてしまったことに再度部屋をぐるぐるしていると、今度はポキポキ音ではなくティロティロと軽快な音楽がスマホから流れ出す。我がスマホ、空に飛びたり、部屋の中。歌を詠んでいる場合ではない。着信の表示を横スライドで応答する。
「お、お疲れ様です!」
「お疲れ様。随分震えた声だな」
「うああ……ちょっと、心の、準備をさせてください……」
電話越しに聞こえる良い声、破壊力がすごい。傾国の美声だ。時代が時代なら天下を取っていたに違いない。照星さん、電話対応とかするのかな。取引先に電話して受話器からあの声が聞こえてきたら老若男女問わず何人か堕としてると思う。そこまで一気に考えて、モヤりと嫌な感覚が胸に去来する。
「……まだ捨てないでください照星さんんん……」
「待て、流石に脈絡がわからん。どうした?」
「電話越しに不特定多数の人達を恋に落として、その中でも可愛い声の女の子と御付き合いするとこまで想像しました」
「この短時間でか……?」
「想像力は豊かな方だと思います……」
呆れたような顔が目に浮かぶ。でもそれ以上に耳に響くパーフェクト低音ボイスに心臓がバクバクしてる。電話ってこんなに生命の危機を感じる機械だったっけ。
「ナマエ」
「っはい!?」
「生憎同時に何人も相手にするほど器用でもなければ、君に不義理を働いて悲しませることはしたくないと思っている」
落ち着かせるようにゆっくり、言い聞かせるような声音はひどく優しい。何度も見て、書いて、聞いた自分の名前が特別な眩しいものに思えて、何だか泣きそうになった。心臓は相変わらず煩いけれど、じんわりと胸に広がる温かみと安心感に、ホッと息を吐く。
「すみません、ちょっと落ち着きました」
「それは良かった」
「でも照星さんから電話なんて驚きました。どうしたんですか?」
「君の声が聞きたかったから、ではダメか?」
「だ、めじゃないです。照星さんも、もうおうちですか?」
「あぁ、さっき帰ってきたところだ」
「おかえりなさい、ですね」
「……あぁ、ただいま」
珍しく歯切れ悪く返された言葉に首を傾げながら、それ以上に「おかえりなさい」と「ただいま」のやり取りに口元がにやけてしまう。照星さんの素の部分に触れられたような気がして浮かれる気持ちを、調子に乗るなよと冷静な自分が諌める。
「そうだ、週末の予定空けてくださってありがとうございます!すごく嬉しいです!」
「こちらこそ。自分では行かない場所だから毎回新鮮だよ」
「海も水族館も楽しみです!しらす丼も食べましょうね」
「魚を見た後に食べるのか」
「命の有難みを噛み締めるんです」
「そうか、食育だな……」
「あ、金曜日は食べたいものありますか?特になければ焼き鳥はどうでしょう!」
「君に任せよう」
「やった、後で予約しときますね。何時に行けそうですか?」
「19時には終わらせる」
「歩いて15分くらいの場所なので、それくらいに予約しますね」
「ありがとう」
毎日の楽しみである「ありがとう」が、鼓膜を揺らす。店員さんに向けたそれよりも幾分柔らかく、口角を緩く上げて発されているであろう言葉に、むず痒い気持ちになった。ソワソワと乾かしたばかりの髪を触り、指に巻き付ける。
「っくしゅん」
「大丈夫か?」
「ごめんなさい、着替えてる途中なの忘れてました」
「………………」
「あ、呆れてますね!?お風呂上がりだったので……」
「……いや、とりあえず着替えなさい。待っているから」
「すぐ着ます」
いつの間にか冷えた素肌を擦りながら、ベッドの上のシャツを被る。そろそろ夏物を出さないとなぁと考えながら「お待たせしました!」と声を上げると、「風邪を引くなよ」と至極真っ当なお言葉が返ってくる。それはそう。週末に風邪を引いたら目も当てられない。
「クーラーを付けるほどじゃないけど、この時期のお風呂上がりは暑くてダメですね……」
「いくら自室と言えど、服はちゃんと着なさい」
「い、いつもはちゃんと着てますよ!?」
「そうか、では君の寝間着も用意しないとな」
「……どこに?」
「泊まりに来るんだろう?」
「……お邪魔していいんですか?」
「どうぞ」
脳内に反響する「どうぞ」に打ちのめされる。録音したい。落ち込んだ時に聞いて元気をもらいたい。と言うかもしかして、これから合法的に言ってもらえる?社内にいるであろう照星さんファンクラブの方々に刺されるのではなかろうか。
またも意識を飛ばしてあらぬ方向に考えを巡らせていると、短く笑う声が機械から飛び出す。
「泊まりに来ると言質はとったからな、それなりに覚悟しておけ」