えでん
その手紙が届いたのは、両親が過労で亡くなって間もない頃のことだった。
自宅に届いた、『結城亮さま』と記された一通の手紙。手書きであろうやや丸みのある文字は就活の当落通知のあの人工的な文字とは違っていて、荒んでいた心が少しだけ息を吹き返す。
中を見ると、そこには丸みのある文字で、丁寧に文字を選び、相手を慮る気持ちが滲み出るような優しい言葉が並んでいた。
手紙は両親の訃報に対してのお悔やみを述べることから始まり、指定の日時に指定の場所へもし大丈夫なら来てほしいという言葉と、体を壊さないように過ごしてほしいと身を案じる言葉で締められていた。手紙はどこまでも『僕』を案じてくれている言葉で溢れていて、手紙を持つ手が震える。
ーーこんなに心配してもらえたの、いつぶりだったかな。
両親が死んでしまった今では、天涯孤独の自分を心配してくれる人など誰も居ない。ワーキングプアの派遣社員で使われるだけ使われて切り捨てられ、借金をしてまで必死に資格をとっても実を結ばず、自己責任だと馬鹿にされ。こんな身分では恋人なんて作れるわけも無く、その日その日でどうにか自転車操業のような、それ以下の日々を送っていた。
記された日時は日曜日の昼近く。指定された場所は、家から徒歩で行ける範囲だった。
行ってみよう。素直にそう思った。
例えどんな内容だったとしても、自分を騙すための気休めの言葉だったとしても、この可愛らしい手書きの手紙に、ギリギリまで追い詰められていた心が救われたのは確かだ。
手紙越しとはいえ、久しく触れてこなかった人の温かみにずっと強張っていた体は少しだけ緩んでーーやっと、涙を流すことができた。
1
日曜。手紙を片手に握った結城は、指定された場所へと来ていた。
指定された時間よりもやや早く着いてしまうのは、社会の底辺で働いて酷使されていた頃からの性分だ。腕に付けてる時計で時間を見て、どこかで座っているべきかと考えを巡らせる。どうしたものかと思っていると、「あの」という声と共に、腕を掴まれる感触。
「結城ーー結城亮さん、ですか?」
開口一番に問いかけた声。腕を掴んできた人物は、まだ歳若そうな、あどけなさの残る女性だった。天使の輪がある黒髪に、色白な肌、薄らと化粧をしてあるのか、唇と頬に人工的な赤みが差している。久しく異性と触れ合ってこなかった体は、唐突な供給にぎゅっと硬直してしまう。こういうとき、どう対応すればいいのだったか。
「あの……?」と不安げな声が聞こえて来たところで、トリップしていた意識を現実へ戻すことができた。
「そ、そうですが」
「よかった……! お会いできて嬉しいです。私、麻倉#名前#と申します」
「あ、ご丁寧にどうも……結城亮といいます」
「大変な時に無理を言ってしまって申し訳ありません。来てくださって、本当に嬉しいです」
絞り出した声は情けなくも震えていた。そんな自分への自己嫌悪と羞恥で顔が熱くなる。
しかしそんなことを気にする様子もなく、ありがとうございますと#名前#は微笑を浮かべた。その顔を見て、ああ、と緊張感が薄れていく。ーー文字とよく似た、可愛らしい女性だ。
2
「では行きましょうか」という明るい声に誘われて入ったのは、小ぢんまりとした食事処であった。#名前#は店員と話した後、再び結城の腕を優しく掴んで奥へと連れて行った。
連れてこられたのは扉がついた小さめの個室で、向かいに座るよう促され、言われるがままに結城は#名前#と向かい合う形で席につく。
「あの、ここは……」
「もうすぐお昼ですから、お話は食事をしながらで! 費用はこちら持ちなので、気兼ねなくお好きなものを選んでくださいね」
さっと複数あるメニュー表を一つ手渡される。思わず受け取ってしまったが、正直こんなちゃんとした店で食事ができるほどの手持ちは無い。費用はこちら持ちだと言うが、年若い女性に出させるなんて、という男としての複雑な気持ちも相まっているのだが、そんな焦燥感もお見通しだといわんばかりに、「大丈夫ですよ」と#名前#が言う。
「私は上司というスポンサーから経費を貰っていますから。というか、私だけ食べちゃうと怒られちゃいますし……どうか人助けだと思って、ねっ?」
「そ、ういうこと、なら……」
「よかったあ! 私、実は朝ごはん殆ど食べてなくって、ペコペコだったんです」
メニューで口元を隠しながらうふふと笑った#名前#は、何を食べようかなとのんびりした声で言いながらメニューを開いた。
結城もそれにつられ、メニューに目を向ける。困窮した状態が続いてきたのもあり、こんなしっかりした定食なんて随分と食べていない。両親が死んでからはなおのことだった。「どれも美味しそうですねぇ」と心から楽しげに言う声が耳を擽る。
まるで夢の中に居るような感覚だ。だけどじわじわと湧き出てくる空腹感が、これは夢ではないのだと体の中で叫んでいた。
3
「単刀直入に言いますと、結城さんには私のお仕事の手伝いをお願いしたいんです」
食事をしながら、#名前#は本題へと入った。初めて見たときは少食そうに見えたのだが、店員に雑穀米を中盛りで頼む姿はその予想を大きく覆した。「ご飯、大盛りもあるんですよー」という言葉につられ、自分の分を雑穀米の大盛りにしてしまうほどに。
美味しそうに定食を食べる姿は小動物のようで可愛いと思った。異性と食事をしたのなんて、随分久しぶりだ。なんだかふわふわした感覚に酔いかけていたところで持ち出された#名前#の話は、結城を現実へと繋ぎ止めてくれた。
「仕事の手伝い、ですか?」
「はい」
#名前#は、祖母の家業を継ぐ形で不動産の管理の仕事をしているのだと言った。
所有している物件は主に土地や貸家なのだが、手持ちの物件にはアパートなどもあり、立地が少し安全性が低い場所にあるモノもあるということ。そういう物件を求めてくる客は訳アリの場合も多く、平体に言って、カタギの人間じゃない相手も居たりするのだという。なので、対応するにあたり、自分以外にも誰かーーできれば男がいたほうが何かと助かるのだと。
「こっちがどんなに丁寧に対応しても、こんな小娘の言葉なんて……って侮ってくる人結構多くて。だけど成人した男の人が隣にいるだけで全然反応が違うんですよね」
「でも、なんでわざわざ京都まで来てまで僕に話を?」
「それは……」
結城の問いは、手紙を受け取ったときからずっと気になっていたことだ。両親の友人とはいえ、長らく会うこともなく、訃報を知って手紙を送って来たくらいだ。生前、両親からもそんな友人の話は聞いたことが無かったので、なおのこと不可思議な印象があった。
問いかけに#名前#は一瞬遠くを見るように目を細めてーー口元に笑みを象ったまま、ぽつりぽつりと話し始めた。
「……私の両親は、昔結城さんのご両親と交友関係がありまして。うちも、両親が亡くなって久しく、毎日慌ただしくて考えることもなくて……だけど先日、なんとなくそのことを思い出しまして。思い立って近況を調べたら、ご両親の訃報を知って、息子さんである亮さんのことも、気になって調べてみたんです」
そうして両親の友人であった人の息子の立たされている苦境を知った#名前#は、衝動的に手紙を送った。ちょうど人手が必要としていたのもあったが、何よりも放っておきたくないと思ったのだと。そしてその考えを、#名前#の祖母も背中を押して許してくれた。
もし嫌なら無理強いをするつもりはないのだと#名前#は言った。だけど、と言葉は続く。
「住む場所の家賃や光熱費の心配はしなくて大丈夫ですし、三食ご飯と、おやつも出ます! 仕事は色々あって……覚えるのに時間かかるかもしれませんけど、今は心の休養を優先してほしいと、祖母から言伝も預かっております。地元から離れるのは、複雑なお気持ちかもしれませんけど」
ーー叶うなら、私は結城さんに来ていただきたいと思っています。
そう絞り出すような声で言った#名前#の顔が、あまりにも切なげで。心臓がぎゅうと鷲掴みされたような気持ちになる。
「行きます」
気づいたときには、口からその四文字がこぼれ落ちていた。
眉を下げた彼女と目を合わせ、結城はもう一度、今度ははっきりと「行きます」と答えた。
「もともと、両親が亡くなって、だけどどこか遠くへ行くほどの余裕も無かったから、ずっと此処に留まっていただけなので。僕で役に立てることがあるのなら、その話、お受けさせていただきたいです」
4
「売店で、飲み物を買ってきておくれ。三人分、軽くおやつもね」
「ガッテンでいおばーちゃま! 結城さん、コーヒーとお茶とジュース、どれがいいですか?」
「お、お茶で」
「はーい! すぐ戻りますねーっ」
軽やかな足取りで部屋を出た#名前#を見送ると、室内に微妙な沈黙が落ちる。
初対面の、それも雇用主となる相手と話す話題なんてこれっぽっちも無い。どうしたものかと内心頭を抱えていると、ふうと呼吸をする音が聞こえた。
「あの子もねえ、」
口を開いたのは、ベッドに背を預ける老婦人の方だった。
「とても、苦労していてね……小さい頃に親を亡くして、一人ぼっちになっちまって。アタシが迎えに行く前に、勘当した馬鹿息子に攫われた上、そこで奴隷みたいなひどい扱いを受けてね……」
それは、予想もしない言葉だった。老婦人から語られる話の内容と、先刻病室を出た彼女とヴィジョンが一致しないからというのもある。
「アタシが見つけた頃には、あの子……真冬の公園で、半袖半ズボンに裸足で、写真一枚握って震えていたよ」
住居を探し当てるのに数ヶ月。その間、#名前#の両親の残した遺産を勝手に使い込み豪遊していたという伯父一家は、#名前#にまともな食事も与えず物置のような小さな部屋に押し込んでいたという。体は暴力によってぼろぼろで、気力だけで生きてるような状態、栄養失調で、顔色は土気色だった。
「小さい子に、なんて惨い仕打ちを……!」
「ああ。アタシも怒ったよ。#名前#を保護した後、奴等が使い込んだ分を耳揃えて返すように裁判起こしてねえ」
更生の見込めそうな伯父一家の子供二人には進学の最低限の援助を約束し、夫妻には使い込んだ金の返済と暴行への慰謝料を義務付けさせた。今も一家は使い込んだ金の返済に追われていると聞き、胸がスっとした。
「#名前#は元々京都に住んでたんだよ、あの子、ずーっと一目惚れした年上のお兄ちゃんにゾッコンでねえ」
にやりと老婦人が笑う。
「亮くんだったかい? アンタ、むかぁしに家に来てたちびっ子に覚えはあるかい? 髪を二つ結びにした、おチビさんさ」
「……あ……」
差し出された写真には、一組の家族の姿が写っていた。幸せそうに笑う夫妻と小さな子供。見覚えのある母親らしき女性と、#名前#の顔は良く似ていてーー小さな子供は誰なのか、カチリとピースの嵌る音が聞こえた。
ーー私ねえ、おっきくなったらりょうくんとけっこんする!
昔昔のことだ。
両親の友人だという女性と、その娘さんがうちに遊びに来たことがあった。当時中学生だった自分よりも随分と小さな女の子の相手を母に頼まれ、それを承諾したのを覚えている。
女の子は大人しくて、けれど打ち解けると、膝の上に乗って離れなくて、兄弟が居なかった僕は、妹がいたらこんな感じなのだろうかと、ふわふわとした気持ちだった。
帰る間際、名残惜しそうにぐずる女の子にまた会えるよと諭すと、女の子は顔を赤くして、そして、そう……僕と結婚すると、拙い約束をして、笑顔でまたねと言って帰っていったのだ。
可愛くて、愛しくてーー嬉しかったのを、覚えている。
「家族が居なくなって……苦しいのも、知ってるからーー」
「#名前#ちゃん……」
「初恋だったの。時折思い出して、幸せになってたらいいなって、ずっと祈ってた……それで、ご両親の訃報を知って、亮くんが今どうしてるのかも知ってーー」
絶対連れていくって、決めていた。
「好きになってなんていわない。ただ、私と一緒に暮らして欲しいの。それで、一緒にお仕事して、休みをのんびり過ごそうよーー京都よりは田舎だけど、都会みたいにごみごみしてなくて平和だし、物価も安いし、それに、それに、それに……」
「#名前#ちゃん」
「ー一緒にいよう? ひとりは、さみしいから……」
「じゃーん! とーちゃく!」
「わあ……!」
連れてこられた場所は、それまで暮らしていた家とは全く違っていた。
都心部から離れた、コンクリートよりも緑の多いその町に、#名前#の住む家はあった。
家は二階建ての立派な一軒家で、外観はどこかレトロな趣がありつつも、内装は現代的な仕様になっている。開放的なリビングから見える庭では花壇に植えられた花たちが咲き誇り、家の裏側には、家庭菜園をしてるのだという田んぼ一枚分の大きな敷地が広がっている。
祖母と二人で暮らすには、十分すぎるほど立派な家だ。
「亮さんの部屋はこっちです」
居間の奥にある一室が、これから自分が住む部屋だった。綺麗にセットされていた部屋の中には、既にベットとデスクが用意されていて、備え付けのクローゼットには新品らしい服が何着かハンガーに掛けられていた。
「こ、これ」
「……し、調べた時に、大まかな体型はわかってたので……すぐにでも住めるようにと……き、気持ち悪いですよね、ごめんなさいぃぃ」
「いやっ! そんなことないよ! ごめん、驚いただけで気持ち悪くなんて思ってないから!」
「……ほ、ほんとう?」
指の間から覗く瞳は不安げだった。それが無性に愛しくて、結城は笑って、それから「ありがとう」と#名前#を撫でた。
「不動産管理っていっても、大抵はおばーちゃんの資産の管理で、メインはあの家庭菜園だったりするんですよね」
「ああ、あの立派な」
「あれはおばーちゃんの大切な菜園だし、自給自足できるとその分野菜代が浮いて家計も大助かりというやつで」
#名前#曰く、祖母からの課題として資産運用の方法や、今後のために株取引なども実戦形式で学んでいる真っ最中だという。
「でもたぶん、私よりも社会人だった亮さんの方が株取引うまそうですね」
自給自足の生活をしてると、世俗との関わりが最低限になるせいか世情にも少しばかり疎くなるのだと恥ずかしげに#名前#はいう。
「だっ、だめ! わたしの! 私の大切な人! あげない!」
結城の腕を掴み、顔を真っ赤にして叫ぶ姿は小動物を彷彿とさせる。
「アラ、そうなの結城クン?」
「ーーはい。僕は、#名前#ちゃんのものなので」
ぼふんと顔を真っ赤にしたその姿に、今度こそ笑ってしまった。
「おばーちゃんはこの町の名誉町民で、町の発展にも一家言持ってるんです」
「私達の家も、元はここのおばあちゃまの持ってた土地を買って建てたものなのよ」
「住宅街にするより、切り開いた後、階段とか整備して大きめの広場にするのはどうう? 休みは親子でちょっとしたピクニックに行けて、町のレクリエーションとかでも使えそうだし」
「#名前#は、百億で人助けできるとしたら何に使いたいたい?」
「わたし?」
うーん、と暫し考えて
「全国の孤児院の環境改善と、あとは虐待や親子で逃げ出してきたシェルターの拡充……かなぁ?」
どんな子にでも学ぶ権利は平等にあるべきだと、それで採掘される光る原石だってあるはずだというのが#名前#の主張だ。