ハイジと女子高生

 昔から、人一倍冷静さはある方だという自負があった。
 それは家庭環境や己の性質によって出来上がったもので、この場合の冷静さとはストレスや想定外のトラブルに対してのものである。
 なのでそう――こういうことについては、私はとんと耐性というものがなかった。

「#名前#ちゃん、俺と付き合って欲しい」
「…………は?」

 頬が引き攣るのが分かる。目の前に立つ彼は「因みにどこかへ行くのに付き合うとかではないぞ」とにっこり笑いながら逃げ道を潰していく。

「あの、ハイジさん」
「ん? どうした」

 私は数秒ほど全力で頭の中をフル回転させ、ピーンと答えを弾き出した。

「――エイプリルフールはまだですよ?」

 何故か空気が固まった。
 どこからともなく聞こえた「ぶふっ」という笑いを堪えるような声に、私はこの竹青荘の古さを改めて認識する――どうやら盗聴されているらしい。誰かは分からないが、まあ建物の前で話しているのだからやむを得ないだろう。

「……エイプリルフール?」
「違うんですか? じゃあ、アレだ。タチの悪い賭けでもしましたか? アオタケの皆と」

 だとしたら、私は他の面々を叱らなければならない。
 たとえ相手が皆歳上であろうとも、古い友人である葉菜子は彼らと接する機会が多い。もう学校は違えど、小学校から長い付き合いである友として、いたいけな少女の心を弄ぶのは――それも半数以上成人済みの男性が住まうアオタケ荘の住人である人たちがそういうことをするのはよろしくない。

「エイプリルフールではないな。賭けもしていない」
「ええ? ……じゃあなんでまたそんな素っ頓狂なことを」
「惚れたからだ」
「……私に?」
「ああ」

 その通りとハイジさんが頷く。私は頭を抱えた。

「何か、変なもの食べました? それとも駅伝が終わって、ハイになってらっしゃる……?」

 年の初め、このアオタケに住む十人――寛政大学駅伝部の皆は、箱根駅伝に初出場にして次回のシード権を獲得した。奇跡とも呼べる偉業を達成したのだ。
 私自身、古い友人である葉菜子に誘われなければ駅伝について詳しく知ろうともしなかった身なのだが、誘われるまま手伝うようになって、努力している皆の姿を見守るのがいつの間にか楽しくなっていた。
 就活もあったので手伝えたのは葉菜子ほどではなかったけれど、一応こうして他の人たちとも話したりする程度には親交を深めた、と思う。ハイジさんもその一人だ。
 しかしこれはちょっと、あまりにも突飛がすぎるのではないだろうか。

「あの、私……春には社会人で……正直、恋愛とかしてる暇も余裕も無いです。そこら辺は以前、お伝えしたと思うのですが」
「ああ。聞いたな」
「……でも?」
「俺は#名前#ちゃんと付き合いたい」
「うーん、この潔さというか粘り強さ……」

 これがかつてアオタケの面々が味わったというハイジさんの執念深さなのだろうか。後で訊いてみなければと思いながら、私は頭の中を再度フル回転させる。
 困った。いいかわし方が見つからない。
 そもそも私は生まれてこの方恋愛の「れ」の字にも無縁な生活を送っていたので、聞きかじった多少の知識はあれど経験はない。
 それに対しハイジさんはいつでも上手というか、年齢差もあって彼女を作っていたこともあるだろうし、それも小器用にやっていたのだろうなと普段の姿から容易に想像がつく。

 つまり、そう。
 私はいま、圧倒的に不利なのだ。

「恋人を作る気はありませんので」
「そうか。じゃあ俺と付き合ってほしい」
「会話が成立してないですね……」

 頭が痛くなってきた。


 私は現在、兄と新居へ移るべく絶賛引っ越し中だ。
 新しい住まいは職場からさほど遠くないところにある一戸建ての賃貸で、家賃も都心ではないのと、姉の仕送りや兄が密かに貯めた貯金も併せて十分暮らしていける値段だ。
 一応社会人三人が住むので、そういう意味でも良い物件を見つけたと思う。
 外観こそ真新しいわけではないが、中はフルリノベーション済み、風呂やトイレ別、キッチンも火の回りは文句なし。兄と数件見て回り、海外に居る姉に写真を送り、厳選に厳選を重ねて決めた場所。
 そこが、私たち兄弟の新天地となるのだ。

 交流のあるアオタケの皆さんも手伝ってくれて、おかげで予定よりずっと早く引越しが済みそうなのはラッキーだった。家を出ると決めてからあまり新しいものは買わず、断捨離を粛々と進めていたので荷物自体も少ない方だったのもあるだろう。

「おっしゃれー! スゲーッ、めっちゃ綺麗じゃん!」
「しかも広っ!」
「お姉ちゃんの部屋もあるんで、ここなら良いかなって」

 ジョータくんとジョージくんが歓声を上げながら部屋の中を見て回る。
 引っ越しの手伝いをと、わざわざ竹青荘の皆さんが時間を空けてくれたのは本当に助かった。四年生の皆も卒業を控え大変なはずなのだが、恩返しだと云われてしまうとありがたくお願いするほかなかったのだ。

「良いところを見つけたね」
「はい。近いうちにお姉ちゃんも一回帰国するって言ってたので、家電を買い揃えるのはそこでかなと」

 神童さんの言葉に、私は笑顔で頷く。
 間取りは部屋が三つに、リビング・ダイニング・キッチンと東京にしてはなかなか好物件だ。家賃も折半なので、出すお金は一人暮らしとたいして変わらない。むしろ、一人暮らしするよりも水回りなどはスペックが高い。
 その上基本家には在宅の兄が居るので、防犯なども安心である。

「私とお兄ちゃんの部屋は二階なんですけど……」
「よーし、じゃあ荷物運ぶか」
「あ、これはパソコン入ってるから、自分で持っていくよ……」
「じゃあこっちのコード類は俺らが持ってくわ」

 ユキさんやニコちゃんさんなど、機械類に詳しい人や単純に力持ちな人たちがお兄ちゃんの方を、神童さんやムサさんなど、女の子の物に対して丁重に扱ってくれそうな人たちが私の方の荷解きを手伝ってくれるらしい。
 決めたのは現在診察からこちらに向かっている最中のハイジさんだそうだ。

「じゃあ、これ持ってくよ」
「ありがとうございます。階段、気をつけて」
「大丈夫」

 私の部屋は階段を登って右だと伝えると、カケルくんは頷いてダンボールを抱えて階段を上がっていった。
 じゃあ僕らも、という神童さんの言葉で、私も荷解きを始めたのだった。


「とても可愛らしいお部屋ですね」
「そうですか? 家具類は姉があらかじめ用意したのをそのままつけたので……」
「そうなのですか。お姉さんは素敵な趣味をしていらっしゃる」
「あはは、伝えておきます」

 私は別に色などにこだわりはないので、そこらへんは姉にお任せした。流石に服を入れる収納ケースなどは自分でも扱いやすいものを選んだけれど、それ以外は基本お姉ちゃんとお兄ちゃんが話して購入したものばかりだ。私はそういうものを選ぶのがあまり得意ではない。

「えっと……服はクローゼットと収納ケースに入れるので、窓側の隅にお願いします」
「わかった。机とかはどうする?」
「一応後でお兄ちゃんがパソコン組み立ててくれる予定なので、その時にちゃんとセッティングしようかと」
「#名前#ちゃん、ノートじゃなくデスクトップなの?」


「はい。外はタブレットをお姉ちゃんがくれたので……本人は型落ちだって言ってたけど、私には十分ですから」



 正直、高校を卒業した辺りの両親の記憶はあまりない。
 それは姉と両親――主に母との戦争があまりにも激しかったというのもあるが、私の中で『親』への情が尽きかけていたというのも大きかった。

 家を出て自由になった姉、壊れてしまった兄、未子の私だけはと、あの人達は事あるごとに言った。
 けれど、私は不思議に思ってしまった。そして拒絶した。それが全てだ。
 父は結局母が一番で、母も父が一番。
 二人にとって、私たちは自分たちをより良く見せるための「飾り」でしかなく、そこに「我が子への愛情」というものは無いのだ。それを悟ってしまったから、きっと姉は家を出て、兄は心を壊した。
 上二人の前例を見てきた私は、未子らしく小器用に回ってみせたけれど――悲しくなかったわけではない。
 本当は、悲しかったんだよ。パパ、ママ――私たちは、悲しかったんだ。

「さようなら、お父さん。また子どもを作ろうだとか、引き取ろうだなんてばかな事はしないでね」
「#名前#――」
「私たちは人間で、あなた達の子ども。だけどあなた達は、私たちのことをアクセサリーとしてしか見てくれなかった。今なら断言できる。二人に、子育ては向いてないよ」

 家の中から甲高い声が聞こえる。母がヒステリックに喚く姿が目に浮かぶ。今だってこんな顔をしている父も、私が居なくなれば、すぐさま母のそばで優しく言うのだろう。「君は何も悪くないよ」と。
 父は戸籍上と遺伝上の父であるが、彼は「父親」にはついぞ成りきれなかったのだ。そしてそれは、私たちを産み落とした母も同様に。

「お姉ちゃんの仕送り、私も家を出るからなくなるよ。使いもしないもの買い込んで浪費するんじゃなくて、要らないものを売って、二人で老後をどう過ごすか考えるのが懸命だと思う。人生百年というけど――その傍らに、あなたの子どもは誰も居ないんだから」


 成人組だけが集まった酒盛りの席で、#名前#の姉はジョッキを片手にこう言った。

「私はね、兄弟の中で一番怖いのは#名前#だと思ってるの」
「僕も……」
「えっ、#名前#ちゃんが?」

 きょとんとした顔で神童が小首をかしげる。
 アオタケの住人たちのイメージする#名前#という少女は、葉菜子と共に寛政大学陸上競技部を手伝ってくれた、優しくしっかりした女の子という認識だ。
 進学ではなく就職希望ということもあり、冷静な視野を持つ彼女の支えに助けられたことも多い。ハイジが倒れた際は葉菜子よりもやや遅れて駆けつけ、カケルと王子以外の轟沈した面々に温かい食事を拵えてくれた。
 ハイジとはまた違った家庭の味を、轟沈した面々は涙を流しながらありがたく頂戴した。
 天真爛漫な可愛らしさの葉菜子を何かと世話を焼いたというだけあってしっかりしている彼女はとても健気だ。
 垣間見える年相応の少女らしさに男ばかりのアオタケの面々が庇護欲に似たものを芽生えさせたのは致し方ないことだろう。
 閑話休題。
 そういう認識であるため、#名前#の上のきょうだい二人の発言は、アオタケの面々にとって意外なものだった。

 #名前#は姉や兄には何かと甘えるような仕草を見せていたので、それを微笑ましく思ったこともあったからだ。

「君たち、それは処世術というものよ」
「あの子は、生まれた家が悪かった」

 #名前#の姉は寂しさを滲ませながら笑み、兄は長い睫毛を伏せる。
 #名前#たち三兄弟の親がどういう人であるのか、さわりだけではあるものの、成人組は一応聞かされている。
 その結果、姉は卒業とともに金を稼ぐために日本よりも自由で一攫千金のチャンスのある海外へ飛び出し、兄は心を壊して床に臥せ、未っ子の#名前#が家事を一手に担い、兄の介護をしながら受験勉強をして高校へ進学したことももちろん知っている。

 多感な時期で様々な成長をしていく時間を、#名前#は誰かに守られることのないまま現在に至っている。人あたりこそ良いものの、根の部分はとても脆い。

「末っ子だからね、上二人がこんなもんだから、親への上手い立ち回り方ばかり覚えてしまって……あの子たぶん、「親」を「親」であると認識してないのよ」
「#名前#ちゃんは……二人を嵐の類だと思ってるから……」
「嵐、ですか?」
 神童が小首を傾げる。そうだよ、と#名前#の兄はグラスを揺らす。
「自然災害。自分の意志とは関係無しに突然起こる天の災い。そう認識して、うまく被災しないよう立ち回り続けてるの。小学校の頃からずうっと」
「論点ずらして見て見ぬ振りするあの人達もヤバいけど、僕は妹がそれをどこの家の親もそういうものなんだって中学くらいまで本気で思ってたことに慄いたね……」

 ちょうどその頃、姉は金を稼ぐため海外に拠点を置き、兄は喋ることすらままならない状態だった。
 狭い世界で生きるからこそ、外を知らない少女にそれを知れというのは酷な話だ。

「だから今回、就職して、自立と共に切り捨てる気なんでしょ。あの子、最後だからってズバズバ言うだろうなぁ……」
「それを受け入れない災害が我々の親なわけです」
「――ま。だからね、#名前#ちゃんは自分にそういう、幸せ(・・)になるのは向いてないって本気で思ってるのよ」

 ぐいとジョッキを呷り、#名前#の姉はハイジを見る。

「君のいう「好き」っていう言葉はね、あの子には未知のものだよ。ハナちゃんのおかげで真っ当な家庭の在り方を知ってるぶん、こんなヤベー家で育ったのに倫理観もしっかりしてる。だから自分が誰かと付き合った結果の不安要素が分かってるの。今のあの子は人と付き合うことや結婚とか、普通の女の子が一度は憧れそうなものに対しての忌避感があるんだと思う」
「……そいつぁ、なんつーか、寂しいモンだなぁ」
「本人も虚しさは感じているのだろうけど、それをどうにかしようという考えに至らないのよ。――そも「虚しさ」と認識してない可能性のほうが高いわね」

「僕たちの世話を焼いてたまに甘えるのも、究極的にいうと、僕らに見捨てられないようにっていう、あの子の生存本能がさせてるところ……あるだろうし」
「……#名前#ちゃんにとっては、二人が親代わりだからということですか?」
 王子が訊ね、#名前#の姉が頷く。
「あるだろうね。私が日本を出た後、弟が倒れて――一番追い詰められた極限状態の中で受験してるから、メンタルのタフさは凄まじいよ」
「他のお嬢さんのように、簡単に落とせる子じゃあない……理由の一端は僕だから、そこはごめんだけど」
「アンタ倒れた頃、私はディーラーの修行しながらキャストやってたからなあ、海に出てたから電波が届かなくって」
「……その話聞く度に思うのですが、お姉さんの経歴って漫画並みですよね、ちょっと詳しくお伺いしてもいいですかね」
「ハハハ」

「……清瀬くんは、何を思って、#名前#ちゃんを好きになったんだい?」
「……それは……」
「確かに。ハイジなら女の子なんてよりどりみどりって感じだろうしなぁ」
「#名前#ちゃん、未だに告白を罰ゲームかなんかだと思ってる節あるしな」
「リアリストだから、そこらへん。ハイジくんは成人してるし、あの子は新社会人になるとはいえまだ未成年。だから余計なのかもね」
「立ちはだかる倫理の壁」「女の子はしっかりしてんなあ」「男がルーズすぎんのよ」


 姉は、私の卒業とともに親との縁を完全に断絶することにした。
 元々私が学生で不安を与えてはいけないと思いとどまっていたところで、私が進学せず就職する道を選んだことが決定打だったらしい。
 兄は引きこもりだがパソコンを通じて自力でお金を稼げて、そこそこ収入も増えてきているらしい。
 詳しいことは分からないので、当分は私の収入で生活費を賄えばいいと思っている。
 資格は一通り持っているし、見学や面接で仕事内容も把握している。
 会社の採用の方からも、入社まではのんびり過ごすといいと言われているので、引越しが終わったあとはしばらくのんびりするつもりだ。


 理由を訊かれると言葉に詰まる。
 ハイジが#名前#に惚れた理由、そう問われても、その感情はあまりにも複雑怪奇なものだからだ。
 相手がまだ高校生ということももちろんある。だがハイジの#名前#への感情は、そんなことすら些細なことと思える激情が滲んでいる。
 歳と合わない慈しむような目も、暗闇の中で見た儚げな背中も、頬を寒さから赤くさせている幼げな顔も――気づけば全てが愛おしかった。
 普段の様子から滲む寂寞を埋めたいと思った。他の誰でもなく、自分の手で。
 それに気づいたのは箱根駅伝でゴールに辿り着いてしばらく――仲間に囲まれた自分のところへ、ハナちゃんやニラとともに彼女が来たときだ。
 これまでに見たことの無いほど感情を顕にした彼女が、噛み締めるように言った「おめでとう」の言葉に、蓋が外れたのだ。
 出会って一年も経っていないけれど、気分はそれよりも長く共に過ごしたような気持ちだった。

「……今ほど灰二さんと付き合っていて助かったことは無いですね」

ぐったりとした様子で#名前#が言った。
それに反応したのは、寛政大学卒業生――あの箱根を走り、無事卒業した面々だ。
竹青荘を出た四年生三人は、時折#名前#たち兄弟の家に訪ねてくる。#名前#たちが酒盛りの場としてリビングを提供しているからだ。 
その上、清瀬と#名前#は付き合っているので、ちょっとした逢い引きも兼ねている。残りのふたりは、#名前#の兄とウマが合ったらしく、楽しく飲んでいる。

「何かあったのか?」
「#名前#ちゃんがそこまで言うなんて初めてじゃないか?」

疲れた様子の#名前#に、キングとユキが心配そうな顔を見せる。実は、と#名前#はぼそぼそと話してくれた話に、ふたりは顔を顰めた。

「同期に迫られてるぅ?」
「#名前#ちゃんと同期で大卒っつったら、俺らとタメだな」
「事務職でいろいろ手伝ってあげたりしてたんですけど、そしたらなんか……やたら近いっていうか……」
「モーション掛けて来やがったのか……外道め……」
「助かったってことはなんとか交わせたんだろ?」
「一応、貴方と同い年の人と付き合ってるのでって言いましたし、上司にも相談はしたんですが……」

それでも狙いを定めるような目線を度々受けるのだと言う。
リハビリ帰りの清瀬がわざわざ迎えに来て、見せつけるようにしたところ、モーションは減ったらしい。だがそれから、なんだが嫌な目をしてくるようになったという。

「有り体にいうと、ワンチャンあんじゃね? 見たいな感じで見てくるんですよ、あと彼氏俺と同い年なの? じゃあ彼氏のこと相談に乗ってあげるよ、飲みに行こ、みたいな」
「クズだな」
「」

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