狼少女 2

コード:WHFJ-003
(W=ウルフ・H=ヒューマン・F=フィメール(女)・J=ジャパニーズ)
(番号は現時点で生存されているとされる実験体の数)
ロウ
出力する言語と一部の思考に制限がかかっているだけで、中身は年相応に成熟した部分もある。
しかし、外界から隔絶された研究所育ちのため基本的に無知な部分が多く、お兄さん達の対極的な考察は両方当たっているし、唐突に思える行動もちゃんと理由がある。
この度あたたかい水に浸かるとふわふわするということを覚えた。

通りすがりのおねえさん
人様のご迷惑にならないよう、深夜の時間帯に廃ビルを狙って飛んでただけなのに、どこからともなく現れたバナナの皮を踏んでしまうアクシデントにより空中にて5回転アクセル、プラス膝蹴りを決めてしまった。結果的にスコッチの命を救ったなにも知らないMVP。
ちょっとしたメモ:体の一部と引き換えに初恋の男の命を救ったうえ恋も成就させた。


【幕間:彼がいかにして逃げ延びたか】


(悪いな、ゼロ……)

 今頃必死に自分を捜してくれているであろう親友に心の中で詫びを入れながら、スコッチはライに接近した際奪い取った銃の銃口を、自身の胸に押し付けた。
 この端末だけは、自分が地獄に持っていかなければならないのだ。命に代えても、自分たちが警察――公安からの潜入捜査管であると「組織」にバレるわけにはいかなかった。
 緊張状態に自然と呼吸が浅くなる。
 悔いがあるとすれば、組織に飼われている、人体実験の被検体である幼い彼女に外の世界を見せてあげたかったということだろうか。欲を言うなら、公安で保護し、助けてあげたかったとも。

(……いや、)

 ――うんとかわいい盛りなのにもったいないね。
 別の事件で警察学校の同期と再会したとき、彼ら伝いにかの有名な「第六感の女」と呼ばれる女性からだと受け取った言葉。その意味が今になってわかってしまって、更に苦い気持ちが広がる。
 警察官でもなんでもない、ただの「諸伏景光」として思い残すことがあるのなら、できることなら最期に――そこまで考えて、時間がないのだと意識を現実に引きずり戻す。心臓が早鐘を打つ。引き金に触れ、覚悟を決める。

「待て、スコッチ」

 引き金を引こうとした瞬間、拳銃を掴まれた。
 もう駄目だ。絶望感が胸に広がる中、追手であるはずのライに自分は味方だと言われ眉を顰めた。
 唐突なその発言は、おいそれと受け入れられるようなものではなかった。言葉だけならどうとでも言える。口先だけでそう言って、油断したところを襲われる可能性だって十分にある。警戒を解かないスコッチに対し、ライは自身をFBIからの潜入捜査管――赤井秀一だと名乗りを上げた。
 自分はスコッチ達と同じく、この「組織」に噛みつこうとしている犬の一人だと。

(信じても良いのか……?)

 もし、もしも、いや、でも、混乱した状態の中、カンカンカンと階段を上る音が耳に届く。
 新たな追手の存在に、収まりかけていた緊張感が再度訪れる。もはや考える暇はない――掴まれた拳銃を引き剥がし、引き金を無理矢理引こうとした瞬間だった。

「――きゃっ! ごめんなさいっ」

 メキョッ、と。

 擬音をつけるなら、きっとそんな音がしていたと思う。
 音と同時に、ライの頭部にものすごい勢いで何者かの膝蹴りが決まった。「グアッ!?」声と共に地面にめり込むライ。スローモーションのように崩れ落ちる姿を視界に収めながら、スコッチの意識は膝蹴りを決めた人物へと向けられている。

 彼の頭に膝蹴りを決めた犯人は、それを踏み台にし、華麗に空中一回転。そして、しなやかな動きで着地してみせた。「やってしまった」と言わんばかりに口元に手を当て、地に伏したライを見下ろす小さな人影。
 声の主は、この廃ビルにとてもそぐわない、あどけない声で呟いた。

「まあ……大変だ……リハビリで滑ってただけなのにとんでもないところにバナナの皮が落ちてて……こんな伽藍堂のビル群にバナナの皮なんてありえないじゃない……誰かストーキングとかしてるときに夜食で食べたのかしら……ゴミを不法投棄なんて悪い人……えっうそこの人しん……いや生きてる……あっ、そっちのお兄さんは大丈夫ですか?」
「あ、ああ。大丈夫だよ。君のそれは……エア・トレック? ……君、暴風族(ストーム・ライダー)なのか?」

 動揺しているのか、自分自身を落ち着けるように経緯をつぶやきながら、おろおろとライを観察している――乱入してきた人物は、まだ年若そうな女だった。
 なんとなく、まだ未成年か成人したばかりの気がする。スコッチ、否、諸伏の「警察」としての勘がそう叫んでいた。この勘が当たっているとすれば時間的に補導モノなのだが、いかんせん、そもそも「今」の彼は組織の脱走者である。

「あっ。いえ、ちがいます。私はもともと、争いごとは得意ではないので……」

 彼女は言いながら両手を上げて、首を横に振る。反射するタイプのゴーグルのおかげで顔立ちまではわからなかったが、オーバーサイズの男物のジャケットに包まれた体は、華奢で脆そうな印象を受ける。
 しかしその脚が纏うのは、明らかに『靴』というには硬質で、凶悪さのある物騒な形をしていた。自然と狭まった選択肢からそれっぽいものを挙げてみたのだが、どうやら半分正解、半分不正解という感じのようだった。
 だとしても、問題は問題だ。

「駄目じゃないか! こんな時間帯に女性が一人で――というか、マル風Gメンに見つかったらただじゃ済まないぞ!?」
「ええ、まあ……だから人気のない廃ビルを選んで走っていたんですけど」

 強めの声で窘めたスコッチに、女性が困った様子で答える。

「まさかこのご時世に、本物の拳銃持った修羅場に鉢合わせるなんて思ってなくて……」

 私も運がないみたいです。呟く声は、困惑が強く滲んでいた。
 A.T(エア・トレック)――『インラインスケート』といえばかわいく聞こえるが、その性能は凄まじく、いとも簡単に原付バイク以上のスピードが出る代物だ。
 ある意味最先端の科学技術を詰め込まれたそれは、それなりに値段が張るはずなのだが、今や世界的に、それも老若男女問わず普及しつつある。
 日本も例外ではなく、近年ではA.Tを使ったスポーツ競技のプロリーグまで発足されたほどである。
 しかし、強すぎる影響力は、負の側面にも肥大化していった。

 A.Tを使い、空を駆ける者達――暴風族と呼ばれる彼らは、その大半は実質的に暴走族のようなものに近く、彼らの起こすバトルなどでは死傷者も発生し、それを取り締まるための新法まで制定された。
 そしてマル風Gメンといえば、そんなライダー達を取り締まるのが主な仕事だ。その部署は、とても警察官とは思えない恐ろしい室長が率いることで有名だ。
 彼らに見つかれば、女性といえどただでは済まない可能性の方が高い。
 だが、両手を上げたまま、途方に暮れる姿に罪悪感が湧かないかといえば嘘になる。

「いや、うん……拳銃に関しては申し訳ないとは……」
「……でも、悪いことばかりではないようだったみたい」

 ふと、彼女が呟く。長い黒髪が風に靡き、夜空に広がる。不覚にも、彼はその光景を「綺麗だ」と思ってしまった。
 ――階段を上ってくる追手のことを、一時、忘れてしまうほどに。

「無事かっ、スコッチ! ……はっ?」
「ゼロ!?」
「お知り合いですか?」
「君は――ちょっと待て。それはエア・トレック……?」

 追手かと思った相手は、同じく公安から潜入した、『バーボン』というコードネームを与えられている諸伏の親友だった。
 彼はライが地面に沈み、年若い女性が居るという状況にぽかんとした顔を見せた。気持ちはわかる。なんせ、自分も同じような気持ちなのだから。
 そんな状態でも現状を把握しようと、スコッチのそばに立っていた少女の足元を見たバーボンの――降谷の目が吊り上がる。

 数年前、暴飛靴新法が施行されてからエア・トレックを市街で使うライダーへの取り締まりは厳しくなっている。
 潜入捜査している身とはいえ、元は市民の平和を守る警官。まして一際この国を愛する降谷にとって、場合によって死者や怪我人が続出するライダーはあまりお目溢ししてやることはできないのだろう。
 それをいち早く察知したスコッチはバーボンの前に身を乗り出し、女性を背に隠した。

「待て、ゼロ! 彼女のお陰で、俺は九死に一生を得たんだ……ライダーではないと本人も言っていたし、マル風に捕まったらかわいそうだ。今回は見逃してやってくれ、頼む!」
「ヒロ、気持ちはわかるが、彼女は――」
「あの、お兄さん。私のことより、はやく逃げないといけないのでは……?」

 どうにか本業のスイッチが入りかけている幼馴染を宥めていると、背後から控えめな、しかし真っ当な指摘が飛んでくる。『あ』と、スコッチとバーボンの声が重なる。
 微妙な沈黙の中、小さく笑う声が聞こえてきて、羞恥で頬が熱くなった。そして地面を蹴る音と、金属に何かがぶつかったような音が響く。

 振り返ると、背に隠していたはずの彼女は、いつの間にか手すりの上に器用に立っていた。

「……ルールを守らなかったのは、ほんとうにごめんなさい。けれど、よくわからないけれど、結果的にお兄さんの危ないところを助けられたようので、今回はどうか見逃してほしいです。……理由は知りませんが、どうか、無事に逃げ切ってくださいね」

 初対面の方とはいえ、死なれたら寝覚めがわるいです。ゴーグルでどんな表情を浮かべているのか、二人にはわからない。しかし、薄く三日月型になったくちびるが、その柔らかな声色が、心の底から案じてくれているのだと伝わってくる。
 では、と視線を外す彼女に、咄嗟に声をかける。

「君の――君の、名前は?」
「……わたし?」

 月明かりがスポットライトのようになって、華奢な身体を照らす。

「名乗るほどでもない、ただの通りすがり……ですよ」

 彼女は言葉とともに宙に舞い、闇夜へと消えた。

  6

「ぐっすりやなあ」

 言いながら、白石はロウの頬を優しくつついた。ぷうぷう寝息を立てている口が、つつかれたことでむにゃむにゃまごつく。愛くるしいその姿に、荒んでいた心が癒やされていくのがわかった。
 食事を終えたロウは、疲れが出たのか、今はぐっすりと眠っている。ソファの上、ちいさく丸まって眠る姿はまるで生まれたての子犬のようで、大人たちの庇護欲は掻き立てられるばかりである。
 眠る少女の小さな手は、仁王の指を柔く握っていた。

「……ええなあ、仁王くん。代わってや」

 寝顔を笑顔で眺めていた白石は不満げに口を尖らせた。顔には「うらやましいです」とデカデカと書かれており、仁王が口角を上げる。

「こんなに健気に指を掴まれてるんじゃ、離すのも可哀想で離せん。それとも白石、おまんはこんな健気な子供にそんな仕打ちをするつもりか? ひどい男やのう」
「せ、正論すぎて反論できへん……しゃあない、報告書でもまとめるか……」
「そうしときんしゃい」

 言い合いは白石の敗北に終わったらしい。白石は肩を落とし、悔しげにしつつも手持ちのノートパソコンを開いて報告書を打ち込み始める。一方で、手を握られて身動きが取れない仁王は握られている手はそのままに、懐から取り出した携帯を操作し始めた。

「……二人はずいぶん仲がいいんだな」

 一連の流れにおいて完全に蚊帳の外だった諸伏は、テンポの良いそのやり取りに感心したように呟いた。その言葉に白石が首を傾げる。

「言うてませんでしたっけ? 俺ら、中学時代から知り合いなんですわ。元々部活が同じで、全国区の大会でしのぎを削りあった仲っちゅうやつでして」
「元々そんな親密やったわけじゃなかったんじゃが、仕事柄、最近は顔を合わせることが多いもんで。自然と仲も良おなってしもうた」
「人生、何が起こるかわからへんなあ」
「全くじゃ」
「へえ、そうだったんだ」

 諸伏は「だからか」と納得した。二人の年齢は、諸伏のひとつ下だったはずだ。中学時代ということは、かれこれ十年以上の付き合いということになる。他校とはいえ、切磋琢磨しあった相手と社会人になってからもこうして付き合いが続けば親しくなるのも必然かもしれない。
 どの部活だったかは知らないが、全国区で戦っていた相手だというのだから、すごい巡り合わせだなと素直に驚く。

(俺もゼロにメールを送るかな)

 現在、部屋の中にはロウと諸伏、そして白石と仁王の四人しか居ない。
 もともと公安から一緒に来てくれた女性職員が何人か待機していたのだが、知らない人間が多くてはロウも気を張ってしまうのではという懸念が出たため、諸伏たち以外は別の仕事に回ってもらったのだった。
 ちなみに、食事を用意してくれたのは女性職員たちである。逃亡中は何も食べられていないだろうとあたりをつけてくれていたらしく、用意された大半が雑炊などのやわらかいもので、固形物はほんの少し、ロウが噛んでしまえるような、やわらかいものだけを用意してくれたのには頭が下がる思いだ。
 ロウの姿は、最後に見たときより、また痩せ細っているように見えた。

 7

 白石蔵ノ介は普段は薬剤師として働く、公安の協力者である。

 もともとは薬学部を卒業し、地元である大阪で働いていたところ、専攻した分野以外にも精通していたことや、持ち前の美貌で『ちょっと変わってるイケメン薬剤師』として一部で名を知られていたこと、その他諸々の珍事件に関わっていたことで目をつけられ、経歴のクリーンさと人脈に目をつけた公安に『ぜひ協力者に』と猛アタックを受けた末、こちら側に来てくれた至って善良な青年だ。

 なので本来、彼がこんな危ない案件に巻き込まれるなど絶対にあってはならない。
 彼はあくまで『協力者』だ。――しかし、今回においては内容が内容だったため、白石にも捜索に加わってもらっていたのだった。
 ある日もたらされた、組織の傘下と思われる製薬会社の研究所から「超人的な身体能力の子どもが一人、脱走した」という情報。その子供が、組織の命令で行われていた薬物による人体実験の被検体であると判明するのに時間はかからなかった。

 公安は即座に脱走した子供の保護を決めた。
 薬物で肉体改造された被検体の脱走――これは組織の情報を掴む千載一遇のチャンスだった。
 たとえ逃げ出してきた子供が組織について知らなかったとしても、その子供自体が『生きた情報』になってくれるのだからありがたいことこの上ない。
 組織の犯した悪行の確実な証拠を手にする。それは世界中の組織を追う者達にとって、喉から手が出るほど欲しいものなのだ。

 ゆえに、逃げ出した子供を保護することは日本の公安にとって命題であった。
 保護をすれば、いずれ組織を壊滅させるときの交渉で多少のアドバンテージを持つことができる可能性が高いからである。そして何より、被検体はこの国の国民であり、薬物実験の被害者だ。理不尽に虐げられるなんて許してはならない。国民を守ることが、警察の義務なのだから。

 一協力者である白石がこの大捜索に戦力として呼ばれたのは、逃げ出してきた被検体に薬物による異変が起きている可能性などを考えてのことだ。
 そしてその考えが公安が脱走した被検体――ロウを保護できた決め手となった。
 普段はただの薬剤師として暮らしているからか、保護された少女も比較的心を開いてくれた。狼の能力を持つ少女は、野性的な直感で相手が自分に対して害意があるかどうかの判別が早かった。そんな彼女を白石達が保護できたのは幸運以上の何者でもなかった。
 下手に公安の誰かが会っていたら逆に警戒されて保護できなかった可能性もある。本当に、無事に保護できたのは幸いだった。

「……後はこれからどうなるかだな」
「どう、っちゅうのは?」
「ロウはこれから病院で一通り検査を受けさせて、公安で匿うことになる。……なんだけど」

 現状では望みを叶えてやれるかどうかは分からないんだと諸伏は言う。
 ロウの希望は、先に脱出したという『シェリー』――宮野志保との再会である。
 しかし、ロウと宮野志保を一緒に居させたら二人で脱走するのではないか、という話が一部から持ち上がっているのだ。不愉快な話ではあるが、そういった声が出ている以上、たとえ宮野志保を見つけたとしても、おいそれと二人を再会させる訳にはいかない――という意見でほぼ固まっている。

 それに怒りの声を上げたのは、ロウを一番に保護した白石だ。

「なんですそれ!? 確かにロウちゃんはえらい身体能力の高い子やけど、こんな素直ないい子そうそう居ませんよ!?」
「わかってる。白石さんからの話も聞いた……宮野明美を思って泣いていたことも、約束を守れなかったと自分を責めていることも」
「せやったら、」

 なお言い募ろうとした白石を「まあ待ちんしゃい」と制する声。

「仁王くん……」
「白石、おまんの気持ちもよお分かる。ロウがそんなことせんってことはな。だけど宮野志保がそうしないとは限らん。……のう、諸伏さん。どうしたら公安は二人の再会を許す?」
「……これは俺個人の考えだけど、確実に安全を保証できる場所があれば。セキュリティはもちろん、一般人が簡単に出入りできないような場所があれば良いんじゃないかと思ってる。だけど……」
「公安が用意できるのは、主に捜査員の隠れ家にしとる一般人向けのマンションや家くらい……たとえ警察病院に入院させていたとしても、窓がある以上あの身体能力なら人ひとりを連れて簡単に逃げられる……っちゅうことですか」

 しかし、そんな完璧なセキュリティの施設はない。
 それに加え、公安には全快になったロウの脱走を止められるような人間はごくわずかだ。驚異的な身体能力と柔軟性を武器にした、本能的に人の急所を突く野生じみた戦い方――それは赤井と同等の実力を持つ幼馴染をしても止められるかどうかかなり危ういラインだ。
 そしてこの先、少女が投与された薬が切れるなどして凶暴化する可能性が消えたわけではない。
 検査で投与された薬物を突き止められればいいが、できない可能性もまた高い。だからこそ、投与された薬物について知っているであろう宮野志保を急いで見つけなければならない。
 彼女がロウに飲むようにと渡した薬は、ロウの唯一の持ち物であったピルケースに一錠残されていたのを既に回収し、解析に回している。
 もどかしい限りだが、今はロウに発作が起きないよう、一秒でも早く宮野志保とどうにか接触できるよう祈ることしか出来ないのが現状だった。

 ◆ 

 ちょっと上司に連絡してくるよ、そう言って諸伏が部屋を出て数秒。
 声を上げたのは仁王だった。

「のう、白石。確か資料に例の製薬会社の情報が出てたと思うんじゃが」
「うん? せやな、一応ホシのデータは貰っとるで。あと個人的に集めたのも」
「そこにちょっとばかし気になるとこがあったのを思い出した。お前さん、あの製薬会社のデータ今持っとるか?」
「今? どの部分見たいか訊いてもええか?」
「経歴ぜよ。吸収される前、たしか別のトコのグループかなんかに居ったっちゅうことは覚えとる」
「了解。ちょお待ってや」

 手元のノートパソコンを操作し、仁王に言われた部分の資料を引っ張り出す。念の為にと公安から教えられていた製薬会社は、白石も知らない中小企業だった。
 だが仁王が気になるということは、おそらく『何か』があるということで――

「……お手柄やで仁王くん」
「なんじゃ、見つかったんか?」
「ああ。あの製薬会社に吸収された企業――その中に、跡部財閥の傘下やった企業がある!」
「ほんじゃ……いっちょ、賭けに出てみるか」

 見えない蜘蛛の糸に触れた感覚。白石と仁王は顔を見合わせ、悪い笑みを浮かべた。

 8

「ロウちゃん。ちょっとお兄さんらと一緒に移動しよか」
「いどう?」

 きょとんとした顔のロウに、柔和な笑みを崩さず、白石がうなずいた。

「せやで。わるーい奴らに見つからへんように、安全なところに避難するんや。志保ちゃんが見つかるまで、ロウちゃんも辛いやろうけどちょっと隠れてような」
「……あっ。わかった、かくれんぼ!」
「そう、かくれんぼや! お兄さんらと一緒に、おっかない白髪からかくれんぼや」
「待つのは辛いかもしれないが、必ず見つけ出してみせる。だからロウには少しの間辛抱してほしい。できるか?」
「わかった、がんばる」

 諸伏の言葉に、ロウは小さな両手をグッと握った。
 彼女は本来今年で十八歳になる筈の少女である。しかし小さな体と拙い言葉遣いが相まって、その姿はどう高く見積もっても小学生ほどにしか見えない。
 それに加え、ある程度流暢だったはずの言葉がいつの間にか拙くなっていたことが食事後に判明した。
 おそらくは逃げ出す前に飲んだという『薬』の効果が切れた、あるいはその後遺症なのではないかという説が現在の一番有力な説である。
 薬を与えたという宮野志保との関係性を考える限り、非常に危険な薬物というわけではないと信じたいところである。

「それじゃあ、これからどこに匿うかだが――」
「あ、諸伏さん。それなんやけど、一つ提案があるんやけど聞いてもらってもええですか?」
「提案? それは構わないが」

 きょとんとした顔をした諸伏に対し、白石は眩しいくらいの笑顔だ。
 元々の予定としては、この後ロウを極秘で警察病院へ運び入れ、一通りの精密検査を終えた後、公安がセーフハウスとしているマンションのどこかに匿う算段になっている。
 できるだけ米花町とは絶妙な距離にある場所がいいのではと現在進行系で調整している真っ最中だ。

「実は今回の件、『ある意味』この案件に関わりがあって、これが表に出たらアカン思うとる人がおるんですよ。で、その人の庇護下で預かってもらえばええんちゃうかと思いまして」
「この案件に関わりがある? その人って一体――」
「多分、そろそろそっちの方にも連絡が行っとるはずじゃ。俺らが連絡を入れたのは諸伏さんが一回部屋を出た頃――そして奴は今日本におる。あちらが即座に行動してるとすれば――」

 仁王が何かを言いかけた瞬間、諸伏の携帯が鳴った。
 「すまない」と一言置いて電話に出る。相手は今も組織に潜入している、幼馴染で上司でもある降谷だった。

「もしもし。ゼロ、どうした?」
『突然悪いな。上から連絡が入ってな。至急知らせなければと思ったんだ』
「緊急事態か?」
『……アンバーの引取先についてだ。つい先程、上層部へ連絡があったらしい――相手は跡部財閥総帥、直々にだったそうだ』
「――はあ!? ちょっとまて、跡部財閥!? って、もしかして――」

 まさかと思い顔を向けると、『予想通り』といわんばかりに悪そうな笑みを浮かべている二人の男。その表情で、諸伏は全てを察した。

 電話越しに降谷の声が聞こえる。

『内容は被検体……アンバーの身柄を、跡部財閥で保護したい、だそうだ』


 閑話:春はまだ遠く


 宮野志保には、もう一度会いたい相手がいる。
 いつも頭の中に思い浮かぶその姿は、最後に見た、悲しげな瞳をしたあの子の姿だ。

(……ロウ……)

 阿笠邸にある自室の中で、あそこから唯一持ってこれた写真を何度も眺める。写真には三人の少女が写っていた。それは幼い頃の自分と姉――そしてロウ。

 ロウは組織の実験体である少女だ。
 幼い頃からずっと一緒に居た、自分と同い年の姉以外のもうひとりの家族。実験体だった彼女とは常に一緒に居られたわけではなかったが、それでも共に過ごす時間はかけがえのない安らぎの一時だった。
 彼女は、あの薬を飲んでくれただろうか。

(大丈夫――何度も確認した。失敗はしない。アレが唯一、あの子を逃せる方法だもの)

 志保は監禁されていたガス室で、自殺するつもりで隠し持っていた薬――アポトキシンを飲んだ。
 しかし死ぬことはなく、何故か縮んでしまった彼女は、監禁されていた部屋の小さなダスト・シュートからなんとか脱出することに成功したのだ。
 工藤家に二度目の侵入をした際、一度目の侵入の際にあったはずの工藤新一の幼児期の服がごっそり無くなっていたことや、薬のテストでマウスが幼児化していたことから幼児化という可能性は把握していた。『工藤新一の失踪が幼児化によるものなのではないか』という推測も立てていたため、実際に彼が幼児化したと分かっても動揺はあまり無かった。
 逃げなければと、その推測を頼りに工藤家を目指して逃げ続けた先で、隣家である阿笠家の前で生き倒れていたのを家主である阿笠博士に保護され、推測通り幼児化していた工藤新一――現在は江戸川コナンと名乗る少年と出会い。

 そして「灰原哀」という名前を手に入れ、今に至る。

(……まあ、まさか私まで幼児化してしまうとは思わなかったけどね)

 本当はあのとき死ぬつもりだった。――けれど、不格好でも生き延びてしまったのだ。唯一の心残りがどうなったのか気になってしまうのは仕方のないことだろう。

 組織からはアンバーと呼ばれていた、姉と同じくらい大切な女の子。
 あんな恐ろしい場所にひとり残して逝くくらいなら、優しい嘘をついてでも「外」へ逃してやりたいというその一心だった。
 ロウに飲むようにと与えた薬は、彼女の実験資料を参考に志保が秘密裏に作り上げた、身体能力を一時的に強化するドーピング剤のようなものだ。
 数年前、組織に命令されたアポトキシンの開発を続けていた頃、長らく苦心していたロウをやっと組織のマッドサイエンティストから奪い取ることができた。ロウと共謀し、彼女が実験体をしていた実験を凍結にまで追い込むことができたからだ。

 組織の人間には、ロウは『薬物の影響で知能が著しく退化し、特定の人間以外には凶暴』という情報を与えた。特定の人間――それは志保と姉の明美の二人だと記し、組織から出られない志保が保護者になるということでようやく手元に置くことが出来た。
 少々乱暴だったという自覚はあるが、あの頃ロウの『研究』はほぼ完成しており、彼女がいつどこの紛争地帯に出荷されるとも分からない状態だったのだ。
 数多の実験体の中、唯一残った実験体であるロウは、ありとあらゆる実験に耐えてみせた。そして、同時に彼女の心もまた、どんどんヒトから離れていきつつあった。名実ともに『人間兵器』となりかけていた彼女を、志保は己と姉との縁を担保にし、何とかヒトとして取り戻したのである。

「どうか、生き延びていて……」

 写真を抱きしめて、ひたすらにそれを祈る。
 きっとあの子なら無事だと、生きていて欲しいと思う気持ちと、もしかしたら今も自分をあの薄暗い部屋で待ち続けているのではないかという気持ちがぐちゃぐちゃに混ざり合う。けれど戻ることなんて出来なくて、今はただ、言いつけどおり逃げ出していることを祈り、再会を願うだけ。

 神様なんて信じてない。自分から両親どころか、最愛の姉を奪っていったのだから。
 だけど、どうか。どうか神様、都合が良いと嘲笑われてもいい。どうか、あの子を守ってくださいと必死に祈り続ける。

 ――しほちゃん、まっててね。

 必ず見つけると、そう言ってくれたから。だから、必死に祈って待ち続ける。
 大切なもうひとりの家族と再会できる日を、宮野志保は永い冬の中で待ち続けている。


 9


「おはようさん、ロウちゃん」
「おは……よお? さん?」
「ははっ。ロウちゃんには関西弁は馴染みないかぁ」

 キラキラの笑顔がとっても眩しくて、思わず両手で目を覆ってしまった。
 目を覚ますと、お兄さん達と一緒に車に乗っていた。久しぶりのご飯を食べて、一休みして、お兄さんたちとお話して。これから移動すると話をしていたところまでは覚えている。しかし、起きてたはずの私はまた眠ってしまっていたらしい。これはちょっとマズいのではないだろうか。

 こんなによく眠ったのは久しぶりだ。もしかしたら生まれて初めてかもしれない。
 あそこに居た頃は、志保ちゃんと一緒に居てもあの白髪が来たときを考えて浅く眠ることがほとんどだったし、ひとりのときも眠ってることで変なものを入れられたら困るから目をつむるだけにしていた。
 ちゃんと眠るってすごいんだなあ。こんなに頭がすっきりしているんだもの。
 今ならきっとライのことも油断せずに仕留められると思う。
 そのことを伝えると、お兄さん……白石さんは「そうかあ、よかったなあ」と言って、また優しく頭を撫でてくれた。その横でスコッチが「ライのことは俺たちがどうにかするからやめような」と言ったのは知らんぷりをしておいた。いやだもん。

「どこ、いく?」
「ロウちゃんを守ってくれるとこや。家主さんがお兄さんらとお友達でな? ロウちゃんのこと教えたら、じゃあうちにおいで言うてくれたんよ」
「……そ、なの?」

 ――大丈夫なのだろうか、とふと思った。

 お兄さんたちは優しい。スコッチも、スコッチと一緒にいた女の人達も、みんな優しかった。でもそれは、私が逃げないようにするためなんじゃないかと思っている。志保ちゃんが見つかるまでは、そして志保ちゃんが大丈夫だと思ったのなら私は逃げるつもりはない。

 でも私は、志保ちゃんが望むならどこまでも彼女を連れて逃げると思う。
 志保ちゃんを守る。それが約束だから。

 だけど、そうするとお兄さん達の優しさを台無しにしてしまうことになるんじゃないかとも思ってしまう。どうしてかはわからない。会ったばかりの人たちなのに、こんなにも優しくしてくれるから、困らせるのが嫌だと思う気持ちがちょっとだけあって。
 どうしたらいいのだろう。明美ちゃんなら、こういう時どうするのかな。

「……あのね? ロウ、てつだう、する」
「無理せんでもええんやで?」
「ちがう。できるの。てつだう、できる」
「――さよか。偉いなあ、ロウちゃん」
「ううん。えらくない。しほちゃん、守る。……でも、あのね、おにいさん、やさしいくれたから、だからね、おにいさんも、まもる、だから」

 だから、志保ちゃんを見つけてほしい。そう言うと、お兄さんは驚いた顔をして、それからくしゃくしゃの笑顔を見せてくれた。返事はもらえなかったけれど、横に座っているスコッチが「大丈夫だ」と言ってくれたので、とりあえず息を吐く。

 なんとなく窓の外に目を向けると、大きな建物が見えてきた。


 ◆


「すごい、おっきい!」
「せやなあ」

 行き先は、さっき窓から見えた大きな建物だったらしい。
 まるでお城みたいだと言うと、お兄さんも笑って頷いた。中に入ると、とってもきらきらしていて、目がしぱしぱしてきそうなくらいだった。床もぴかぴかで、私の姿が写っていて、まるで鏡みたいだ。
 研究所とは違うところ、こんな場所は初めてで、どうしたらいいか分からなかったのでとりあえずお兄さんにしがみついておく。白石さんか仁王さんか迷ったけど、とりあえず近くにいた白石さんにした。

「ロウ。残念だけど、一回お別れだ」
「お別れ?」

 黒い服を来たおじさんとお話をしていたスコッチが、私のところに来てそう言った。ここからは別のお仕事があるらしい。
 久しぶりの再会だったのでちょっとだけしょんぼりしていると、スコッチは「またすぐに会える」と笑って言ってくれた。嘘の気配はしなかったので、待っていると伝えると、彼はニッと笑って、そのまま行ってしまった。

「じゃ、行くかのう」
「せやな。さ、ロウちゃん行くで〜」
「はあい」

 さっきまでスコッチと話していたおじさんに、お兄さんたちとついていく。
 入ったのは、ちょっと前まで居た部屋とは全く違うきらきらがすごくたくさんある部屋だった。おじさんは「少々お待ちくださいませ」と言って部屋を出ていき、私とお兄さんたちだけが残される。
 「ちょっと待つけどええ?」と訊かれてうなずき、三人でソファに座る。

「――なんか、ちがう? さっきのとちがう? ふしぎぃ」
「ああ、さっきまで居った部屋のソファとはちゃうなあ」
「こっちのはマジもんの最高級品じゃき、汚したら海外に売り飛ばされるぜよ」
「ひええ」
「こら仁王くん! ロウちゃん脅かすなや!」

 こわい。私は大急ぎで白石さんのお膝の上に乗った。ふかふかで気持ちよかったけど、いやだ、海外に売り飛ばされるわけにはいかないのだ。だって私は、志保ちゃんを見つけなければならないのだから。
 きっとこの部屋の中にあるもの、全部とっても高いのだろう。いやだ、動けない。壊したら売られてしまう。それは困る。私の行き先なんて、紛争地帯かあの組織と変わらない、いやあそこよりもひどいところに間違いないのだから。お兄さんにしがみつく。

「あーあ。仁王くん嫌われたな」
「ピヨッ……からかいすぎたかのう。すまんすまん」
「目ぇ笑っとるで、自分」
「純粋な反応が楽しくてしょうがなかったんじゃ。よく言うじゃろ、可愛い子ほどいじめたくなる」
「それが許されるのは学生まで……いや、今思うと学生でもアカンわ。女子からは普通に軽蔑されるコースやでそれ」
「プピーナ」

 お兄さんたちの話を聞いてると、髪がぴんっと逆立った。
 しがみつく力を強くした私に、白石さんがどうしたのかと首を傾げる。

「聞こえる。コツコツ、くつの音」
「ホンマ?」
「ほんま」

 頷いておく。耳はどんどん近づいてくる音を感じ取っている。一個だけじゃない。二つ。そう伝えると、お兄さんたちは顔を見合わせ、それから大丈夫だと言った。

 その言葉と共にドアが開く。
 現れたのは、知らない男の人だった。


 10


「というわけでや跡部くん。この子が件の子――ロウちゃんや。どや、可愛らしいやろ?」

 少女――ロウと呼ばれた子供は、白石にしがみつきながらこちらの様子を伺っている。ざんばらの髪の毛の一部がまるで耳のようにピンと立ち上がっていて、警戒心の高い犬を彷彿とさせた。
 旧い知り合いである二人から同時に連絡を受け、聞き捨てならない情報を得た跡部は、即座に公安への根回しを行った。返事は予想通り、ずば抜けた身体能力を持たされた子供を保護するには現在の公安には不安があったらしい。是非とも頼みたいという返答を得ることができた。
 そこからは簡単だ。子供をこの屋敷まで運び入れ、こうして謁見する機会を掴み取った。

「――なるほどな。話通り随分と訳アリみたいじゃねーの。あーん?」
「ご覧の通り、下手に普通のマンションで匿うよりもおまんの庇護下に置いた方が安全度が違うき、こうして頼んだってことじゃ」
「フッ、まあな。その選択は間違っちゃいねえ」カッと鋭い目が大きく開いた。「俺様の庇護下に入った以上、虫一匹たりとも近寄らせはしねえよ。――跡部の名にかけてな!」
「流石やわあ跡部くん! 頼りになるでえ! そんで、検査はどないする?」
「それももう手配済みだ。お前らもよく知ってる医者に依頼したからな」

「俺らが知っとる? 大石くんやないんやろ? ……ああ、あの二人か!」

 ポン、と白石が手を打つ。
 忍足侑士と、その従兄弟である忍足謙也。現役の医師でもある従兄弟コンビに、今回内密な依頼としてロウの検査を頼んだのだと跡部は言った。場所は跡部財閥が所有する医療機関――隠蔽度は十分だ。
 

「お嬢ちゃんがロウちゃんやな? 可愛らしいなぁ、お人形さんみたいやわあ」
「侑士やめえや! お前が言うとなんか犯罪臭がすごいねん!」
「なんやねん謙也、言いがかりやで」

 そんな従兄弟コンビの漫才じみたやり取りから始まった検査はつつがなく進められた。
 阿吽の呼吸な従兄弟コンビに、裏の人間の気配を感じなかったためかロウも普通の反応を示したこともあり、採血やレントゲン、脳波の検査なども問題なく行われた。
 採血は組織でよくされていたらしく、ロウが怖がることもなくけろっとした顔をしていたのに逆に注射する側の謙也が悲しげな表情を浮かべていたほどである。
 小児科医である彼は、ロウの実年齢を聞いたときなど仰け反ってそのまま倒れるのではと思うほどであった。

「ようできたなあロウちゃん! これで検査はおしまいや。ちょっとお兄ちゃんらと遊んでよか」
「あそぶ? なに、する?」
「せやなあ、鬼ごっこでもしよか! 浪速のスピードスターと勝負や!」
「するー!」


「ふたりからライのにおいがするっ、ロウの鼻はごまかせない!」
「えっ? ライってあのニット帽の? いやいや、会うてへんよ?」
「会ってる! ロウわかる!」

 おろおろする白石に対して怒りを見せるロウ。静観していた仁王は「ふむ」と口元に手を当て、

「もしかすると、俺らが気づかんだだけで居ったのかもしれんのう」
「……変装か!」
「そうじゃ。そしてロウは気づいた――つまり、ロウの嗅覚が俺らからライの匂いを嗅ぎ取ったっちゅうことじゃなか?」
「あああ……マジかぁ……一体誰や!? ぜんっぜん分からへんかった……」


 

「ロウはロウだよ? だれ?」

「アトベサマ、アトベサマッ。ロウ、おそといく」
「あーん? ほら、帽子を被っていけ。庭からは出るんじゃねえぞ」
「はいっ」

 大きなつばの帽子を被り、スモックワンピースを着た少女は大きくうなずいて、拙い足取りで庭へと走っていった。
 その背を見送った男――跡部景吾は、氷の彫刻のような顔に柔らかな笑みを浮かべる。
 若くして世界有数の財閥である跡部財閥の総帥となった彼が、今のロウの保護者であった。

 本来、縁もゆかりも無い筈のロウを彼が引き取ったのにはきちんと理由がある。
 かつて財閥の傘下にあった会社の、気づくことができなかった犯罪行為によって尊厳を踏みにじられた少女を、責任をもって庇護下におくべきだと判断したからである。
 これは跡部だけではなく、当時長だった彼の祖父の同意も得ていることだ。
 調べたところ、件の組織は跡部の傘下に居た頃から人体実験に与するようなことをしていたという。それに気づけなかった――それが回り回って何十人もの子供を死なせる結果となった。直接的な責任が無いとは言え、知ってしまった以上放っておけはしない。
 たった一人生き残った小さな命。か弱い存在も守れずして財閥の者全てを守れるわけがない。
 若くとも既に世界に名を馳せる総帥として、庇護下に置くことを決断し、公安にも協力を約束した。
 今はただ、あの小さな命が、奪われた自由を取り戻せるよう祈るばかりだ。


「跡部。ロウちゃんの様態はどうや?」
「忍足か……保護したばかりの頃よりは良くなってる。シェフ達にはできるだけ柔らかいものから作るよう指示してあるからな、毛艶も良くなってきてる」
 跡部の言葉に、白衣を着た男――忍足はフッと微笑んだ。
「そら良かった。ほんまは髪も切らしてやりたいんやけどなぁ、女の子があんなざんばら髪なのはかわいそうやし……」
「やるなら信頼できる美容師だが、当分は難しいだろうな。――危険な組織から逃げ出してきた人体実験の被検体、それも人外的な身体能力を持つあいつを、組織もまだ狙ってる可能性は高い」
「やるせないわぁ……その人体実験の研究に、跡部財閥の下っ端組織も関わってたって外に知られたら大スキャンダルや」
「厳密には『元』だがな。だがメディアはそんなのお構いなしなうえ、それらしくこじつけてしまえば間違った情報でも流れるのは光の速さだ。だからこそ、慎重にいかなきゃならねえ。それに今回の件は――」
「鈴木財閥の元傘下も関わっとる、か」

 かつて、跡部財閥の傘下に入っていた小さな製薬会社――数年前に突如傘下を離れ、烏丸グループの企業に吸収合併されたその製薬会社で、ロウは人体実験の被検体となっていた。

 様々な製薬会社を吸収したその企業は、どうやら跡部財閥だけではなく鈴木財閥の傘下にいた製薬会社も吸収していたらしい。それを知ったのは、公安の協力者をしており薬物関係の事件に精通していた白石からのリークと、契約を交わしている警備会社の諜報部に勤める仁王からの情報提供があったからだ。
 いくら『元』がついていて件の会社が末端の中小企業とはいえ、一度は傘下に入れていたのは事実だ。人体実験などというおぞましい所業に加担した企業を、日本を代表する財閥が二つもかつて傘下に入れていたとすればスキャンダルを避けるのは難しい。

 そして同時に、その製薬会社から逃げ出してきたという被検体の子供の話も聞いた。

 非人道的な実験の末、何十人も居た被験体で唯一生き残った子供。
 その身に狼の能力を宿した子供の本来の年齢が今年で十八だと聞いたとき、跡部の中に衝撃が走った。実験体にされた年月は十数年。資料によれば、瞳は琥珀色に変わり、髪の色も薬物の影響で抜け落ち変色してしまったという少女は、人外的な能力を手にした代わりに人としての尊厳を奪われた。
 話を聞いたのは跡部だけではない。同じく傘下に居た企業が人体実験に関わったという情報を知らされた、鈴木財閥の総帥夫妻や相談役もその場に揃っていた。特に総帥夫妻は話を聞いて、跡部よりも沈痛な面持ちをしていた。
 娘と変わらない年齢の子供が人体実験を受けていたという情報は余程響いたらしい。

 そして跡部達は子供の保護に乗り出し、(その際、鈴木財閥からもバックアップは惜しまないという申し出を受け)自分の屋敷の一角で受け入れたのだった。

 子供――ロウと名乗った少女は、とても十八歳には見えない姿をしていた。
 その姿は高く見積もっても十代前半――まだ小学生ほどにしか見えず、痩せ細った体、ざんばらの髪などの要素も加えると、栄養失調気味の痩せた幼子にしか見えない。
 更に薬物投与による精神年齢の低下、思考力を奪われ、自分が人であるということも曖昧な状態。それでも生き残れたのは、元々少女が周りの被検体よりも年齢の割りに精神的に成熟した思考だったからだという。
 そんなことがこの現代社会でまかり通ってしまったという闇の深さ、一般人である子供の親がそんなことをしたという残酷な現実が深く突き刺さる。


「だが、ロウは元々戸籍もある子供だったんだろ? それをどうやって売ったっていうんだ?」
 宍戸の疑問は真っ当なものだ。その問いに、眉間に皺を刻んた白石が答えた。
「身代わり。子供を売ったことを誤魔化すために、組織はこの子の『顔』に変えた別の子供の遺体を寄越したんや。――とはいえ紙面上の死因は事故死。小さい子供やったし、原型留めんほどぐちゃぐちゃやったらしくて、葬式も家族だけでさっさと済ませてしもたから他人は気づかへんっちゅーわけや」
「うえぇ……」向日がくしゃりと顔を歪める。
 その隣、渋面で聞いていた宍戸が吐き捨てるように呟いた。
「なんで親なのに子どもにそんなひでぇことできんだよ……」
「残酷やけど、それが現実っちゅうことや。日本でさえ、探せば無戸籍の子供は居るし、人身売買や人体実験っちゅう非人道的なことをしとる奴らがおんねん。この組織――通称『黒ずくめの組織』は、世界中の機関が狙い続けとる、大物中の大物っちゅうことや」
「そんで、そこから逃げ出してきたロウ、そして行方不明のシェリーは組織を知る数少ない貴重な手がかりでもある。――正直、FBIよりも先に保護できてほんま幸運やった。もしあの時間に合わんかったら、今頃国の外連れ出されて何されとったかわからへん」
「正直、なんでここでFBIが出てくんのかわかんねえ。海外ドラマとかでよく出てくるけど、あそこって、国内専門の警察組織のはずだろ? 普通国外ならCIAとかじゃねえかと思うんだが」
「おそらく、組織絡みの事件がFBIの管轄で起きて、その捜査をしとったってとこやないかと上は考えとるらしい。……せやけどなあ、潜入捜査にしては雑すぎるわ! 何やねん、ハニートラップとか言ってやっとることは当たり屋のそれやで!? 吊り橋効果狙いとはまっっったく美しくないわ!」

 白石の怒りは深い。明美が妹と歳が近いということもあるのだろうが、何よりその手口が気に入らなかったらしい。あまりの雑さに、開いた口が塞がらない状態だったのだ。

「明美ちゃんのロウへの愛情は深い。ぶっちゃけ、今諸星が現れたとしても見向きもしないだろうし、恋心なんてとっくの昔に無くなってる。ロウを傷つけたことへの怒りの方が強いだろうな」
 諸伏の言葉に、降谷が深く頷く。
「ああ、それに関しては安心してる。奪った十億円も、彼女を助けてくれた『火を持つ誰か』のお陰で無事に警察が取り戻すことができたしな……偽名を使っていたこともあって、彼女の起こした事件は何とか揉み消せるだろう」
「妹の志保ちゃんも解毒剤を作ることに協力的だし、なによりロウも居る。このまま協力者として此方側に居てくれたら、本人達が望む通りに一般人として戸籍を用意して、三人を『家族』にすることもできる――ってことだよな?」
「そこらへんの打ち合わせは追々だが――あとはFBIへの対応とクレーム、CIAからは申し出があったので、これからは連携して捜査するつもりだ。潜入したスパイ――キールも、元々日本人だからな。できれば五体満足で任務を終えさせてやりたいが」
「まあ、本人も危険は承知の上だろうしな」

「キュラソーにあったの?」
「ええ。……ロウは、彼女を知っているの?」
「うんっ。お薬、腕にちゅってされたあと、たまにキュラソーとけんかしたりした! キュラソー、強いんだよ。わたし、キュラソーすき!」

 あっ、でもいちばんは志保ちゃんと明美ちゃんだよ! と腕を大きく振りながら主張したロウに、宮野姉妹はよく似た微笑みを浮かべて少女を抱きしめた。ロウを志保が抱きしめ、その志保ごと明美が抱きしめるという形である。
 一方、さり気なく追加された新情報に、正直諸伏は心臓が飛び出そうなくらい驚いていた。
 すかさず降谷に連絡を入れると、間もなく「取り調べの際に匂わせる」という返信。少年探偵団によって組織を抜けることを決意したキュラソーだが、取り調べによると、最後の最後で救助に現れたロウのことも随分と気にかけているという。
 その理由がまさかこんなにあっさりと判明するとは。やはり好感度は重要なのだ。聞こえてるか赤井。お前のことだぞ。
 理由があったにせよ、か弱い子供の首を絞めていたというFBIを諸伏は許すつもりはないのだ。

 後日、降谷から連絡があった。 
 ロウと志保の生存と無事を告げたところ、情報の開示などと引き換えに、司法取引を求めてきたらしい。これまで数々の罪を犯してきた彼女を野放しにするのは危険ではあるが、本人が警察に対し協力者となることやこの先所属する組織もこちらの要望に従うとまで言っているため、おそらく成立することになるだろう。
 宮野明美のように、姿と名前を変え、一般人に紛れて構成員として働く可能性は大いにある。あの優れた身体能力ならば、もしかすると、跡部財閥などからスカウトが来てもおかしくないだろう。例えば、組織から保護された少女達の、護衛役として、とか。

 ロウには人の善悪はわからぬ。けれど優しい家族を傷つける者が悪いやつだということはわかっていた。
 ロウは忠犬である。
 己の体に宿した狼と同じように、彼女もまた『家族』への愛が深かった。

 宮野明美は、死んだはずだった。
 しかし今、彼女はたしかに生きている。致命傷を負ったはずなのに、どうして――戸惑う彼女の記憶の中に残っていたのは、炎だった。

「火に、包まれた気がしたの」
「火…?」
「そう。オレンジ色の、温かな炎。きっとこれが、お迎えなんだって思ったわ。でも、現実は違った。――あの時、女の子の声が聞こえた気がしたの。『まだ、やるべきことがあるのでしょう?』って、そんな声。穏やかで優しくて、泣きたくなった」
「明美……」
「ふふっ、おかしなこと言ってるわね、私。――零くん、私、自首します。だからどうか、志保を――」
「いや、その必要はない」
「……え?」

「君が奪った十億円は、既に警察が回収した。……そして、君が殺したという共犯者。彼らもまた、交番の前に置き去りにされていたところを現行犯で逮捕されている」
「嘘!? 嘘よ、そんなの! だ、だって、私っ、たしかに、この手で……!」
「……取り調べで、共犯者はこう言ってるらしい」

 黄色い炎が体を包んで、気づいたら交番の前に居たのだと。

「炎……? でも、黄色……?」
「この炎に関しては僕に心当たりがある。だがそれは、裏社会の人間もそう簡単に触れられないタブーだ」
「……分かった。零くんがそこまで言うんですもの。これ以上の詮索はやめておくわ」
「――ありがとう。なので十億円強奪犯は、二人は現行犯で逮捕、残りの一人――広田雅美は、倉庫街にて大量の血液が発見され、おそらく海に落ちて水溺死という形になる。宮野明美の籍は、しばらく死亡したことにしておくとして、あとはこれからのことを考えよう」
「ええ。分かってる……本当にありがとう……」
「いいんだ。むしろ、こうならなければ助けられなかった。不甲斐なくてすまない」

 未明、降谷の携帯に一本の電話があった。
 発信元は公衆電話。内容は、『宮野明美を救出した』という簡潔な言葉と住所のみ。一体何者だと問い詰めようとした降谷に対し、電話は応じることなくブツリと途絶えた。
 半信半疑で部下と共に電話で言われた場所に向かうと、本当に宮野明美が居たのだ。電話ボックスの中、誰かのコートに体を包まれ気を失った状態で。コートで覆われた彼女の服は、血で真っ赤に染まっていた。
 しかし、不思議なことに彼女の体には傷一つ――正確には、撃たれたと思われる肉の盛り上がりが数箇所あっただけで――怪我はなかったのだ。診察した医師も匙を投げる始末であった。しかし「探り屋」として裏社会に潜入している降谷には、一つ心当たりがあった。

「死ぬ気の炎、か……」

ALICE+