神童と後輩女子
わたしは、何かに成りたかった。
夢もなく、情熱もなく、周囲やもっと大きな世間の『流れ』に身を任せ、わたしは流れ続けてきた。
だからそれに気づけたとき、わたしは泣きたくなるほど嬉しかった。たとえそれが、周りの人々に理解されないものだとしても良かった。
画面の向こう側に住まう人たちが、その時だけは現実の世界に現れる。こちらの住人の体を借りて、現実に足をつけるのだ。
それを見た瞬間、「これだ」と強く思った。
『変身願望』とでも云うべき激情が、わたしのなかにはあったのだ。
「基本は学業優先ですよ。これはあくまで息抜きの趣味です」
針と糸で器用にフリルのギャザーを作り出しながら#名前#が言う。
なるほど、と柏崎茜は頷いた。
#名前#は、繊細さのある美貌を持つ柏崎に対して普通すぎるほど普通に接してくれる数少ない女の子だ。そして病的なまでに漫画好きな自身の嗜好をけして笑わず、理解を示してくれる貴重な善性の持ち主である。
だから、これは例えるなら先輩からのささやかなアドバイスのようなものだ。
「神童さん、今フリーだよ」
ピタリと針が止まる。
「……なぜ、それをわたしに?」
「気づかないとお思いか?」
#名前#は「うおあ」となんとも言えない呻き声を出した。
普段から余裕のある後輩の動揺した姿は嫌いではない。この感情はペットを可愛がるそれに近い。三次元の女の子に恋愛なんて当分は御免だ。
「い、いつから……」
「基本的に運動に無関心なきみがそれとなく駅伝部の話を訊いてきたという時点で、ある種の懸念はあった。相手によっては止めるつもりだったのだが、よりによって神童さんかとは……」
「……だから顔には出さなかったのに……」
「だが今がチャンス、行け、#名前#! 攻めいる時は今!」
「わたしそこまで下衆じゃないです」
#名前#は言う。
付き合うことが全てというわけじゃないのだと。
「幸せで居てほしいと願ってるだけなんですよ。良い巡り合わせがありますようにとか、そういうアレです、わたしの感情は」
「そばで幸せにしてやろうとは思わないの?」
「してやるだなんて、大それたことは言えませんよ。わたしは願うことしかできない。この先あの人に新しい恋人ができたとして、それがわたしでなくても、彼が幸せになってくれたのなら、それで十分というものです」
「臆病というか、そこまでいくと信仰に近いように思えるね」
「信仰なんてものじゃあないですよ。……知ったのだって、偶然走ってるところを見てからですし」
「練習?」
「ええ。わたしはそんなに走ることなんてできないから、最初王子さんに聞いたとき、ほぼ初心者の集団が駅伝に挑むなんてなんて無謀なんだと思ったけれど、あんなに真摯に走る姿見たら、無謀なんて思えなくなってしまった」
無理だと片付けるのは簡単だ。けれど、継続していくということはとても難しいことだと#名前#は思う。
だから思ったのだ。
ひたすら走るあの人に、報われる結末がありますようにと。
とても優しそうな人だと、淡い好意のようなものもあったけれど、一番はそれだ。
「もちろん、王子さんのことも応援していますよ」
「そりゃあ、ありがたい」
佳き結果で終わればいい。
箱根を現場で見る自分の姿を空想しながら、#名前#は微笑んだ。
「――と。まあ、そういう感じなのですが」
「う、うん……」
箱根駅伝を終えてしばらく――完走後入院していた清瀬もアオタケに戻ってきて、竹青荘の住人が全員揃ったある日のことである。
夕飯の時間、全員で食事をしながら他愛のない話をしていた時のこと。そういえば、と口火を切った王子に、全員の目が向けられた。
自分の後輩が、神童のことを好きらしい。
という一言から始まり、いけしゃあしゃあと話を締めた王子に、アオタケの住人たちは戦慄した。
――この男、可愛がっている後輩の慕情を当人に伝えやがった、と。
言われた側である神童は顔を赤くして、箸を持つ手も震えている。「え」「あの」と呟く声までも震え、動揺しているのはひと目でわかった。
「趣味がワリぃぞ」と呆れたように言ったのはニコチャンに、「そうですか?」とわざとらしく王子は首を傾げる。
「先輩として多少のお膳立てはと」
「その心は?」
「神童さんの中身を理解しようとして好きになる子なんてなかなか現れませんしあと面白そうだったから」
「おめぇ最後のが本音だろ!」
「まあ、まだ駅伝後に言ったあたり、王子も気を遣ったってことか」
「その子、どんな子なんだ?」
「文学部の一年生で、学部外の授業もちょくちょく行ったりしてるみたいですよ。学ぶことが好きらしくて」
教科によるものの、講義によっては学部外の生徒でも聴講することはできる。場合によってはそれも単位となることがあるが、基本的に自分の学部の単位を取るので精いっぱいの学生が多いなか、一年生で聴講もしているというのは珍しい方だった。
王子が見た目の特徴を述べていくと、心当たりがあったらしいジョータとジョージが揃って声を上げる。
「あっ、俺たちその子知ってる! #名前#ちゃんでしょ」
「たまに授業一緒になるんだー」
「おや、知っていたのかい」
#名前#という少女は、とても真面目というか、勤勉な少女だった。
その実はわりと利己的な思考でそうなってるだけなのだが、周りはそんなこと知るはずもない。
ちょっとだけ野暮ったく見える黒縁の眼鏡を掛け、一度も染めたことの無いだろう天使の輪がうつくしい黒髪を靡かせる女の子。
その眼鏡の奥に可愛らしい素顔が潜んでいると知ってるのはごく一部の人間だけだ。そしてこの場においては、王子ただ一人である。
「なんつーか、大人しそうな子だよ。あと頭良さそう」
「講義も今まで欠席したことないんじゃないかな。ノート見せてって言ったら見せてくれるんだ。すごい分かりやすくってさあ、つい借りちゃうんだよね」
「眼鏡を外すと可愛い――ある種の奇跡を体現した女性ですよ」
「えっそうなの!?」
「てか王子さんがそこまで言うって……王子さん、女の子に興味無いんだよね?」
「三次元の女の子にはそんなに。彼女とはサークル関係で知人関係なんだ。学部も同じだから、意外と接点がある」
「#名前#ちゃん、眼鏡外さないの?」
「眼鏡? 外さないよ」
「じゃあ家なら外す? ってかそんなに目ェ悪いの?」
「近視なんだ。講義だとボードが遠くてね。多めに授業を取ってるから、外すより掛けたままの方が楽というだけの話だよ」
家では外すよと言う#名前#に、同じ顔をした少年たちがおおと歓声を上げる。
「城くんたちは――」
「もー、ジョータとジョージでいいって! 二人もいんだから呼びにくいっしょ」
「……それもそうだ。ジョータくんとジョージくんは、なんでそこまでわたしの眼鏡に関心を持っているの?」
眼鏡を外す。普段はガラス越しに覆われた瞳が顕になる。
陽の光の眩しさに目を細め、目頭をぎゅっと摘む。数秒ほど唸り、それから瞬きを数回して、#名前#はやっと前を向いた。
「……か、かわいい……」
ふるりと揺れる睫毛はくるりと上がっており、人形のように長く、手入れしているのだろう。
黒髪を靡かせる彼女は、普段の野暮ったい雰囲気はなりを潜め、どこか清廉とした雰囲気であった。
「や、ジョータくん、ジョージくん」
「やっほー……#名前#ちゃん」
「ほ、本日はお日柄もよく」
「? どうしたんだい、あからさまに動揺して」
ぎこちなく挨拶をする双子に#名前#はおかしそうに笑う。
普段隠れているその顔は愛らしく、健全な青少年である双子は胸が高鳴るのがわかる。だってこんなの、ずるくない!? とは後に双子の言った言い分である。ギャップ萌えという概念を知った日の出来事である。
「高い学費払ってもらってるし、自分が恵まれた環境に居るって自覚してるから。だから元取れるくらいたくさん学びたいんだ」
学生局が泣いて止めてくれっていうくらいに。#名前#はニッと歯を見せながら、無邪気に笑った。
「……うーん」
実は、と#名前#は眉を下げて言った。
「わたしの住んでいるところ、女子限定の下宿なんです」
だから誰かを連れていく際は必ず大家である女性に連絡しなければならないのだという。
「その、わたしは良いんですが、杉山さんが気まずい思いをするかもと」
なんせ、住人は全員女性だ。
#名前#は神童に気を使って外での逢い引きをしていたのだとわかった。
顔色を伺うように自分を見る#名前#に、なんだ、と心の中に安心した気持ちが広がる。
神童が住むアオタケも男所帯なため、いくら知人が居るとはいえ連れていくには不安があると避けていたのだ。人のことは言えないだろう――それも、彼女は女の子なのだから。
「」
「あらぁ! #名前#ちゃん、おかえりなさい」
「ただいまです」
「お、お邪魔します」
エプロンをした若い女性がひょっこりと顔を出す。
#名前#の様子からして、この女性が大家さんなのだとすぐに分かった。
#名前#の下宿先は、新しめな見た目なもののどこかレトロな雰囲気のある一軒家だった。
母屋と離れが廊下で繋がる、東京にあるにしては大きな家だ。驚いた様子の神童に、#名前#は「わたしも同じことを思いました」と笑った。
「わたしの部屋はこっちです」
「皆にも連絡してあるから、ゆっくりどうぞ〜」
「あ、ありがとうございます。おじゃまします」
靴を脱ぎ、#名前#の背中を追う。
竹青荘とは明らかに違う建物にこれが男と女の子の違いか、と何だか感慨深くなる。男所帯ならまだしも、女性しかいないのならもっと防犯していてもおかしくないだろう。
#名前#の部屋は一階の奥の部屋らしく、二階には社会人の住人が居るらしい。リビングから奥の離れの方に大家さん家族が住んでいると#名前#が説明してくれる。
ツヤツヤとした床は丁寧に掃除されていて、どこか懐かしい気持ちになる。遠い故郷を思い出すような、そんな気持ちだ。
「ここです」
通された部屋は、自分の住む竹青荘とは大きく違っていた。
全体的に新しく、何より『女の子の部屋』だと思うだけで緊張してくる。
備え付けらしい収納に上着をしまう背中を見ながら、神童は部屋の中を見渡す。
本棚には教科書だけではなく様々な本が詰められており、窓辺に置かれた小さなサボテンの鉢が部屋に彩を与えている。
何より目を引いたのは――
「服?」
「あー……はい。トルソーなんて、普通無いですもんね」
首のないマネキンのようなものの胴部分に着せられた華やかな――普段は到底見ないような造形の服。
#名前#は掛けていた眼鏡を外して机に置き、ローテーブルにクッションを置く。どうぞと促されて、神童はクッションのひとつに腰を下ろした。
「わたし、その……趣味で、コスプレしてて」
「コスプレ……!」
どこか気まずげな顔で#名前#は頷いた。
主にゲームやアニメのキャラクターが多いらしく、ぼんやりと「王子が好きそうだな」と思う。そして同時に、だから王子と接点があったのかと納得する。
言われてみれば、#名前#は野暮ったい雰囲気の眼鏡で隠されてはいるものの、瞳は睫毛がくりんとして人形のようにも見えるし、肌もとても綺麗だ。
同じ学部でもそういう悩みを話す女の子の姿は度々見かけていたし、以前付き合っていた女性とも少しだけ話を聞いた記憶がある。彼女が手入れをしているのだろうとはすぐにわかった。
「僕、こういうのは詳しくないんだけど、イベントとかあるんだよね?」
「ええ。まあ、わたしのこれは服が作りたいっていうのが一番大きくて……気晴らしでたまにする、って感じで」
着て撮影することもあるが、勉強の息抜きにしているため、もっぱら縫製が多いらしい。
「もう一人レイヤーの人がいて、わたしは」