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次に愛子が目を覚ましたときは平生の愛子に戻っており、そして記憶が退行していたときのことは覚えていなかった。寂しがっていた姿を思い出すと、それでよかったと思う。今すぐ会えない両親をまた恋しくなったら、きっとつらくなるだろうから。
そして、その早朝が峠だったらしく、それを越えてからは熱も少しずつ下がって三日経った今朝、やっと平熱まで戻った。
愛子がまだ眠っている午前八時。
僕はキッチンに立ち、ドライジンジャーを細かく刻んでいた。ケトルがグツグツと大きな音を立てて沸騰し、パチンと電源が切れた。棚からハミングブルーのラインの入ったマグカップを取り出し、刻んだドライジンジャーと蜂蜜をひと匙を落とし入れてからお湯を注ぎ込んだ。
それを左手に持って、リビングダイニングにある戸を引いて愛子の部屋に足を踏み入れた。
部屋はカーテンが閉まったままで薄暗い。足元に注意しながらマグカップを机に置き、ベッドの奥にあるカーテンを全開にした。
眩い光に、愛子はぎゅっと顔をしかめて布団にもぐりこもうとする。その素直な反応に思わず笑いが漏れてしまう。
柔らかい前髪を撫でながら愛子に声をかけていると、うっすらと目を開いた。愛子の瞳はぼんやりと宙を見たあと、ゆらゆらと揺れてから僕を見つけた。そして嫌そうな表情に変わる。
「おはようございます」
「まだ寝ててもいいんじゃないの?」
掠れた声で、至極不機嫌そうに言った。
見慣れたその反応に肩の力が抜ける。
「僕は用事があるので、家を出る前に愛子に色々と説明をしておきたかったんです」
愛子の体を起こさせ机の上に置いていたマグカップを持たせると、渋々それに口をつけた。
「実は探偵業を始めるんです」
熱を出したから伝えられなかった報告がやっとできた。
僕の言葉を聞いた愛子は、ぎょっとしてマグカップから口を離した。
「え? 組織を抜けるの?」
まん丸に目を見開いた愛子は、青ざめた顔をしている。
きっと頭の中に、今まで見た裏切り者たちの末路が浮かんでいるのだろう。だけど、それは愛子の早とちりだ。
「いえ、より多くの情報を集めるために、探偵の顔を新たに作っただけです。組織は抜けませんから安心してください」
「別に、バーボンの心配はしてないけどね!」
「……ああそれと、探偵業での僕の名前は安室透なので、覚えておいてくださいね」
あむろとおる、と舌に馴染ませるように愛子は口の中でその名前を転がした。
「うん、わかった。安室さんね」
「……ちょっと待ってください。世間的に僕は愛子の保護者という立ち位置なので、『安室さん』はいささか他人行儀すぎませんか?」
「まあ、……そう言われればそうかも」
「もう少しフランクに呼んでください」
「そんなこと言われても……」
「今まで『バーボン』だったのだから、『透』でいいんじゃないですか?」
「呼び捨てはさすがに呼びにくいよ!」
バーボンはよくて透はダメな判断基準がいまいちわからないが、本人が呼びたくないと言うのならしかたがない。
「では、透くん、なんてどうですか?」と代替案を出した。
愛子はもごもごと何か言いたげに口を動かしたあと、「じんくんは回避できたけど、今回は無理か」と、ひとりごつ。聞き捨てならない名前に、「ジンくん?」と低い声が出た。
「まさか……、ジンにそう呼ぶようにでも言われたんですか⁉」
掴みかからんばかりの勢いで尋ねると、愛子は「絶対にこういう勘違いが生まれると思ったのよ!」とマグカップを持っていない手で頭を抱えた。
「ジンがそんなこと言うわけないじゃん! バーボンの中のジンってどうなってるの⁉ そうじゃなくて、友達って言ってた人だよ。陣平っていう名前だから『陣くんって呼べよ』って言われたの!」
予期していないタイミングで出た松田の名前に、きゅっと胃が縮むような感覚を覚えた。そして、すっと頭に上っていた血も引いた。
夏ごろに愛子にできた年上の男友達が松田だと知ったのは、松田が死んだあとだった。
あの日、杯戸デパートで愛子とはぐれたあと外から大きな爆発音がしたので向かってみると、気絶した愛子が観覧車のゴンドラから救助されるところだった。僕がデパートの中で聞いた爆発音は、三度目の観覧車の頂点のゴンドラを吹き飛ばした大規模なものだったのだ。
警察から愛子を引き取るときに、愛子は一度目の小規模爆発のときに友達を助けるために爆弾が仕掛けられた隣のゴンドラに忍び込んだこと、そしてその友達とは松田陣平であることを告げられた。なんでも、松田が最期に地上で待機している警察官に電話をしたときに、隣のゴンドラに乗った愛子の保護を頼んだそうだ。おかげでゴンドラの床でうずくまっていた小さな愛子の存在が無視されずに最優先で救助された。
僕が気づいたのはすべてが終わったあと。愛子が友達を助けられずに傷つき、松田は死んだあとだった。
今まで任務で関わってきたやつらとは違い、友達だった松田の死を愛子はうまく処理できずにいる。それでも、こうして松田の思い出を僕に話してくれるほどまで整理がついたようだ。
「それで話を戻しますが、愛子の熱も下がったので今日から安室透として探偵業を開始します。依頼主と会って打ち合わせするだけですが」
「ああ、なるほど。それで私は留守番ってわけね」
愛子はすぐに納得して「わかったよ」と頷いた。
僕も愛子が一人で家にいることに不安はないが、体調のことだけが気がかりで一時間に一度は僕のスマートフォンに連絡を入れることを約束させた。愛子の顔には、めんどくさいと顔に書かれているけれど、これだけ言えば大丈夫だろう。
その後、再びベッドに横になった愛子は、にやりと楽しげな表情をして僕を見上げた。
「ねえ、探偵ってどんなことするの? 暗号解読? 不気味な館にまつわる謎を解き明かすとか?」
「探偵なんて人やペット探しとか浮気調査が主な仕事ですよ。今日の依頼もそういうところです」
なーんだ、と愛子はつまらなさそうに唇を尖らせて天井を見た。
そうそう難解な事件が降ってくるわけではない。
それに僕には組織で利用できる情報を持っていそうな人物に接近するという目的があるのだから、小説やドラマのように近づいた人間が次々に事件に巻き込まれて死んでしまっては何の情報も得られない。探偵業をする意味がなくなってしまう。
だけど、フィクションの世界に憧れる愛子の姿は子供らしくて微笑ましい。
「まあ、もし何か愛子が好きそうな事件があれば教えてあげますね」
「そのときは連れて行ってね!」
「ええ。愛子の体調さえよければ」
ムスッとした顔をした愛子を見てまた笑ったあと、家を出る時間になったので愛子を寝かしつけてから家を出た。
白い息が長く空中に留まる春寒の朝。しかし暖かな部屋と、元気になった愛子のころころと変わる表情を思い出すと不思議と身体が冷えることはなかった。
愛子が松田のことに対して吹っ切れたわけではないということを知ったのは、それからしばらくしてのことだった。