「零」
高校を卒業してから呼ばなかった名前を呟く。叶わない恋なんて忘れたくて、でも私から離れるなんてできなくて、そうして何度も悩んで零とは「高校のときの同級生」という関係に戻すために「降谷」と呼ぶようにした。一度そう呼ぶと、零の方も理解したのか私のことを「セシリア」と呼ぶようになった。大学に進学しても年に数度会っていたが、近況を報告し合うだけ。ちょうどいい関係のはずだった。
いつの間にか車は高速を降り、周りに何も建物がない広い道を走っている。私たちの他に車は見当たらないし街灯も少ないけれど、遠くに眠らない東京の街が見えるので真っ暗ではない。十分も走ると広い駐車場に到着した。
開いた窓から波の音が聞こえる。
「着いた」
そう言うが車から降りる様子はない。しかし運転が終わったのでやっと零が私を見た。暗闇のせいで零の綺麗な瞳の色が見えない。
「連絡返せなくて悪かった」
「本当だよ、私ずっと連絡してたのに。……でも何か理由あったんでしょう? で、その理由は言えない」
「ああ」
「高校のときから変わらないね。ミステリアスだ」
だから零の本当の顔が見たくて知らないうちに目で追いかけていた。そこにいるはずなのにいない、蜃気楼みたいな男だから好きになってしまったんだ。
今だってそこが好きだ。でも「クラスメイト」という強固な繋がりがなくなってしまった今、ふわりと消えてしまいそうで不安になってしまう。それこそ三年間音信不通だったように、今日を最後に一生会えないかもしれないと感じてしまう。
そして残酷なことに予感は的中した。
「今日はシシーに最後の挨拶をしに来たんだ」
そう言った零は優しく微笑んでいた。
なんで笑うの。そう詰りたくなるけれど、零に悲しい顔をさせたいわけじゃないから、ぐっと堪える。その代わり、私の悲しい気持ちをぶつける。これが最後なら、もう私の気持ちがバレたっていい。私が零のこと好きなんだってバレたら、零は離れていってしまうんじゃないかと危惧して隠した恋心だ。
「また零のこと思い出して苦しむんだ。……やっと、もう零とは会えないんだって諦めがついていたのに」
「ごめん」
「それならいっそ何も言わずにいなくなってほしかった」
零は無言で私を見る。
それでも「好き」とは言えない。直接的な言葉で、その気持ちを告げてしまえば本当に零のことが忘れられなくなってしまう。
零は、ふとフロントガラスを見た。一面、東京の夜景が広がる。海には青や緑、橙の光が反射している。それらを見つめる零の顔に高校二年の冬に見たものが重なる。
「やらないといけないことがあるんだ」
あのときと同じ声。
「やりたいことじゃなくて?」
「やりたいことのために、やらないといけないこと」
また零が表情を緩めた。だけど目には覚悟の色が映ったまま。
「ここを離れて遠くへ行くんだ」
「どこ?」
「遠く、もう会えないところ」
まるで天国へ行くような台詞だと思ったあと、零が警察官になりたいと言っていたことを思い出して血の気が引いた。
「危ないところ?」
「心配しなくても大丈夫さ、危なくないよ。……でも僕のことは今日で死んだと思ってほしい」
「嫌だ、そんなのできない」
「だろうね。急なことだし。でも長い時間を経て、シシーの中の僕は死ぬだろう。そのとき、それを悲しいことだと思わないで受け入れて」
わかった、なんて言うはずがない。零への気持ちが消えたとしても、死んだとは思いたくない。
私が黙っていると、零は眉を下げた。そして息を吐いてから前を向いて、身じろぎしてハンドルを握った。
「行く前にシシーの顔が浮かんだ。それで連絡したんだ。……あんな時間だったし来ないかもしれないと思ったんだけどね」
「来なかったら会わずに行くつもりだったんでしょう」
零は笑った。肯定の笑いだ。日を改めて会いに来ようとしないのが零らしい。
「本当は、誰にも言わずに行ってしまおうと思ってたんだ」
零は私を見ないまま、少し腰を曲げてハンドルに項垂れるような態勢で言った。
私は思わず固まった。まるで弱音を吐露したように聞こえたから。深読みしてもいいだろうか。自惚れてもいいだろうか。最後に会いに来たのが私なんて。そんなのまるで――。
強い風が吹き込んできた。潮の香りを乗せて。
+++
車内で零が買ってくれた缶コーヒーを握りしめながら白くなってきた空と、零の横顔を見つめる。
悲しい話は止めにして、ぽつりぽつりと私たちは思い出話に花を咲かせていた。あんなに濃かった高校三年間なのに、今では所々しか思い出せない。時間は残酷だ。大切な記憶を風化させてしまう。周囲の目なんて気にせずに、もっと零と話せばよかった。あの頃の私は、こんなに後悔するなんて思いもしなかった。
「どうして零は私と仲良くしてくれたの?」
仲のいいクラスメイトはいても友達はいなかった零。それなのに、たしかに私は零の友達だった。おそらく諸伏くんを除くと唯一の友達。どうして私だったのだろうかという疑問は昔から抱いていた。「テスト前に放課後一緒に勉強するだけの間柄」のままでだっていられたはず。
零は一瞬、運転席側の窓の方に顔を向けた。またはぐらかされるのかと思いきや、そのあとすぐに私を見た。
「シシーは僕を見つけてくれたから」
「また変なことを言う」
「僕が距離を取ると、みんなは僕に近寄らなかった」
「……誰だって零に嫌われたくないからね」
「でもシシーはそばに来ただろう?」
「それは零が嫌がらなかったから……」
「僕はクラスメイトが話しかけてきて嫌がったことなんてないさ」
零は意地悪な顔で笑った。きっと私が答えに辿り着けるか楽しんでいる。
近づいてほしくないけど、近づいて自分を見てくれて嬉しいなんて、天邪鬼も甚だしい。
「……零ならたくさん友達ができたのに」
「こうなることがわかっていたから、作らなかったんだ」
零の指す言葉が今日の別れのことだと気づいたとき、急に零が怖くなった。高校の時から予想していたなんて。私には零の考えていることがまったくわからない。私にわかるのは、零が大きなもののために動いているということだけ。
作る予定のなかった友達の私。そして誰にも言わずに去るはずだったのに私に会いに来てくれた。
零を見ると、楽しそうに笑っている。それが私と仲良くした答えのような気がした。きっと自惚れじゃない。意を決して「零」と名前を呼ぶと、零が腕を伸ばしてきた。抱きしめられるかと少しだけ期待したけれど、零の腕は私に触れる前に躊躇うように止まり、方向を変えて私の頬を優しく撫でて戻っていった。
私と同じように、零も気持ちを明かさずにこの闇夜に捨てるつもりなのだろう。過去と訣別するために。
+++
サイドミラーに東都港が映る。
こんなに悲しい朝なのに、グラデーションがかった薄紫の空はとても美しく、世界が零の門出を祝福しているみたいだ。
車は来たときと同じ道を通り、トンネルに入った。外が明るくなっても、中は変わらずオレンジ色に染まっている。不思議なことに周りには車がいない。世界に私と零の二人きりみたい。このまま時間が止まればいいのに。そんな私の気持ちなんてお構いなしに無情にも時間は進んでいく。そして、あっという間にトンネルを抜けた。来るときは長く感じたのに。
タイムリミットまであと一時間を切っている。視界が滲んだのが勘づかれないように、ぐっと窓の外を向いて目頭を押さえた。
少しずつ車が多くなってきた。そして見慣れた景色も多くなる。
外に目を向けたまま「もう少しだね」と呟く。声は震えなかったけれど、零が「行きより早く感じる?」と聞くので、別れを惜しんでいるのが読まれたのかと心臓がキュッとした。けれど、続いた言葉は「リターン・トリップ・エフェクトだ」というよくわからないものだった。
「リターン……?」
「リターン・トリップ・エフェクト。行きより帰りの方が短く感じる現象だよ。実際は行きと帰りの距離や時間が同じでもね」と軽やかに言う。
零のうんちくに「へー」と相槌を打つ。零は博識だからこういうことがよくある。そして、それは長くなることも経験済みなのだ。
「昔からそういう経験自体は知られていたけど、二〇一一年にようやく研究されはじめたんだ。それまでは慣れのせいだと思われていたんだけど、時間予測の歪みだとか、帰り道の途中で『もうここまで来たのか』と思うからだとかいう説がある」
このままだとそれぞれ詳しく説明しかねない勢いだ。無言の空間はつらいから話してくれるのは有難いけれど、こんな授業みたいな内容は嫌だ。慌てて「そんなことより」と話を止めた。
「諸伏くんとも会ってなかったの?」
大学のころは、零の話の中に出てくることがあった。それなのに今日はまだ一度も名前を聞かなかった。逐一報告し合う女子会じゃあるまいし不自然ではないが、ちらっと思い出したから聞いてみた。
零はだんまりと口を閉ざした。
ビルに反射した日差しが、眩しく目を射る。たまらなく目を閉じた。何かハンドルを操作した気配を感じた後、カチッカチッとウインカーの音がした。車は緩やかに曲がり、体が前につんのめった。高速を降りているようだ。私は目を開いた。
そのころになって「会った」とようやく零が返事をした。
「元気だった?」
「ああ」
「そっか……」
触れられたくない話題のようだ。喧嘩でもしたのかと思ったけれど、零の表情を見る限りそういうわけではなさそう。私が踏み込む話題でもないし、きっと諸伏くんともさよならをするだろう。幼なじみと別れるつらさを思い出させるのも申し訳ないからそれ以上諸伏くんの話はしなかった。
下道に出てから公園まで時間はかからなかった。少しくらい寄り道してくれたっていいのに、零は真っすぐ最短ルートで送ってくれた。迎えに来たときと同じところで車は停まり、零はハンドルから手を離した。
「降谷零は今日でいなくなる。だけど、シシーのおかげで僕が降谷零だったってことを忘れないでいられるよ。ありがとう、シシー」
「本当にお別れなんだね」
零が無言で頷いた。込み上げる感情を押し殺して「元気でね」と言ってから車の外に出た。またね、は言えなかった。絶対に言ってやろうと思ったのに、いざ言おうとするとその言葉が零の重荷になるのが怖かった。
せめて振り返らずに行こうと思ったのに、窓が開く音がして振り向いた。零が窓から顔を出していた。
「そういえば、Kが自殺したのは失恋したからじゃなくて『たった一人で淋しくって仕方がなくなった』からだよ」
最初、なんのことだかわからなかった。何度か頭の中で反芻して、ようやく高校の時の話の続きだとわかった。なんで今さら。なんで自殺の理由をなんかを。ぐるぐると零の言葉を悪い方に考える。でも零の表情は明るかった。
私が言葉を発する前に、車は動き出してしまった。すぐに姿は見えなくなって、微かに低いエンジン音だけが静かな住宅街に残された。
氷は東京に溶けて消えてしまった。