人気のない休憩室で、東春秋は一人コーヒーを飲んでいた。隊でのミーティングを終え、狙撃手の合同訓練まで時間があるので、その間の暇潰しも兼ねてだ。
何時も通りコーヒーを飲み終えたら訓練場へ行くつもりで、この後の予定を頭の中で組み立てていた、そんな時だった。

「……あ、東さん」

ちょっと良いですか、と声をかけてきた少女の姿に、東は目を見開き、驚きの表情を浮かべた。

「牧瀬? どうした、そっちから声をかけてくるなんて珍しいな」

「いえ、その……えっと、」

「あー、立ったままもあれだし、座ったらどうだ?」

「……あ、はい、じゃあ、お言葉に甘えて」

少し気まずげな牧瀬は、ぎこちないながらもスペースを空けた東の隣に座った。微妙な沈黙の間にやや居心地の悪さを感じなくもない――が、それ以上に疎遠になっていた数少ない同期と会話ができる喜びが勝ったのだ。

「で、どうしたんだ?」

「……その、この前まで戦闘員に居た、クリストフ君のこと、なんですけど」

控えめな声色で、少女の口から紡がれたのは、最近何度か聞いた名前だった。

「クリストフ――ああ、あの金髪の。確か技術者に配属先が変わった」

「はい。それでその、……戦闘員の間で、彼に関する噂が色々蔓延ってるとお聞きして」

「……あー、あれか。ウチの隊員が言ってたな」

確か、新しくB級になった物凄いイケメンの戦闘員が男にしか興味がない、とか、俗に言うホモだとかとか。本人と話したことがないので真偽のほどは分からないが、一人ぽつんとしている姿を見かけて、気の毒なと思ったことがある。

それがどうかしたのか――そう口を開く前に、牧瀬が悲しげな顔で、違うんです、と呟いた。

「違うんです、彼は――クリス君は、至って普通の男の子で、」

「……牧瀬?」

「優しい人だから、その、私に気を使ってくれて、あの噂だって、全部全部嘘っぱちで、デタラメで、」

「ちょ、ちょっと待ってくれるか? 落ち着け牧瀬、牧瀬」


「――わ、私と付き合ってるからって、女の子の居るチームと組んだら私に不義理だからって、避けようとしてくれただけなんです……!」

まるで、雷が落ちたような衝撃を受けた気分だった。

息を荒くしながら、やや興奮した状態で言い切った牧瀬は、色白な顔を真っ赤に染め上げて、ぎゅうとスカートの裾を両手で握り締める。ぐっと下唇を噛んで羞恥に耐える姿は見ている此方が罪悪感を感じるほどで――同時に、どうしたものかと頭を抱えたいと思った。


「えっ、あのイケメンってマキちゃんの彼氏だったの?」

馬鹿野郎、と呑気に声をあげた男を罵倒したくなったのは初めてだ。石のように固まって、それからおそるおそる顔をあげ、赤くなっていた顔がどんどん白くなっていく牧瀬が気の毒でならない。

「な、え、」

へえ、と呑気に声をあげるもさもさした髪の男。たった今まで東と牧瀬の二人きりだったはずの休憩室に、私服姿の太刀川が居た。声にならない声で悲鳴をあげて、牧瀬がバッと自分を見る。泣きそうな少女の顔に、罪悪感で胸が痛んだ。

「いやー、いいこと聞いたな。まさかあのマキちゃんに彼氏ができたとは」

事態は最悪であった。わなわなと震える牧瀬の姿など目にも入らないのか、お兄さんぶった顔で腕を組み、うんうんと頷きながらにやつく太刀川にはとりあえず黙っていろと言いたい。

「太刀川、この話、周りに言い触らすなよ」

「え、なんで? 言っときゃいいじゃん、そしたら変な噂も消えるだろ」

「あのなぁ……」

牧瀬が何故東に言ったのか、それは東が牧瀬と同期であり、数少ない信頼できる人だからだ。
牧瀬はボーダーでも三人しかいない黒トリガーの持ち主だ。故に彼女はチームに入ることも、ランク戦に関わることもない。黒トリガー持ちは自動的にS級隊員となるからである。

黒トリガー持ちの牧瀬と、不名誉な噂によって配属先が変わった元B級戦闘員の少年が付き合っている。
そんな話が広まったものなら、また根も葉もないろくでもない噂が出かねない。しかし、恋人の不名誉な噂は放ってはおけない――そう思い、B級の隊員へ顔が利く、年長者である自分を頼ってきたのだろう。東自身、B級の中では発信力がある自覚があるし、その自分が件の噂について一蹴すれば、蔓延る噂も沈静化することだろう。

「お前が言い触らしたら面倒なことになるからだ。A級一位の自覚を持て」

「そんなことないって、俺くらい真面目な男もそうそう居ねーよ?」

どの口がそんなことを言うのか。溜息を吐きながら口を開きかけて――先程から何も喋らない牧瀬の姿を見て、背筋が凍るような感覚に襲われた。

「……こ、ころす……」

いつの間にかトリオン体に換装していた牧瀬が、目尻に涙を浮かべながら太刀川を睨んでいた。片手に弧月を携えて。おそらく負担の少ない玉狛製のトリガーだろう。
完全に殺る気に満ち溢れている。えっ、と声を漏らして口許を引きつらせた太刀川に御愁傷様と呟き、コーヒーを飲み干してゴミ箱に空き缶を放り込む。よっこらせと立ち上がり、怒りに震える牧瀬の頭を軽く撫でて、噂はどうにかしておくと声をかける。

「東さん……」

「だから太刀川は任せたぞ、牧瀬」

「ちょっ、東さん!?」

泣き笑いのような笑みを浮かべ、お礼の言葉を述べる牧瀬に気にするなと応え、東は休憩室を後にした。これから始まるであろう牧瀬と太刀川の闘いに――主に本気でキレた牧瀬の八つ当たりに――水を差すのは野暮である。

(久しぶりに騒がしくなりそうだ)

そう思いながら携帯を取りだし、ロビーに居るであろう後輩に電話をかけ、東は人知れず笑みを浮かべるのだった。





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