雨取麟児とは中高時代に何度か同じクラスになり、隣の席になったこともある。まあ、ほどよく仲は良かった。高校卒業後は大学生になって、学部も異なったこともあり疎遠になった。そもそも連絡先とかを交換する程の間柄でなかった。
大学に入って二年目の春、人気のない開講人数ギリギリの教授の講義で、たまたま再会した。成績優秀なのに三門市外の有名大学は受けなかったみたいで、教室の一番前の端っこで見つけた時は思わず駆け寄って、昔のように隣の席に座らせてもらった。時折、濁音混じりの語りをしながら黒板に文字が埋め尽くされていく。ちらりと隣に目をやれば、細く角張った指がさらさらとペンを動かしていた。小難しい教授の話に受講科目失敗したなと思っていたけど、元クラスメイトとの再開で少し浮き立っていた。そういう、微妙な間柄でしかなくそこに他意はなかった。いや、たぶんそう思い込むことにしたのだ。過去の私は、窓辺の光に照らされる彼の横顔に見惚れていた。光の反射でキラキラと光る髪はとても綺麗で眩しかった。過去の自分の気持ちを忘れようとして、心に押し込んで、本当に忘れてしまった。その淡い気持ちがふと、コップを溢れさせるように沸いてきた。だからまぁ、浮き立っていたのだ。そんな恋心を思い出した私の、とある一夜の話だ。
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外を見たら雨が降っていた。連休が差し迫った皐月。今日は平日で本当なら授業があったけれど、教授の急用だとかで休講になった。もともとこの日は選択していた科目も少なく、午前中に帰宅できたのだ。のろのろと昼食を取り、睡魔に格闘しながら課題を進めていた。夕方頃、雨が降っていることに気がついた。ぱらぱらと網戸越しに濁る世界を見ながら、窓を閉めようと立ち上がってふと、見覚えある人が目に止まった。眠気はいつの間にかどこかへ消えて、とっさにサンダルを突っかけて傘を手に外へと飛び出した。
「ねぇ、傘くらい差しなよ」
「……わるい」
勢いで腕を掴んだ手のひら越しには、冷たい体温しか感じられなかった。なんで、傘もささずに此処に居るのか。聞きたいとこはまぁ、後でもいい。風邪を引かれたらとお節介が働き、腕を掴んで自分の家に押しやった。
「はい、シャワーくらい貸すから」
タオルと着替えの服を押し付ける。
「……これ、男物なんだな」
「雨取くん、デリカシー無いって言われる?」
「いや、悪いな借りるよ」
「はいはい」
バタンと脱衣所の扉が閉まる。あ〜あ、なんでこんな事になったんだか。女の一人暮らしに、別に特別でもない男を招き入れるとか。特別とか思ってるのは私だけだ。元彼が置いてったシャツも、兄が泊まった時のスウェットパンツもぜんぶ今更なのに。
ゆらゆらと湯気が立ち上る。二人分のコーヒーを作りテーブルに置く。ぼんやりと雨音を聞きながら遠くで雷が鳴るのを聞いた。
「あがった?コーヒーあるよ」
シャワーを浴びた彼に声をかける。髪はタオルで拭いたようだが、まだ濡れていた。
「ドライヤー使う?」
「良いのか?」
うんと頷きながらドライヤーを手渡す。湯冷めで風邪を引かれるのも困るし、お礼を言って受け取った彼はドライヤーをするが、わたしはある事に気づいてあっ、と声を漏らした。その瞬間、部屋は真っ暗になってしまった。電気ポットがつけたままだった。
「……ごめん、ブレーカー落ちちゃった。電気ポットついてるの忘れてた」
すぐ付けるねと、ブレーカーがある玄関へと足を運ぶ。普通なら気づくだろうに彼が家に居ることでの動揺でやってしまった。そのわたしの動揺が彼に伝わっていたら気まずいなぁと胸の内が曇る。スマートフォンのライトを灯してブレーカーを確認する。夕方ではあるものの、雨のせいで薄暗くライトがないと見えないのだ。しかし足場がないと付けるの難しいなと低身長なのを心の中で悔やむ。椅子持ってこようかなと、頭で考えあぐねていると雨取くんがやってきて手を伸ばし、ブレーカーを付けてくれた。
「なんだ、届くじゃん」
ありがとうとお礼を言って、戻ろうとするとなんでもない様に彼は口を開いてわたしを呼び止めた。どうしたのと思いながら振り返ると、薄暗くてもわかるほど顔が近い。唇に触れる柔らかい感触。キスされていると理解するのに時間がかかった。だってまさか、元クラスメイトの男に突然されるなんて思わなかった。確かに好きな人だ。でも、だからこそ、意味の分からないタイミングで了承もなく、そもそもそんな間柄ではなかったはずだ。
驚きすぎて、抵抗する間もなく離れた彼と目が合う。彼の瞳に映るわたしは、ただ間抜けな顔をしていた。わたしが悪いのだろうか、親切心で部屋に連れてきたわたしが。何も言わずに、また顔が近づいてくる。それはもう、好き嫌いの範疇を超えていて、とっさに止めてと零していた。恥ずかしさと怒りと戸惑いで顔が赤らんで、声が震える。
「ありえない」
「……彼氏が居たんだなと思って」
「それは、いま関係ないでしょ!」
「そうか?だって君は、俺の事ずっと好きだろ」
喉が乾いて言葉を失う。どうしてそれをと頭が真っ白になった。もし、仮に雨取くんが本当にそれを知っていたとしたら。彼はずっとわたしが彼を好きだと知っていたとしたら。それはあまりにも唐突にわたしを絶望させる。まだ乾いていない雨取くんの髪がさらりと耳から落ちる。色白の肌で、光に照らされるとキラキラして綺麗だった。薄暗い空間でそれはあまりにも不気味で、わたしの心を切り刻む。彼は知っていたのだ。
わたしの中の好きの気持ちを知った上で、はぐらかし、何気ないように接していた雨取くんへの怒りも、自分の不甲斐なさも全部ごちゃ混ぜになった。そこからはもう、止めどなく、雨空のように涙が溢れた。その時になって気づいたのだ。わたしは雨取麟児の横顔しか知らない。席に座って授業に聞き入る彼やたわいも無い話の中で見た笑顔も、それら全て、ただの欠片に過ぎなかった。
顔を隠して、嗚咽を殺しながら泣くわたしをそっと抱きしめた。なんでこんなことをするのだろう。わたしを誑かして遊ぶだけなら、なぜ。そんな言葉も出てこなくて、それでも苦しくて胸が張り裂けてしまいそうだった。雨取くんは顔を隠したわたしの手を外して、すっと顔を近づけられた。憎たらしい人。わたしが泣くのがそんなに良いのか。
「泣かせるつもりも、怒らせるつもりも無かったんだ。ただ最後に伝えたかった。好きなんだ」
驚いたものの涙は簡単に引っ込んでくれなくて、ふわふわとしたまま頭に中で反復させる。最後とか、どういう事なんだろう。彼の言葉を何とか呑み込んで、いま告白されたのかと気づいた。わたしを怒らせたのも、それを言う為の陽動だったのか。
「もっと、マシな言い方はできなかったの?怒るのなんてあたりまえじゃん」
「そうだな……ごめん」
顔に影ができる。彼の前髪をすくうと妙に消えてしまいそうな錯覚がした。こんな方法で告白するなんて、本当にどうしようもない人なんだなと思う。断りもなくキスをして、心を抉るような言葉でわたしに傷跡をつけた。なのに言った本人は妙に青白く、彼の瞳はどこかへ消えそうな程ゆらりと揺らめいていた。触れた頬は冷たくなっていて、これじゃシャワーを浴びた意味がない。だからさっきの仕返しとして頬にひとつキスをした。温もりが移れば良いと思いながら。驚いた顔をした雨取くんを見て、べぇと舌を出した。その後はもう顔を見れなくて、手を掴んでリビングに戻った。湯気が出ていたはずのコーヒーはいつの間にか冷えきっていた。
小鍋で新しくお湯を沸かす。ボコボコと気泡が出ているのをぼんやりと眺めていると、コップが二つ置かれた。
「あぁ、ありがとう」
雨取くんは黙ったままインスタントコーヒーの瓶を手に取り、それぞれコップに入れる。お湯が沸騰したところでコンロの火を止めると彼が口を開いた。
「……今日、泊まっても良いか?」
「え、」
ピキリと固まると、彼は何事もなかったように鍋を手に取り、お湯を注ぐ。スプーンでくるくるとコーヒーを溶かしながら彼はまた駄目か?と問いた。いや、別に駄目では無いけども……。部屋に上がり込ませたのはわたしだ。今更でしかないけど顔が赤らみ、ごにょごにょと口が回らなくなる。そんな様子を見た彼は薄ら笑って、わたしの頬に口をつけた。その後はもう、心も体も出来たてのコーヒーのように熱くて、火傷してしまうんじゃないかと怖かった。
雨に濡らされた冷たい風が、半分だけ開けられた窓から観葉植物の葉を揺らす。その様子をぼんやりと眺めていたら頬をするりと撫でられた。その手は月夜に照らされてキラキラして、彼の掌はほんのり冷たくて擽ったかった。
「なに」
「いや、綺麗だなと思って」
淡々と語る彼の言葉に思わず笑う。毛布にくるまって、ベットの隅にはお互いの衣服が乱れこぼれている。布の壁を取り払って素肌で、私の背中と彼の腹部はぴたりとくっつき合っていて、毛布一枚しかないのにほどよく暖かい。うつらうつらとまどろむ。触れ合った温もりも若葉の匂いもひっくるめて、深く眠りにつく。五月の始まりは梅雨のように雨がざあざあと降り続いていた。
目が覚めた時、彼は居なかった。衣服はベットの下に乱れ、テーブルの上には小さな小袋が置いてあった。彼の忘れ物だろうか、手に取って中身を取り出すと綺麗な花のブローチだった。シオンの花とどことなく似ていて、もしかしたらもう本当に逢えないのかなぁと、心がぽっかりと抜け落ちたように静まり返っていた。なんでこれを置いていったのかと考えて、あぁ今日、五月二日はわたしの誕生日だった。
ベットから微かに彼の残り香と雨の匂いがして、外を見るとまだ雨が降っていた。
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