01
わたしはよく、人に「お前は幸せか」と問われる。
だから毎回決まって「まぁそれなりに」とわたしは答える。
幸せの基準なんて人それぞれだ。日常の小さなことを幸せだと思う人もいれば、毎日忙しいほど充実している事が幸せだと思う人もいる。そう考えたらわたしは飢える事もなくささやかな日常を過ごしているし、毎日忙しく思うほど何かしらやる事も与えられて暮らしていたから、一般的に見たらそれなりに幸せだと思っていた。
しかしそれを聞いて、とある人がこう言った。
「そんなものは幸せじゃない」と。
幸せとは胸の中にあるコップのような器に水が溜まっていくような感覚だ、と。その器が満タンになると自然と笑顔や涙が溢れてきたり、そばにいる誰かにその水を分け与えたくなるような感覚だ、と。「そういうのが幸せだ」と、そう言った。
そういえば、わたしはこの12年間、笑ったことや泣いたことはあっただろうか。誰かと笑顔で話したり、涙を分かち合ったりした事はあっただろうか…いいや、ただの一度もそんなことをした事はなかった。
覚えているのは胸の中にあるコップが満たされる感覚ではなく、ただ胸の中にある空洞に風が吹いている感覚。時折ひどく冷たくて、凍てつくような痛さと悴んだような歯痒さ。まるで、いまわたしの目の前で吹いている吹雪がそのまま胸を通り過ぎているような、そんな感覚だ。
波に揺られる小舟の上に仰向けに寝転びながら、わたしはそんなことを考えていた。
薄暗い、藍色というよりはグレーと表現した方が近しい色の空から絶え間なく大粒の雪が降り注ぎ、冷えた風はその雪を攫っていくかのように空中を駆け巡っている。指先や鼻先、耳なんかはもう感覚が無くなっているほど冷え切っていて、こんなにもびゅうびゅうと鳴り響く冷たい風が胸を通り過ぎているなら、わたしの心臓がもしもガラスならすぐにパリンと音を立てて割れているのだろうと、そんなことを想像した。
もしも今、人にもう一度「お前は幸せか」と問われたらわたしはこう答えるだろう。
「幸せになど、今更なれないのだ」と。
そして、そんなことは望んではいないのだ、と。
**********
「水とかぶっかけたら…熱…ひかねェかな…」
40度の高熱を出している人間を目の前にそんなことを言ったのは、東の海で最高額の懸賞金を掛けられた最凶の男、麦わら海賊団船長のモンキー・D・ルフィだった。
彼は自身の船の航海士であるナミが原因不明の熱にうなされているのを見て心配をしているのだろう。しかしその心配は通常ではない方向に向いてしまっており、諭すためか、はたまたただの発散目的か。仲間からは腰の入った重いパンチを食らってしまっていた。
グランドラインの海は通常時でも荒れやすく、航海士がいないと航海は危険だ。しかも今は天候も悪く、見晴らしも悪い真夜中の時間帯だ。船員たちはそろそろ錨を下ろそうと甲板へ出る。
「医者がその辺に浮かんでねェかって言ってた方がまだマシだな」
「…ハッ!そうか、医者!その辺に浮かんでねェかな!?」
「アホかお前は。仮に浮かんでたとしたらもう一人医者が必要だ」
数時間前も同じようなやりとりをしていることに気が付き、うんざりと顔を歪めたのはこの船のコックであるサンジだった。ガラガラと錨のついた鎖を海面に下ろしながら船長のおかしな希望を否定すると、船長のルフィは展望台を見上げた。
「ゾロー!島見えたかァ!?」
「…いや、こんな天気じゃぁ見えるもんも見えねぇだろうよ」
剣士のゾロはひたすらこの吹雪のなか水平線を眺め、少しでも陸が見えないものかと思っていたが、この数時間その目に写っていたのは全く代わり映えのない景色。船長の微かな望みに首を振った。
医者もいなく、治る気配もない。かといってこの船はモタモタと停留している訳にもいかない。その場にいる全員がため息をついた。
もうなんでもいい。この歯痒い状況から抜け出せる何かが欲しい。おかしな希望でも、微かな望みでも、なんでもいいからこの八方塞がりな現状が変わるきっかけをこの船にいる全員が欲していた。もうこの状況を打破できるならなんだっていい。神でも仏でも、それこそ…
悪魔にだって祈ってやる。
「…お、?」
「?どうしたァ?サンジ」
「いや…錨が何かに引っかかって…」
海底に錨を下ろそうとしていたサンジだが、手にしていた鎖から伝わる感触がいつもと違うことに気が付いた。海面に下りたのなら微かに水がはねる音と、水圧で一気に重さがなくなる感覚があるはずだ。しかし、今回は何かが違う。鉄の錨が硬い何かにぶつかるゴトンという音と、多少軽くなった程度で重さはまだ感じとることが出来る。
流れ着いた樽にでもぶつかったのか、それとも木片が絡まってしまったのか。そう思いながら錨を下ろした場所を見ようとサンジが欄干から身を乗り出して下を見ると、ルフィとゾロも釣られて海面を見下ろした。
「「「…………………」」」
そこには小さな小舟があった。
錨が降りた先はどうやらその小舟だったらしく、本来海の底に沈むべきだった鉄の塊はその船の上で戸愚呂を巻いて留まっていた。
しかし大の男3人が黙ってじっと視線を向けていたのは、そんな状態の錨でもおそらく波に揺られて流れ着いてきた小舟でもない。
その小舟の上に立っていた一人の少女だ。
少女も、降りてきた錨を辿るようにゆっくりと上を見上げると、欄干から身を乗り出していた3人に気づいた様子で彼らと視線を交わらせた。
月の光のように輝く銀髪に、雪のように白い肌。気候のせいで冷え切っているのか、濃くピンクに色づく頬と鼻先。その姿はまるで妖精のような天使のような、この世のものとは思えないほど神秘的な美しさを纏っていた。
しかし、ただ美しいだけではコックはともかく船長と剣士までもが目を奪われるわけがない。
彼らまでも時が止まったかのように少女に視線を奪われて仕方がないのは、彼女の瞳とその雰囲気だった。
まるで生気のない、暗い暗い海の底のような瞳かと思えば、
静かに燃ゆる青い焔のような、殺気を含んだゆらめきが感じられる雰囲気を纏っていた。
自分たちがこの広い海の上で出逢ったのは、天使か神か、もしくは仏か。
それとも、縋るように祈ろうとした悪魔なのか。
きっとそのどれだったとしても、この場にいる全員は
何十年後になっても、きっとこの出来事を鮮明に覚えているのだろう。