「春音はいつボーダーを辞めるのかな」
「ま、まだ辞めないかな……」
最近、クリス君の口癖は私がいつボーダーを辞めるかという問い掛けになりつつある。私はその言葉に苦笑いを浮かべて、やんわりと彼の言葉を拒絶した。
寂しげな笑みを浮かべる彼に、ズキズキと胸が痛む。……ひどい女だと思う。自分でもそう思うのだから、彼から見た私は相当ひどい女なのだろう。不満そうに唇を尖らせて、それでも優しく抱き締めてくれる腕が愛おしい。
一回りとはいかずとも、片手以上歳の離れた彼を身近に感じられるひとときは、私にとってかけがえのないものだった。
「本当は、今すぐにでも辞めて欲しいんだよ」
「……うん。わかってます」
口から出た言葉は薄っぺらなのもだった。私は選ばれてしまった。逃げ出せば良かったのに、戻れないと知りつつも足を止めなかったのは、自分が優しい籠の中で守られていた記憶があったからだ。
私は、第一次侵攻と呼ばれるそれの被害を直接受けたわけではない。けれど、あの日起きた地獄≠ニ呼ぶにふさわしい出来事によって、幾人もの人々が消えたことを知っている。
当たり前のように自分にできることはないかと考えた。考えた末に見つけた答えが、界境防衛機関――『ボーダー』と呼ばれる組織に入隊することだった。
人よりも体力がないことが不安ではあったけど、結果は合格で、私は隊員として入隊することができた。それが四年前――私はその頃、卒業式を少し先に控えていた小学生だった。
私の行動を両親は反対することも咎めることもなかった。渋い顔をしていたとは思うけれど、仕方ないなあといった微笑みを浮かべながら、「春音がやりたいことを見つけられたのが一番嬉しいですから」と言われたことが今も耳に残っている。
「クリス君が……クリス君の会社がボーダーのスポンサーになってくれたお陰で助かってるって、根付さんが言ってたよ」
「それで春音が休めるならなった甲斐があったよ」
でもね――と付け加えられた言葉に、心臓をぎゅっと握り締められたような感覚が襲う。クリス君は優しい人だ。いつも私が傷付かない道を用意してくれている。きっと私が望めば、彼は私を遠い場所へ連れて行ってくれるのだろう。全てを捨てて、彼の腕のなか、優しい檻の中で眠れたらどれだけ幸せだろう。そこまで考えて、自分の弱さを再認識してはまた笑う。
私はもう戻れない場所まで来てしまった。この体が保つ限り、私はボーダーを辞めることはできない。私の持つ黒トリガーの適合者がわたししかいない限り、誰かが私が意思を曲げてくれでもしない限り、私は平和で安全な世界へは戻れない。
「高校を卒業したら、二人で旅行に行きたいな」
「ああ。そうだね――でもその前に、式場を探さないと。約束しただろう?」
よしよしと頭を撫でられる感触が心地好い。すりすりと無意識に彼の肩に凭れるようにして頭を擦り付ければ、クリス君は嬉しそうに目を細め、優しい声で私に告げる。
「そうだね、そうだった。……ふふ、楽しみだなぁ、楽しいことがたくさん待ってる」
「春音が望むなら、僕はいくらでも手を貸すよ。……だから春音、一人で抱え込まないで。僕がついてるんだから、何でも言って」
「……ん。クリス君が味方で、本当によかった」
優しい籠の中で守られていた記憶は、疲れ果てて深い奈落へと落ちていった私を支え続けてくれた。――私をあの籠の中に入れて守り続けてくれたのは、貴方だけだった。
「好きだよ、春音」
私も、クリスが好きだよ。
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