おれが日本――三門市にやってきて初めての夏が訪れた。ここの夏はとにかく騒がしかった。激しい雨にカミナリ、夜はカエル、昼はセミの大合唱。トリオン体の身では感じられない灼熱の熱。オサムやチカなんて、外に出たとたん汗が噴き出るようで辛そうだ。
冬を超え、遠征を超え、高校生になった。オサムと同じ、ひと回りも小さな制服に袖を通して。レプリカやオサム、タマコマの皆も口を揃えて似合うと言って、支部の前で記念撮影をした。入学式なんてとっくに過ぎ去った青葉が芽吹くころ。入学の記念で撮った写真は、コナミ先輩が大事そうに写真立てに入れてリビングの隅に立てられている。
そうして、一ヶ月ほど遅れて高校に登校したおれとオサムに待っていたのは、恐ろしいほどのプリントの束だった。国語、数学、英語、社会など。それぞれていねいにファイル分けにされた束を押し付けられた。同じクラスの女子だった。なんとなく見覚えのある顔で、よくよく思い返せば、一度だけボーダーの個人ランク戦で戦ったことがあった。たった一度だけ。名前も覚えてなかったのにそれだけは妙に覚えていた。ワンセット、十回勝負。九対一引き分け。いつものように圧勝だろうと踏んでいた、最後の最後で読まれ引き分けに持っていかれた。鋭い蛇にも似た、瞳の力強さを思い出した。
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「そういえば、名前なんだっけ?」
とある日の日直当番。唐突に紡がれた声のほうを向いて驚愕した。机に向かって日誌とにらめっこする少年――空閑遊真はつぶやいた。
「いまさら過ぎる……」
「そうか?」
君とは高校で初めて会ったわけじゃないんだけどなっと言いながら、黒板びっしりに書かれた数式の呪文を消す。背の高い数学の教員は何も考えず、上までびっしりに書くので背が低いとただの拷問である。粉も降ってくるし、制服につくし。なんとか消し終えたチョークの粉が舞う中、日誌を書いている彼のそばへ向かう。ひょこりと上からのぞくと、どうやら日直当番の名前のところでペンが止まっていた。
「ああ、漢字ね」
なるほどと合点が行き、ペンを拝借して名前を書く。立ったまま書くのもあれなので、椅子を借り机に向かい合う形で座る。日誌をくるりと回転させて、真正面に持っていきペンを動かした。
「この様子じゃあ、数か月前のことも忘れてるかあ」
「うん?おまえとはランク戦で戦っただろ一回」
「ありゃ?覚えてた。名前は忘れるのに?」
「まあ、それはそれですので」
それはそれねぇ、とひとりごちる。まあ、ずっと海外にいて三門市に来てまだ一年も経っていないことを考えると、自分とは異なる価値観だとか、考えとかあってもおかしくないよなと思う。そんなことを考えながら日誌を書き終わる。さて、あとはこれを職員室に持っていったら、私たちの仕事は完了だ。
「あと出すだけだから、先帰っててもいーよ」
「いやいや、せっかくなので任務は遂行しなくては」
きらりと星を輝かせながらキメ顔なのか、変顔なのか分からない顔をする。はいはいとスルーを決め込んだ私は、パチリと電気を消して、戸締りをした。
初夏の風がどこからとも無く吹き、空閑くんの白いわたあめの様な髪を揺らした。そんな姿をチラリと見て、あまり遅くなると担任からまた小言が飛んでくるような気がしたので、そのまま踵を返して職員室へと向かう。同い年とは思えないくらい、小さな歩幅に合わせながら、私は空閑くんの隣を歩く。そういえば、と空閑君の声が人のいない廊下に広がった。
「どうしたの?」
「さっきの名前、おれのと同じなんだなって。呼び方は同じなのに書き方が変わるの難しいな」
日本語に対して難しそうな顔をしたのを見て、ふと疑問に思った。
「空閑君は話したり、聞いたりはできるのに、書き取りはやっぱり苦手なんだね」
「まあ、ニホンってひらがなとカタカナさらには漢字なんてものもあって、いくら時間があっても覚えきれんからな」
困ったように笑う姿を見て、私も少しつられて笑った。こんなに空閑君と話したのは高校に入ってからで、それ以前の彼は噂やログを辿るばかり。小さい体を巧みに操って淡々と戦う姿を思い出して、あまりにも今のふやけたような顔とのギャップが面白かった。ふっと笑ったのをばれないように口を開く。
「空閑君の|遊《・》と私の|游《・》は異体字だね。読み方や意味、用途は一緒なんだけど漢字が違うやつなんだよ」
「ほう。そうなのか、でもそれってややこしくないか?」
「うーん、古いか新しいかの違いじゃない?」
ふむ?と頭の上にはてなマークを浮かべる空閑君を見て、やや考える。渡り廊下を出た辺りで、部活動に励む生徒の声が響いてきた。
「さんずいのほうの游は昔主流だったんだけど、時代の流れとともに空閑君の遊のほうが使われるようになったんだろうね。でも漢字として、さんずいの游も残ってるんじゃないかな」
そういったのを常用漢字として広く利用されているのだと、たしか中学時代の国語の先生が話していたのをうっすらと思いだした。やはりニホンゴは難しいなとひとりごちる空閑君を連れて職員室の戸を開けると、来るのを分かっていたのかすぐに先生と目が合った。遅かったなと、一言言われたものの日誌のチェックを早々と済ませ、確認印をもらった。
「よし、いっちょ完了だな」
長い日直の仕事がようやく終わり、やっと帰れる。本部によって帰ろうかなとか、空閑君も本部に行くのか等と考えていたら、思い出したかのように先生は私に声をかけた。
「そういえば向こうの学校の準備は進んでるか?」
「はい、両親が進めてくれてるので大丈夫です」
そうか、と先生の安堵した姿を見た後、妙にそわそわとする職員室から抜け出す。戸を開けて廊下へと出るとひょこりと空閑君が顔を出した。
「本部行くか?」
「うん、一緒に行っていいの?」
「行く道は一緒だろ?」
「たしかに」
夏の気配だ漂うこの日、わたしは初めて空閑くんと本部まで行った。それからというもの、たまに空閑君と一緒に本部まで行くようになった。正確には三雲君も一緒に。以前、記者会見であんなに堂々と喋る姿を知っていたので、いつもなぜか冷や汗をかいているようで少し拍子抜けした。でも三雲君も空閑君同様、良く周りに気づく人だ。何度か一緒に帰る日が続いたとき、彼は少し顔をほころばせて「いつの間に仲良くなったんだな」といった。たまたまだろとも思うけれど、クラスメイトとしては良いのだろうか?それこそ私が一緒に帰ってもいいのかとも思った。そんな靄なものを脳裏に浮かべたとき、空閑君は笑って「友達だからな」と言ってくれた。
「私、いつの間に友達枠になったの?」
「なにっ⁈違うのか⁉」
「も、もしかして空閑が無理やり連れて来てるのか⁉」
人通りの少なくなった通学路で騒ぐふたり。もう少し長く見守っとこうかなと思っていたが、可笑しさにお腹がうずいて笑い声を零してしまった。じっととこちらを見る赤い眼に私は笑って「冗談だよ」って笑った。例年よりも早く梅雨が明けた初夏の日、私が友達になれた日。夏が終わる前に終わってしまう関係。見上げた西の空は明るかった。
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「ここの上から見ると綺麗なんだよ」
掴まれた手のひらがすっぽりと彼女の手のひらに収まる。同い年なのに自分より二十センチも背が高く、それに応じて指先もスラリと長い。とはいえ、成長しない自分の身体はこの先朽ちていくだけで、ほんの少しのひとときさえも眩しく儚いものだと思う。それを与えてくれた人達に、オサムに、どれほど感謝をするべきなのか分からない。だからこそみんな寝静まった真夜中に、有り余る時間を使って戦術の復習をする。少しでも恩を返せるように。
けれど最近、自分に与えられた残り時間を考える事が増えたように思える。だけど今日は朝日すら昇らない、普通なら寝静まっている時間に彼女から連絡が入った。朝日が見たいと。
「来てくれるとは思わなかったよ空閑くん」
「そうか?おれもちょうど起きてたもので」
小石の多い道を滑らないように登っていく。この階段を登ればちょうど、三門市の朝日を眺めることが出来る。彼女はおれが転ばないように気を使ってか、ぎゅっと手を握りしめた。おれは別に転んでも怪我なんてすることは無いが、わざわざ説明なんて野暮だろうからそのままにする。彼女は空いた手で懐中電灯を持ち、足元を照らしている。夜明け前の夏風がトリオン体の肌を撫でた。
夜明けの空は白かった。三門市の街は夜中降った雨で建物にキラキラと光が反射し、照らされた色が映る。
「ねぇ、おめでとうは誰かから言われた?」
「うむ?」
服から生えた人肌が光に照らされる。はて、なんの事だろうな?と考えを巡らせると、タマコマのリビングに立てかけられているカレンダーに丸を描いて誕生日と書かれていた。ふと「なにこれ」と言ったらこなみ先輩は「あんたの誕生日でしょ!」と言われた。よくよく聞いてみれば、レプリカがここの暦に照らし合わせて出したらしい。髪をぐしゃぐしゃにされながら「明日、楽しみにしてなさいよ!飛びっきりのやつあるから!」とまんぞくげに笑う笑顔を思い出した。
「なるほど、誕生日か。よく知ってるね」
「三雲くんに聞いたんだよ。今日が誕生日だって」
「なるほどな。だけどおめでとうはもういっぱい貰ったんだ」
そう言ってズボンのポケットに忍ばせていたスマホを取り出すと、メッセージ欄にはいっぱいのおめでとうが溢れていた。ほいと画面を見せながらつぶやくと、少し残念そうに笑った。それでもキラキラとしたこの街を見渡して思った。
「でも、誕生日プレゼントはおまえが一番乗りだな」
「おや?そうなんだ。それじゃあ、ここまで歩いてきて良かったよ。早朝に連れ出すのは流石に怒られるでしょ」
「うん?うちはそうでもないぞ」
「なーんだ。心配して損した!」
そう言って朝日に向かって大きな欠伸をした。彼女はひとつ深呼吸をして言った。
「私さ、引越しするんだよね」
「ひっこし?」
「そう。三門市から遠くに行っちゃうんだ。だからお誕生日おめでとうってもう最後だったからさ」
「そうなのか。どこらに行くのか?」
「すっごい遠くだよ。だから気軽に会うのも出来ない」
そうやって項垂れるように下を向いた。髪色がキラキラと綺麗なのに、髪の隙間から見えた表情はとても暗かった。そして独り言のように「友達になれたのにな」と呟いた。
朝の皆が目が覚める時間。ツンとさわやかな風が鼻腔を掠める。
「さんずいの游はおよぐって意味もあるんだってな」
青白く染まる空を見ながらつぶやいた。
「それは、良く知ってるね」
「うむ?なんだそっちも知ってたのか。おれはしおりちゃん……タマコマの先輩に聞いたんだ」
しおりちゃん曰く、さんずいの游もしんにょうの遊も、意味や呼び方は一緒だけど使われている漢字には違いがあるんだと。
「さんずいの游はおよぐって意味があるらしい。海ってやつの本物を見たことはないけど、およぐ水の色におまえは似てるよ」
「それは、つまり離れていても同じものを見てるって事であってる?」
「まあ、そうともいう」
「なにそれ、意味わかんない!」
声をあげて笑った。夜明けの光でキラキラと輝くその瞳は、タマコマから見える川によく似ていた。水は無色透明で周囲のものを映し出す。だから川の色もテレビ越しでしか知らない海の色も、元をたどれば空の色なのだ。
もしかしたら違うかもしれないけどおれはそう思うことにした。
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