硲せんせいと元教え子

 それは、小さなライブハウスでチケット販売のバイトをしていた時のことだった。無心でチケットを売りながら、ふと目についた小さなライブの文字。315プロダクション、新人アイドル、元教師ユニット――最近よく聞くプロダクションの名前だ。ほんの気まぐれに見つけたそれを調べて、私は雷に撃たれたような衝撃を受ける。

 なんでここに居るんですか、せんせい。




 先生――硲先生は、私が当時通っていた高校の、数学の先生だった。
 初めて見た印象は堅物で怖そうな、でもかっこいい男の人。接してみてわかったのは、生徒思いでとても情熱的な、素敵な先生だったということ。
 私は数学が大の苦手で、高校に居た三年間、ずっと彼にお世話になっていた。頑張って頑張って、補習のときはちゃんと分かったはずなのに、けれど実際テストになると頭が真っ白になって解けなくて。補習のたびに情けなさに半泣き似なっていた私に、先生はいつも優しかった。
『#名前#さんはいつでもがんばっていることを私は知っている。大丈夫だ、テストに反映できなくとも、君の努力は必ず実を結ぶ』
 そういって、ぐすぐす泣き出した私の背を撫でてくれたあの大きな手の感触は今も鮮明で、思い出すたび胸が熱くなる。


 あまりにも常連だったのと、毎回律儀に出るのは私くらいで、気づけば先生は私を名前で呼んでくれるようになっていた。

「……硲、せんせい、ですよね?」
「きみは……」
「ごめんなさい、覚えてないですよね! 私が高校生だったの、もう何年も前だし……数学の補習常連だった#名前#です」
「……! ああ、思い出した。立派になったな……君はここで働いているのか?」
「いえ、仕事先から派遣、みたいな感じで。スタッフのお手伝いです。チケット売ってたら、ちょうどこのライブが目に入って……驚きましたよ、調べたら先生が出てくるんですもん」
「そうか。……久しぶりに会えてとても嬉しい。ライブは楽しんでもらえただろうか」
「ええ、とっても。素敵でした」





 朝、目が覚めて一番に思ったのは、頭の鈍痛と下腹部の痺れにも似た不思議な感覚。そして私は思い出す。昨夜のこと、私がなにをしてしまったのかを。
 隣を見れば、裸の私と同じように服を着ていない彼の姿。ああ、ヤッてしまったのだと確信した。

 とりあえず着替えなければ、いや、その前にこのベタついた体を綺麗にしないと。私は先生を起こさないようにベッドを降りて、急いでシャワールームに駆け込んだ。さっと体を洗い、急いで服を着る。そして洗面所で顔を洗って、簡単にスキンケアを終わらせた。
 できればこのまま逃げてしまいたいけれど、そうは問屋が降ろさない。というか、私が罪悪感に耐えられない。

「これ、は」
「私はお先に着替えさせてもらいました。起こそうと思ったんですけど、踏ん切りがつかなくて――今日はお仕事は?」
「今日はオフなので心配しなくていい。それよりも、#名前#さん」
「はい」
「私の記憶が確かなら、私は、君を」
「……その話は、また後で。まだチェックアウトまで時間があるはずなので、その、シャワーしてきてください。逃げたり、しませんから」
「……わかった。申し訳ないが、少し待っていてほしい」
「はい、もちろん」
 しっかりと首肯いた私に、先生はベッドから降りてシャワールームに向かった。その背を見送って、私は深く息を吐く。


「すまない。私はなんということを――」
 顔を歪める先生に、私は首を振る。違う、違うの、先生。
「先生は悪くないです! 私がちゃんと、ちゃんとしなきゃいけなかったのに……ごめんなさい、先生……」
 取り返しのつかないことをしてしまった。私は先生にこんな顔をしてほしかったわけじゃないのに。
 目の奥がつんと熱くなる。喉も痛くなって、彼を直視できなくなる。だけど言わなくちゃ、きっと後悔する。

「……ずっと、好きだったんです、先生のこと……わたし、もう忘れてた筈なのに、会ったら……先生に名前を呼ばれたら、もう抑えきれなくなって……お酒の勢いで、そのまま先生を連れ込んだんです。先生に非はないの、ごめんなさい……」

「……君は、私のことを嫌っていると思っていた」
「……え」
 なにそれ、どうしてそんな。絶句する私に、先生はぽつりぽつりと話し始めた。

「君はよく頑張ってくれていた。わからないと言いながらも懸命に問題と向き合う姿はとても好ましかったし、私も全力でそれを助けたいと思っていた。結局、私では力及ばず、君の努力を花開かせてやることができなかった。……卒業式の日の、君の悲しげな笑顔が頭からずっと離れなかった」
 違うよ、それは、先生と別れるのが悲しかったからだよ。進学しないと決まっていたから、これでもうお別れなんだと思ったら、苦しくて悲しかった


 好きだ。どうしようもなく、この人が好きなんだ。
 愚かしさに泣きながら、それでも私はいま、ひどく満たされていた。諦めきれなかったあの恋情が救われた気がして。瞼の裏で、純粋だったあの頃の私が腐り落ちていくのが見えた。





「――というのが妻との馴れ初めだ」
「ひええ」
「ワオ! とってもcrazyなmemorialだね!」
「うむ。私としても少なからず好意を持たれていたのは嬉しかったし――なにより、お互いに成人していたからな。誠実にならなければと思い、お付き合いを始めた」
「いやあ、硲さんって意外と大胆ですね……奥さんもだけど」
「私にはもったいない素晴らしい妻だ」


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