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 けほけほと肺に響くような重たい咳の音で、うたた寝から目覚めた。
 カーテンが閉まった部屋はまだ薄暗い。スマートフォンで時間を確認すると、一時間ほど寝ていたようだった。白いソファーから立ち上がって、固まった身体をほぐしていると、ベッドに寝ている愛子がぜいぜいと苦しそうに喘いだ。
 二歩ほど進み、愛子の顔にかかった水色の布団を下げ真っ赤な頬触れると、火傷しそうなほど熱かった。

 渋るジンに話をつけて研究所から愛子を引き取ったのが五日前のこと。その日の夜から愛子は体調を崩した。徐々に上がった熱はいまだに下がらず、今も高熱が続いている。
 汗でしっとりとした愛子の前髪を掻き上げて、冷却ジェルシートを貼ってやれば、ぎゅっと目を瞑ってもぞもどと身じろいだ。
 まだ起きる様子がないことを確認してから再びソファーに腰を下ろし、机の上に置いたままだった書類を手に取った。
 小さく低い机の上は堅苦しい書類やファイルで埋め尽くされ、白いソファーが僕のベッドになっている。同居するにあたって、愛子には一人部屋を与えたが高熱に浮かされる愛子を一人きりにすることはできず、ここ数日は僕も愛子の部屋で過ごしている。決して過ごしやすいとは言えないが、一瞬の間に容態が急変しかねないので目を離すことができない。常に愛子の様子を窺いつつ仕事を片付けることにも、もう慣れた。
 元々、この家に越してすぐは生活の基盤を整えるために奔走するはずだった。ソファーで睡眠を取ることよりも厳しい環境下で過ごす予定だったのだから、降って湧いた落ち着いた時間だ。



 寝息も聞こえない静寂の中、ベッドから「あの……」と、か細い声が聞こえてきた。
 顔を向けると、愛子が目元まで布団を被ってこちらを窺っていた。

「どうかしましたか? 何か飲みますか?」
「だ、だいじょうぶ、です」

 当惑の色を見せる愛子の様子に釈然としなかったが、それよりも意識がはっきりしたようで安心した。顔色も心持ちよくなっている気がする。
 今の間にお粥でも食べさせるかと立ち上がろうとしたとき、愛子が心細そうに「お母さん、どこにいるの?」と聞いてきた。
 思わぬ言葉に狼狽して、膝がデスクにぶつかって手帳がバサリと床に落ちた。

「お母さん、ですか?」
「うん。ごはん作ってるの?」

 愛子が戸を見た。その向こうに母親がいると疑ってもいない目をしている。
 その態度といい、普段より随分と幼い物言いといい、明らかに尋常ではない。
 落とした手帳と、そこから滑り落ちた写真をデスクの上に戻してからベッドに駆け寄って床に膝をついた。

「お兄ちゃんは、お父さんのおともだち?」

 そう聞く愛子の目は、澄んだ空のように透き通っている。それが、悪ふざけを言っているわけではないことを証明していた。
 いくつか脳裏で目算し、恐々と「今、何歳ですか?」と尋ねれば、愛子はぱちぱちと瞬きをして、億劫そうに布団から開いた手のひらを見せながら「ごさい」と小さな声で答えた。
 目眩がした。
 だが、これで状況がわかった。なぜだか愛子は記憶が退行している。今の愛子の中に、僕は存在していない。
 すぐに病院に連れていくべきだろうが、そうしてしまうとこの愛子の状態が組織にばれてしまう。この幼い愛子だと、組織にいいように使われかねない。これが熱による一時的な現象であることを願って、とりあえず今は様子を見るしかない。
 不安そうに僕を見つめる愛子は「おかあさん、むこう?」と再度聞き、大きな瞳はだんだん潤んでいく。赤子のあやし方なんてわからないので、泣かせないように努めて優しく声をかけた。

「僕はお父さんのお友達です。お母さんは少し用事があるそうなので僕が愛子を預かったんですよ」

 愛子は目元を和らげた。緊張がほぐれたのか、うとうとと力が抜けていく。
 そのまま寝かせてやりたいが、どうしてもこの千載一遇の好機を逃すわけにはいかない。
 一年半も調べていた愛子の出自。
 件のイタリアンマフィアは人身売買のバイヤーから愛子を買ったらしく、愛子がどこで拐われたのかさえわからなかった。当たり前のように日本の店や地理を知っていたので、日本に住んでいたのだろうけれど、会話の中からヒントを探しても記憶が曖昧なところが多いようで確然たる手がかりは見つからなかった。
 今、僕の目の前で横たわっている愛子なら、何かしらの糸口を持っているのではないだろうか。
 そう思って愛子に母親の名前を聞いたものの愛子は首を傾げるだけ。何と呼ばれているか聞いて、やっと返ってきたのは「『愛子のお母さん』って呼ばれている」という、子供にありがちな返答だった。他に住んでいる場所や特徴を聞いても要領を得ない回答ばかりで、結局今までと何も変わらなかった。
 あまつさえ、母親の話題を出したからか恋しくなったようでぐずりはじめた。

「少ししたら戻ってきますから」
「すこしってどれくらい……」
「もう一回眠って起きたら、ですよ」
「……お母さんといっしょに寝たい」
「すみません、お母さんには今は会えないんです。……でも僕が一緒にいますから」

 愛子の機嫌はよくならず、どんどん声に涙が混じっていく。もはや泣いていると言ってもいいくらい、ふえふえと声を上げている。
 普段の愛子とはまったく違う様子に戸惑ってしまう。同じ五歳でも、僕と出会ったときの愛子はもっと大人びていた。早熟だとは思っていたが、この愛子を見る限り環境がそうさせたのだろう。誘拐され、マフィアに売られ、そして助けたのもこんな組織だ。たった数ヶ月で、ここまで変わるほどの過酷な経験をしたのだと思い知った。

「お母さんのこと、大好きなんですね……」
「お母さんだけじゃないよ。お父さんもだいすき」

 目尻から一筋の涙を流しながら、愛子はふわふわと笑った。
 さっきまで泣いていたと思ったら、もう笑顔を浮かべている。呆気にとられたが、機嫌がなおってよかったと息を吐く。
 愛子の顔はまだりんごのように真っ赤だ。
 小さな額に手を当てると、僕の手が冷たいのか愛子は気持ち良さそうに目を閉じた。
 カーテンの合間から、清らかな朝日が部屋に降り注ぎ、その光は愛子の顔に当たった。
 ゆっくりと目蓋を開いた愛子は、ゆるりと目を細めて僕を見た。

「ねえ、お兄ちゃん。眠るまで手をつないでて」
「ええ。それくらいお安いご用ですよ」

 握り締めた愛子の手は、小さく柔らかい。
 愛子は再び目蓋を閉じると、ものの数秒で穏やかな寝息を立て始めた。年相応のその表情を見つめながら、「僕が、絶対にお父さんとお母さんに会わせるから」と聞こえるはずない愛子に誓った。

ヒトリヨガリ