書きたいとこ
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目の前で流れる“過去”に、今ほどそう思わずには居られなかった。
「いや……やめて……やだあぁぁぁっ」
暗闇の中に悲鳴が響き渡る。
嗚咽、慟哭、許しを乞いながら痛みに絶叫し、恐怖に泣き喚く少女の声。
――それが妹のものだと気づくのに、時間は要らなかった。
幼い妹は、冷たい地面の上に横たわっていた。傷一つ無かった白磁の肌には幾重もの赤いミミズ腫れがあり、細い腕には無理矢理刺したような管が幾つも繋がれ、それが動きを制限している。
母に毎朝結ってもらっていた髪は解けて乱れ、頬は打たれたのか赤黒く腫れて痛々しい。唇の端に滲んだ血が生々しく、うつろな瞳ははらはらと涙を流していた。
「いい子だねえ、彩永ちゃん」
どこからか、高くもなく低くもなく、けれどどこか怖気のするような声が暗闇に響く。
「ひっ……」
「ああ、そんなに怯えないでおくれ」
声に怯えるように体を震わせた妹の側には、いつの間にか男が立っていた。
男は屈んで、震えている彩永の顎を掴み、無理矢理上を向かせた。虚空を見ていた瞳は現実に引き戻され、一気に恐怖に染まっていく。
「もう少しで終わるから、頑張ろうねぇ」
「……まま……おにいちゃ……うう……」
「あぁ、駄目だよ泣いたら。疲れてしまうでしょう」
幼い子供を諭すような口調なのに、涙を拭う仕草は乱雑だ。男は、泣き止まない彩永の顔を暫し見つめ、「そうだ!」と楽しそうな声で言った。
「今日は、とても楽しいことをしよう」
「たのしい、こと……?」
「そう、楽しいこと」
男がにっこりと笑みを浮かべた。
「とても楽しくて、いつまでも忘れられないようなことだよ」
「な、にを――ひっ!」
おもむろに、男は彩永の服を無理矢理開いた。留められていたボタンがブチブチと引きちぎれる音が響く。悲鳴を上げながら必死に身を捩らせる彩永の抵抗虚しく、男は無遠慮に服を剥いていく。
そして露わになった剥き出しの肌に手を滑らせ――ぐっと重なり合うように覆い被さった。
「いや! やめてっ、はなして!」
「さあ、力を抜いて。優しくしてあげるから……」
「いや……いや、やだ、たすけて、いや、いたいのがまんするから、これはやだぁぁぁ!」
その姿は、鮮明には見えなかったけど。
悲鳴混じりの妹の泣き声と男の喜悦にまみれた心地良さげな声が対称的で、闇の中に響く水のような音が、この男が妹に何をしているのか言外に表していた。
「……けて……たすけ……」
闇の中には、彩永の助けを求める声が木霊していた。
「彩永ちゃんを返せ」
血走った目で、琴子は男を睨んでいた。片手に持つアイスピックを持つ手は力を込めすぎて白く、どれだけの怒りと殺意を滲ませているのかを如実に語っている。
「まあまあ、落ち着いて。可愛い顔が台無しだよ……っと、」
「返せ! 彩永ちゃんを返して!」
男に突進した琴子は、アイスピックを片手に襲いかかった。ナイフを振るうかのように機敏に動き、男の隙を突こうと必死に食らいつく。「こわいこわい」と、男は口元に笑みを浮かべたままその攻撃を避け続けている。
「返してよっ、私の大切な友達、返してよ!」
「……健気だねえ」
男はどこか感心したように呟く。
そして必死に攻撃してきた琴子の腕を掴んで――空いた手で、胸を穿った。
いとも容易く、やわらかなゼリーをスプーンで掬うかのように、ぶすりと、男の手は少女の胸を貫いていた。
「あ……」
「でも、まだ子供だ」
ごぽっ、と口から血が溢れ出す。
穿った手を抜き、受け身を取ることもできなかった小さな身体は地面に叩きつけられ――男の影から伸びた黒い刃が、容赦無く胸を貫いていく。
地面には、赤色の海が広がっていた。
「彩永……ちゃん……」
血溜まりに沈む少女と、その側にしゃがみ込んで少女を見下ろす男。
その男の顔立ちは、あまりにも見覚えがありすぎて――后は思わず近くに立っていたその男とよく似た顔の存在――異母弟である言を見てしまった。言自身も、呆然とした顔でその男を見ている。
(一体、何がどうなってんだよ……っ)
視線を過去に戻す。
血溜まりに沈んでいる彼女――琴子の姿はまだ幼く、そしてこの服装は、妹が行方不明になった時のものだ。
胸にはぽっかりと大きな穴が空き、息も絶え絶えの状態なのに、その目は虚空を見ながら行方の知れない親友を探していた。瞳からは涙が伝い、青白い唇からは咳き込んだ際に溢れた血がこびり付いている。
いつ死んでもおかしくない、なぜ死んでないのかわからない、そんな姿だった。
「か、えせ……わたしの……たいせつな……とも……だち……」
「すごいね、まだ喋る力があるのか」
「か……えせ……」
呑気な声を出す男とは対称的に琴子の目はギラギラと鋭い獣のような瞳で、文字通り血を吐きながら声を絞り出している。
「君にひとつ、いいものをあげよう」
そう言って、男は靴先で地面を軽く叩いた。
すると、地面に広がった血液がまるで命があるかのように蠢き出し――たぷたぷと揺れるスライムのような血の塊が、琴子の胸に大きく空いた空洞の中に収まった。
「きみは耐えられるかなぁ」
まるで子供のような無邪気な声と共に、琴子の瞳が黒く染まっていく。
白目が消え、目そのものが空洞になってしまったかのような――そんな状態から、男はにんまりと笑って、片膝をついて琴子の上半身を抱き起こす。
「楽しみだよ。いずれその時が来たとき、君がどうするのか」
そう言って、男は琴子の唇を自分の唇で塞いだ。
瞳を大きく見開き、ビクビクと激しく痙攣する琴子の体をきつく抱きしめながら、男は後頭部を押さえて深く口付ける。そうして幾ばくかの時が過ぎ――ぐったりと動かなくなった琴子の体を地面に横たえさせ、男は立ち上がった。
「またね、琴子ちゃん」
軽やかな足取りで男が去っていく。
残された琴子の体は血の跡も傷一つもない、まっさらな状態だった。
悪夢のような回想が終わり、ただ闇が后達を包んでいる。
その場の空気は最悪だった。誰も彼もが黙りこみ、会話もできる雰囲気ではない。――妹達の隠された過去を暴いてしまったことに、その内容の凄惨さは、誰の予想もつかないものだった。
「やっと、分かった……」
ぽつりと、后が呟く。
側では共に二人の過去を見せられていた晴明や式神――特に甘雨が心配そうな表情で后を見ていた。
「ずっと考えてたんだ。琴子の言葉……彩永が何であんなに怯えていたのか、オヤジや言を、絶対に受け入れられないって……琴子が辛そうな、苦しそうな声で言ってた言葉の意味が」
「……后」
「こういう、事だったんだな。もっと早く気づいてやれば良かった。ははっ、当たり前だよなぁ……怖くて、苦しくて仕方なかったよなぁ……だって、」
「后様」
「だって、自分を犯した奴と瓜二つな人間が、父親だって、腹違いの兄貴だって、目の前に現れたら……っ!!」
悲鳴じみた声と共に、后は膝から崩れ落ちた。即座に甘雨や華達が駆け寄り、両手で顔を覆い嗚咽を漏らす后に必死に声をかける。
后の体からは急激に陽の気が溢れ――身の内で暴力的なまでに膨れ上がっていた。
「我が皇子、気を確かに……!」
「后、落ち着け、なっ? 力を暴走させたら、それこそ彩永も琴子も悲しむ!」
「何も気付いてやれなかったっ、何も、全然知らずに、守るなんて大口叩いて、当たり前だと思って……っ」
身体の内が燃えるように熱い。息をするたび、肺が痛いほど熱い。煮えたぎるマグマはこんな風に熱いのだろうか。幼馴染が……琴子がずっと一人抱えていた怒りは、こんな感じなのだろうか。
――いや、きっともっと燃えるように熱いのだろう。
熱くて痛くて仕方なくて……そんな痛みを伴ってでも、妹の側を離れなかった琴子こそ、彩永にとって唯一の救いだった。兄である自分よりも深く結び付いた二人――結び付かないと、生きていられなかった二人。
二人に今すぐ会いたい。そして力強く抱き締めて、何度でも言ってやりたかった。『もう大丈夫』『よく頑張ったな、これからはずっと守るから』と、そう言ってあげたかった。
そんなことを言う資格なんて、自分には無いのに。
「ごめん、ごめんな、彩永、ごめんな、琴子! 助けてやれなくて、守ってあげられなくて、ずっと気付いてやれなくてごめんなぁ……! っあ、」
「――失礼します、后様」
陽の気がはち切れんばかりに膨れ上がった瞬間、晴明は己の守るべき主に手刀を喰らわせた。そのまま意識を落とした后を抱え、立ち上がる。
普段なら文句をつける筈の甘雨も、怒りを見せる筈の言も何も言わなかった。言に関しては、過去の映像を見てから呆然と立ち尽くしたままだ。
「帰りますよ、これ以上は后様の心が保たない」
鷹継家の一室で並んで眠る妹と幼馴染は、とても穏やかな顔をしていた。
二人とも体中切り傷などでぼろぼろではあるが、破ができる限り治癒をしたこともあり、最悪の状態からは脱している。あとは鷹継家秘伝の軟膏と、本人達の治癒能力に任せるしかない。
手を繋ぎながら眠る姿は幼い子供のようで、せめて夢の中でだけは――そう祈らずにはいられない。
「彩永様は一体、どれだけの恐怖を抱えて生きてこられたのか……」
「きっと琴子が居なきゃ、とっくに駄目になってただろ。琴子も、彩永が居なきゃ、きっと」
「お互いがお互いを支えにしなければ生きていられなかった……ということですね」
甘雨の言葉に、破は悲しげに呟いた。
「我が皇女をお守りできなかったこと、あの時から式神として一生の不覚と思っていたが――今日改めて、己の無力さを思い知った」
下唇を噛んで必死に平静を保とうとする水終。
そんな姿を横目に、霧砂は側に立つ晴明に目を向けた。
「……晴明、闇皇様になんと報告するつもりだ」
「ありのままの事実を。ここまで決定的なものを見せれば、さしもの闇皇様も彩永様に接触するのは諦めざるを得まい」
「……あの闇皇様が、それで止まると?」
「止まる。……そしておそらく、この事実を比紗様も知っているだろう」
「何……?」
「比紗様は、娘が拐われたとき何をされたのかご存知だ。それに加え、闇世界の人間と出会ったことで呪いが部分的に解けた琴子殿が、犯人が闇皇様と瓜二つであった事実を伝えないはずがない。……誰よりも早く伝えなければならないことだろうからな」
「誰よりも我が子を愛する母である比紗様に伝えれば、きっと闇皇様や葵の皇子が近づくことを許さないと思ったのか。しかし……想定外があった」
「そう。后様のお人好し具合が想定を上回ったこと、そして」
「后様が闇皇になると決心なさったこと、か。……愛する妹を思い決めたことが、その妹を苦しめることになるとは、なんと悲運な……」
沈痛な面持ちで霧砂が呟く。晴明はその言葉にただ目を伏せるだけだった。
「弥早が言ってた。ふたりの星が動くとき、誰も彼もの目を掻い潜ってきた常闇もまた動き出すって。その通りだったよ」
「甘雨……」
「一体、アイツは誰なんだ? 闇皇様や主神言殿によく似た、あの得体の知れない生き物は――」
闇世界のものだということは分かる。けど、闇世界の人間であるかと訊かれれば、是とも否とも言えない。
人の皮は被っている。闇皇と瓜二つの顔立ちで、だけどその中身は人間のそれではないと本能が訴える。
「瑞宮、役小角殿はご存知なのか?」
「今、楔が報告しに行ってるよ。これは大問題になるだろうね――闇皇に瓜二つの誰かに、それに襲われたオモテの皇女。明らかに闇世界の存在なのに気付けなかった式神達、そして闇世界に居ながらそれを見逃してしまった闇皇様自身にとっても……誰にとっても」
目を伏せる姿は、どこか自分を責めてるようにも見えた。
瑞宮は、彩永に后に向けるような殺意を向けることは無い。それどころか、彩永の前では比紗の前でのように終始『幼馴染の瑞宮くん』として振る舞っている。
その理由を誰も深くは知らないが――瑞宮なりに、思うことがあるのだろう。
「もう、いいから……」
「……彩永?」
「私は、もう大丈夫だから……失うものは、もう何もないから……だから、お兄ちゃんは、お兄ちゃんの為に生きてほしい」
そう言って、彩永は淡く微笑んだ。
対して、后の顔色はどんどん悪くなっていく。
「彩永、なあ、何言って」
「私ならもう大丈夫。これが初めてじゃないもん。二度もされたら、もう怖くもなんともないよ。私には琴子ちゃんがいてくれた。これ以上望むのは欲張りになってしまう」
「違う、そうじゃない、お前、今何見てるんだ? オレの言葉は通じてないのか? なあ、彩永!」
「后っ、落ち着き!」
母が窘めるが、その言葉を聞き入れる余裕は無い。妹の両肩を掴み、何度も声をかける。それでも妹はただ微笑んでいるだけだ。
――どうして、伝わらない?
「オレは、今もっ、これからも、彩永の兄ちゃんだ! オレの妹は、彩永だけだ……!」
「うん。ありがとう、そう言ってくれるだけで、私はもう大丈夫だよ」
全てを諦めたような目をしていた。そうして思い知らされる。自分が妹に、どれだけ残酷なことをしてしまったのか――悲しい選択をさせてしまったことに。
「まー、お陰様で下半身風呂に入るたび痛くて仕方ないですけど。死んでないので結果オーライ、ってやつです」
ふふん、と胸を張る琴子の姿は、その怪我に対して痛みなど一つも感じていないようだった。
「こっちは胸にでっかい風穴空けられてるし、今更裂傷くらいで痛いも何も」
服を開いて露わになった琴子の胸には、大きな瘡蓋のようなものができていた。少女の青白い肌のど真ん中にあることで、その傷が異様なものだと言外に示している。
「その、傷は……」
「たぶん、ずっと隠されてたものが露わになったから見えるようになったんじゃないかな。お陰様で私のポテンシャルもだいぶ上方修正されてるし」
「痛みは?」
「無いねえ。たまにかゆいから掻こうとしたら血が出るから駄目だってキレられるし……」
「嫁入り前の乙女に傷を残すなんて俺が許さん! 犯人は百回殺す! 天に代わって俺が殺す!」
「はいはい、次これ潰すんでしょうか?」
「うむ。俺はこれを潰したら他のと混ぜてガーゼで抽出して宵の草に漬けて……あと軟膏と混ぜてしまえば第一弾はできるっ!」
「はーい、ちゃっちゃかやりましょうねー」
怒り狂いながらも手は止めない作務衣姿の青年を、合いの手を入れながら弥早がサポートしている。
知らない顔ではあるが、曰く『いつもの軟膏作ってくれてる薬師の親戚』ということなので、薬については全てその青年に任せることにした。時折破が訪れ、三人で何か話しているようだった。
破が弥早に鷹継家が栽培している稀少な薬草について話しているのを知ってるので、おそらくその話だろう。
それはまるで、夜更けの空のような。朝を迎えることを忘れてしまったかのような、深い常闇。これまで自分が暮らしていた闇世界のような、仄暗い色の目をしていた。
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