第六感の女ミヤモト

「なぁんでこんなときに警視庁の名探偵は退職しちまってんだよぉ!」
 嘆いた彼女は渋面を隠しもせずジョッキを呷った。見ているこっちが不安になるような見事なヤケ酒である。
 隣では松田が黙々と枝豆を食みながら、時折彼女の小皿につまみをいくつか入れてやっている。松田が一期下の彼女を妹のように可愛がっているのは周知の事実であった。

「お前、あの人と交友あったのか?」
「さっすがユミちゃん、伝手が広いなぁ」
「奥さんの方と友達だったの。実家が近所でさあ、昔から知り合いだったってわけ」
「へえ〜」
「だから芋づる式に旦那の方ともよく話してたの。てか、あっちから絡まれてた感じかなあ。私交通課だったし」

 イカをかじりながら納得した様子の萩原に、彼女はそうなのだとうなずいた。話題に上がっている夫妻はもともと捜査一課に居たので、一時的に飛ばされていた萩原や松田はよく知ってるのだろう。とはいえ、二人とも、一身上の都合により既に退職しているのだが。
 だし巻き卵に舌鼓を打ち、松田がため息まじりに言う。

「ま、たしかにあの人が居たら、探偵団のガキ共を現場に入れずに済むわな……」
「それよそれー」彼女は食べ終わった枝豆の皮を、指揮棒のように松田に向ける。「しかも、警部なら本職だから現場荒らさないだろうし、謎解きだってもっと内々で終わらせてくれるだろうし……そもそも推理ショーとか興味ないでしょ、あの人」

 知ってる? あの探偵たちが現場に現れると、警視庁への苦情電話が倍に増える。
 死んだ魚のような目で語る姿に、萩原と松田は電話を受ける職員たちからきっと話を聞いたことがあるのだろうと察した。
 彼女の人脈の広さは警視庁――いや、全国でも指折りかもしれない。
 その第六感と面倒見のよさから、彼女はたびたび警察官や職員の合コンの主宰をしている。加えてそこでのカップル成立確率が高いことから、ひそかに縁結びの神として名が知られているのは有名な話だった。

「あ〜……私、いつ退職できるんだろう」
「当分はむずかしいんじゃないかなあ」
「お前も諦めの悪い女だなぁ」
「あったりまえじゃない、こちとら新婚さんなんですけどぉ!? 鳴海さんとこの警備会社に入る手筈もう整ってるんですけどぉ!」
「悪いことは言わねえ、当分は我慢しとけ」
「そうそう。ユミちゃんがいることで警視庁の治安は守られてんだよ」
「う〜〜〜〜〜」

 しおしおと落ち込んだ様子でだし巻き卵をかじる彼女を、二人は妹を見るような目で見つめる。本人は今すぐにでも退職したい様子だが、残念ながら、今しばらくはむずかしいだろうと二人は冷静に分析していた。
 なんせ、どの課も猫の手を借りたいほど、最近の米花町は犯罪の眠らない街なのだから。

 ◆

 『太閤名人』という渾名で世間に名を馳せる棋士――羽田秀吉名人が愛妻家だというのは有名な話だ。
 ハンサムな顔立ちで、非常に異性受けのよさそうな彼が結婚したのは、二十代前半の頃と若く、理由も、彼の恋人が大学卒業後、警察学校へ進むと決めたから、というものだった。
 彼の愛した女(ひと)は、苦渋の決断で警察になることを選んだ。
 本人の気質的に、他にも適性のある職業はあったはずなのに。「運命力が足りなかった」と悲壮な顔で呟いていた姿は今でも覚えている。なんでも、まるで引き寄せられるように警察以外の進路がことごとく潰えてしまったという。

「私たち、別れましょう」

 さみしげに笑った彼女が言った。警察学校に入校してしまえば、寮生活になる。会える時間がうんと減るし、学校を出ても所属はわからないし、仕事を覚えるのに必死で、連絡をする余裕も無いだろうからと。

「それだけは、絶対に嫌です。愛するあなたの頼みでも――それだけは」

 羽田は断じて首を縦に振らなかった。
 彼女への負担になるかもしれぬと黙っていたが、羽田は恋人へ向ける愛情がまあまあ重かった。
 普段は明るく聡明な性格の彼が、恋人の前では子供っぽくなる理由もそれに起因している。
 惚れ込んだ無二の女性だ。彼女を失って生きていける自信なんてとうの昔に潰えている。彼女のためならなんだってするし、それに彼女一人くらい養える稼ぎは十分にある。
 いっそのこと、警察になんてならず、自分に嫁いで専業主婦になればいいのにと思うくらいだ。そうしたらいつでも一緒に居られるのに、現実は難しい。
 愛する彼女がそれを是としない女性(ひと)であると知っていた彼は、今までそれをぐっと圧し殺してきた。
 しかし、それももう限界だった。

「タイトルを」
「え?」
「七大タイトルを必ず獲ります。だから、もう少しだけ待って」

 か細い彼女の腕を握る力が強くなる。
 彼女はこの細い体でこれから地獄のような警察学校へ進むという。
 もし彼女に何かあったら――そう思うと耐えられる気はしなかった。けれど今の自分にそれを止める術はなく、みっともなくこうして縋ることしかできない。
 繋ぎ止めなければ。けして離れられないように、強く強く。彼女無くしてこの世界に意味などもう見つけられないのだから。

「僕は絶対に、貴女を手放さない」

 その翌年、羽田秀吉は鬼気迫る猛攻によって、七大タイトルを制覇した。


 愛する彼女に求婚されたのは、彼女が警察学校を卒業して間もない頃だった。

「選んで。私と別れるか、結婚するか」
「結婚しますっ!!」

 身を乗り出し、食い気味に答える。
 「わかった」と頷いた彼女がどこか怯えているようにも見えて、思わず手を伸ばし、自分の腕の中に閉じ込める。彼女は驚いた表情を一瞬浮かべたが、察したのか薄く微笑んだ。体を委ねてくれたことに安堵しつつ、細い体を抱きしめた。

 彼女はあまり好意を口に出さない。
 本人なりに伝えているつもりらしいが、頭の中で思考を自己完結させることが多く、口を通じてアウトプットしてくれることが少ないのだ。そして同時に、彼女にはものぐさなところがあった。
 ものぐさな彼女は、言葉を丁寧に練ってアウトプットするのに時間を取られるのが面倒で、わざわざ言葉にまとめるよりも何気ない仕草や会話にさらりと好意を混ぜることを覚えてしまったのだ。
 つまり。
 彼女の愛はその内に秘めた激情とは裏腹に、いつだってあっさり塩風味だった。
 彼女からの愛の言葉があまりないのはすこしばかり寂しいが、その分自分が愛情表現(スキンシップ)をしているので、自分たちの好意の天秤は釣り合いが取れているという自負があった。
 だからこそ、今の状況はいろいろと予想外であり――けれど彼女らしいとも思う。
 たくさん考えて、裏でたくさん頑張って、彼女はいつだって自分を幸せにしてくれる。恋人として、これ以上の幸せがあるだろうか。

(――予定よりうんと早く事が運んでしまった……)

 世界一可愛い人を抱きしめながら、羽田は興奮冷めやらぬ脳内でぼんやりと考えた。
 十代の頃、疲れ切っていた電車の中で運命的な出会いを果たした。そして付き合い始めてから間もなくして――彼女を知っていくうち、いつの間にか当たり前のように彼女との将来を考えていた。
 いつプロポーズをするべきか、ずっとタイミングを伺っていた。彼女と出会ってからは棋士としての調子も良く、十分に養ってあげられると思った。本当は大学を出たらと思っていたが、彼女が警察学校に入ったため先延ばしになり、ズルズルと機を伺い続けて――

 けれど現実とは不思議なもので、プロポーズをしたのは自分ではなく、最愛の彼女であった。

 「ねえ、キチくん」年齢よりも幼く見える表情(かお)に微笑みを乗せて。
 明日は晴れるみたい、そう天気予報を見たときのような軽さで、彼女はあっさりと羽田にプロポーズした。

「本当は、七つタイトルを獲ったらプロポーズする筈だったんだ」
「ふうん。今、六冠だったっけ」
「うん。今度、七つ目のタイトル戦があるんだ。それを獲ったら、七冠王になる」
「へえ。すごいのね」

 でも私は今結婚したくなったからそういうの気にしない。と続けられた言葉に、知ってますよと返しておく。つっけんどんな言い方とは裏腹に、きゅっと白魚のような手が不安げに自分の服の裾を握ってくるのがいじらしい。

「あの、ユミさん」
「なーに?」
「どうして今、プロポーズしてくれたんですか?」

 そう訊ねると、返ってきたのは「時間がないから」という言葉だった。

「……時間が、ない?」
「そう。時間がないの」

 時間がない。とっても、ないの。
 まるで自分に言い聞かせているようにも聞こえる言葉だった。それを口にした彼女の瞳が、深い夜のような淀んだ色を滲ませているのに気づいた瞬間、背筋が凍った。

「そっか」「そうなの」

 うりうりと頭を押し付けてきた愛しい人のつむじを見下ろしながら、改めて華奢な体をしていることに気づく。
 なぜ時間がないのかは分からない。ただ、警察学校で過ごす中で、彼女がプロポーズを決意する、なんらかの出来事があったのではないか、と秀吉は推察している。

(彼女の気持ちが、どこかへ行かないようにしないと……)

 突然の求婚に戸惑わなかったかと言われたら答えはノーだ。天にも登るような幸福感で体が満たされた。ただそれよりも、求婚した彼女の顔を見たとき、いま躊躇ったら永遠にこの女性(ひと)を喪ってしまうかもしれないという恐怖が襲ったのだ。

 そして、改めて決意する。
 手に入れよう、七つ目の冠を。二度目はないし、必要ない――今、何が何でも手に入れなければならないのは最後の冠だ。
 改めてそれを確信した彼は、愛する人の額にそっと口づけをした。


 ◆


「いやー、羽田の七冠達成は未だに伝説だよ。なんせ、七冠達成のインタビューで結婚したこと発表した上、七冠獲ったのも奥さんに七冠を獲ってからプロポーズしたかったからだっていうんだもん! その上、実際は七つ目のタイトル戦の前に逆プロポーズされて、有頂天になって七冠達成とか、どんだけ奥さん好きなんだよって思ったもんだよ」

 神宮寺会長が語っているのは、現七冠王である宗谷よりも先に七冠を制した棋士――羽田名人のことだ。

 もうじき三十代に突入するとは思えない若々しさと、涼やかで甘い美貌を持つ羽田名人は、愛妻家としてもとても有名である。
 七冠は失ったものの現在もA級で活躍しており、なおかつ会長からの要望に応じてクイズ番組など他の棋士と比べてメディア出演も多いため、お茶の間のマダムからお子様まで大変人気の棋士だ。
 会長の言葉に、横にいた島田も「ああ」と懐かしそうに頷いた。

「アレはすごかったですね。鬼気迫る顔で全員圧倒して、嵐みたいに七冠を達成したと思ったら、満面の笑みで結婚発表して……全員度肝を抜かれましたよ」
「あ、覚えてます。当時、テレビですごく話題になってましたね」
「そ。しかも本人がまあ惚気るもんだから、それまでのちょっとお硬いイメージからあっという間にお茶の間に馴染んでさあ〜、そのおかげでスポンサーも増えたし」


 写真には、満面の笑みの羽田と淡く微笑む女性が写っていた。女性は髪型で大人っぽく見えるが、顔だけを見ると――

「羽田さんの奥さん――すごく、若いですね……?」

 おいくつなんですか、という桐山の言葉に、島田はそういえば羽田とは殆ど面識が無かったか、と思い出す。

「これで羽田と殆ど年齢違わないってんだから驚きよ。しかも『あの』米花町で婦警してるってんだからもー驚いたのなんのって」
「えっ! 米花、ってあの米花町ですか?」
「そっ。その米花町。所属は警視庁なんだけど、担当してる地区がそこなんだってさ」

 米花町――『日本のヨハネスブルグ』と裏で称される、日本きっての犯罪都市。しかも首都である東京に存在しているという、事実は小説より奇なりなデンジャラスな街だ。
 そのお隣の杯戸町もなかなか不穏らしいが、ダントツなのはやはり米花町である。一日の軽犯罪から殺人などの件数が異様な上、やたらと凝ったトリックで仕掛けられているので解決するのも一苦労なのだという。

 因みに羽田名人と奥さんは、名人が独身時代から暮らしている米花町内のコンシェルジュ付きマンションで暮らしているらしい。
 神宮寺は会う度に早く引っ越せと言っているが、物件探し諸々が難航しているようだった。

「羽田曰く、毎週のように退職願出してるんだけど事件が多すぎるのと人望が厚すぎてなかなか受理されないって嘆いてるらしいですよ」
「難儀なもんだなあ、いや、あのネットワークはホントマジやばいけど」
「どこの警察署にも必ず一人は知人が居るって言ってましたしね」
「す、すごい……」

 警視庁の誇る『第六感の女』と呼ばれる羽田の妻は、交通課の一婦警でありながら人望がめちゃくちゃ厚かった。
 彼女が辞めると告げた日には秒速で話が警視庁内に回り、上から下まで大騒ぎになったほどだったらしいのでその人望が垣間見えるというものである。
 やめてほしくない理由の一つに、彼女が主宰した合同コンパでのカップル成立率が非常に高く、事件に私生活を喰い潰されている独身の警察官達にとって彼女が一縷の望みという悲しい現実もあったのだが――それを知るものはこの場には居ない。

「言っちゃあわるいですけど、早く辞められるといいですね」
「ほんとにな。メンタルチェックに引っかかったからそろそろ恙無く辞められる予定らしいが、周りがしつこいからな〜」
「羽田も心配してるし、あとあんまり延ばすとたぶん羽田の方が手段選ばなくなりそうだし」
「えっ」
「それよそれ! 普段からあーんなお澄ましヅラしてっけど、嫁さん過激派もいいところだからなぁ、アイツ」
「えっ、ええっ……?」

 まだ未成年で親交もあまりない桐山には分からないだろうが、A級の棋士や、少しでも羽田のことを知る人の中では最早常識だ。
 記憶力が異常にいい上、頭もキレて将棋も強く、その上ルックスもいいというハイスペックな男だが、唯一弱点と呼べるものが、最愛の奥方である。
 その溺愛――首ったけっぷりは重症で、彼女の反応で簡単にメンタル不調に陥ってしまうほどなのだ。
 それも彼女は承知していたようで、「じゃあ、私を七冠を獲った男の奥さんにしてよ」と、彼が七つ目の冠を懸けた勝負の直前、逆プロポーズされた際にそう言われた彼は七冠王となった。
 後にも先にも、将棋界でその話を知らない奴はそう居ないと言われる、唯一無二の伝説の男。
 もともと結婚したのも、嫁の方からプロポーズしてくれたこのチャンスを逃したらおそらく一生結婚できないと本能で察知したからという裏話がついてくる。
 嫁に対してのレーダーが非常に精密なのが、羽田秀吉という男なのだ。
 つまり、彼は嫁が嫌がることを強制する相手にはたとえ国家権力だろうが堂々と中指を立てるタイプだ。


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