33
秋晴れの日に、朝早くからバーボンの情報収集についていった。昼過ぎにはそれも終わり、少し遅めのお昼ごはんを研究所の近くの洋食店で食べ、用事があるというバーボンとは研究所の前で別れた。
エントランスの端の受付で、美人なお姉さんに帰ってきたことを伝えると、笑顔で「おかえり」と言ってくれて少し嬉しい。やっぱり挨拶って大事だと再確認しながらエレベーターの前に行けば先客がいた。綺麗な黒髪の若い女性。どこかで見たような気がすると近寄れば、女性が私に気づいて振り返った。
女性は私を見て驚いたような表情をしたので、咄嗟に不審な子どもだと思われないように「こんにちは!」と大きな声で挨拶をした。女性はまだ驚いているけど私の挨拶に返事をしてくれた。どこかで会ったかと記憶を辿ろうとすると、静かにエレベーターの扉が開いた。
二人で乗り込むと、女性が八階のボタンを押してから私を見た。
「あなたは何階に行くの?」
「あ、えっと、……私も同じ八階です」
女性はパチパチとまばたきしてから閉じるボタンを押した。
偶然ですねと話かけていいのかわからず女性の後ろ姿を見つめていると、彼女はおもむろに顔をこちらに向けた。見すぎて気づかれたかと焦っていると、彼女の方も私と目が合うと思っていなかったいう顔で気まずげにすぐに前を向いた。私は無意識のうちに扉の上部の液晶をじっと見つめていた。
彼女は八階に何をしに行くのだろう。八階には私の部屋以外は仮眠室のみ。仮眠しに行くのかと思ったけれど、彼女の服はデートに行くような鮮やかで可愛い服だ。
デート? そのキーワードに何か引っ掛かった。ここ数日の記憶をよみがえらせると、一人、黒髪の女性の存在を思い出した。そうだ、彼女は――。
声を出そうとしたときタイミングよく、エレベーターの扉が開き邪魔をされた。喋るのはあとにして、彼女に続いてエレベーターを降りた。
「ねえ」
エレベーターの次は彼女にタイミングを奪われた。だけど話しかけられたのは好都合。
「なんですか?」
「あなた、もしかして……」
「明美」
聞こえた男の声に、また邪魔されたと溜息を吐きたくなった。今日は随分と出鼻を挫かれる日だ。
しかし目の前の彼女の放った「大君?」という言葉にピクリと体が動いた。バッと顔を向けるとライが壁に寄り掛かって立っていた。頭の中で、彼女が平然と放った「大君」という爆弾発言がこだまする。
目の前では彼女とライが「待たせちゃってごめんなさい」「いや、平気だ」なんて会話しているけど、それがモヤがかかったように聞こえる。耳に残っているのは「大君」だけ。
「大君?」
ライを指差して聞けば、ライは顔をしかめて頷いた。笑っちゃダメだと言い聞かせれば言い聞かすほど笑いそうになる。だけど、そんな失礼なことはできない、とグッと堪えて「いい名前だね」と自分でもよくわからないことを口走った。案の定、ライの眉間に深い谷ができた。
そんなやり取りを見ていた女性は、ぱちんと手を叩いて嬉しそうに「やっぱりこの子が愛子ちゃん?」と笑った。
「じゃあ、あなたはやっぱり宮野さんなんだ!」
「ええ、宮野明美よ。よろしくね」
「愛子です! よろしく、宮野さん」
「明美でいいわ。妹も組織にいるからややこしいでしょ? あの子は私と違って普段コードネームで呼ばれているけど」
妹さんとは会ったことはないけど素直に頷いた。すると明美さんは私に少し近寄って、そっと私の頭を撫でた。
「本当に小さいのね」
そう言った顔は懐かしそうで、きっと妹の面影を私に重ねているのだろうことがわかった。
しばらく私を撫でた明美さんは、急に顔色を曇らせて私の顔を覗き込んだ。
「寂しくない?」
ひどく心配そうな顔をするので言葉に詰まった。そのせいで、ずっと心の中にある「こんな仮眠室のある階で喋るのもあれだし……」と言う言葉が宙ぶらりんのまま。話の腰を折るべきじゃないと諦めて明美さんの目を見た。
「寂しくないよ。……バーボンがよく会いに来てくれるからね」
「そう、それならよかった。バーボン、優しいものね」
「優しい……。まあ優しいかな。でも会う度に一回は何かにつけて小言を言ってくるのはやめてほしいかな。……うん、やっぱり優しくないよ! だってこの前、ちょっと寝るのが遅くなっちゃっただけで、すっごく怒ってきたんだよ!」
本気で怒ってはなかったけど、それにしたって口うるさい。明美さんがうっかりバーボンの毒牙にかからないように忠告したが、まさかのライから「それはお前が理由もなく朝方まで起きていたからだろう」とバーボンの擁護をされた。本当にまさかすぎる。
ライは呆れ顔だし、明美さんは苦笑を浮かべている。でもあれはしかたなかったんだ。だってあの日は一日やることがなくて部屋にこもっていたから体力があり余っていてまったく眠気がやってこなかったのだ。そういう日に限ってバーボンが抜き打ちで様子を見に来るから困ってしまう。
「それにバーボンって気分のムラがひどいんだよ」
二人が怪訝な顔をするので最近のバーボンを教えてあげた。
ケーキやお菓子片手に会いに来る機嫌のいいときもあれば、今日なんて何が気に食わなかったのか言葉数が少なかった。
ライと明美さんが顔を見合わせた。
まさかそんなはずないとでも思っているのだろう。
「この前なんて、ジンには生き生きと暴言吐いてたのに私が部屋に入った瞬間喋らなくなったんだよ! なんなの、私のこと嫌いなの?」
つい一時間ほど前に、一緒にハンバーグを美味しいって言って食べたから嫌われてはいないと思うけど、もうバーボンのことがわからなくてお手上げ状態だ。
「バーボンはきっと愛子ちゃんのことを心配しているのよ」
「……しんぱい?」
そういえば、スコッチも前にそんなこと言っていた気がする。だけど、いまいちピンとこなくて首をひねった。
「……お前が子供だからちゃんとやっていけるか心配しているんだ」
ライが明美さんの言葉を引き継いで、言葉を選ぶようにゆっくりと言った。
でも組織に馴染めるか気にするなら、距離を取るのはおかしいでしょ。もっと近づいて、いろんな技術を教えるのが普通じゃないの? とライを見つめて言うと、少し溜めてから息をはいた。そして観念したような顔で口を開いた。
「能力面ではお前は十分やっていけている。そうじゃなくて精神面だ。……人を殺すところを見てトラウマになっていないか心配してるんだ。子供が見るものじゃないだろう」
そんな普通の人のようなことを考えていたなんて。まるで裏社会の人の考えとは思えない。
でもライの言うとおりかもしれない。考えてみればバーボンの様子がおかしくなった一番初めは風紀財団の男の暗殺を監視していたとき。そして大月さんが殺されるのを見て決定的におかしくなった。
だからライはバーボンの真意を隠そうとしたのか。そんな優しい感情で私に接しているなんてジンにバレたら目をつけられかねない。ジンもベルモットも殺しを悪いことだと思っていない。まさにボンゴレの敵となるのにふさわしい裏の人間。それに対してバーボンの殺しが悪いことだとする考え方は、組織からすると都合が悪すぎる。こうしてバーボンの気持ちを理解できるライもおそらくバーボン側なのだろう。同じ組織にいるのに、こんなに考え方が違うなんて不思議なものだ。そんなにボスとやらがカリスマなのか、それとも組織の目的に共感できるのか。
「だからバーボンはお前を嫌っていない。あまりそばから離れてやるな」
「うん。……だけど私は平気なのに、バーボンを悩ませるのはちょっと嫌だなあ」
「悩ませてやれ。子供の幸せで悩むのは大人の特権だからな」
「うーん、ライがそう言うなら……」
私は子供じゃないけれど一応頷くと、ライがふわっと頭を撫でてきた。
「ライみたいなお兄ちゃんがほしいなあ」
この間、駅のホームで見た妹さんを思い出した。わざわざ代わりに切符を買ってきてくれるし、こうして悩みも聞いてくれる。いいお兄ちゃんだ。
「ホー、ならお兄ちゃんとでも呼んでみるか?」
「ライお兄ちゃん?」
呼んでみたら、ライはふっと笑った。
「ちょっと羨ましいなあ。私も大君みたいなお兄ちゃんほしい」
「なんだ。明美は俺が兄でいいのか?」
少し間をおいて、その言葉の意味を理解した明美さんがライの腕を叩いた。
「もう! 愛子ちゃんの前でなんてこと言うの!」
「お前が兄がいいと言うからだろう」
「ちゃんと『みたいな』って言ったじゃない」
突然、二人の空気が甘くなった。
結局明美さんの中でバーボンは優しい人のまま。だけど明美さんとライが話している姿を見ていたら、明美さんがバーボンをうっかり好きになるなんて心配はただの杞憂だとわかった。バーボンに心を奪われないくらい明美さんはライのことが好きなのがわかる。
うんうん。そのまま明美さんの心を引き留めておいてよ、とライにエールを送れば、よくわからないという顔をされてしまった。