私と降谷くんが最も接近するのはテスト前。二人で教室に残って勉強するのが恒例行事になっていた。その初めは二年の一学期期末テストの前。勉強らしい勉強なんてしてこなかった私が、気まぐれでテスト勉強をしてみようと思ったのだ。教室は、椅子は硬いし暖房の効きが悪くて寒いし残る人は少ないらしい。放課後に勉強をする子たちは自習室や図書館を利用する。もしくは今までの私みたいにファミレスか。ともかく教室に残る子はほとんどいないと聞いていたので教室を広々と貸し切り状態で使えると楽しみに向かってみると、空っぽの教室に降谷くんが一人いた。
降谷くんは、私の両腕いっぱいに抱えたお菓子を見て「パーティー?」と不思議そうに目を丸くした。私はかっと顔が熱くなった。恥ずかしさでどこかへ消えてしまいたいと思いながらも「勉強のおとも」と答えた。降谷くんは堪えきれないとばかりに噴き出した。降谷くんの笑顔が見れて嬉しいのか、笑われて悲しいのか、自分でもわからない曖昧な表情をしながら、自分の机にお菓子をどっさりと置いた。そのころになって、やっと笑い終わった降谷くんは笑ったことを軽く謝った。それに「別にいいよ。たしかに勉強する荷物じゃないし」と可愛げのない返事をしてからワークを開いた。二人でカリカリと勉強しながら、たまに私の集中が切れると意外なことに降谷くんは雑談にのってくれた。
降谷くんは、毎回テスト前は教室で勉強するらしい。テスト前じゃなくても時間があるときはそうしていると言っていて、そのとき初めて真面目にテスト勉強を始めようと思った私は降谷くんの意識の高さに圧倒されていた。そして納得した。いつも彼の学年順位が一位なのは、この努力があってこそなのだと。
降谷くんに感化された私は、今までになくテスト勉強を頑張った。いや、頑張ったのは教室に残れば降谷くんがいるというご褒美があったからかもしれない。どちらにしても私の原動力は降谷くんだった。そして頑張りは結果に現れた。返却された答案用紙は見たこともない高得点ばかりで、返されるたびに私は夢じゃないのかと目を疑った。すべての返却が終わって、私は降谷くんが一人になるタイミングを見計らって彼にテスト結果を見せた。降谷くんは、ただ笑って「よかったね」と言ってくれた。それだけなのに、両親が大喜びしてケーキを買ってくれたことより嬉しかった。
それからテスト前に一緒に教室に残るようになった。成績が急上昇した理由が放課後の自習だと知った両親が、学校に残るようにと強く言ってくるようになって帰るに帰れなくなってしまったのだ。そのかわり、お小遣いとは別に放課後食べるお菓子代が支給されたし、私もそういう言い訳で降谷くんと一緒に勉強できたから何も文句はなかった。降谷くんは私のことを邪魔だとは言わなかったので甘えさせてもらっていた。私が買ったお菓子を降谷くんと一緒に食べながらする勉強は、「勉め、強いる」という言葉に似合わない、楽しくて幸せなものだった。そしてそれを二回も繰り返すと、自然と降谷くんと距離が近づき私は彼のことを零、彼は私のことをシシーと呼ぶようになっていた。最初はむずがゆかったそれも、いつしか当たり前になっていた。
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勉強中は二人とも黙々とペンを走らせるから楽しくお喋りなんてことはなかったけれど、二人きりの教室というシチュエーションだけで満たされていた。
ペンが紙の上を走る音。呼吸音。身動きしたときの衣擦れの音。それらが静かな教室だと嫌に響く。教室の時計は電波時計だから秒針が時を刻む音はしない。唯一、長い針が真上を指すときだけカチッと小さな音が鳴る。その音が聞こえて、手が止まるのと同時に響き渡るチャイムと下校放送。
静寂を守っていた教室に音が戻る。
「零って志望校決まった?」
二年生の冬。もう志望校を決めないといけない時期で、毎日毎日いろんな先生が志望校の話をしてくる。
机に広げていたノートを鞄に詰めながら、零はこちらを見ずに一言「東都大学」と返した。なんてことない様子で放ったその一言が、私には大きすぎて変な声が出た。
零と同じ大学に行けたら、なんて淡い期待が消し飛んだ。東都大学なんて私にいけるはずがない。この学校の卒業生で今まで合格した人がいるのかもわからない。いや、もしいたら学校がもっとアピールしているからきっとないのだろう。だけど零が落ちるとは思えない。学校初の東都大学合格者となる姿がありありと目に浮かぶ。
「そっか、東都大学か……。寂しくなるね」
口をついて出た言葉に、零は変な顔で私を見た。群青色に私が映る。自分の言葉を反芻してみるけれど別段おかしなことは言っていないはず。だけど零は目を丸くして私をまじまじ見ている。
「寂しい?」
「う、うん。二年も同じクラスだから教室に零がいるのが普通になっちゃったよ。……あ、でも受験の前にクラス替えがあるね。次こそ別のクラスになっちゃうかもしれないし、大学よりそっちの方が寂しいかあ。……あれ、寂しくない?」
零の不可解そうな表情に不安になる。寂しいのは私だけで零は私がいてもいなくても寂しくないのかもしれない。というか私だって零以外のクラスメイトと離れたって寂しくない。零と離れて寂しいなんて大胆なことを言ってしまった。誤魔化すように「零も仲のいい男子と離れるの寂しくない?」と続けた。
返事はなかった。返事に悩むようなことは聞いていないはずなのに。少し待って、やっと返ってきたのは「仲のいい男子?」という予想外のもの。まるでそんな人いないというような言葉だ。零の周りにはいつも人がいるし、楽しそうに喋っているところだって嫌でも目に入る。「友達がいない」なんて言葉は無縁のはずなのに。
「もしかして、この学校の男子と合わなかった? 子どもっぽいやつ多いもんね。零や諸伏くんからしたら精神年齢が下すぎて友達とは思えないのかな。二人とも大人っぽくて年齢偽ってるんじゃないかって思っちゃうときあるからね」
「偽ってないよ」
「わかってるわかってる。顔は高校生だもん。老け顔じゃなくてよかったねえ」
零は声を出して笑った。その振動で教室内の空気が変わった。
零はさっきよりも軽い声で「そうだなあ」と前置きしてから「友達だけど仲良しではないよ。友達と言っていいかもわからないけどね。僕は今の今まで、彼らを友達と認識していなかったから」と言った。
「たしかに一般的な関係性を表す言葉でカテゴライズするなら『友達』だろうね。僕は毎日彼らと話している。彼らから話しかけてくることもあれば、僕から話すこともある。そしてそれは不快ではない」
「回りくどい言い方するね」
「生憎、そういう性格なんだ」
零が肩をすくめた。さらりと亜麻色の髪が揺れ、白い蛍光灯の光を受けてきらきらと輝く。
「だけど、シシーの知らないことをひとつ教えてあげるよ。……僕は彼らと学校外で接点がないんだ。連絡先も知らないし、もちろん遊びに行くこともない」
「え……」
「誘われるようなこともないだろうけど、もし誘われても行かないよ。必要性を感じないからね」
そういう「友達は必要ない」という考え方の人がいるのは知っている。だけど、学校では仲良くして、外では他人と明確に分ける人を私は初めて見た。クラスメイトと過ごす日々の楽しさを知っているなら、学校が終わった後も、そして学校がない日も会ってキラキラお喋りしたくならないのかな。短い青春の輝きを噛みしめたくならないのかな。私には零が宇宙人のように感じた。
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「どうして……」
そう尋ねたのは、ただの好奇心からだった。今考えると、「どうして友達がいないの」とでも取れる不躾な質問だったと思う。零なら、答えたくなければ答えないだろうと、軽く考えた雑談のつもりだったのだ。
だけど私の予想に反して覚悟のこもった声音が返ってきた。
「やりたいことがあるんだ。よそ見していられない」
ずいぶんと抽象的な言葉だ。「やりたいこと?」と詳しく聞けば、零は一度口をつぐんだ。教室の中は静寂に包まれた。
零は私の質問に答えることなく私から視線をそらして窓に向ける。学校の外は真っ暗で、窓ガラスに私と零の姿がうっすらと反射している。夜景と言うには物足りない街明かりが遠くに見える。
長くない時間、何度かの呼吸のあと、零が口を開いた。
「警察官になるんだ」
警察官、と口の中で呟く。なんとなく零には似合わないな、なんて失礼なことを思った。警察といえば熱血な体育会系のイメージ。
ふと、「警察官」はなりたいものであって、やりたいこととは違うんじゃないかと気がついた。零がその区別をせずに、ただ将来の夢を言っただけかもれないけれど、零ほどの人がそんなミスをするだろうか。
そもそも警察官になりたいから、友達を作らないというのも変な話だ。警察官って団体行動が得意な方がいいように思える。協調性が大事そうだし。東都大学に入学するために、勉強の邪魔になる友達を作らないようにしているのだろうか。だとしても――。
「警察官なら東都大学じゃなくても……。高校卒業してすぐにだってなれるんだし」
進路学習で聞いたことがある。この学校からも毎年数人は受けているらしい。だから警察官になりたくて最難関の東都大学を選ぶというのは不思議に思った。無理に難しいところを目指さなくても、友達を作って今を楽しみながら警察官になることだってできるのだ。
だけど零の瞳の奥には炎が灯っていた。
「駄目なんだ」
一呼吸おいて「それじゃあ駄目なんだ」ともう一度繰り返した。覚悟のこもった声に、ああ、やりたいことを達成するために、東都大学に進学してから警察にならないといけないんだと感じた。そして、そのやりたいことが何なのかは私には教えてくれないのだろう。そこまでしないとやれないことってなんだろう。
零の表情は硬くて冷たい。私は一年の春のことを思い出した。クラスに馴染む零を見て、もう氷は溶けたのだと思っていたけれど、それは私の勘違いだった。零はあのときから何も変わっていない。
零は静かに続けた。
「そのために今まですべてをかけてきたんだ」
「青春を犠牲にして?」
「ああ、そうだよ」
零の言葉には迷いがない。昨日今日考えついたことではなく、長年求め続けているようだ。幼いときから、そのことだけを強く願ってすべてをかけてきた。
私の頭に、ある人物が過った。前に現代文の授業に出てきた男だ。彼もまた、志が高く他のものに溺れず、そしてそれを叶えられるだけの能力があった。ただし彼の場合は恋の前ににっちもさっちもいかなくなってしまったけれど。
比較すると共通点がたくさんあって、つい笑ってしまった。
しまった、零のことを笑ったように誤解されてしまう。慌てて言葉を紡ぐ。
「零ってKみたい」
「ケイ?」零が眉を潜めた。
私は、零に似た彼の信条を暗誦する。
「『道のためにはすべてを犠牲にすべき』」
「ああ、『こころ』か」
やっぱり零ならこの言葉だけでわかると思った。まあ、この前のテスト範囲だったから、零じゃなくても夏目漱石の『こころ』だってわかると思うけれど。
零は、警察官のその先のもののためにすべてを犠牲にしているのだろう。私たちが遊んでいる間も、一人教室で勉強していたように。
『こころ』のもうひとつの有名な一文を思い出し、それも諳んじた。
「『向上心のないものはばかだ』。零もそう思っている?」
「どうだろうね」
「私、きっと『ばかもの』よ」
そう言うと零は笑った。
私は夢もまだしっかり決まってないし、向上心なんて言葉は無縁だ。高校だって制服で選んだし、大学も行けるなら零と同じところでいいやと思っていた。どうにか最低限は頑張るけれど、それ以上はできない。
零は柔らかい表情のまま「別に必ずしも向上心がないといけない、なんてことはないさ」と言った。だけど向上心の塊のような男に言われても納得ができない。
「みんなが向上心を持って社会のためにと努力していたら、もっと世の中は素晴らしい色をしていたかもしれないね。だけどそんなの現実的ではない。できもしないことだから理想を語るんだ。大層な理想を語っている人は立派に見えるだろう? たしかに立派な人は影響力を持っている。シシーも、Kの台詞を読んで『私は向上心がないからばかなんだ』って思ったんだろう。だけど、それを言った人が本当にそんなことができているかまで見ないといけないよ」
「Kはどうだった」と、まるで授業中に先生にあてられたよう。必死に当時の記憶を呼び戻す。
「Kは、……お嬢さんを好きになって、悩んで、自殺した」
私の答えに零は悩むそぶりを見せた。だけどすぐに「そう、Kも結局向上心を持ち続けられなかったんだ」と言ってから、「よく覚えていたね」と褒めてくれた。
嬉しくて笑顔がこぼれたけれど、教科書が視界に入った。
「覚えててよかったけど、そうじゃないじゃん! 私は『こころ』の復習じゃなくて次のテストの勉強しなきゃいけないの!」
机の上に広げられたままの教科書を叩いた。また零が笑う。その表情が、ずるいくらいかっこよかった。
一気に緊張の糸が途切れて、私は止まっていた手を動かしだした。教科書を閉じて机の中にしまったり、ペンケースを鞄に入れたり、バタバタと片づけてから椅子の背もたれにかけていたコートを羽織った。
「零がKだったら、お嬢さんに告白してそう」
「僕がKだったら――」
ひとりごとのような呟きに被るように教室の扉が大きな音をたてて開いた。まるで零の言葉をかき消すように。
廊下には担任の先生の姿。「下校時間だ」と言いながら教室に入ってくると窓の鍵がかかっているか確認して、「帰るときは鍵を職員室に戻すように」と、いつもの決まり文句を言って出ていった。嵐が通り過ぎた。
興がさめたのか、先生には聞かれたくないのか、零のさっきまでの空気はすっかり消えてなくなっている。もう言い直すことはなさそう。
きっと零は、私が続きの言葉が聞き取れなかったと思っているだろう。だけど、実は聞こえていた。小さな物音ででも聞き取れなくなりそうな声で吐き出された「道を塞ぐ恋にうつつを抜かしてなかっただろうな」という、私にとっての絶望を。
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その感情が絶望だということに当時の私は気づいていなかった。ただ、ずっしりと重い何かが胸にのしかかったような気がして、数日、無意識のうちに胸元を触ることが多々あった。目ざとい友人たちが、そんな私を見て恋わずらいだなんだと囃し立てたのを私は苦笑を浮かべて適当にやり過ごしていた。
そして学年末テストが無事に終わり、短い春休みが通り過ぎ、三度目の春を迎えた。
その時は、今までと違って零と同じクラスになる予感がしていた。そしてそれは現実となった。
教室に入って零と目が合ったとき、ようやく私は零のことが好きなんだと気がついた。目の前がぱっと晴れ上がって、春の風が私にぶつかったような衝撃だった。
零は彼自身が言っていたように、周囲と距離を取っていた。そんな零が私には気を許しているように感じたのだ。群れることなく一人で静かに席に座っている零が、私と目が合ったとき表情を和らげたように見えた。それを私は嬉しいと思い、刹那、これは恋だと直感した。
そして次の瞬間には、零が恋さえ犠牲にする覚悟を持っていることを思い出し、目の前が真っ暗になった。明るい教室の中、あちこちから楽しそうな声が聞こえる。それなのに私は暗闇の中、迷子になってしまった子どものようにふらふらと自分の席を探した。
恋愛の甘酸っぱさを楽しむ前に終わってしまった。けれど振られたわけでも、嫌われたわけでもない。テスト前の放課後だけだけれど隣にいられる。一緒に勉強できる。一緒に帰れる。一緒に笑える。それだけで十分。欲張ってはいけない。私みたいな平凡な人間が零と短い時間だけでも一緒にいられるなんて幸せなんだと、何度も自分に言い聞かせた。
私は自分の気持ちに蓋をした。零の道の邪魔になれば、簡単に切り捨てられると思ったから。
そして私たちは、よいクラスメイトという関係を守ったまま高校生活を終えた。